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【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!
- ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
- ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
- ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。
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こんばんは。No.14,16 あともなどすです。ぶらじゅろんぬさんと同じく「人格はひとつ」の立場から「ネット人格」といわれる事情を,性格と人格の用語の混同としてまず回答し,人格の一性の法的要請を補足したものですが,不文律も重視しており倫理的要請等にも同意しています。そして私自身も人格と性格がよく分かっていないと述べました。その後,人格について考察を深めましたのてこれを述べたいと思います。 (1)個人人格の認識 ものを見る働きには「違う」と「同じ」があります。「違う」とみれば「同じ」と見えない。「同じ」とみれば「違う」と見えない。「違う」と見れば「多」になり「同じ」と見れば「一」になります。 思いつきでは「多」と「一」どちらかにしか見えないけれど,思いつきから自由になれば「どちらで見ようか」と問うことができ「多としてばかり見ていたから一として見よう」と答えることができます。また逆に「一としてばかり見ていたから多として見よう」とすることもあります。 どちらにでも認識可能だという答え(相対主義)があるので,どちらに認識可能かという問題意識は私にはありません。当為の問題として「どちらで認識すべきか」が私には意識されます。人格のごとき抽象的概念は「一」か「多」を恣意的に決めたものだという考え方をします。人格というのは「一」として要請,構想されたものという考えです。 ところでガリレオでしたか,科学の方法には分析と総合があるといっています。「一」から「多」に認識を変えるのが分析,その逆が総合にあてはまります。「一」なる人格を分析によって「多」と認識されるものは,部分人格といい,性格性の消失直前の深さまで分析されたものは性格(単位)といえるでしょう。この性格単位には多種の外延があります。 さらに深くなるとよく分からなくなります。身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等外面的な手掛かりを失うために内面的観点から分析することになると思います。ここではそれを保留しておいて,人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 (2)個人人格の形成 社会と個人の関係を双方向から眺めてみます。まず社会の側から個人の人格を眺めれば,一つずつ性格的特徴が現れ,眺めた個々個人の内側ではそれが性格群として統合されていきます。眺めた者同士,その人格に関する主観を交えれば客観的なものに変わっていくでしょう。社会の主観客観入り混じってはいると思いますが,それをもって眺めた側が対象人格である個人に接するので,個人は社会から自己の人格を規定されていくといえます。 たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 さて,気をとりなおしてもう一方ですが,自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。個人はある性格を,統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 このように,人格は状況により変じ,時とともに拡大成長して,あるいは場合によっては縮退して,形成されていくのだと見ることができます。いいかえれば社会環境と個人の相互作用によって個人の人格が形成されることは上の様な理解に基づいています。(逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) (3)個人の創作的人格 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。「リアル人格」などという言葉がでてきましたから現実性で比べてみますと,後者がより現実性を持つといえます。 ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それて現実的人格を見てしまうということです。 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 現実人格も形成的であり創作的であると言いましたが,現在の人格が拡大成長する場合,新たな性格が統合化されるはずです。その性格が社会からの働きで形作られたものであるにせよ,社会への適正化を図るため自ら創作したものであるにせよ,そこに現実的人格を覆いかぶせなければ社会側,個人側どちらから眺めるにかかわらず,現実的人格とはならないのです。 創作人格は,いわば現実性をもたない空虚な性格群に,現実人格を投影し,現実性を持たせることによって現実的となるのです。現実人格の現実性に依存する限り,創作人格はよく言ったところで現実的人格どまりであって,現実人格では有り得ないのです。 以上の考察から,「ネット人格」が人格といわれる事情は,以下にまとめたことの理解もなく表現されたということだと思うのです。 ○「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ○「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ○人格の単一性は,当為認識性によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを基盤とするような特殊な単一性であるといえる。
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NO.31 です。 まことに失礼いたしました。既に人格論議では合意を見、それを超えて、その先を進めておられたようです。先の小文は読み流していただきたく。 確かに、ネットでのここのような掲示板などでの自由な議論は、その主題の範囲で基本的な立場をお互いに認め合うという前提に立つ限りにおいて十分に成立するものであり、ネット人格云々というような問題は考える必要はないはずです。 それは匿名同士だということを別にすれば、生身の人間同士のサロンでの自由な会話とまったく変わらない快適な場が持てるはずであり、それが本来の人間同士の心のふれあい、通い合いになるはずです。仰るように、すでに実践の段階に入ったことはまちがいないでしょう。 上記の意味においてブラジュロンヌ様に全面的に賛同いたします。
お礼
うわぁっ 泣けちゃうなぁ。 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ホンネを語るとしますとね。 このような話し合いが わたしは 哲学カテと言ったら ただちに出来て どんどんその先へとすすめて行けると 初めてここに参加したとき思ったものです。 五年六年かかりましたでしょうか。 おかげさまで フランス野郎たちも もう猛威を振るうというわけには行かないでしょう。峠は越えたか または見えたと考えます。 それにしても 昔のアラシは 素直だった。おまえなんか 出てけ! とまったくストレートにののしっていました。ここへ来て 《押し籠もり》が出現しています。(前からありましたが そう認識することにしました)。受信拒否組です。 まぁ でも ぼちぼちまいりましょうか。 橋下徹が われわれの露払いになりましょうか。 民主党は だめでしたね。でも まだましかも知れないですかね。自公では もう気味が悪い。いいこと言っても 気持ちが悪い。 それにしても 年金までヤラレて おカネは足りないわ 人は少ないわで ときは満ちて来たでしょうか。 まだまだでしょうか。 ときにかなうものは みなうつくしい。 お粗末でした。
