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教育者(教師・親)の考えている平等とは
大変素朴な質問です。 親や教師が子供たちに教えようとしている平等とはどの様なものでしょうか? 知りたいのは建前ではなく、本質的な思想です。 少なくとも建前の平等である「みんな一緒」との思想は、1)本音と建前の容認を子供たちに自覚させ、2)陰湿ないじめを生じさせ、3)自己向上の芽を潰す、4)無能な人を育てる要因となっていると思われます。 少なくとも私は、世の中には色々な人々がいてみんな違うと教わってきました。また、大抵の人は教わらなくても乳幼児期以降には自覚できることだと思います。にもかかわらず、「みんな一緒」で平等だとは、明らかに矛盾です。 この問題の解決としては、個々は異なるが或るグループ化をした場合は、みんな同じグループに属して一緒だと言う考え方があります。しかしながらグループ化の概念を入れると(いじめ)問題の要因が生じます。 まず大抵の方に任意の集合のグループ分けをしていただいた場合、空集合や全体集合をひとつのグループとしてあげる方はほとんどいないと思います。大抵の場合、何らかの共通項目を見出し、数グループに分けるのが殆どではないでしょか?このことより、親や教師としては全体がひとつのグループとして認識させたくても、子供たちは無知(若しくは無配慮)な親、教師の言動(他人との比較:論理的に同等であれば比較は無意味であり、比較するということは優劣を示唆)により、いくつかのグループ分けをし、潜在的な望ましいグループへの帰属のために無意識にいじめに関与するケースが発生する危険性をはらんでいます。 また「みんな一緒」なら、安直に考えると努力が必要ないという結論が導き出せます。 人は原則怠け者で、(本質必要でも現状)不要なものには努力しない傾向があると思います。また、みんなと一緒であることを望むなら、みんなより突出することは避けねばなりません。 親や教師はみんな揃って努力することを望むかもしれませんが、子供たちにとってはみんなに遅れない程度にほどほどに努力することに注力することになることは容易に推察できます。このことは全体的な学力の低下を招き、有能な人材の育成を阻み、無能な人を増やすことにつながる危険性をはらみます。さらに、「みんな一緒」と言う競争の無い環境で育った子供たちは、動物園の動物と同様に、一般社会(自然)に出る際には環境順応のためのリハビリ期間が必要になるのではないでしょうか? 最近(だいぶと昔からですが)のニュース・報道・その他からの情報を元に考えると、本件に係わらず表面的な取り扱いしかされておらず、前記のようにあまり熟考がなされていなく、且つ多くの論理矛盾が含まれているように感じてままなりません。 何時のころからか(もしかすると私の育った環境のみが特殊だったのかもしれませんが)、「みんな一緒」などという思想が広められたのでしょうか? 私は前述もしましたように「世の中には色々な人がいる」と教育され、医学に長じた人は医者に、調理に長じた人は調理師に、各自得意なことを生業としたほうが望ましく、自分に足りないことはできればそれを得意とする人の助けを得れるように日頃から互いに尊敬・相互扶助していくことを教えられてきました。みんな違うから当然のことながら原則的に優劣のつけようがありませんし、敢えて優劣を付けようと評価基準を決めれば優劣を付けられますが、基準を変えれば優劣の逆転も可能です。 またみんなが違うという思想の元では、みんなの考えは多様性を有しているのでみんなからのよってたかっての仲間外れの様ないじめは起こりにくい環境だったと思います。 但し、このような環境での教育には家庭(親・祖父母)、教師にとって負担が大きく(個々の子供に対して個別に対応する必要があるため)、必然的に教育の工業(マニュアル)化に向かい、その結果が平等主義のような気もしますがどうなのでしょうか? 私の知る限りでは昔の親や教師は子供たちの自我を尊重し、社会の厳しさを実感させ、自立の支援していたと思うのですが、最近は、親自体(ママ友等)もそうですが仲間外れにならないように教育し、親は教師にいじめだ・差別だと苦情を云って子供を甘やかし、問題を起こしても親や教師は表面化しないように有耶無耶にして、取り敢えずは無難に卒業してもらって事を祈っているように感じられます。 上述したことはマスコミの恣意的な情報に踊らされたための誤った解釈であることを望みますが、現実は如何なものなのでしょうか? ここでの回答は少なくともインターネットに容易にアクセスできる方を中心とした偏った母集団の意見でしかありませんが、そのことを考慮しても貴重な意見を得ることができると期待しています。 多分、私の質問の記述は不十分(曖昧)で的確な回答をされるのは困難かと思います。よって回答をいただいた場合、補足の質問をさせて頂きたく思います。尚、補足質問をされるのを疎ましく思われる方もいるかと思いますのでその際は回答時にその要旨を明記ください。
