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小学校で英語が必修化されましたが

小学校で英語が必修化されましたが、 英語云々の前にもっと国語に力を入れて正しい漢字や日本語を使えるようにするべきだと思いませんか? 国際化社会で英語が大事なのは分かりますが…。 皆さんはどう思われますか? 特に小学生のお子様をお持ちの方の意見を聞きたいです。

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  • TANUHACHI
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回答No.3

 英語教育推進派の方々の意見を見ますと、その大半が「国際社会で広く通用するから」との答が大半を占めていることもわかります。  けれども翻って国際社会の全ての国々で英語が公用語として認知されているかと問われればそれも疑問があるというのも本音です。  少なくとも僕個人としての意見は「英語よりも国語じゃないのかな、優先されるべき順位としては」の立場です。  悪文の代表例のように呼ばれている「長文傾向」がありますが、これは1つのセンテンスで全てを言い表そうとして結局は主語と述語の関係が判然としなくなる現象を指してのことです。そのため「~は~は」あるいは「~が~がとして主格を示す助詞として使われているのか、限定して説明しているのかが判りづらくなっている。また「~から~から」あるいは「~で~で」として、本来は理由を示す表現であるべき言葉が、動作を接続してるかのような表現となり読み手に相当の努力と根気を求める結果にもなってしまっている。  僕が相手にしているのは小中学生ではありませんが、現実問題として大学生の文章もヒドイ。実際にレポートや論文を読んでいると頭が痛くなるほどです。一つの事象を説明するのに幾つもの尾鰭をつけて字数を増やすだけで結局は何も言っていない文章に出くわすのは日常茶飯事です。これが有名国立大学や有名私立大学の実態です。こうした時に僕が件の学生に対しアドバイスするのは「きみが今そこで述べた文章を英語で言ってごらん」との一言です。英語は、よほど文学的な文章を例外として、主語と述語の関係および語順としての位置が離れてはいない。簡単に説明できないのは、その本人が内容なり理由を理解していないことに原因があるといっても過言ではありません。判りやすい言葉や表現で説明できるのはキチンと文章を理解出来ている証拠に他なりません。  こうした傾向とは裏腹に、短い単語を並べて「本気(マジ)にやばい」などとするのは、その言葉を使っている世代だから通用するとの限定条件が付けられる表現であり、決して褒められたものでもないことも確かです。  「正しい日本語」の使い方が果たしてどのような性格のものであるのかは、言葉を使う世代や階層などによる位相の違いがあることだけはどうしても排除できませんが、それでも聞き手に対して「伝えたい内容を的確に表現できる」だけの言語教育は日本語としても大切であると、僕は考えます。  英語教育を必修化するにはどうしても「日本語で表現するにはどうすれば良いか」との問題に突き当たらざるを得ない。こうした見地で英語と国語を対比させてトレーニングするならば意味があるのではなかろうかとも考えます。  因みに小学校段階で「国語の成績芳しくない児童は算数の成績も芳しくない」との傾向が以前から指摘されてもいます。これは「文章題」の内容を把握しそれを数式として表現し、解法のプロセスを的確に表現するだけの基本的トレーニングを受けていないことの表れでもあります。

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。 > けれども翻って国際社会の全ての国々で英語が公用語として認知されているかと問われればそれも疑問があるというのも本音です。 最近、英語の通じない外国人のお客さんへの応対について質問を出したんですが、 それでも英語で通そうとする人がいて呆れました。

その他の回答 (6)