たいそう盛り上がっていて楽しく拝見させていただいております。 すでにほとんどのことが語りつくされているような印象ですが、肝心のところですれ違いがあるようなもどかしい印象も受けたりします。 私はぼさぼさ様のご卓見に共感を受けたりしておりますが、ぶらじゅろんぬ様の”人格”の概念がわれわれの考えている人格と少なからず異なっていることがその原因のひとつなのかとも思いますがどうでしょうか。 普通ひとの社会人格は戸籍上の名前と外観で規定されますが、ネットの場合はバーチャルなネームのみで無に近く、まったく異なっています。そういう意味ではネット上の人格は非常に希薄なものです。 そういった人格概念をブラジュロンヌ様は持っておられないようです。 あくまで世界にひとつのブラジュロンヌ=戸籍上の肉体を持った、たった一人の人間 をご自身の人格だ、その使いまわしの完全な分身が電話にも現れネットにも出現するのだと規定されておられるのでしょう。 これもひとつの考え方ではあろうと思います。たしかにその人格が現にネットで饒舌な発言を重ねておられるのですから、間違いではありません。 しかし、われわれは、ネットに現れているブラジュロンヌ様の、われわれが感知しうる全情報をもって氏の全人格だとは規定できないと考えているのです。それはきわめて不完全な情報(これがネット人格といわれるものの実体でしょう)なのであり、他にも、そのご尊顔、ご家族などなどもっとたくさんの氏に関わる人格の断片が(隠されて)あるはずだと考えているわけです。 氏は、おそらく、ネット上でも自身のすべての人格をさらけ出しているつもりだ、隠しているつもりはない、と仰りたいのでしょうが、われわれが感じる限り、生身の氏とじかに会って、ご家族ともどもとお付き合いしない限り、やはり全人格を感じることはできないのです。 少なくとも、氏におかれましては、一般的な人格の概念としてのそういった考え方にも共感していただきたく思うものです。
お礼
ぼさぼささんにお応えしたことは分かっている。問題は それでも《ネット上から受け留める人格》は それだけでその人を信用するというわけには行かない。そういう実践的な問いが残っている。というところにありましょうか? それは そうです。 こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 つまり 《ネット人格》という別の人格はないという理論上の内容は分かった。けれどもだからと言って ネット上から判断する人格が そのまま本人の人格だと言い切ったり受け留めたりするわけには行かない。なぜなら せいぜいが部分人格を見ているだけだということだから。 と質問者も言っていますよ。 わたくし自身の場合にしても いくらネット上とネット以外とで 人格が何ら変わるものではないと言っても そのネット上の文章で判断せよと言ったって どだい無理であると。 そう言っていますよ。ただの主観を説明したに過ぎないものを信用できるわけがないと。 もしすでに実践上の問題に入るとしますと こうです。 わたしの言うのは 人間としての存在にかんする前提として人びとが暗黙の内にでも取り決めたことつまり公理 この公理から始めて いくつかの定理ないし理論をみちびき出し そこから 実際の思想にまでおよぶといった全体としての自己表現 これは その思想や理論として一人ひとりが捉え 互いに活かして行けばよい。ということです。《だれだれの思想》というふうに――そんな看板を立てて――捉えることはないと。 そうは言っても確かに自然科学の認識とちがって 人間存在や社会にかんする理論や思想は 誰れもが その内容を一様に捉えるかと言えば そういうわけには行きません。それはそれが出来るのは それこそ《公理》くらいです。しかもこの自由なら自由という公理でさえ その実践上のこととしてはやはりさらに 人によってその認識や応用の仕方が違って来たりします。 ですから たとえ同じ思想や政策であったとしても 一人ひとりその実践にあたっては手法が違って来るということがあります。ハバツが出来上がります。そういうときには 誰々の思想だとか政策案だとか言ったりすることもあります。 でも店をかまえるわけではなく 看板を立てるまでにも行かないでしょう。つまりあくまでその中身を みなで検討しあって つくりあげて行けばよいし それを実施していくことになる。でしょう。 あらためて省みるなら ネット上の文章からは その理論としての内容は分かったとしても この実践のことつまりその本人の実際の手法のことなどが分かるわけがない。こうなります。 ということは ネットの世界はそういう段階でも舞台でもないからですが ひょっとすると――初めに問うたように―― こまあすさんは それでもすでに《実践》の段階に入ったというご認識でしょうか? どうなりましょうか。 言えることは 同じ理論・同じ思想を持った場合でも おそらく手法の違いによって いくつかのグループに分かれるでしょう。そして出来るだけ 思想の内容を修正しつつ展開することに意を用いて あとはいくつかの手法どうしが集まって互いに話し合うということになろうかと思います。グループの指導者は 誰が成ってもよいというかたちですすめればよいのではないでしょうか。 手法は おカネという飴と圧力をかけてねじ伏せるという鞭とを駆使するような・人に有無を言わさない手法でなければ よろしいでしょう。そのあと残る手法の違いにかんして それぞれのグループの指導者は 当番制がよいでしょう。もろもろのグループをまとめる指導者は 当面は 選挙によるのかも知れません。 (当面はと言うのは 社会の成り立ちや仕組みを作り直す過程においてということであり その仕組みが 人びとののぞむように行動しうるかたちに整ってきたら その当面を脱するという意味です)。 でも質疑応答の場は あくまで理論や思想の問い求めが その成すべきことです。限界があります。その意味で 人格は 部分人格だと見られても仕方がありません。 話は 違っていませんでしょ?
- el156
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No.8&13,20,26,27,28です。 自由意志は良くわかりました。解説ありがとうございます。質問者と回答者の立場が逆転してしまい、申し訳ありません。 「公理」については疑問が残ります。 繰り返しになってしまい申し訳ありませんが、私は不完全でいい加減な人間です。常に人に説明可能なように行動するなどということはしていません。場当たり的に行動したり、自分でも何故そうしたのかわからないなどということは日常茶飯事ですし、自分としては理由があるのだが人には説明できない場合も多々あります。理由を聞かれれば可能な限りは答えますが、わからないと答えたり、黙秘したり、面倒で答えなかったり、考え込んでしまったりすることもあります。その上、これから精進してどんな場合にも理由を答えられるようになりたい、と思っている訳でもありません。仮に理由を答えたとしても、その根拠について聞き手が共通認識を持ってくれる保証もありません。その場合、普通は根拠の根拠に遡る訳ですが、どこまで遡れば良いか、という問題が生じることもあります。そういう場合は途中で諦めたりします。それでも法律に触れるようなことは無く、人並みにに仕事をさせて頂いてお給料も頂いて生活しています。こんな私は人間とも言えないのでしょうか?私のような不完全な者がネット中毒になってネット人格を暴走させる危険性は考える必要がありませんでしょうか。 説明する責任が倫理の一つである、という程度の位置づけであればわかるのですが、哲学は「何故人を殺しては行けないか?』ということすら考える対象となる場所だと理解していますので、公理と言われるとどうもしっくり行きません。 日記については、誤解を解いておきたいと思います。 日記を差し出すだけでは説明責任を果たせないのは、それではわかり難く不親切だからです。もし仏頂面で差し出すのだとすれば、態度にも問題があるかもしれません。非常に理路整然と誰にもわかるように書かれた日記であれば、内容によってはそれを笑顔で差し出すだけで相手に理解を得られる場合もあるかもしれません。しかしそもそも、日記が単体で意思や行為の主体になるとは考えていません。私が意図したのは、日記という、ひとのハードウエアの外側にあるものが、意思や行為の主体の一部を構成し得る、ということです。説明を求められた時、ひとのハードウエアの内側にあるものだけで説明責任が果たせなくても、日記を参照して、ひとのハードウエアと日記との総体として説明することができる場合がある、ということです。この場合日記の記録は脳内の記憶と機能として同格だと考えています。責任の所在は意思や行為の主体にあり、それはひとのハードウエアには限定されず、この場合は日記が含まれる、という立場です。前回の回答は誤解を生む表現だったかもしれません。 ひとのハードウエアと意思や行為の主体を分離して考えることに拘る理由は、一つの「ひと」のハードウエアが複数を人格(意思や行為の主体)を持ち得るか、という首題に直結するからです。 首題に関して、これまでのQ&Aを通して、思う所が二つあります。 1. 現実の人格がネット人格を制御できている間、ネット人格の起こした暴走は現実の人格が指示したのかもしれませんし、仮にそうでなかったとしても現実の人格には管理責任があります。何れにしてもネット人格のせいにすることはできません。 2. 現実の人格がネット人格を、一時的又は継続的に制御できなる危険性ということは、考えるべきだと思います。継続的にそうなってしまったら、病気です。そうなったら現実の人格には責任能力が無くなっていると思います。「ネット禁止」などの法的処置やリハビリが必要になる可能性がある、と思います。
