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完全とはとじていますか?宇宙はどうですか?
不完全なる完全は、同意してもらえないでしょうか? 完全なるが故に不完全は、同意してもらえないでしょうか? 科学や物理理論は理解できないのですが、宇宙はとじているのでしょうか? 何に対してとじているのでしょう。 開いていますか? 何に対してひらいていますか? 完全はとじていますか?開いていますか? 何にとじていますか?何に開いていますか? ★自分と世界を思う(精進する)上で考えている事項でして、まぁ簡単な考え方と理屈で結論、結果を単的にご教示いただけるとありがたいです。
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難しいですね。 知というのは対象化の精錬ですから、括ろう、取りこもうとする場を、大なり小なり構築しますね。 演算の条件にたいして、演算は閉じているのでしょうね。 さらに、決定とは何かということの難しさがあって、 あらゆる一は他から成るということと、 すべてが絶えず変化しているということが、両立すると、 部分の特性を理解するということをたゆまず追いかけ続けるような仕事以外に 何ができるのでしょうか。 一つの条件は、そのものとしては孤独な形式であると思います。 しかし科学は、その修正をもって進歩と呼ぶのでしょう。 その過程では他なる条件の参照と巻き込みがあり、 孤独ではあるが開かれているといった状態で 知は、体系を延ばすように生まれついていると思います。 乱数のように、そしてああした群が逐次にでさえなく、同時に積み重なっている、 そして嵩として限りが無い、それほどまでの条件を認識するものを、 完全な意識と言ってみることもできましょうが、 すでにそのように言えば外からの関与における決めかたになってしまいます。 否定弁証法のように、ではない、と言辞に挙げればもはや対象のそれの内にあるという、 つまらぬ罠にかかります。 これでは完全が閉じているとも開いているとも言えません。 関与のないことを、関与を介さずに表すことはできないですね。 最後に、宇宙についてですが、 すべての物質とエネルギーであるところの宇宙は、 外からの関与を断つ様に理解された特性によって、宇宙の定義を得ていると思います。 このことは知であり部分の特性に属している事項でしょう。 くりやさんのお言葉に則すなら、閉じている、と一旦おいて、 しかし全体ではない、完全ではない、決定されないということについて関与に浸されている、つまり開いているということになるかと思います。
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- SakuraiMisato
- ベストアンサー率17% (42/235)
#10では、『トポロジ~』についての言及を試みております。
お礼
有り難うございました。
補足
トポロジーというタームとその内容を勉強したいと存じます。 有り難う御座いました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
N0.8です。 >私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 意味が掴めませんので、よろしければ説明お願いします。
お礼
失礼致しました《私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。多分、私達の会の会員は同意するかも知れません。》は、私のこのような思いに同意してもらえるか、共感してもらえるか。もっと何か更なる深い教えをもらえるか、という意味でした。 どうも失礼しました。 ご訪問有り難う御座います、もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
どんな対応をしてもらえるか、というような意味でしたが、具体的には否定さるか、賛成してもらえるか。或いは更なる助言ご指導をいただけるか。 というようなことでした。 有り難うございました。
- SakuraiMisato
- ベストアンサー率17% (42/235)
たとえ全体を外部から眺めさせて貰えませんでしても、 『内部だけでのダイナミックな連帯』が可能になっていますね。
お礼
何かここに書いてしまったのです。 でも、箱が閉じません。 有り難う御座いました。
補足
いえ外から見る事はありません。所詮フィルムの映像たちですから。 しかしフィルム映像であることを気付くことはできます。 そういう気付きにおいて無論、『内部を含んだダイナミックな連帯』が可能と存じます。 ありがとう御座いました。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