  • TANUHACHI
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回答No.8

 丁寧なコメントありがとうございました。KappNets様の問題提起に関して一言。 >英語の授業時間は音楽や図工よりも少なくて本当に最低限です。5、6年生の授業時間は国語5(週)はそのまま減らさずに英語1を増やしています。国語は1、2年生は9時間ですが、上級生ではそれほどは要らないということで配分を変えているのですね。算数も従来より増やしているようです。 このご指摘で気になった部分は「上級生ではそれほどは要らないということで配分を変えている」の部分です。これが本当の根拠であるとするならば文部科学省はトンデモナイ勘違いをしていることになります。  小学校の低学年で日本語の文法をゴリゴリ教え込んだなら、恐らく児童の大半はギブアップしてしまう。よほど文法に関心や興味のある児童は例外的存在です。そうでなくとも高校生レベルまでを含めて「作文」や「感想文」に対してアレルギー反応を示すか「良かった」「おもしろかった」程度の中身のない文章しか書けずに規定の字数を埋めるために四苦八苦している姿を目の当たりにして、どの様なご見解をお持ちでしょう。  大人がプレゼンや報告書を作成する時に、2つの形で仕上げる手法があることも理解しています。一つの事象に対し「最初に結論を示す」「事象を構築する要素を順番に追っていく」の様式ですが、それをTPOにより使い分け、その違いも理解しています。  こうした文章の組み立て方を身に着けるにはどうしても文法は必要ですが、実際にはそれも最小限の必要な部分を時間を掛けて教えればよいものを、どうして「活用形がどうのこうの」「この部分が修飾する対象はこれこれであるので」と後出しジャンケンの様な形で理屈付けのための説明に終始してしまう。これでは文法嫌いになるのも当然です。では低学年でコマ数が多いのはなぜかと考えても、実態からは何の目的で9コマに設定しているのかは不明です。それほどに文章読解および文章構成能力に疑問符を付けざるを得ない切迫な事態が現場で日々発生しています。  誤解されても困りますが、小学校の高学年で国語のコマ数が削られている本当の理由はそこにはありません。算数のコマ数が増やされている背景には例のOECD(PISA)によるランキング発表に対しただ単に危機感を覚えたからでしょう。文部科学省も経済産業省も目先にある数字のマジックに目を奪われ右往左往しているだけです。  算数教育に関して、古くは遠山啓氏の「水道方式」が教育関係者では有効性が認められていましたが、それに対抗する形で「人よりより早く、より多くの問題を性格に解くことができる」児童が優秀であるかのような風潮が何処からか及んできた。これが実態です。このため計算問題には長けていても、説明問題や論証問題に関しては部分点を得ることもままならない児童が続出するとの事態に至り、慌てて文科省は軌道修正を図り、コマ数の増加によって解決しようとしている。姑息でパッチワーク的な志向が透けて見えます。まさに学校秀才として育てられたシェーマとしてのマニュアルを絶対視し自らのマニュアルにはないカテゴリーとして思考停止状態に陥っている姿が彼方此方で発生しています。  マニュアルは一つの指標なりガイドラインではあっても、現実はそこからはみ出したもののケースが圧倒的に多い。漢字書き取りの設問であってもそこにある出題意図を的確に理解出来ない解答は当然バツとなります。「とる」という出題があったとして、正解が「採る」である場合もあれば「獲る」や「録る」「摂る」「執る」「撮る」の何れかが正解というケースもある。これはごく自然です。文意がそうなっているのであれば何れかの文字を「適切に使い分ける」能力が問われている設問の仕方です。  算数教育でも計算問題と値を導き出す際の数式を読み解く順序なり面積を導き出す公式を使用しての理解問題に分かれますが、計算ならば人間の頭が電卓にかなわないことなど誰もが承知している事実です。にもかかわらず「他の誰よりも早く答を導き出す」ことがなぜ評価の対象となるように矮小化されてしまったのでしょうか。不思議です。謎です。  国語のコマ数が減らされた背景には文科省が勝手に「積み上げた内容を的確に理解している」と判断しているからでしょう。であるならば中学校段階で古典や漢文の手ほどき的な単元を設定している理由もはっきりします。けれども子供はここで再び混乱します。今まで見たこともないような不思議な言葉に出会い、また文法もこれまで学んできたこととは一線を画する内容です。ここで教師の側は「子供の頭の中を一度リセットする」との恐ろしい仕事に手を付けざるを得ない形になります。そして児童生徒が高校の段階に至ってはパニックになります。古文のテストでは不合格者続出、大学生の日本文学科や日本史学科の基礎講座では古文の読み方、漢文の基礎講座が設けられ、僕が従事する講座(史料演習I-入門基礎)での昨年度の撃墜率はなんと47%に達し、他学部で原書講読を担当する友人に聞いても、基本的な英文理解が出来ていない、単語の読み方がオカシイと毎日頭を抱えてしまう事象に出くわしているとの話です。  本来ならば、学校は学校としての立場(学びの場であり社会人としての基本的な素養を身に着ける場)であるはずがこの国ではいつしか「」勤労者として企業や役所で歯車になるための通過儀礼的な位置付けに堕落し、堕落させてしまったのが根本にあると考えられます。  もし社会人としての基本的な素養であるならば、そこで試験される科目として社会科があっても本来はとうぜんなのですが、この科目が片隅に追いやられているのはまことに不幸な現実でもあるといえます。ドイツやフランスあたりなら、「ねぇあなた、今度の例の法案をどう思う?」と街角での議論に花を咲かせている光景を目にするのは決して不自然なことではありませんが、そうした光景は日本ではかなり珍しい光景に分類されます。  要らぬ駄文で申し訳ありません。

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。 >丁寧なコメントありがとうございました。 丁寧にはとても及びませんが、恐れ入ります。 すばらしいご意見ですが、下手にコメントは挟まないことにします。あしからず、ご了承くださいませ。

noname#162025
noname#162025
回答No.6

 妙なことが書いてありますね。 2:お礼>折角ですが、KappNetsさんが引き合いに出された2番目のURLのソースはデータのサンプルに大きな作為性を感じますね。公正な資料としての信憑性に欠けます。  では文科省のサイトでご自身で読み取るといいでしょう。たとえば以下のページ。 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/index.htm  過去の経緯も含めてなら、ご自身でお調べください。  それが分かりやすいソースを提示されて、根拠を言わずにリジェクトした人の責任というものです。

yingtao7
質問者

お礼

再度ご苦労様です。 cozycube1さんは 教えて!gooの鳶みたいな人ですね。 >それが分かりやすいソースを提示されて、根拠を言わずにリジェクトした人の責任というものです。 これは私とKappNetsさんのやり取りであり、cozycube1さんが出しゃばる場ではないのでは? これじゃ、KappNetsさんが私に反論するにも、弁解するにも、私の指摘を認めるしても cozycube1さんに先を越されたら、KappNetsさんの立つ瀬がなくなるのでは?