お礼
えるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。《自由意志の公理》は 成人するまでの猶予期間を終えれば人は誰もが知っているということ このことが前提になっているはずです。と思いますが これは厄介に感じられますか? 冗談に感じられるかも知れませんがそれでも言ってみますが この公理を破るあたらしい公理を考えだして発表するとよいでしょうね。 昔の話を言えば 《成人したら もし法律を破るようなことをすると もう新聞には匿名ではなくて本名でその記事が書かれる》というようなことを言っていました。そういう問題だと思います。これは ふつうのこととして わたしの周りでは 受け取っていました。 だとすると――つまりそこまでは分かっているとすると―― 前回もちらっと触れたと思いますが 法律上の責任にまでは到らないコトをめぐって 相手と言い分が食い違うような場合 どこまで説明責任を負うか・また果たさねばならないか。こういうところで 厄介感が出るのでしょうか? つまり前回触れましたが その説明責任は果たす必要はないし そもそも負う必要がないのだと考えた場合には 相手とは 絶交を覚悟で もううっちゃっておくことになろうかと考えます。そういう自由は――もともとの表現の自由と同時に――あたえられていると考えます。 ★ 理由を聞かれれば可能な限りは答えますが、わからないと答えたり、黙秘したり、面倒で答えなかったり、考え込んでしまったりすることもあります。 ☆ です。つまり言いかえると 社会の共同自治の仕組みとして民主主義が掲げられているように 表現の自由を行使するのもそれを守るのも 話し合いの問題に帰着するということだと思います。言いかえると どこまでも半永久的に話し合って行くという意味です。 ★ 説明する責任が倫理の一つである、という程度の位置づけであればわかるのですが、哲学は「何故人を殺しては行けないか?』ということすら考える対象となる場所だと理解していますので、公理と言われるとどうもしっくり行きません。 ☆ 《公理としきりに言う》ことの意味は分かっていただけたかと思います。実際問題としては ★ 説明する責任が倫理の一つである、という程度の位置づけであ ☆ るというかたちになろうかと思いますから。 ただし ★ 哲学は「何故人を殺しては行けないか?』ということすら考える対象となる場所だと理解していますので ☆ については どうでしょうかねぇ。つまり 哲学が 知性や学問の王であるか? そうとは限らないでしょう。 つまり それでも哲学は あとづけとしてでも その《そうとは限らない》ところをつねに穴埋めしますが そしてそのことにかんしてはまるで長けていますが それで通すことは出来ないはずです。というよりも そこでの哲学の限界ということをも じつは哲学は自覚しているはずなのです。 説明責任を果たさなくても 当人どおしは 互いに信頼しあっているということは あり得ます。あるいはもっと言えば そこまで信頼しあっているならば いちいちその自己表現のワケや事情を話さなくても 相手は分かっている。 もしくは あいつのことなら いま分からなくても どういう事情があるか あとでこちらにも分かるようになるさと言って 受け留めて受け容れていることはあり得ます。 もっともこのようなことが現実となるのは ふだん説明が必要なときには いつもしっかりとその責任を果たしているというそのような人格がすでに形成されている場合だとも言えそうです。といったようなことではないでしょうか。 つまり このことをわざわざ分析するとすれば 《自由意志という公理 およびその意志による自由な自己表現かつそれについての答責性という定理》が前提となっているであろうというわけです。総じて・全体として・その人の知性と感性とそして知恵や境地 これらの総合において いまの前提が活かされているであろうと。言いかえると 境地と生きることが 先に来ています。そのあとを哲学が追いかけます。ということではないでしょうか。 ★ 日記 ☆ も人の境地の全体に含まれます。ただし 日記がものを言うわけではない。ただそれだけのことです。(ものを言ったとした場合 それでもそこに書かれたことが ぜんぶ事実だと見なしてよいか? そういう問題もありますから ものを言うのは やはりあくまで本人です)。 ★ 病気 ☆ の問題は ふつうの仕事や生活における人間関係から来るというのが 一般であると考えます。《気》の問題に限ればという意味です。 ガミガミ電波 特にそこにその人の意識が排泄されたがごとく含まれているのを受信した場合 何とも気持ち悪いという経験が――つまりそういうかたちでの《アース役を引き受けた体験》が―― 重なることによって起こる。こう見ています。 アース役はつらいよということですが これも相手からやって来た《ガミガミ電波》を受け留めてやったのだと事実認識をすれば ほとんど無害になります。解消されます。(ただし そのとき自分に間違いや落ち度があったなら それによって気が塞いでいるのですから 原因はそれだとなります。それを過去とするのは 一つひとつ説明責任を果たして行けるような行動をするという地道な行き方にあると思います)。 ごくごくふつうのことしか言っていないと思うのですが?
- 光栄 社員(@Koeii)
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IDが10個あれば1人で10人分を演出できます。 千の仮面をかぶることもできるでしょう。 ま、意味もない。
お礼
こえいいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ま、意味もない。 ☆ いえいえ。 つまり ★ ~~~ IDが10個あれば1人で10人分を演出できます。 千の仮面をかぶることもできるでしょう。 ~~~~~ ☆ この《できる》というのは だれのことでしょう? 《わたし》のことでは? というのが 質問の趣旨です。 つまり 同じひとりの人間です。その人格です。 十個の分身としての部分人格がつくられても 千の仮面をかぶっても 同じくただひとりの人間である《わたし》のしわざであるとなります。 ではないでしょうか? というのが 問いです。どうでしょう。
- el156
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No.8&13&20&26&27です。 元のご質問は、ふたつの人格を持つことはあり得るか? だと思いますが、 そうであれば「何処に」という境界が必要だと思います。 私はご質問の意味を、 ひとつの「ひと」というハードウエアが、ふたつの人格を持つことはあり得るか? と捉えていましたが、これは正しかったでしょうか。 網の結び目の例えに従うなら、私の考えでは、「ひと」というハードウエアが網の結び目であるとして、意志や行為の主体はその結び目自体ではなくて、むしろ結び目を周囲につなぐリンクです。もちろん、結び目を周囲につなぐ訳ですから、結び目をないがしろにしたら何もできませんが、結び目だけではやはり何も生じない、という考えです。《なぜそう考えるのか?》や《なぜそうしたのか?》の問いに答える説明責任を果たすものが「ひと」というハードウエアの外にある例えば日記であっても構わないし、その場合日記もその人の意思や行為の主体に属すると思います。 人格に関して、むしろ質問者の方の方が完全性を前提にされているように、私は感じます。 私という人格は、全く持って不完全な上、幾分無責任です。その上それを完全なものに治して行こうなどという立派な努力は何一つしていません。普段から常に説明責任を完全に果たせるように行動している訳ではありませんし、説明責任を問われればあたふたとそれに答えようとがんばります。でも諦めて逃げ出してしまう場合だってあります。そんな私であっても、「お前は人間ではない」と言われる程に無価値な存在だとは、思っていません。 ジキルとハイドの例で言えば、前回(#27)の3番目では、リーダーとしてのジキルの監督不行き届き、能力不足だと言ったつもりです。もちろん私の考えでは暴走したハイドにも当然責任があります。ジキルはハイドに対してリーダーではあってもこれを完全に掌握していないし、少なくともジキルとハイドを「統括するもの」を、私は想定しません。 これは、フィクションの世界だけのことではなくて現実にそういう病の方がいらっしゃる、と認識しています。 「《自由意志》なる公理」は、申し訳ありませんが不勉強の為、どういう意味なのか、なにが公理なのか、わかりません。 統括者の存在が公理だという前提があるのでしたら、私がお答えできることは何もありません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「《自由意志》なる公理」 ☆ は 人が自分の心や〔その心に従う〕意志にさからってでも《自由に》 考え振る舞うことがあり得るというものです。