万有引力に似ております。下に落とす力が悪で上に登ろうとするのが善と考えると、なぜ人は自然と悪に向かってしまうか解ります。最初は少しの頑張りでとどまっていてもあるスピードで落ち始めると止まらないというのも悪の色々な側面に似ています。
なぜ下に落ちるような力が働くかと申しますと、人は皆罪人だからです。人は基本的に罪という悪を持っているので、放っておくと下に落ちる傾向があるように思います。
上に上がるには助けが必要なのもまたうなずけます。自分の力で上に上にと登ってゆくのは限界があります。落ちる場合は限界はございません。どこまでも落ちることが出来ます。芸能界の二股問題とか、企業の不適切な経営とか、公務員の巧妙な天下りシステムとか、当事者ははじめあまり悪いとは思っていないように見えますが、踏みとどまっている人々から見ると「けしからん」となると思います。しかし冷静に自分を振り返ると自分の中にそのような罪があることも実はきがつくのではないでしょうか。あるいは自分は3面記事の登場人物になっていたかもしれないという思いが心に浮かぶことはないでしょうか。
また落ちてゆくと最後は止まらずに何かに叩きつけられて死亡します。
聖書では「義人はいない一人もいない」つまり正しい人は一人もいないと述べております。また「罪の支払う報酬は死である」とも述べています。
>善と悪 どうして悪のほうがつよいのか
ご質問者さんのご質問は実に的を得た人間観察と思います。上に上がるには聖書の語るイエスの助けが必要と思います。
お礼
回答ありがとうございます。 すみません。いろいろ考えているうちに考え方が偏っていってしまっていました 回答とてもありがたく思います。 >善人であれ、恐れや嫉妬から救いや見返りを求めてしまい、それが悪意の理由と… 善人でも一方では悪意と受けとめられてしまうような感情があって、その感情を他に影響させないよう抑える。理性で。それができるかできないかが分かれ目になってくるのかなと感じました。 負けるが勝ち。 勝ちや負けという概念があるからつよいよわいという、どちらか というような考え方になってしまうのだなということに気がつくことができたような気がします。 善はつよいのですね。 ありがとうございます。
補足
ありがとうございます。 負けるが勝ちということが善になるということがわかりました。 しかし、 理性をもたず、個人の感情を優先に考えて行動をするというような印象を与える人が近くにいたとき、それでも負け続けるということは本当に大変なことと感じてしまうのですが やがて感情をもたない個になってしまうのではないかと そう感じてしまいます。