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- lazytutor
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遅くなって申し訳ない。もう関心を失ってしまったかもしれないが、一応返答しておく。 >子供の思想に関しては、多分子供たちとの接触時間が教育現場より多い家庭の影響が大きいと思うのですが如何でしょうか? 接触時間と影響力が比例するとは思わない。私は、"影響力=時間×インパクト"と考える。例えば、多くの子供は、原爆資料館を見学した瞬間、大東亜戦争そのものを否定する考え方から、当時の日本の指導者層や軍人が誤った道に導いたという、わが国そのものの全否定の考え方にシフトされる。そのように、小学校の教員も誘導している。 >”裕福な家庭がこの平等主義を嫌い、子供を小3あたりから塾に通わせ、中高一貫校へと進学させていることが多い”ということは多くの家庭が”マスコミによって踊らされた”結果であるとはいえませんか? 中高一貫校へ進学させる家庭ということであれば、いえないと思う。彼らはゴールを設定し、ゴールに到達するにはどうしたらよいかを冷静に考えている。親からすれば、子供が勉強する環境を、最大限に整えているだけである。教科書だけで勉強しろというか、参考書を買い与えて勉強しろというか、本質的にはその程度の違いであろう。逆に、勉強ができなくても個性を伸ばせばよい、学歴がすべてではないと考えることこそが、マスコミに踊らされたということではないか。 >少なくとも、学習意欲の或る子供は自分で学習するので小中高と公教育を受けても一般私立の平均以上の学力は容易につきます。 一般私立とはどれくらいのレベルか?例えば、東大合格者を何年かに1人輩出するレベルとしようか。公立で学習意欲のある子なんてめったにいないし、いても公教育だけで一般私立の平均以上の学力がつく生徒はレア中のレアである。もしそのような例外の生徒が多数いる学校があったとしても、大半は塾や予備校によるものだろう。 公立の考え方は下位層を何とか引き上げること、私立の使命は上位層を希望の進路に導くことである。したがって、私立のカリキュラムは、進度・レベルとも公立とは比較にならず、中学修了時に既に大差がついている。 >学習意欲が無い・それまでの基礎知識少ない場合、下手に私立に行かせると(無意識の自己による)周りとの比較により劣等感を抱いて最悪の場合グレル場合もあります。 そんな生徒は、上位校には合格にならない。合格したとしても低レベルの私立。劣等感を抱いたりグレる生徒が出てくるかもしれないが、これもレアと断言できる。小学生時代から競争してきているので、勝った負けたでそんなに喜怒哀楽が激しくなるワケでもない。むしろ、高校受験を意識せざるを得ない公立中学の方が、それまで勉強で競争した経験が薄いぶん、ドロップアウトする生徒は多いだろう。そう思わないか? >さらに多少の例外はあるかと思いますが、私立の場合は或る意味恣意的な抽出(一般的には入試試験)を受けた学生の集合なので、(特に思想の)多様性の観点からは偏見を持った人間に育ち易い環境と思われます(或る意味偏見を持った方が望ましいという考え方もあるとは理解しますが....)。 偏見を持った人間…意味がよくわからない。最終的に、学歴のあるなしを比べた時に、あった方が得をするという実感を得て、それを子孫に受け継いでいくという連鎖はあるだろう。例えば、勉強のできるできないを比較して、できる方ができない方をバカにしたりということを危惧しているのか? >中高一貫校への進学は単に高校受験を面倒と学費の天秤にて学費を払うほうを取れるだけ裕福であるだけではないですか?多分何も深く考えていないと思いますが? 違う。深く考えているから教育にカネをかける。なぜ、自分が裕福でいられるのかを知っており、子供が同じように裕福になるためにはどうしたらいいか、を考えている。ただし、教育にカネをかける=学習環境を整える、で完結しないけどな。私は、乳児期~幼児期にかけての教育も重要で、どのような習慣づけ・親のしつけができたかで、勉強する能力(学力ではない。努力するのも才能の一つである。)も決まってくると思っているからだ。
- staratras