極端な例としては 自由意志の本体である自分の存在そのものを抹殺するという《自由》さえあるというものです。 この自由ゆえに 特にそのおこないが相手のある場合には なぜそのようなことをしたのか? と訊かれれば これこれの理由からですと答える責任がある。という意味です。――これが 特に証明を必要としない人びと共通の取り決めだというのが 公理であることの意味です。 ですから ハイド氏の人格やその振る舞いについては 本体であるジキル博士の人格に 自由もあるし責任もある。となるのだと思います。 《ネット上の文章によって判断される人格》についても 本体である現実の人間の人格に 自由がありその責任もある。こういう取り決めです。共同主観です。法律も この前提で出来ているとされます。 といったことをわたしは 述べているだけだとも言えるのですが。 このことが ★ 人格に関して、むしろ質問者の方の方が完全性を前提にされているように、私は感じます。 ☆ といった感想に及んだようです。でも取り決め=共同主観=ジョウシキは 揺るがない前提ですし 個人が勝手にゆるがせにできるものではない。ということだと思います。これも そういうことだと述べているだけでもあります。 ★ ~~~ 私はご質問の意味を、 ひとつの「ひと」というハードウエアが、ふたつの人格を持つことはあり得るか? と捉えていましたが、これは正しかったでしょうか。 ~~~~~~ ☆ そうなのですが 確かにその答えは いま上のように公理が前提に横たわっていると言ってしまえば もう決まっているということでもありました。つまりは 《統括者ひとりの人格に すべて帰着する》といった同じパタンを繰り返し言い続けていたという事情にもなっています。 ★ 網の結び目の例えに従うなら、私の考えでは、「ひと」というハードウエアが網の結び目であるとして、意志や行為の主体はその結び目自体ではなくて、むしろ結び目を周囲につなぐリンクです。 ☆ 《リンク》やほかの環境にまで伸ばしてもいいかも知れません。問題は 《責任の所在》です。ということは 表現の自由の発信元はどこか? 誰か? という問題でもあります。 ですから この答えは 初めから決まっています。ネット上であろうとそれ以外の場であろうと発言をおこない文章を書いている現実の何の某という特定の人間であるということが 決まっています。 あとは ネット上の自己表現にかんしては あたかも部分人格と呼びうるような人物像があたかも本人とは別個に表わされる場合も 出て来るかも知れない。と言っておくし 見ておく。こういうことだと思います。 その事例が ハイド氏の場合のようにこじれて さらには ★ これは、フィクションの世界だけのことではなくて現実にそういう病の方がいらっしゃる、と認識しています。 ☆ という場合もありうる。とまで見ておかねばならないのかも知れません。 話が前後しますが 次のご見解は あいまいであるとわたしは考えます。 ★ 《なぜそう考えるのか?》や《なぜそうしたのか?》の問いに答える説明責任を果たすものが「ひと」というハードウエアの外にある例えば日記であっても構わないし、その場合日記もその人の意思や行為の主体に属すると思います。 ☆ 説明責任を果たすのは あくまで何の某という特定の人間です。つまりは たとえば いまの例での問いを受けて 《じつはその答えは わたしの日記の中に書いてある》と言って その日記を手渡すならば それがひとつの説明責任を果たすことになります。そのように答えることを無しで済ますことは出来ないでしょう。 法的責任がなければ そのように答えることを打ち捨てて おまえとは絶交だというような意思表示として その意味で(つまり 訊かれた問いとは別様に)答えることを成す場合もなきにしもあらずですが。 煮詰めた議論としては 次のことをおこなうか否かで 人格の所在が定まるのだと思います。 ★ その場合日記もその人の意思や行為の主体に属すると思います。 ☆ という見解を持つことは自由だと思われますので そのとき 《答えは わたしの日記の中に書いてある》と言うということ そういう答えを成すか否か。ここで 人格の問題が決まると思われます。 わたしとしては このように考えています。
- el156
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No.8&13&20&26です。 No.26のつたない表現で誤解を与えてしまったようなので、補足させて頂きたいと思います。 1.の「殻」という言葉に、からっぽとか抜け殻とかいう意図はありませんでした。卵の殻のように「ひと」と環境とを分けている境界面を「殻」としました。脳みそのはたらきがからっぽだなどというつもりも、全く、ありません。 「それぞれそのようだと見止める」とか、「ああだこうだと判定する知性」とか、心や知性の主体の所在を考えるとき、それがひとの側(人の境界の内側)にあるとか、頭蓋骨の内側にあるとか、或いは大脳皮質の中にあるとかでも構いませんが、そんなふうにどこかに境界線を引くことはできないだろう、という程度の意味です。例えばノートと鉛筆を使って物事を考えたとき、心や知性を機能として捉えるのであればノートや鉛筆の機能は脳内の記憶と何ら変わらず、これら(環境)を心や知性の主体の外側にある道具だと位置づける理由は無いだろう、というのが私の考えです。 2.の完全性ですが、私は少なくとも自分の人格を造ってきた、育てて来た、という意識はありません。成長の過程で細かい枝を剪定したりしたことくらい(というよりも、他人に剪定して頂いたと言うべきかもしれません…)はあったかもしれませんが、基本的にはなるがままに、自然にできあがったものだと思うので、完全性だとか理想だとかいうものとはむしろ全く無縁だと、感じています。 3番目はお礼の内容への返答になります。引用させて頂きますと、 > ○ 分身が分身の立ち場を超えて 一人歩きして行くという場合 そのときじつは 統括者である本人は > どうしたことか それでよいという考えを持ちそう判断した。そして見切り発車をした。ような場合ではないか。 > というものです。 の部分です。 No.26の3では一部「統括者」を含む構造を認めてしまいましたが、私としてはやはり分身を統括する本人、というものの存在を仮定するのはおかしい気がします。「統括者」というよりせいぜい「リーダー」としての現実世界側の分身の仕事になるのではないでしょうか。そしてもう片方の分身が勝手に動き出すのはリーダーが何もしなかった場合とか、リーダーが制御しきれなかった場合なのだと思います。
お礼
お早うございます えるさん。ご回答をありがとうございます。 1. ★ 心や知性の主体の所在を考えるとき、それがひとの側(人の境界の内側)にあるとか、頭蓋骨の内側にあるとか、或いは大脳皮質の中にあるとかでも構いませんが、そんなふうにどこかに境界線を引くことはできないだろう、という程度の意味です。 ☆ 《主体》の意味を明確にしておけばよいのではないですか? たとえば 構造主義は あくまで社会的な人間の関係が或る種の仕方で言えば《主体》なわけです。言いかえると 《無主体》説です。《主体なき過程》というふうに。 これは 網あるいはネットワークを例にとれば わたしの考えですが 網の結節点をないがしろにしているというものです。つなぐ線やひょっとすると何もない網の目を重要視しているかも知れませんが 結び目については放ったらかしです。つまり この結節点が 一人ひとりの《わたし》です。そしてこの意味で と同時にわたしはとにもかくにも《考える》というよりは《思う そして 意志する》ゆえに 《主体》です。 《なぜそう考えるのか?》や《なぜそうしたのか?》の問いに答える(つまり答責性を有する)のは つなぎの線でもなければ網の目でもなく 結び目を成す存在であり この存在でしかないからです。 むろん 網のつながり全体が 環境でありその世界の中にわたしは位置しており ここで《人格形成》がおこなわれます。 《境界線を引く》ことが目的ではなく 説明責任を負う行為の発信元を明らかにするためです。そのように言うときには けっきょく大道は無門なりのごとく 外壁はむしろないですよ。 別の質問では 世界は地で われはそこに位置づけられている図である。人がそれぞれ図である。ならば みな地続きであるのではないか? と問うています。そういうことですよね?・・・でも 意志および行為の主体は 存在します。ということになりませんか? 2. ★ 〔人格は〕・・・基本的にはなるがままに、自然にできあがったものだと思うので、完全性だとか理想だとかいうものとはむしろ全く無縁だと、感じています。 ☆ これは 上の(1)の問題にからめて捉えるなら 説明責任を負う主体はいないという意味でしょうか? つまり そういう問題だと思います。《完全性》の問題は もう済みました。 ★ 自然にできあがったものだ ☆ としても その自己表現のすべてに対して――いまこのように問答をやり取りしているように――答弁をおこなうという責任があると思います。