宇宙も人間も、存在としての定義の上で閉じているように思えても 実際(物理的に)は閉じてないでしょう。 もし、宇宙から出られるほどの速度の宇宙船があったとして 宇宙の際で壁がある訳ではないので、私達が定義している宇宙から 出ることができるのではと考えてます。 人間も物理的に閉じていると死んでしまいます。 呼吸をし飲食をして、私達に取り込んで排泄をします。 つまり私達は閉じられていないのです。 物理としては、水が水として閉じた状態でも腐っていくのです。 人間も自然も宇宙も、循環する相互関係の上から成り立っていると思います。 つまりは影響し合うから成り立つという関係です。 そういった循環の関係は、開いていると言っていいのではないでしょうか。 そうした場合、宇宙という自然な状況の中で地球という自然と人間というものは 循環するものとして一つだと捉えることができます。 宇宙の一部が地球の自然で、地球の自然の一部が人間ということですね。 神がすべてを創ったとするのは、個人的には反対はしませんが 神が完全者だということには、疑問を持ちます。 完全者であれば完全世界を創るでしょうから、こんな争いが多い世界は完全に程遠いと思うからです。 そして、神が完全じゃなくてもいいと思っています。 完全に創られた世界でなくても、私は今生きてることだけでOKですから。 生きてるだけで感謝できます。 私が存在する為の両親は、どう見ても不完全ですが、それでもOKと同じことですね。 >不完全なる完全は、同意してもらえないでしょうか? >完全なるが故に不完全は、同意してもらえないでしょうか? この意味も意図も理解できませんでしたので、神の創造的な話しにかかっているのでしたらということで 私の個人的見解を付加しておきました。 完全や不完全に拘りを持ってあるのは、自己の信じるものが完全で会って欲しいと願う 人としての根底的な心かなと思うのです。 これには多くの人が、簡単に飲み込まれますから。 科学が絶対だとか、自分の知識は絶対だとか、自分の意見は間違ってないとか。 もし、誰かがそうであってもそうなっていること自体を非難する気はないですが 完全や絶対や完璧に飲みこまれない用心は個人的には必要だと思えます。
お礼
《私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。多分、私達の会の会員は同意するかも知れません。》は、私のこのような思いに同意してもらえるか、共感してもらえるか。もっと何か更なる深い教えをもらえるか、という意味でした。 どうも失礼しました。 ご訪問有り難う御座います、もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
kanto-iさん、有り難うございます。 ★宇宙も人間も存在としての定義の上で閉じているように思えても 実際(物理的に)は閉じてないでしょう。 ⇒存在としての定義という表現を理解できませんが、これを知的把握というフレーズに置き換えれば、正に仰せのとおりと存じます。 ★宇宙から出られる速度の宇宙船により、宇宙の際で壁がある訳ではないので、私達が定義している宇宙から出ることができるのではと考えてます。 ⇒(1)その宇宙船の速度は論理的には、物理上の速度を超えたものと存じます。(2)知的把握による宇宙の際には物象での壁はないでしょう。その際を為しているものは、人間に現出している知というものの性質と限界でしょう。(3)そして知の上での、つまり物理上の速度を超えた宇宙船がその際を超えていった向こうはもう知の世界ではなく、肉体存在としての知覚と認知を超えた界となっているでしょう。 ★人間も物理的に閉じていると死んでしまいます。呼吸をし飲食をして、私達に取り込んで排泄をします。つまり私達は閉じられていないのです。 ⇒(1)仰せの物理的閉鎖は、個体存在での肉体ですね。呼吸と飲食は物理界の事項ですね。だから物理的閉鎖とはいえ、開いても物理界ですね。 ★人間も自然も宇宙も、循環する相互関係の上から成り立っていると思います。つまりは影響し合うから成り立つという関係です。そういった循環の関係は、開いていると言っていいのではないでしょうか。 ⇒開いていると言っていいけど、同じ物理界に開いておりますね。 ★そうした場合、宇宙という自然な状況の中で地球という自然と人間というものは循環するものとして一つだと捉えることができます。宇宙の一部が地球の自然で、地球の自然の一部が人間ということですね。 ⇒はい。 ★神がすべてを創ったとするのは個人的には反対はしませんが、神が完全者だということには疑問を持ちます。完全者であれば完全世界を創るでしょうから、こんな争いが多い世界は完全に程遠いと思うからです。 ⇒はい。人間が存在し、行為(生命も行為)し、知覚するには波ひとつない大海のような神の完全の表面に波を立てて見なければ現象しないですね。完全に白鳥(白馬)入蘆花となれば、普通の存在では意識できない基底があるだけですね。 章末の完全への希求関係のコメントを有り難う御座いました。 私はこのことについては、実は問題にしておりませんでした。 