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私は1960年代に小中学生だった世代ですが、結果の平等(というより画一化)という意味での「みんな一緒」という考え方の教育を受けた覚えはありません。 むしろ現在より競争を重要視する意識があり、普通の公立中学校に通っていましたが、定期試験の前には校舎にZ旗(日露戦争の日本海海戦の故事にちなんで)が掲げられ、試験の結果は上位3分の1ほどは生徒の氏名と合計点が職員室前に張り出されていました。 現在では、そこまで表立って競争を奨励する学校はほとんどないでしょうが、我が子の世代を見ると表面に出ない分だけ、陰に隠れた競争が激しくなっている面があり、昔も今も現実の学校は「みんな一緒」ではないと思います。とりわけ、ほとんどの児童・生徒がいずれかの段階で経験する入学試験は決して「みんな一緒」ではなく、そしてそのことは、児童・生徒も、親も、教師も口に出す出さないは別にして、本音では、全員が理解していると私は考えています。ごく一部の突出した事例をあげて、現在の学校は「みんな一緒」で悪平等だと十把一絡げに批判するのは適切ではないと思いますが、いかがでしょうか。 「平等」「公平」ということに関しては、小学校5年生の時の体験が今も強く印象に残っています。ある日の図工の時間、先生は完成した子どもたち一人一人の作品を子どもたち自身で評価させようとしました。具体的には、クラスのみんなで3段階か5段階にグループ分けするようにと言われたのです。しかしこの作業はなかなか進まず、一人の勇気ある(と私には感じられました)女の子が先生に言いました。「どの作品を誰が作ったかみんな分かっているので、どうしても(図工以外の)勉強ができる子の作品の評価が高くなってしまい、公平ではないと思います」と。 成績が良い子に対する遠慮や気兼ねがクラスの中にあるとこの女の子は言いたかったのですが、結局先生も子どもたち自身で評価させることを断念してしまいました。今にして思えば、本当に子どもたち自身による評価を知りたかったのであれば、例えば隣のクラス同士で評価し合うなど、どの作品を誰が作ったかは分からないようにして、純粋に作品の出来栄えだけを評価できるようにすべきだったのかもしれません。学校での「平等」「公平」を考えるうえで示唆に富む出来事だったと思います。 ただ、昔も今も学校で競争が存在していることとは別に、「良いことでも悪いことでも目立ったら損」「みんなと同じように行動しないと「変わっている」と思われて仲間に入れてもらえないのではないか」という考え方が強まっているように感じられます。そして、これは学校だけでなく社会全体に広がってしまっているように思います。一例をあげれば、1970年代に私が就職した時の入社式の写真を見ると、男性のスーツの色は紺・黒・茶など様々ですが、最近の入社式ではほとんど黒のリクルートスーツ一色です。些細なことかもしれませんが、細かなことでも「みんなと一緒」でないと不安になる若者が多いとすれば、そちらの方が気がかりです。
お礼
ご意見ありがとうございます。 1960年代はおっしゃるとおりでしょう。ただしいわゆるゆとり世代は如何でしょか? 少なくとも現状では未だ(多分将来にわたって)競争が存在する一般社会に大きくなったら出て行かなければならない子供たちに、競争の経験をする場を剥奪する教育は理想を追求する教育者の自己満足のような気がして、それが質問で記したような諸問題の要因になっている可能性を理解したうえでの確信犯であるのか?それらを回避する事を知っていてそれを実践しているのか?単に無知・無能で思い付きのみで行動しているのか?その辺を知りたかったのです。 最後に書かれている「みんなと一緒」でないと不安になる若者が多いというのは、少なくとも育った環境にてそのような教育を受けてきたからだと思うのですが。 後、私は”みんな一緒を”悪いとは云っていません、ただ色々な問題を含んでいると思われる事を揚げ、そのことを理解した上か?”臭い物には蓋をしろ!”で無視しているのか?そこまで事を考えれない無能者なのか?ををただ興味本位で知りたかっただけです。私には他人の考えを批判できるような知識も経験も持ち合わせていませんので。
- foobar
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#1さん回答にあるように、本来は、機会の平等(みんな平等にチャンスを与えられる)と、評価の平等(おなじ基準で評価する)が必要でしょう。 みんな一緒にゴール、は結果だけに目がいってて、評価の平等(かけっこが速い子は、かけっこが速いと評価する)を踏みにじっているので×でしょうね。 さらに言えば、個性を尊重するなら、平等に評価し、その結果として結果はでこぼこがある、それを認めなければならないでしょう。 まあ、最近は、「みんな一緒にゴール」みたいな馬鹿なことをやってるところは見当たらないようですが。
お礼
ご意見ありがとうございます。 哲学的になるかも知れませんが、”(真に)平等に評価する”ということは可能なのでしょうか? ”ある基準”に基づいて”平等に評価”することはことは可能でしょうが、”平等な基準”は或る限定的条件下(みんなが全く同一で区別がつかない)以外には策定できないと思われます。 となると(自覚しているかは別として)”偽りの平等な基準”を”平等な基準”と教育すべきでしょうか? それとも”取敢えず平等としておく基準(すなわち平等でない基準)”と教育すべきでしょうか?