つまり《自由》という問題です。自由意志において思惟し行動しているゆえに その行為に即時に答責性がともなわれるかたちとなります。つまり 《主体》の問題です。 3. これも 《主体》問題であるようです。ネット上に現われる人格に対しては その本人の全体としての人格があり これが統括者であるという意味での主体の問題です。 ★ ~~~ No.26の3では一部「統括者」を含む構造を認めてしまいましたが、私としてはやはり分身を統括する本人、というものの存在を仮定するのはおかしい気がします。「統括者」というよりせいぜい「リーダー」としての現実世界側の分身の仕事になるのではないでしょうか。そしてもう片方の分身が勝手に動き出すのはリーダーが何もしなかった場合とか、リーダーが制御しきれなかった場合なのだと思います。 ~~~~~~ (あ) ★ リーダーが制御しきれなかった場合 ☆ が 《統括者としての主体が 分身の要求に負けて 意志としても屈した》という場合に当たると思います。つまりは 《ネット人格》の問題は 《統括者たる本人の全体としての人格》の問題であると。ハイド氏の人格の問題であるよりは ジキル博士の人格の問題であると。 (い) でも お考えによれば ○ ハイド氏の人格は 分身であるが ジキル博士の人格も じつは〔ネットワークとしての世界に位置する〕ひとつの分身であって どちらの分身がほかの分身を統括するかというようなことは 仮定しえない。 ということのようですね。つまり 《自由に自己表現すると同時に説明責任を負う主体》の問題です。 (う) でもけっきょくのところ 《自由意志》なる公理から出発する仮説と言えば仮説から離れることは まづ考えられません。これは 黙ってないがしろにすることは出来ない場合のジョウシキです。つまり なぜ《自由 すなわち その自由表現の主体として説明責任を負う》の理論を無視してよいかを 社会に向けて説明する必要があると思います。そうでなければ わたしは人間でなくなりますと言っているように聞こえます。 ではないでしょうか? * 人が 網の目状に広がる世界の中に位置するひとつの《分身》であることと ひとりの《わたし》として表現の自由を享受するその表現の主体であることとは 両立しますよ。
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No.8&13&20です。No.20のお礼欄にお答えします。今回の論点は3つです。 1. 私の考えは、「それぞれそのようだと見止める」ものにしても、「ああだこうだと判定する知性」にしても、またそれが仮にデカルトの「我思う」だったとしても、およそ心や知性の作用の類が「人」の殻の内側、特に脳みその内部にある、という根拠は無いだろう、ということです。質問の趣旨から少しそれてしまうかもしれませんが、例えば私が質問者の方のお礼文を読んで自分の考えをまとめる作業をしているとき、私の心の所在は、私が質問者の方のお礼文を表示しているウインドウ~それを見る目~情報処理している脳みそ~手とキーボード~今考えながら編集をしているもう一つのウインドウなどの相互作用自体にあり、これらが相互作用することによって総体として考えが生まれて行くのであって、頭蓋骨に閉じ込められた脳みそに全ての情報が伝わってぐうっと考えて答えを出すようなシステムではない、脳みそは心の作用の一部分を実行する便利な道具という位置づけだと考えています。環境の中に他者が居るかどうかは本質には関係ありません。この考えが正しい証拠はありませんし考えを押し付けるつもりもありませんが、少なくとも知性の所在が科学的に解明されているわけでは無いと思うので、それがひとの殻の内側にあると断言できるものではないと思います。 2. >《人格》というとき 何かそこに《完全性》があるという先入観を持っておられませんか? については、質問の意図がよくわかりませんでした。 私は人格というのは作ろうとして作るようなものではなくて、たまたまその場にあった環境側面や偶然に翻弄されながら偶然と淘汰によって成長して行く生命の進化の樹のようなものだというイメージを持っています。「完全性」という言葉はあまり私のイメージの中にはありませんでした。樹の根元に近い部分にあるのは、宗教であったり肉親などへの信頼であったり、倫理であったり、人によって違うと思います。それが脆くて奇跡的なバランスで成立していると考える理由は、新たな認めざるを得ない事実が樹の根元に近い部分の付け替えを求めるようなものだった場合に、それは人格にとって大問題だからです。そのような場合に取りうる対応策の一つとして、根元に近い部分から大きな分岐をそっくり切り取って別の人格として隣に置く、というようなことがあるのだろうと考えています。 3. 人格の統括者とその分身、という構造については、私は、一時的又は定常的にその構造から外れる場合がある、という立場です。一時的に外れる場合というのは何かに没頭しているような状態で、現実世界から声をかけても暫くは気づかず、ある瞬間にふっと我に帰る、その「戻ってくるまで」です。定常的に外れる場合というのは、病気として、あり得ると思います。ネット人格の怖さというのは、分身が分身の立場を超えて統括者に帰属しない状態になり得るところにあるのではないかと考えています。
お礼
えるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 1. ★ 少なくとも知性の所在が科学的に解明されているわけでは無いと思うので、それがひとの殻の内側にあると断言できるものではないと思います。 ☆ 特に断言しているわけではなく かと言って 思惟をおこなう場は 脳みそのほかにありますか? 別に 脳のはたらきを ★ 殻 ☆ という必要はないと思いますよ。 2. ★ ~~~~ >《人格》というとき 何かそこに《完全性》があるという先入観を持っておられませんか? については、質問の意図がよくわかりませんでした。 ・・・ 樹の根元に近い部分にあるのは、宗教であったり肉親などへの信頼であったり、倫理であったり、人によって違うと思います。 ・・・ ~~~~~~~~~ ☆ 《完全性》というのは 理想であったり人徳の完璧性であったりさらに昔は 聖人君主といった表現もありました そういう意味合いに絡めて言ったものです。 ★ 樹の根元 / 宗教 / 信頼 / 倫理 ☆ といった事柄は いくぶん《完全性》にかかわっているようにも思われます。 なぜこんなことを言うか? だって 人格は 自己形成体であるとわたしは言っています。そりゃあ 整合性をも求めていますから 誰も一般にはわるい方向へ行こうとは思いません。より良い方向を向きます。けれども いまは発展途上だけれど ゆくゆくは完全な人格という理想を目指すのだといった扱い方 これは 自己形成体にとって むしろ妨げになると考えます。 理想などなどは ただ観念としてあたまの中に陣取るだけであって 動態としての人格形成にとってむしろ蓋をするような・動きを止めるようなハタラキをするのではないでしょうか? (あっ これは《人格》という事柄に限っての理想という問題です)。 といったことが ちらっと気になったものですから。それだけです。 3. ★ ~~~ 人格の統括者とその分身、という構造については、私は、一時的又は定常的にその構造から外れる場合がある、という立場です。 ・・・ ネット人格の怖さというのは、分身が分身の立場を超えて統括者に帰属しない状態になり得るところにあるのではないかと考えています。 ~~~~~ ☆ そうですね。分かったような気にもなりますが どうですかねぇ。どうなんでしょう。わたしの立ち場は こうです。 ★ 分身が分身の立場を超えて統括者に帰属しない状態になり得る ☆ といった事態について こう分析します。すなわち ○ 分身が分身の立ち場を超えて 一人歩きして行くという場合 そのときじつは 統括者である本人は どうしたことか それでよいという考えを持ちそう判断した。そして見切り発車をした。ような場合ではないか。 というものです。これによると問題は 《ネット人格》のこわさではなく その本人の人格に何か起こっているのではないかという見方です。 端折ったわけではないにかかわらず 対応するご文章を引かないでわたしの側の見解を述べています。おゆるしをいただいて このかたちで お応えとします。
ようやく議論が落ち着けた様ですね(笑)。 「・・私の性分があり。 ・・あなたの性分がある。 そして、お互い相容れないながらも、お互いを認め合う。」 まさに私の <好きな感じ> の結論に至ることが出来て、私と致しましても大変満足をしております・・。 しかし、 <遊び>と言うのは、その <あそび>の事だったのですね。 確かに私も、 「間の抜けた、人生の愉しみ方もしらない馬鹿」 にだけは、なりたくないです(笑)。 これぞまさに <人生の先輩の知恵> ・・ですね。 是非、参考にさせて頂きます。 ・・それでは、事後のご挨拶もそろそろとさせて頂こうと思いますが、この出会い自体も、これはこれでも何かの縁でしょうから、また私の側で気が向きましたら、 <bragelonne>さんがお出しになられている、他の議論の方にも <また首を突っ込ませて>頂こうと考えておりますので、いつになるかは分かりませんが、その際はまたどうぞお手合わせ願いたいと存じます(笑)。 ・・ではまた、次の議論の場でお会いしましょう。 どうも有難う御座いました。