No.2さんへの補足で少し触れましたが、【質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。】 なおこれに関連して、kanto-iさんに付加させてもらうと。 【私達ってなんですか?居るんですか?どうやって其処に存在しているんですか?そして何処へ行ってるんですか?所詮、創造者が自己の意識を自己のフィルムに通して遷している映像なんでしょう?私達は神の中にしかいない。神自身である、という思想です。ですからそのようにしていればいい。殊更に希求することなく、完全でしょう。】 私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意するかも知れません。 Self-Realization Fellowshipという会ですが。でも一人として同じ信仰や生き方をしている人はおりませんから。 そしてみな、同じ信仰であり同じ人なんです。 一(いつ)にして多数。自分は違うと思っても、一定の意識からみれば、違わない。 蟻さんたちはみな同じ蟻さん。しかしそれぞれのありは異なる個体。 ということでしょう。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>A・ポーによれば、無限というのは人間には理解できない概念であり、理解しようという努力が無限という言葉になっているのだそうです。 アラン・ポーが1849年に死んだ後、19世紀の終わりごろに1845年生まれのゲオルグ・カントールによって無限の世界が正確に定義され、解明されました。 アラン・ポーの時代には人類が理解できなかった概念を、ゲオルグ・カントールのお蔭で我々が理解できようになりました。
お礼
MOkuzo100nennさん、ありがとうございました。 ゲオルグ・カントールのおかげでの理解とは定義ですね。 一定の体系理論の中の定義解明ですね。 認識ではない。 それが知というものですね。 幼児的な私は、それを知識とは思えないのです。
- SakuraiMisato
- ベストアンサー率17% (42/235)
全体的な秩序は例外の排除に依存していますが、 例外の側の視座に佇んで鑑みますと、…。
お礼
ありがとうございました。 ご訪問有り難う御座います、もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
SakuraiMisatoさん、ありがとうございます。 全体的な秩序は例外の排除に依存していますね。一国の法体系での全体性は、異なる法体系を同時には認めない。それが一定の領土領海、しして領空の支配ということ、統治ですね。同じところに異なる統治高権を認めない。 しかし、反乱者、反逆者の側。異端者の場合。その現に統治している国家権力自体を認めない。 そしてピレネーを越えれば・・・・ですね。
- wiz0621
- ベストアンサー率42% (182/430)
閉じた宇宙・開いた宇宙という言葉は 宇宙は膨張しているか否か、という論点で使われていまして、 この場合の開いた宇宙は「永遠に膨張を続ける」という意味で、 逆に閉じた宇宙は「いずれ臨界を迎えて、収縮を始める」という意味になります。 なんでこんな話になるの?というと、重力があると宇宙(三次元の空間そのもの) が曲がることが分かっているためです。簡単に言うと空間の引っ張りが発生するということは、 重力(つまりは星の数)が多ければ、引っ張り続ければいずれ宇宙は星の重力で つぶれてしまう可能性がある、というわけです。 この限界の密度は計算で求めることが可能です。 というわけで今現在の曲がり具合を調べれればどっちなのかが分かるんですが、 現在の精度でも限界ぴったりか、あるいはとても近い、というところまでしか計測できていないので 最終的にどっちなのかは確定できていません。 では本題です。何に対して開け閉めしているのか。 この場合、何に対して開いている・閉じているのかという話ではなく ドアの開閉のように状態を表した言葉であると言えるわけです。 対象を特に設定しなくとも、ドアが開いている、ドアが閉まっているという表現は使いますよね。 前提が主観によって設定されている場合、一見して二項対立に見えるものでも、 より大きな視点では対立が成立していないよね、という観点(超越論的観念)を 持つと、いろいろ解決できる問題が増えますよー。
お礼
ご訪問有り難う御座います、もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
wiz0621さん、ありがとうございます。 科学の宇宙論の膨張論と臨界論は、そうかも知れないと存じます。 重力による引張りを原因契機として、三次元の空間が曲がるという話は、その重力の性格というものに関心をもたせますね。でもなるほどなぁと存じます。 星の重力でつぶれる宇宙とは、つまりなんでも吸い込んでしまうブラックホールに関係しているのかも知れないと、想像しています。 では本題です。何に対して開け閉めしているのか。 この場合、何に対して開いている・閉じているのかという話ではなくドアの開閉のように状態を表した言葉であると言えるわけです。⇒でも、ドァってつまりこちら側と外側という区別がありますね。 そういう内外というような観念のないドァのことですか。 前提が主観によって設定されている場合、一見して二項対立に見えるものでも、より大きな視点では対立が成立していない。⇒そうですね、自己の主観的タームに酔って、こだわらないことも大事ですね。 有り難う御座いました。
