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完全とはとじていますか?宇宙はどうですか?
不完全なる完全は、同意してもらえないでしょうか? 完全なるが故に不完全は、同意してもらえないでしょうか? 科学や物理理論は理解できないのですが、宇宙はとじているのでしょうか? 何に対してとじているのでしょう。 開いていますか? 何に対してひらいていますか? 完全はとじていますか?開いていますか? 何にとじていますか?何に開いていますか? ★自分と世界を思う(精進する)上で考えている事項でして、まぁ簡単な考え方と理屈で結論、結果を単的にご教示いただけるとありがたいです。
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noname#194996
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お礼
有り難うございました。 他のご回答に書き込み、引用した部分に意味不明の箇所がありました。 《私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意するかも知れません。》は、 私のこのような思いに同意してもらえるか、共感してもらえるか。もっと何か更なる深い教えをもらえるか、という意味でした。 どうも失礼しました。 もう少し自身の中で熟成させてから、またみなさんのお教えをお願いしたいと存じます。
補足
amaguappaさん、お久しぶり。豊葦原の老河童もなんとか老後を生きています。 ★知というのは対象化の精錬ですから、括ろう、取りこもうとする場を、大なり小なり構築しますね。演算の条件にたいして、演算は閉じているのでしょうね。 ⇒この質問に対するたくさんのご回答の中で、初めてその通り、我が意なりき。と申し上げます。 ★決定とは何かということの難しさがあって、あらゆる一は他(多ですね)から成るということと(そしてその多とは外見であって、一ですね)、すべてが絶えず変化している(変化しているかのようであるということですね)ということが、両立すると、部分の特性を理解するということをたゆまず追いかけ続けるような仕事以外に何ができるのでしょうか。 ⇒はい。決定とはなにか。認識とか、真理という言葉の使わないで。すごいですね。私たちは一応、個体としてこの地上(を)呼吸し歩いています。地上を呼吸しているんですね。そういう中で、決定、個体性、とともに一性という根源を睨んでいます。そういう永遠に飛ぶ矢というものの宿命は、正に仰せのように個における全体、多なる個における完全なる一性ですね。これは宿命ですが、実はこの多なる個は全なる一の中にあって、どこをとっても一ですね。 ★一つの条件は、そのものとしては孤独な形式であると思います。しかし科学は、その修正をもって進歩と呼ぶのでしょう。その過程では他なる(おぅやはり他でしたか)条件の参照と巻き込みがあり、孤独ではあるが開かれているといった状態で知は、体系を延ばすように生まれついていると思います。 ⇒はい。その通りですね。 ★乱数のように、そしてああした群が逐次にでさえなく、同時に積み重なっている、そして嵩として限りが無い、それほどまでの条件を認識するものを、完全な意識と言ってみることもできましょうが、 ⇒はい。その通りですね。 ★すでにそのように言えば外からの関与における決めかたになってしまいます。否定弁証法のように、ではない、と言辞に挙げればもはや対象のそれの内にあるという、つまらぬ罠にかかります。 ⇒ここは理解が未だできておりません。 ★これでは完全が閉じているとも開いているとも言えません。関与のないことを、関与を介さずに表すことはできないですね。 ⇒ここも理解が未だできておりません。 ★最後に、宇宙についてですが、すべての物質とエネルギーであるところの宇宙は、外からの関与を断つ様に理解された特性によって、宇宙の定義を得ていると思います。 ⇒ことば通りの受け取ります。そして否定も疑問も出しません。通常(そうでない場合もありますが)、知は人間の行為であり、しかも外部を把握構成する行為ですね。紡ぎ出しと編集の世界ですね。そしてその行為は外部的に存在する人間の、構成している界の行為ですね。だから宇宙というタームで指称しているのは、対象であり主格ではない。所詮は、紡いでいる映像でしかない。 ★このことは知であり部分の特性に属している事項でしょう。くりやさんのお言葉に則すなら、閉じている、と一旦おいて、しかし全体ではない、完全ではない、決定されないということについて関与に浸されている、つまり開いているということになるかと思います。 ⇒ここはもう少し、時間をかけて咀嚼してみたいと存じます。 なおこの章末のご論に関連するかもしれませんので、他のご回答者へのコメントの一部をコピペしておきます。 人間が存在し、行為(生命も行為)し、知覚するには波ひとつない大海のような神の完全の表面に波を立てて見なければ現象しないですね。完全に白鳥(白馬)入蘆花となれば、普通の存在では意識できない基底があるだけですね。 章末の完全への希求関係のコメントを有り難う御座いました。 私はこのことについては、実は問題にしておりませんでした。 No.2さんへの補足で少し触れましたが、【質問の“完全”というタームは多分に価値付加的な言語ではありますが。私自身は実は、ヒンドゥ哲理の勉強と精進の中での思い浮かびでしたので、神の創造にかかる創造ということを課題の一つにしております。そういうことで、完全者の投影である創造は完全であり、我らはその完全であり、且つ、全体にして部分だということなわけです。そういう存在、完全存在は創造者にも創造内にもその何物にも完全であり、且つ、閉じる事はない。不完全なるが故に完全。完全なるが故に不完全である。という思いからの質問でした。だから有限は同時に無限である。無限以外の存在はない。という思考なんです。】 なお更に 【私達ってなんですか?居るんですか?どうやって其処に存在しているんですか?そして何処へ行ってるんですか?所詮、創造者が自己の意識を自己のフィルムに通して遷している映像なんでしょう?私達は神の中にしかいない。神自身である、という思想です。ですからそのようにしていればいい。殊更に希求することなく、完全でしょう。】 私は、実はこんなことにどうしてもらえるかどうかを、質問したのです。 多分、私達の会の会員は同意する人もいるかも知れません。 Self-Realization Fellowshipという会ですが。でも一人として同じ信仰や生き方をしている人はおりませんから。 そしてみな、同じ信仰であり同じ人なんです。 一(いつ)にして多数。自分は違うと思っても、一定の意識からみれば、違わない。 蟻さんたちはみな同じ蟻さん。しかしそれぞれのありは異なる個体。 ということでしょう。 たった一人のグルの教えを精進しながら、姿かたちは無論、どの人も同じ信仰も行もしていません。 共通っていう括りは無意味でして、違うのです。どの人の“決定”も違うのです。世界が。 同じことば、タームでありながら。色もvibrationも内容も。でも同じなんです。 類似ではない。ここらあたりは、神のフィルムの摩訶不思議ですね。