お礼
あぁ よかったです。よかったですね。 いつでも訪問してくださいませ。 ほかに案外ご投稿がありました。だからというわけでもありませんが もうここでは 短く ありがとうございましたと お伝えいたしたいと思います。では。
他人からの視点を考慮に入れます。 ネットを使って示されるわたしを他者の側からよみとった人格がネット人格だと思います。 1人に対してネット人格は大勢あらわれます。 ある1人の人のネット人格は、ネット越しの他者たちの胸中に、他者たちの数だけ、おぼろげに不正確に存在します。 そういうときのネット人格は、相手がネット越しにこちらを垣間見たときに把握するこちらの人格です。 そういう他者達が勝手に宿す人格イメージは私(本人)の感知するところではない場合がよくあります。 心理学にいうジョハリの窓は、そこには自分のイメージが四通りの映り方をするそうです。公開と秘密と盲目と未知の窓です。 『自分も人も知っている私、自分だけ知っている私、他人だけが知っている私、自分も人も知らない私』の四つです。このうち『自他が知る私』と『他人だけが知っている私』――どちらも他者から見た自分というのが格好つけたい人にとってとても気になるものです。 また私から全ての私が知られているのでもないようです。記述する自分においては、記述はかなり意識的なことなので、私から知られている私ばかりが現れると思います。 人がネットを使うことで新たな自分の一面に気づくことがあると思います。未知の窓との出会いです。意外な新発見の部分を驚きとともに自分でこれはネット人格だと思うこともあると思います。 この文は『他者の側からとらえた人格』という視点が主なので、あまり人格と性格の区別をつけませんが、おおざっぱに 人格=人物像 、そこに性格が含まれているということにします。 他者から見たその人の人格というのは、そこにはプロフィールや振る舞いや言葉使いや、その人から受ける印象や雰囲気、その人の性格や人柄などが含まれていると思います。 ある人がどんな感じの人なのかという印象は、その印象を受ける側によってまちまちになりますから、その人に対し、その人を見たり知ったり関わったりする他者の数だけ、少しずつでも異なりながら、その人の人格が複数あることになります。 人は人をイメージする際、他者も本人も錯覚するので、それらの人格イメージは実際のその人の人格・人物像とかけ離れることもあります。 ネットでもオフラインと同じようなことがおきます。 ネットの向こうにも他者が何人もいますから、現実のわたしなる人格とは別に、他者たちから見たわたしが存在しているというか、各々の胸うちに映じています。 (質問文) わたしには 考えられません まったく知りませんでした。 電話しているときと 手紙を書いているときと 面と向かって話しているときとは それぞれ互いに人格が違うということになるのではありませんか? いったいどうなっているのでしょう? というような困惑は仕方ないことです。 わたしには知ることができない・分からないという不可解さは、四つの窓のうち『他人だけ知っている私』に関してならあてはまることです。 他人からのみ分かる自分については、相手から知らされないかぎり、こちらはまるで知らないままです。 もしもbrさんのオフラインでの知りあいの方が、ネットでのbrさんの記述などを見て、そこから実際のbrさんとは異なった印象を受ければ、brさんに「まるでネット人格のようだ」と指摘することもあったかと思いますが、そういうことがなく誰もbrさんのことをネット以外で知らないなら、またオフラインでの知人がbrさんのネット活動を知らないなら、あるいは知っていてもその差を指摘しないなら、または振る舞いにとくに差がないなら、誰もbrさんのオンライン/オフラインでの雰囲気の差が分からないので、brさんにネット人格を指摘することができませんから、brさんは『他者だけが知っている自分』をネット上で他者から指摘されることがなく、意図的な記述をつづけながら、自分についてはひたすら『自分が知っている自分』や『相手も自分も知っている自分』や中庭あたりで『自他が知らない私』と向き合うのだと思います。 電話や手紙や直接対話も、言語表現なのでそれらの際は充分に自分について了解しているものですが、その相手によってこちらの人物像・人格内容は相手ごとに少しずつ異なりながら相手それぞれの胸中に生じます。それらをこちらが全て感知することは難しいものです。 インターネットにおいて、変身願望や個人情報保護のかんてんから何かしら演技をしている場合、本人は自分でどういう人物を演じているかをだいぶ分かっていますが、他者たちからすると、ひとまずはその嘘のキャラクターしか分かりません。“わたし”からは全ての“わたしの企て”が見えているけれど、相手・他者たちからは一部しか見えていない、その一部が 他者にとってのわたしに関するネット人格 です。 とくになんら演じていなくても、ネットごしに人から見た人格(プロフィールや言葉使いなど)が一部知られるのみで、オフラインでの本人がどういう人かばれていない・知られていないなら、ネットで他者から把握されたり錯覚されたりする人格内容と、実際の当人が持っている膨大な人格内容の間には大きな隔たりが生まれます。 ネットで簡素なアホみたいな人が実際にも簡素なアホならあまり隔たりがありません。 しかし簡素なアホをまなざす他者の数だけ、さまざまなニュアンスを持つアホがいくつも――その他者たちの数だけ――それら他者たちの胸それぞれに映じます。それらがネット人格です。 brさんが ネット人格はない といってもネット上の他者たちからはbrさんのネット人格をしか把握できません。こちらからもどちらからもインターネット上では誰でも、brさんのネット人格をしか知ることができません。 オフラインでも、他者が本人の全人格内容を把握することはできず、また本人にも自身の全人物像・全人格内容を把握することはできないと思います。 どうしても四つ目の未知の窓が残ります、伸びしろらしいですが、誰からも知られない部分が映る窓で、その窓の隅っこあたりが開いてタオとか神とかが侵入するのかも知れませんが ネットを使って示されるわたしを、他者の側からよみとった人格がネット人格だと思います。 その人格は他者の胸中にあるので、“わたし”の知る“わたし”からは、はみ出ていたり、意外なくらい分離した内容を持っていたりすると思います。 いいや全く分離しきってはおらず 四つ目の窓を通じてこそ つながりうる と思われるかも知れませんが、そうもいかないところもあると思います。
お礼
同じことではないでしょうか? ぼさぼささん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 自分について自分が把握するのと ほかの人が把握するのと それらの人格は それぞれに異同がありましょうが 知られている部分によって人は判断するのがふつうですから けっきょく同じことなのではないでしょうか? つまり異同の同の部分で判断するのであり その同の部分すら 人によって違います。けれども別に最大公約数を出してそれによって初めて判断するということでもないでしょう。それに 異の部分によっても ときには・また人によっては 判断するという場合がありましょうし。 いったいどこが どう違って 話が これまでの議論および中間の結論から変わって来ましょうか? 個別にご見解を見てまいりましょう。 ★ brさんが ネット人格はない といってもネット上の他者たちからはbrさんのネット人格をしか把握できません。こちらからもどちらからもインターネット上では誰でも、brさんのネット人格をしか知ることができません。 ☆ 違います。いいですか? 文章〔といま少しのプロフィール。そして人生のエピソードは 文章に含まれるかたちです〕から brクンの人となりや人格を判断するのです。それだけです。 その判断が合っているかどうか 間違っていようがいまいが それは ネット上のやり取りに限ったことではない。ゆえです。 ネット上の文章による判断は オフラインの交わりをつうじての判断と その判断の合い方および違い方が 異なっている。かも知れません。けれども 合う場合があり 間違う場合があるという事態は まったく同じです。 《ネット上の文章から判断したbrクンの人格》と《ネット以外の交わりから判断したbrクンの人格》 こういう分け方は出来るでしょうが だからと言って 《ネット人格》が brクン本人の人格とは別個にあるとは考えられません。 