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神はいない、世界に私一人、私は死んだ。私の価値は?
そのかわり動物や植物などは存在するものとします。 ちなみに近い状況として人類の滅亡のことを考えて話しています。 この前提においても価値をもたせられる方法ってありますかね。 トートロジーという指摘は結構です。 同じような質問繰り返してますが、だんだん幅狭めてます。
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私の価値といった場合の私とはどういうものかの問題かもしれません。又いつか消滅するから価値がないというのも当たっていないように思います。貴方の考え方次第ではないかと思いました。
日本円1万円の価値はそれで何がどこで実現するかということで、法的にせよ経済的にせよある限定された世界の中で約束された貨幣そのものは、何にも代えられない他の世界になったらそれはただの紙切れ、無価値になってしまいます。 人間世界の終末にたちあう最後の人間は人間が積み上げてきた有形無形の文化や資産を一人でエンジョイできますから、それらに彼自身が価値を設定していっていいのでしょう。彼自身は彼自身にとって無限の価値がある、かけがえのないものでしょう。しかし、死んだらすべてが瓦解します。それを客観的に観察している人間がいなければ価値の見積もりようがありません。前のひとがいっていましたが、それこそ彼の肉一ポンドでどれほどそれを食う肉食動物が生きられるか、満足するか、で計るよりないでしょうね。
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ご回答ありがとうございました。
- 168244
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こないだ、嫁さんと、上野の科学博物館に行きました。ロシア人で、親日です。冷戦時代に、埋め込まれたアメリカ洗脳に、開放されました。日本が戦争でいつも不利になっていたのは、洗脳システムすら追求する、考えですね。情報、宣伝の力を理解していたイギリスは強いです。アメリカの歴史はイギリスですよね。銀河が現在の地球の人口よりも遙かに、多いと知り、洗脳が解けます。電磁波の動きを見る事も出ました。上野科学博物館で。自分の理解していた事なんて、0に近いですよ。しかし、現実に肉だから、痛いから、なかなかです。今が、楽しいです、 自分のが楽しいと、楽しいのです。メディアで、日本は、凄いは嘘ですよ。それを、知るだけで楽しめるよ。日本人は、島国。
お礼
すみません文章がいまいち理解できないのですが、あまり質問と関係があるように思えませんので放置させて頂きます。 ご回答ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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ご返答をいただきました。 ★★ ~~~ 自由意志を尊ばない人間というのは決定論者も入っているんでしょうか? 私は人間にとっては自由意志は存在するように見えるが、この世の起源(もしくは神にとっては)からすでにすべて起こることは決定されていたというような決定論を唱えるのですが、こういう人は価値があると思いますか? ~~~~~ ☆ 決定論に立つ場合というのは それでもそのすでに決定されているという事柄が 自分には分かりません。 何が決定されていて 何は決定されていないかが 誰にもついぞ分かりません。 別の言い方をすれば つねに行為をおこなったあとにその事柄は 初めから決定されていたのだと捉えるということであり それだけのことだと思われます。 つまりは 考えにしても振る舞いにしても 事前には決定されてはいません。したがって やはり自由意志による選択がおこなわれます。 もし仮りに事前に意志によって決めた事柄が その同じ事前において これはもともと決められていたのだと確信をもって思ったとしたら どうか? たぶんその確信じたいも 自由意志によってそうだと判断し決めたということなのでしょう。 ですから 決定論が実際に意味を持つというのは 事後においてどんな結果が得られても それを受け容れるのだというやはり意志を示しているといったその中身においてだと考えられます。どうでしょう。 ★ 神はいない、世界に私一人、私は死んだ。私の価値は? ☆ 《私は死んだ》あと もしほかに人間がいるなら その誰々が死んだということの確認が 言ってみれば《価値》です。 《世界に私一人》という情況は ちょっと考えられません。またもしそうなら もう価値がどうだこうだと考えることもなかろうと思われます。 あとは 《神はいない》という判断をくだしたその判断あるいはその私という存在 これらが 価値です。 つまり 自由意志による意志行為 また その主体のことです。 存在とその意志行為は それ自体で とうといものです。 それが 人間の証しだからです。つまり 動物とは違うというただそれだけのことですが。
お礼
前の回答質問しときながら閉じてすみません。 >ですから 決定論が実際に意味を持つというのは 事後においてどんな結果が得られても それを受け容れるのだというやはり意志を示しているといったその中身においてだと考えられます。どうでしょう。 そういう考えですか。多分卵が先か鶏が先か見たいな問答になると思います。 あなたの言ったことを考えているとこれは神の存在を言わない限り証明し得ない命題だと思いました。 多分私が決定論というのは自然法則の影響が強いのです。それの否定に不確定性原理によって云々言われてますが実際別の次元の可能性もあるみたいです。ですからこの命題はどちらが正しいというのは不可能に思えるし、これは各人が信じるところではないかと思いました。 ですからこの問題については保留します。ただそういった考え方があるのは興味深く感じました。 >あとは 《神はいない》という判断をくだしたその判断あるいはその私という存在 これらが 価値です。 勘違いさせてしまったかもしれませんが、これは神がいないということがなぜかその"私"にとって自明であったという前提で話しています。 >存在とその意志行為は それ自体で とうといものです。 それが 人間の証しだからです。つまり 動物とは違うというただそれだけのことですが。 目的がなくても価値があるのですか。あなたと私では価値という言葉の捉え方が違うのでしょうか。。。 ご回答ありがとうございました。
>>この前提においても価値をもたせられる方法ってありますかね。 多分ないんじゃないでしょうか 人間は死んだら終わりで、神はいなくても人間として幸福で、善良な人間として生きるとか言う哲学者は、やはり無理があることを屁理屈でごまかしているにすぎないと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- バグース(@bagus3)
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すべてのものに価値はありません。 ですから、価値がなくなるということも ありません。 強いて言えば、人間の脳の中に価値という観念が あるだけです。観念はイメージであり幻です。 実在しません。
お礼
ご回答ありがとうございました。
死んだら養分になるんじゃないかな。 価値は自分か、他人である観測者によって成り立つと思う。 つまり神様が存在して、見ていない限りは無価値だと思う。
お礼
ご回答ありがとうございました。
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お礼
もちろん私の考え方次第です。 その構築のために各回答者様にこの質問の題名の"私"の立場から各々の価値の置き方をしてもらい、話して欲しいんです。