noname#162025
noname#162025
回答No.5

 なぜそんな判断基準になるか、よく考えたほうがいいでしょう。  なぜ国語と英語の比較ですか? 小学生はその二つしか学びませんか?  たとえば算数で何が起こっているか知っていますか? たとえば掛け算の順序問題を知っていますか? もんだい「おさらが3まいあります。一つ一つのおさらにはりんごが4こずつのっています。りんごはぜんぶでいくつありますか?」 こたえ「しき:3×4=12 こたえ:12こ」  この設問にこう答を書くと、「しき」にペケしてあり朱書きで「4×3=12」、「こたえ」もペケしてあり朱書きで「12こ」と書いてある。  式はまだ相違は見つけられます。答は判別不能です。12個が間違いで12個が正解という不可解さ。  また、4×8という式だけを示して、飴の個数と飴袋の数を答えさせる問題もある。  このことだけでも明治以来ある問題です。全く解消されない。  半数の子がすぐ理解する教え方を突然全て捨てて、まったく別の方法を試したりする。それも全国的に。  こんなものは氷山の一角でしょう。しかし、その氷山の一角だけでも国語に悪影響する例が見られる。  文章題に「ずつ」が書いていないから分からない、とかです。しかも、最初はきちんと文章だが読めて解けていた。変な規則を押し付け続けた挙句、素直に文章が読み取れなくなった。  そういうこと、分かってますか? 分かっていて、あえて英語と国語だけですか?   全体を考えず部分を弄って大丈夫ですか?   小学校で学ぶ子どものことをきちんと配慮していますか? いや、その前に実状を把握していますか?  何をどう思ってのご質問ですか? いったい何を考えているのですか?

yingtao7
質問者

お礼

ご苦労様でした。 少し見当外れな例を出されましたが、それいいとして、それでは cozycube1さんは具体的にどのような建設的な提案をしますか? #4のTANUHACHIさんが「一つの事象を説明するのに幾つもの尾鰭をつけて字数を増やすだけで結局は何も言っていない文章に出くわすのは日常茶飯事です。」と言っていましたが、さっそく典型的な文章が現れてきましたね。試しに、ここは英語のカテですし、TANUHACHIさんのアドバイスに基づいて英語で書いてみてください。 ここにも登場しているテキサスの阿呆鳥も いつも英語で回答している割には つまらないスラングを除けば、何も勿体ぶって英語で書くほどの目を見張る内容とは思いませんでしたが、それでも、無秩序にダラダラな文章ではなかったので、過去の私の質問の回答では cozycubeさんよりもマシなことを書いていましたし、英語が得意でない私も cozycube1さんの日本語の文章よりはポイントをつかみやすかったですよ。

回答No.4

ちょっと違うスタンスですがおおむね同意します。 大概の思考は母語ベースで行われますので、思考力の基礎としての母語の充実は重要です。 あと「国際化」で言うなら文章力・会話力より「話す中身」(ものすごく大雑把に言うとネタ選び)が問われます。「国際化」が全部ビジネス会話だけじゃないので、雑談になったとたん会話停止じゃ相手に好印象を持たれません。

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • KappNets
  • ベストアンサー率27% (1557/5688)
回答No.2

消費税より前に景気浮揚を、という議論と似ていますね。小沢さんですか。世界史より日本史を、ですか。 英語の授業時間は音楽や図工よりも少なくて本当に最低限です。5、6年生の授業時間は国語5(週)はそのまま減らさずに英語1を増やしています。国語は1、2年生は9時間ですが、上級生ではそれほどは要らないということで配分を変えているのですね。算数も従来より増やしているようです。 http://www.bunri.co.jp/infosrv/shinkatei_s.html 韓国や中国ではすでに日本の高校レベルの英語教育が(小学校で)行われているとか。日本だけやらないのはあまりにも後ろ向き、というご時世だと思います。これからの日本人は東南アジア人と対等に競争して国際社会で生きられねばなりません。今の英語の授業時間は消費税で言えば3%以下。いずれ10%まで増やすべきものでしょう。 http://www.edvec.co.jp/home/research-institute/educative-info/overseas-info/12.html

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。 折角ですが、KappNetsさんが引き合いに出された2番目のURLのソースはデータのサンプルに大きな作為性を感じますね。公正な資料としての信憑性に欠けます。

回答No.1

  その通り ~のほう ~になります ~させていただく ~の形で 誰を尊敬し、何を謙るかを知らない日本人が多すぎる。 英語の勉強も英会話なら意味があるが現在の中高大で習うような英語は時間の無駄 公立大学の英文科を卒業してアメリカ人と話せない奴が沢山いる、なんとかしろ 二流の工業高校を卒業し現場の作業員として働いた奴が40歳になってから海外に駐在すると3ヶ月で英語で仕事ができるようになる。 英語は日本語と同じく「言語」だ、話せて意味がある  

yingtao7
質問者

お礼

ありがとうございます。

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