そうでしょう? ほかの人の持つ判断も オンライン・オフラインを含めての自分についての自分の判断も 既知・未知 公開・秘密 ナゾの部分などのすべての部分を含めて それは brクンの人格をめぐるものです。 このbrクンの人格とは別に 何かどこかにbrクンの人格があるはずがないではないですか。未知や秘密やナゾをも含めて全体として《誰だれの人格》というとき そのほかにその誰だれの人格が あるはずがないではないですか。オフラインとオンラインとを全部含めて またそれぞれにジョハリの四つの窓を全部含めて 《brクンの人格》と規定するなら それ以外にbrクンの人格はあり得ません。(そのときよりあとに あらたに加わる場合くらいでしょう あるとすれば)。 この《全体としてのbrクンの人格》の中に 《ネット上の文章をつうじて判断したネットという範囲でくくったbrクンの人格》も入ります。言ってみれば これまで使って来たように《部分人格》のことでしょう。 これを 《ネット人格》と言うとすると まぎらわしいでしょうし 基本的には 勝手に部分を全体へと拡大してしまうのですから 間違いです。 ★ ~~~~ 他人からのみ分かる自分については、相手から知らされないかぎり、こちらはまるで知らないままです。 もしもbrさんのオフラインでの知りあいの方が、ネットでのbrさんの記述などを見て、そこから実際のbrさんとは異なった印象を受ければ、brさんに「まるでネット人格のようだ」と指摘することもあったかと思いますが・・・ ~~~~~ ☆ わたしの文体は どこでも変わりませんが それはただ主観を述べるにとどまりましょうから そう言っておくのみですが こういうふうに《あれっ きみは そんなふうな一面があったっけ》だとかという未知の部分の感知は 《ネット上の文章をつうじて》だけの問題ではありません。まして そこに《ネット人格》という規定をし当てはめることは まだ何の根拠もありません。 万が一 あたかもネット上の文章だけが ほかの文体(発言や文章)とはかけ離れていたとした場合 それでもそこに《ネット人格》が現われているとは どこからも言えません。それは 《全体の人格》の内に未知や秘密の部分があったというだけのことです。せいぜいが《部分人格》を新発見というくらいのことです。 そうは言わないのです。《全体の人格》にかんして まだ知られていなかった(または 秘密にしていた)ところがあった。という見方になるのであって 《ネット人格》の存在の証明にはなりません。 いいですか? 《ネット上の文章によって判断する人格》の存在は証明されますよ。それは 《全体としての人格》の部分を成すものです。 もしそれでも《ネット人格》という特殊な部分人格があったとしましょう。そうすると どうなるか? そうすると この《部分的なネット人格》と《ネット以外の場合の人格》とがまるっきり重なるところがないという事態を意味するはずです。 そうして二つを合わせて 全体としての人格になるのだということになります。いまこの仮定の話をする意味は けっきょくそんなふうに部分と部分とがきっぱりと分割されているということがあるだろうか? という疑問を提出するということです。つまり ふたつの部分が少々重なっていたなら それは特殊な《ネット人格》という規定は 成り立ちません。 ぎゃくに言うと 成り立つと言う場合は 《ネット人格》の中から 《ネット以外の人格》と重なる部分を取り除いたあとの残りの部分を言う場合です。ですが こうなると その残りの部分というのは けっきょく《全体としての人格》の一面であり それはおそらく性格やクセといったものであると考えられます。 よい例は ジキル博士とハイド氏ではないでしょうか。しかもそれでも ハイド氏が狭義の正真正銘の《ネット人格》に当たるとしても これはもはやネットの世界の問題ではないことになりましょう。ネットの世界に限って ハイド氏が現われるというふうには考えられません。もしさらにそうだとしましても そのハイド氏なるネット人格は じつは そうではなく ジキル博士の《全体としての人格》なのです。たまたまネットの世界に ハイド氏なる性格が現われただけとなります。ジキル人格の中から ハイド性格を ネットというメディアが引き出し自分の場へとみちびいたという問題ではないでしょう。もしそうだとしても 問題は ジキル人格のほうです。 そうして 多重人格の問題は ネット世界に直接の原因があるとは見られないでしょうし そういうことを《ネット人格》論はあつかってはいないでしょう。 ★ ネットを使って示されるわたしを、他者の側からよみとった人格がネット人格だと思います。 ☆ 違います。それは 《ネット上の文章によって他者が判断した人格》です。自分が判断した場合のそれもありましょう。そしてそれらは 《全体としての人格》の一部分であるのがふつうでしょう。これだけのことです。 この部分的なものを どうしても独立させたいという方向がすでに先に来ているように思われます。
委細承知致しました。 ・・そう言う事でいらしたという事情でしたのですね。 お陰様で、事態がキチンと呑み込めました。 私の側も、少しばかり言葉が過ぎてしまいましたが、しかしこれも、本議論への私の <情熱の熱> なのだと言う事で、 どうぞ平にご容赦下さい・・(笑)。 ではこれで、多少の <誤解> も溶けた訳ですし、いよいよ議論は最終局面と言う事になるわけですね。 ・・それでは、 <bragelonne>さん御指摘の最後の論点、つまりは 「ネット上に存在する自己を、 <自分の性格の部分表出>あるいは <自分の中の部分人格> の範囲には留めずに、敢えて <現実の自己と並行に存在する、もう一つの人格だ> ・・と言い切ってしまっても良いものなのかどうか」についての議論へと入らせて頂きます・・。 それでは例によって、まずは単刀直入に結論から行かせて頂きますが、 その私からの結論と致しましては・・ 「ネット上の自己は、それを操る管理者としての現実の自己が、ネット上の自己に対して、 現実の自己に対するのと同じ位の情熱や愛着を以て接し、そしてそれを操っていると言う場合に限り、 <現実の自己と並行に存在しているもう一人の自己だ>と考えて良い」 ・・であろう、と言う結論になります。 私もここまで、散々 <ネット上の独立した人格は存在する> のだと主張させて頂いては参りましたが、実際問題としましては、他の回答者さんが様々に仰ってもいらっしゃいました様に、ネット人口の大部分に置きましては確かに <部分的な性格の表出> <ささやかな変身願望を満たしたいだけ> <部分的な人格の表現> ・・の範囲に留まられて居られる方が、ほとんどだとは思います。 しかしながら、私の方からも先にも述べさせて頂きました通り、今の時代と言うものは <人と人とが社会に置いてコミュニケーションを取っていくという事のかなりの部分が、インターネットによる匿名性交流によって補完されている時代> ・・である訳です。 であるならばやはり、私達現代人の人格を形成する一要素としての <ネット人格の重要性> の問題には、注目をしない訳には行きません。 それこそ、ネットでならば言えても現実では<全然駄目>だなどと言うのは <ただの嘘> ・・になってしまいかねませんからね(笑)。 ですから私個人としましては、先にも述べさせて頂きました通り、 「現実の自己の人生とネット上の自己の人生とを両方全うできて初めて、全うな現代人になれる」 はずだと言う考えの元、 「現実の自己に対するのと同じ位の情熱や愛着を以て、ネット上の自己にも接し、操って行きたい」 ものだと思っていると言う事になりますね。 これはもちろん、私自身の <何事にもこだわりの強い性格> が多分に含まれて(しまって)いるが故の結論だと言う側面も有るのだとは思いますが(笑)。 生まれつきの性分は争えませんので・・。 御理解下さいませ(笑)。 ・・それにしても、話は少し変わるのですが、 <bragelonne>さんはここまでの議論の中で、ネット上の自己表現は <遊びにすぎない> と言う事を何度も仰っておられましたが、 今まさに私、いえ <zephyrs> と言う者と議論を交わしておられるところの <bragelonne>さんご自身につきましては、やはり <遊びでしかない> と言う御見解なのでしょうか・・? と言いますのも、いずれかの回答者さんも仰っていました様に <ネット上の方がむしろ本音が出る> と言うのは、ある意味真実だと、私もそう思うのです。 であるならば尚の事、ネット上には <現実の自己とは独立したもう一人の自分がいる> のだと言う結論に近づいて行きそうな気もしますが・・・?。 ・・蛇足でしたかね(笑)。 それでは、まだ他に合点が行かれない論点がおありの様でしたら、また追加質問の方、お受けさせて頂きます・・。 これにて。
お礼