- ok9608
- ベストアンサー率38% (50/129)
参考になりましたら どうぞ。 宇宙を物理学上の対象としますと閉じているは有限であり 開いているは無限の意味で使われていると思います。 さて完全とはなんでしょうか。 非論理の世界では ことばの意味を固定して使うことは難しいかと思います。少なくともことばの意味が固定されなければ 完全を議論することは意味ないでしょう。例え2人の議論であっても。 論理世界の完全とは、ゲーデルの不完全性定理によって表現されているように思います。重要な点は 公理から論理系は演繹構成されますが 公理自身はその系では証明できない ということです。一見完全と思われるモノであっても論理モデルで整理していくと肝心の公理のところが証明できない ということです。 余計なことですが 物理学の不確定性原理を思想の基本原理として不可解な考えを主張している方がおられますが、 (1)仮にハイゼンベルグ原理が正しいとしても そこから自我仮説とか相補宇宙論説は論理的に導かれることにはならない(2)ハイゼンベルグ原理は小沢正直氏により修正されており 粒子の運動量と位置の問題は 物理学的に小沢修正原理を理解して使用するべきと思います。 と思います。一見論理展開にみえても非論理はタダの主張でしかないと思います。 以上失礼しました。
お礼
ご訪問有り難う御座います、もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
ok9608さん有り難う御座います。 宇宙を物理学上の対象としますと閉じているは有限であり 開いているは無限の意味で使われていると思います。⇒やはり科学では、そうですか。私の閉じると開くについて、そして完全ということについて、No.2さんのお礼のところに書きました。私のことば不足でした。ここに再掲します。 開いているとは? ⇒私としては、完結しているが関係することを閉じていない。という意味でした。 閉じているとは? ⇒同じく私としては、関係を持たない、という意味でした。 とすると現実の世界は宇宙を含めて皆果てが有り、開いているものはない、と思われます。⇒そうですか。宇宙は物理学や科学では閉じているということになっているのですね。 その閉じた存在が存在するということは何らかの関係の中で存在しているのだと、私は思うのです。質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。 そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。 公理から論理系は演繹構成され 公理自身はその系では証明できない ということを理解します。一見完全と思われるモノであっても論理モデルで整理していくと肝心の公理のところが証明できない、はぃ判りました。 不確定性原理を思想によるご説明に対する、ご助言を感謝します。私は難しくて、どこにそういう欠陥があるのかはわかりません。 ありがとう御座いました。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>完全とはとじていますか? 閉じている完全と、無限なる完全の両方があります。 >宇宙はどうですか? 宇宙は有限の空間で閉じています。
お礼
木造100年さん、有り難う御座います。
補足
木造さん、私の質問文が言葉不足でした。 No.2さんのお礼のところをできれば、読んでください。 そしてよろしければ、又、ご回答下さい。
開いているとは? 閉じているとは? 勝手に解釈しますと開いているというのは果てがなく、無限に続いているということでしょうか。 とすると現実の世界は宇宙を含めて皆果てが有り、開いているものはない、と思われます。 宇宙はそれ自身ではとじている有限の世界だと思われます。 >科学や物理理論は理解できないのですが そう言う意味では、科学や物理理論はあなたに対しては閉じている、と言えないこともないと思います。 しかし、誰に対してもとじているわけではないでしょう。 理解しようという意思があれば 自ずとその世界はあなたに対して開かれるものです。 >完全はとじていますか?開いていますか? 何にとじていますか?何に開いていますか? 完全な世界があれば、その世界は閉じられた世界だろうと思います。 その世界そのものが完全を維持するために他の世界を受け入れることができないということです。 ただ、その世界を理解したいというものに対しては、開かれると思います。 その人の存在も含めて完全を維持するということでしょう。 A・ポーによれば、無限というのは人間には理解できない概念であり、理解しようという努力が無限という言葉になっているのだそうです。なら、人間には開かれた概念は理解できないし、存在しないということかもしれません。