- hatijyuuhatiya
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私の知っている限りでは 「建前の平等である「みんな一緒」との思想」というものは教えられていないと思います。 人権としての平等なら教えられているとは思いますが。 またいわゆる「ゆとり教育」は平等よりも、個人の個性、能力を要求するものであったため、平等とはほど遠いものであったと思います。それともおっしゃりたいことはテスト、テストで追いまくって順位をつけることが少なくなったため、結果として平等にみえるということでしょうか?それは理解できないことではありません。ただ実際はテストで点数をつけるシステムの方が単純であり教師にも生徒にも楽ではあります。 「みんなより突出することは避けねばなりません」というのは、学校教育というよりは、日本人の伝統的な特性ではないでしょうか? 古代社会は別にしても、徳川幕府が安定してからは武士もいまの公務員のようになってしまい、ここ400年は前例踏襲、ことなかれ主義が習い性になっているのでしょう。 今、学校で起こっていることは今の社会の状況をリアルに反映しているものなので、学校教育や日教組などわかりやすいターゲットをつくって攻撃するのは安易な感じがします。一種陰謀論に近いでしょう。いまどき日教組なんて、実際の教育にほとんど力は持っていないと思います。問題とされるべきは平等というよりフェアネスだと思うのですが、それが社会から失われているのが、学校教育のひずみとなって現れているのでしょう。 最後に、よくゆとり教育による学習内容の減少といいますが、これは本当に一部の論者によっていわれている誤解です。 円周率3というような瑣末的なことをとりあげていっているだけで、ほとんど自分で教育現場をみていないのでしょう。 また教科書自体も見ていないと思われます。私が子どものころより相当進歩していますよ。 ここ10年ぐらいの、小、中、高の教科書と、20-30年前の教科書をくらべると、たしかに学ぶ範囲は狭くなっている部分もありますが、表現力、思考力を要求される部分も多くなり、全体としては簡単にはなっていないと思います。 個人的には、部活至上主義みたいなものが教育レベルを下げている大きな原因だと思っていますが。
お礼
ご意見ありがとうございます。 「建前の平等である「みんな一緒」との思想は多分教育現場からではなく、核家族が進行した家庭を介して持ち込まれたものではないかと思います。 また「ゆとり教育」の基本理念は仰る通りと理解していますが(ほって置くと格差が付き過ぎる)色々な意味で”平等”を強調する必要があったのではと思いますが如何でしょか? 教育現場への圧力という意味では、多分”日教組”より”各家庭”の方が大きいのではと思います(後、行政機関)。 少なくとも真面目に教育について考えている現場の教員は攻められるべきではないし、或る意味被害者であると思います。但し、現状はそのような教員は色々な意味で居辛くなっていると思われますし、すくなくなっているのではないでしょうか?
- lazytutor
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一言でいうと、結果の平等。本来、与えられるべきは、機会の平等であり、児童・生徒にとって、科目ごとに差がつくことを認めなければならないと思う。 悪意のある平等が広がるきっかけとなったのは、確か1970年代後半か80年代前半頃だったと思うが、学習指導要領が大幅に改正された、つまりゆとり教育が始まったことに起因すると考える。受験戦争が社会問題化し、少しでも子供の負担を減らすために、学習内容が減少かつ簡易化された。 平等主義は、教育のマニュアル化の帰結の側面もあるかもしれないが、私は日教組の思想によるものと思う。 マスコミによって踊らされた誤った解釈とは思わない、むしろ正しい指摘だと思う。現実的には、裕福な家庭はこの平等主義を嫌い、子供を小3あたりから塾に通わせ、中高一貫校へと進学させていることが多い。また、小学校から公教育を否定し、私立小学校に通わせることもある。これは大都市圏に限らず、地方都市でも見られる現象である。一方、教育にカネをかけられない家庭は、公教育に甘んじる。小中高と公教育だけを受けると、指導要領通りのカリキュラムで進むので、高3で高3の内容を学習することになる。一方、中高一貫校では、高2までに高校内容を終わらせ、高3は受験準備に充てているところが多い。予備校・塾を抜きにした場合、圧倒的に中高一貫校が有利である。
お礼