ぜふぃるすさん ご回答をありがとうございます。きちんとごあいさつをもいただいていますので と同時に ここまでおおしえいただき まことにありがとうございました。 さて ふたつ 申し述べます。 そして ふたつは つながっています。 まづ ○ あそび ですが これは 余裕という意味です。車のハンドルのあそびです。あるいは もっと言えば 人生そのものが あそびです。生まれて来て なおうん十年生きるとすれば そのおまけの何十年というものが 余裕でありあそびです。 あるいは あそびは 《ま(間)》です。間に合う。間違い。間抜け。のマです。関係性です。その交わりであり 交わり方です。つまりは 生きることそのものです。生活態度として 間があり あそびがあると。 二つ目のことがらですが: ★ ~~~~ 私からの結論と致しましては・・ 「ネット上の自己は、それを操る管理者としての現実の自己が、ネット上の自己に対して、 現実の自己に対するのと同じ位の情熱や愛着を以て接し、そしてそれを操っていると言う場合に限り、 <現実の自己と並行に存在しているもう一人の自己だ>と考えて良い」 ・・であろう、と言う結論になります。 ~~~~~~ ☆ 《あそび》にそれだけの度量がお有りになるのだと思います。という見方になります。 ただし わたしの場合は このわたし一人ですすむ行き方です。性に合っているというのが 理由でしょうか。 本音ですすみますし 本音が その場の情況からして言えない・言わない方がよいというときには 黙っていますが それを建て前でお茶を濁したりあるいは本音を曲げたりすることは まづありません。 (待った無しの情況という場合があるかと思います。その情況を相手に合わせて 過ごしたあと やっと本音を言えるようになるという場合です)。 こういったところでしょうか。 うまく着地できたようですね。と自負してもよいのではないでしょうか お互いにです。
お礼
あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (1)個人人格の認識 ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~ 人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で, 「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。 この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~ ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等 ☆ 生活態度は 思想である。 ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。 ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か? おそらく内包だと思われる。 ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か? 外延として扱いたくなるところのやはり内包。 ~~~~~~~~~~~~ (2)個人人格の形成 この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。 2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。 3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。 5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として: ★ ~~~ 自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。 個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 ~~~~~ (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面: ★ ~~~ たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 ~~~~~~ ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。 イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが? マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。 (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。 このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。
補足
お礼欄から続きます。 (3)個人の創作的人格 (4)人格対象への個人人格の自己投影 これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。 特に《演技》論などについては 試みの議論です。 (3-1) 《創作性》について ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~ 3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 ~~~~~~~~ ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 ☆ と。 おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。 もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。 あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。 (3-2) 創作性にちなんで《演技》について ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。 ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。 そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。 (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。 ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。 ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。 ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。 ☆ さらには ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~ すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。 かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。 ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。 ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時 ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。 役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 ☆ 《ひとつの人格》をめぐって: ・その内包としての表現力:役者力 ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの 両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。 この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。 (4-2) 《自己投影》 ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。 ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。 人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。 ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。 いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。 さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。