お礼
すみません、補足に編集手違いがありました。ものみの塔さんがお出でになって、話していたんで。同じ内容ですが、こちらをお読み下さい。 komaas88さん、ご回答有り難う御座います。 開いているとは? ⇒私としては、完結しているが関係することを閉じていない。という意味でした。 閉じているとは? ⇒同じく私としては、関係を持たない、という意味でした。 とすると現実の世界は宇宙を含めて皆果てが有り、開いているものはない、と思われます。⇒そうですか。宇宙は物理学や科学では閉じているということになっているのですね。 その閉じた存在が存在するということは何らかの関係の中で存在しているのだと、私は思うのです。質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。 そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。 >科学や物理理論は理解できないのですが そう言う意味では、科学や物理理論はあなたに対しては閉じている、と言えないこともないと思います。⇒すみません。つまり当面この、今生では能力の限界があるという意味ですね。 >完全はとじていますか?開いていますか?⇒ということは他者と関係を持たないか。ということです。拒絶や無視をしないという行為のことでもあります。 A・ポーによれば、無限というのは人間には理解できない概念であり、理解しようという努力が無限という言葉になっているのだそうです。なら、人間には開かれた概念は理解できないし、存在しないということかもしれません。⇒はい対象客体、知の内容としては認識の外でしょう。ヒンドゥの哲理(まだ、40年しか精進していません)では、対象にせず同じになるということなんです。開かれた概念はとはそういうものでしょうね。対象になる性質ではない。曖昧であり、ない。ということですね。 有り難う御座いました。
補足
komaas88さん、ご回答有り難う御座います。 開いているとは? ⇒私としては、完結しているが関係することを閉じていない。という意味でした。 閉じているとは? ⇒同じく私としては、関係を持たない、という意味でした。 とすると現実の世界は宇宙を含めて皆果てが有り、開いているものはない、と思われます。⇒そうですか。宇宙は物理学や科学では閉じているということになっているのですね。 その閉じた存在が存在するということは何らかの関係の中で存在しているのだと、私は思うのです。質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。 そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。 >科学や物理理論は理解できないのですが そう言う意味では、科学や物理理論はあなたに対しては閉じている、と言えないこともないと思います。⇒すみません。つまり当面この、今生では能力の限界があるという意味ですね。 しかし、誰に対してもとじているわけではないでしょう。 理解しようという意思があれば 自ずとその世界はあなたに対して開かれるものです。 >完全はとじていますか?開いていますか?⇒ということは他者と関係を持たないか。ということです。拒絶や無視をしないという行為のことでもあります。 A・ポーによれば、無限というのは人間には理解できない概念であり、理解しようという努力が無限という言葉になっているのだそうです。なら、人間には開かれた概念は理解できないし、存在しないということかもしれません。⇒はい対象客体、知の内容としては認識の外でしょう。ヒンドゥの哲理(まだ、40年しか精進していません)では、対象にせず同じになるということなんです。開かれた概念はとはそういうものでしょうね。対象になる性質ではない。曖昧であり、ない。ということですね。 有り難う御座いました。
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お礼
有り難うございました。 他のご回答に書き込み、引用した部分に意味不明の箇所がありました。 《私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意するかも知れません。》は、 私のこのような思いに同意してもらえるか、共感してもらえるか。もっと何か更なる深い教えをもらえるか、という意味でした。 どうも失礼しました。 もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