子供の思想に関しては、多分子供たちとの接触時間が教育現場より多い家庭の影響が大きいと思うのですが如何でしょうか? ”裕福な家庭がこの平等主義を嫌い、子供を小3あたりから塾に通わせ、中高一貫校へと進学させていることが多い”ということは多くの家庭が”マスコミによって踊らされた”結果であるとはいえませんか? 少なくとも、学習意欲の或る子供は自分で学習するので小中高と公教育を受けても一般私立の平均以上の学力は容易につきます。(子供に無理やり知識を教育機関に詰込ませるのならその専門機関である私立教育機関委託する必要はあるでしょうが)また、学習意欲が無い・それまでの基礎知識少ない場合、下手に私立に行かせると(無意識の自己による)周りとの比較により劣等感を抱いて最悪の場合グレル場合もあります。さらに多少の例外はあるかと思いますが、私立の場合は或る意味恣意的な抽出(一般的には入試試験)を受けた学生の集合なので、(特に思想の)多様性の観点からは偏見を持った人間に育ち易い環境と思われます(或る意味偏見を持った方が望ましいという考え方もあるとは理解しますが....)。後、中高一貫校への進学は単に高校受験を面倒と学費の天秤にて学費を払うほうを取れるだけ裕福であるだけではないですか?多分何も深く考えていないと思いますが? ただご指摘の内、”誤った”の部分が主体で”マスコミによって踊らされた正しい解釈”というのであれば、それは私には判断が付きませんので貴重なご意見として受け取らせていただきます。
お礼
追加のご回答ありがとうございます。今回の質問は直ぐに答えが出るような性質のものではなく、気長に色々なご意見をいただきたいと思っていますので、またお時間があればご意見を聞かしていただきたく存じます。 私の記した追加の疑問に対するご意見、同調する部分もありまた懐疑的なところもあります。 また、お時間の或るときで結構ですので補足をいただければと思います。(ただあまり長々とやり取りを続けると管理人さんに消される可能性があるのでほどほどにとは思いますが) 子供の思想への影響について 確かに”影響力=時間×インパクト”は正しいと思いますが、今日の教師はそんなに影響力があるのでしょうか?どちらかというと今日では家庭(特に主婦[夫])の方がインパクトが大きいと思いますが 中高一貫校へ進学させる家庭の件 親が整えているのは”子供を勉強させる環境”であって”子供が勉強する環境”ではないのではないか 今の時代、勉強をしたければ高校や大学に行かなくても十分世界に通用する学力をつけることはできる環境であると思います(但し、そのような勉強をしようとする意欲をもった子供はほとんどいないように思えますが)。学力が総てではない事は、全世界に義務教育のみしか受けていないが著名な方々がいることより明らかです。また、学力が重要かというと状況によりけりで、単純労働に従事するには高学歴は不要且つ邪魔と思われます。(労働市場規模を考えた場合、こちらの方が大きいと思われます) 学習意欲の或る子供の補足 本件については私の感覚がかなりずれていたようです。レベルとしてはあなたの言うレア中のレアのケースかもしれません。但し、学習については塾や予備校ではなく私の知っている範囲ではほぼ独学です。図書館に行けば自分おレベルに合った専門書は読めますから(塾や予備校の方がレベルが低いため) 高校でのドロップアウトについて 上位高であれ下位高であれ、現行の入試制度ではぎりぎりで入学するものがいるのは間違いない。 で、この時点で状況をはっきりと自覚できれば問題は無いかもしれないが、以前の栄光に浸っているようでは現状認識が進むにつれて落ち込むことになる。そういう意味では公立・私立というよりか背伸びをするかしないか問題であったのかもしれない。但し、本人は別として親が背伸びさせるのは公立より私立の方が多いのではと感じているがどうでありましょうか? 偏見を持った人間についての補足 これは高学歴者に限ったことではありませんが、一般的・普通という言葉を使うときの対象範囲が狭い方々を指し示します。すなわちこの場合は正確ではありませんが、エリート意識をもった方々と考えるのが判りやすいと思います。 中高一貫校への進学(学費の件) 本当に深く考えれているのだろうか?(深く考えていると思っているけど、視点を変えて考えた場合、異なる答えにたどり着くことはないのだろうか)また、子供の幸福と自分の幸福は同じと考えられているみたいですが本当にそうでしょうか? 貴方が子供の教育に関して熟考していないと言うのは間違いだと思いますが、そこで導き出した結果は最善なのでしょうか?(時の流れによって結果は明らかになるとは思いますが)また、貴方以外の方々の考え方についてはどう思われますか?だいぶと前からですが思考もマニュアル化されて、私のような天邪鬼な思考をする方は少なくなって、上っ面だけでの判断をされる人が増えてきているとおもいますが。 最後に、乳児期~幼児期にかけての教育は”3つごの魂、百までも”のとおり、本来この時期にしっかりとした教育(教え育むであって親の言いなりにする調教ではない)が重要という言うのは同感です。