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国学でいう「皇国道なし」ということ
「皇国道なし」とは誰が初めて言い、またどういう意味かということについて詳しく教えてください
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ご質問の「皇国道なし」は、江戸時代に国学者と儒学者の間で激しい論争となった、「古代の日本に「道」があったか」という問題のことだと思われます。 誰が初めて言ったかなどの詳しい歴史的経緯は専門書を読んでいただいた方がよいと思いますので、代表的な意見を簡単に紹介します。 儒学者の太宰春台は『弁道書』(1735年)という書物の中で次のように主張しました。 「日本には元来道といふこと無く候。近き頃神道を説く者いかめしく、我国の道とて高妙なる様に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候。日本に道ということ無き證拠は、仁義礼楽孝悌の字に和訓なく候。…神代より人皇四十代の頃までは天子も兄弟叔姪夫婦になり給ひ候。…」 これに対して、国学者の多くが反発・反論しています。例えば本居宣長は『玉くしげ』(1787年)の中で批判を次のようにまとめています。 「…然るに近世儒者など、ひたすら唐土をほめ尊みて、何事もみな彼国をのみ勝れたるやうにいひなし、物体なくも皇国をば看下すを、見識の高きにして、ことさらに漫に賤しめ貶さんとして、或は本朝は古に道なしといひ、惣じて文華の開けたることも、唐土よりはるかに遅しといひ、或は本朝の古書は、古事記日本紀といへども、唐土の古書にくらぶれば、遥に後世の作なりといひて、古伝説を破り、或は日本紀の文を見て、上古の事はみな、後の造りことぞといひおとすたぐひ、これらは皆例のなまさかしき、うはべの一わたりの諭にして、精く思はざるものなり、…」 こうした主張が的外れである理由を宣長は次のように説明しています。 「すべて右の諭どもの、当らざることをいはゞ、まづ皇国の古は道なしといふは、此方にまことの勝れたる道のあることをしらずして、たゞ唐戎の道をのみ道と心得たるひがことなり、かの唐戎の道などは、末々の枝道なれば、ともあれかくもあれ、それにかゝはるべきことにあらず、…」 また『直毘霊』(1771年に『直霊』として成立)の中で、 「古への大御世には、道といふ言挙もさらになかりき。…其はたゞ物にゆく道こそ有りけれ。…物のことわりあるべきすべ、万の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国(あだしくに)のさだなり。」とも述べています。 つまり、儒者が「皇国道なし」と日本を批判しているが、それはおかしなことだと本居宣長は批判しているのです。日本には日本独自の勝れた「道」があり、わざわざ「道」ということを言挙げする必要もなかったのだという考え方です。ただしこれはあくまでも、本居宣長の学問的な立場から見た太宰春台のような儒者の考え方に対する批判であり、江戸時代の儒学者がすべて「いにしえの日本には道がなかった」と主張したわけではないと私は考えます。 たとえば、宣長よりおよそ1世紀前の儒者(古学派)の伊藤仁斎は『語孟字義』(1683年)で以下のように述べています。 道は猶を路のごとし。人の往来通行する所以なり。故に凡そ物の通行する所以の者、皆之を名づけて道と曰ふ。其の之を天道と謂ふ者は、一陰一陽、往来已まざるを以て、故に之を名づけて天道と曰ふ。 道とは、人倫日用當に行ふべきの路。教を待つて後有るに非ず。亦矯揉して能く然るに非ず。皆自然にして然り。四方八隅遐陬の陋蛮貊の蠢たるに至るまで、自から君臣父子夫婦昆弟朋友の倫有らずといふこと莫く、亦親義別叙信の道有らずといふこと莫し。 つまり「道」というのは聖人君子の教えがあってその後に存在するものではなく、また矯正されてできるものでもない。人が通行する路のように、どんな未開の地でも自然にできているものだ。という考え方です。この考え方に立てば、当然いにしえの日本にも道はあった、ということになると私は思います。 いずれにせよこの「いにしえの日本に「道」があったか」という論争は、現代の私たちから見れば何でこれほど多くの学者が参加して長い年月にわたって続いたのかと思うほどの大論争だったようです。
補足
素晴らしい回答ありがとうございました。参考となる資料、入門書、専門書あるいはサイトなども教えていただければと思います