amaguappaさん、お久しぶり。豊葦原の老河童もなんとか老後を生きています。 ★知というのは対象化の精錬ですから、括ろう、取りこもうとする場を、大なり小なり構築しますね。演算の条件にたいして、演算は閉じているのでしょうね。 ⇒この質問に対するたくさんのご回答の中で、初めてその通り、我が意なりき。と申し上げます。 ★決定とは何かということの難しさがあって、あらゆる一は他(多ですね)から成るということと(そしてその多とは外見であって、一ですね)、すべてが絶えず変化している(変化しているかのようであるということですね)ということが、両立すると、部分の特性を理解するということをたゆまず追いかけ続けるような仕事以外に何ができるのでしょうか。 ⇒はい。決定とはなにか。認識とか、真理という言葉の使わないで。すごいですね。私たちは一応、個体としてこの地上(を)呼吸し歩いています。地上を呼吸しているんですね。そういう中で、決定、個体性、とともに一性という根源を睨んでいます。そういう永遠に飛ぶ矢というものの宿命は、正に仰せのように個における全体、多なる個における完全なる一性ですね。これは宿命ですが、実はこの多なる個は全なる一の中にあって、どこをとっても一ですね。 ★一つの条件は、そのものとしては孤独な形式であると思います。しかし科学は、その修正をもって進歩と呼ぶのでしょう。その過程では他なる(おぅやはり他でしたか)条件の参照と巻き込みがあり、孤独ではあるが開かれているといった状態で知は、体系を延ばすように生まれついていると思います。 ⇒はい。その通りですね。 ★乱数のように、そしてああした群が逐次にでさえなく、同時に積み重なっている、そして嵩として限りが無い、それほどまでの条件を認識するものを、完全な意識と言ってみることもできましょうが、 ⇒はい。その通りですね。 ★すでにそのように言えば外からの関与における決めかたになってしまいます。否定弁証法のように、ではない、と言辞に挙げればもはや対象のそれの内にあるという、つまらぬ罠にかかります。 ⇒ここは理解が未だできておりません。 ★これでは完全が閉じているとも開いているとも言えません。関与のないことを、関与を介さずに表すことはできないですね。 ⇒ここも理解が未だできておりません。 ★最後に、宇宙についてですが、すべての物質とエネルギーであるところの宇宙は、外からの関与を断つ様に理解された特性によって、宇宙の定義を得ていると思います。 ⇒ことば通りの受け取ります。そして否定も疑問も出しません。通常(そうでない場合もありますが)、知は人間の行為であり、しかも外部を把握構成する行為ですね。紡ぎ出しと編集の世界ですね。そしてその行為は外部的に存在する人間の、構成している界の行為ですね。だから宇宙というタームで指称しているのは、対象であり主格ではない。所詮は、紡いでいる映像でしかない。 ★このことは知であり部分の特性に属している事項でしょう。くりやさんのお言葉に則すなら、閉じている、と一旦おいて、しかし全体ではない、完全ではない、決定されないということについて関与に浸されている、つまり開いているということになるかと思います。 ⇒ここはもう少し、時間をかけて咀嚼してみたいと存じます。 なおこの章末のご論に関連するかもしれませんので、他のご回答者へのコメントの一部をコピペしておきます。 人間が存在し、行為(生命も行為)し、知覚するには波ひとつない大海のような神の完全の表面に波を立てて見なければ現象しないですね。完全に白鳥(白馬)入蘆花となれば、普通の存在では意識できない基底があるだけですね。 章末の完全への希求関係のコメントを有り難う御座いました。 私はこのことについては、実は問題にしておりませんでした。 No.2さんへの補足で少し触れましたが、【質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。】 なお更に 【私達ってなんですか?居るんですか?どうやって其処に存在しているんですか?そして何処へ行ってるんですか?所詮、創造者が自己の意識を自己のフィルムに通して遷している映像なんでしょう?私達は神の中にしかいない。神自身である、という思想です。ですからそのようにしていればいい。殊更に希求することなく、完全でしょう。】 私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意する人もいるかも知れません。 Self-Realization Fellowshipという会ですが。でも一人として同じ信仰や生き方をしている人はおりませんから。 そしてみな、同じ信仰であり同じ人なんです。 一(いつ)にして多数。自分は違うと思っても、一定の意識からみれば、違わない。 蟻さんたちはみな同じ蟻さん。しかしそれぞれのありは異なる個体。 ということでしょう。 たった一人のグルの教えを精進しながら、姿かたちは無論、どの人も同じ信仰も行もしていません。 共通っていう括りは無意味でして、違うのです。どの人の“決定”も違うのです。世界が。 同じことば、タームでありながら。色もvibrationも内容も。でも同じなんです。 類似ではない。ここらあたりは、神のフィルムの摩訶不思議ですね。