まず、引用や比喩というものは、元ネタを知らないと話になりません。つまり例えば「この神道の書物の言葉なら、あるいは、この仏典の言葉なら、誰もが知っているから、これを引用すれば読者には通じる」という論理が成り立たないと使えないわけです。
例えば、アメリカでは伝統的に、ほとんどの国民が、子供の頃、悪さをすると親から「聖書の一節を暗記していらっしゃい!」などと叱られたものです。また、良き国民は日曜には家族そろって教会に行くもので、子供なら日曜学校へ行き、そこでは聖書の内容をいちから学んでいきます。
そして欧米の多くの国々が、キリスト教を支えに国をまとめてきました。負の遺産としては、十字軍という宗教を柱にした軍隊が戦争をしましたし、外国へ宣教師を送り込んで最終的にその地を植民地として支配したりもしました。また、裁判所の証人や大統領の就任においても、聖書に右手を置いて宣誓します。
さらには、キリスト教を信ずる者にとって聖書は歴史書でもあるのです。つまり、神が地球を作って、アダムとイブが子供を作って、それがどんどん増えて罪を犯したりして、イエス・キリストがそれを救う。したがって、人類を振り返る時は、どうしても聖書を振り返ざるを得ません。
裏を返せば、欧米の多くの人々は、倫理観や哲学といえば、キリスト教に根差したものしか知らない、あるいは知らなかったのです。そういう人たちが人口の大半を占めている。したがって、そこから産出される小説家も自ずと、大半はそのような人たちになるわけです。でなくても、読者の大半がそんな人達ですから、人に認められる小説は、自ずとそういう読者にアピールする小説ということになります。
一方で、日本人の多くは、幼い頃から、神社にお参りに行ったり、仏壇に手を合わせたりしてきました。嘘をつけば舌を抜くのは「閻魔様」ですし、死んだ親の墓参りに行けば、自動的に「ご先祖様」にも会うことになります。そしてもちろん、太平洋戦争などでは、神道を支えに血を流していました。古事記という歴史書もありますし、八百万の神を軸とした伝説もあります。
確かに、仏教やら神道やら伝説やらが登場する日本のバックボーンは、キリスト教一途の価値観とは、やや異なります。しかし、それはそれで、これらの神秘性を知らない文化圏の外国にとってはエキゾチックです。例えば、そこらのガキンチョが、綿あめを目当てに夏祭りに行くとする。その子はまず、「お参り」をし、「お賽銭」をあげ、もしかしたら線香の煙で「無病息災」を祈り、「お守り」を買って、「盆踊り」を踊る。これらは欧米人から見れば、そうとう神秘的です。
もちろん、欧米にもキリスト教以外のバックボーンを持つ人たちが大勢います。ユダヤ教徒、外国からの移民、インディオなどの土着民などなどで、こうしたバックボーンを軸にした小説もたくさんありますし、古いキリスト教的価値観から解放されて、インドの哲学に傾倒したヒッピーなどの物語もあります。また、日本でもキリスト教をバックボーンにした小説がたくさんあります。
さて、前置きが長くなりました。日本におけるそうした文学の例ですが、例えば、夏目漱石は仏教に、三島由紀夫は神道に、有吉佐和子はキリスト教に傾倒したりしましたので、作品の中にはそれめいた引用や比喩がちりばめられてはいます。しかし結局は、読者に通じないと意味がないので、「小説丸ごと、○○経典の引用だらけ」というものは、極めて少ないのではないかと思います。なぜなら、日本語の書物の読者の中には、特定な1つの経典に詳しい人が極めて少ないからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 日曜のミサは知っていたのですが、聖書はそこまで徹底して教えられるものなんですね。 何だか強烈な印象を受けました。 逆に日本の文化のほうは、特に神秘的な感じが薄いですね。 やっぱり身近すぎるからでしょうか? 最近読んだのだと、魔法ファンタジーの児童書の中でも結構聖書のことが引き合いに出ていたので、読んでいて驚きました。 これほどまでに聖書が身近な存在なんだなーって。