• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?)

【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!

このQ&Aのポイント
  • ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
  • ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
  • ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.67

こんばんは。No.14,16 あともなどすです。ぶらじゅろんぬさんと同じく「人格はひとつ」の立場から「ネット人格」といわれる事情を,性格と人格の用語の混同としてまず回答し,人格の一性の法的要請を補足したものですが,不文律も重視しており倫理的要請等にも同意しています。そして私自身も人格と性格がよく分かっていないと述べました。その後,人格について考察を深めましたのてこれを述べたいと思います。 (1)個人人格の認識  ものを見る働きには「違う」と「同じ」があります。「違う」とみれば「同じ」と見えない。「同じ」とみれば「違う」と見えない。「違う」と見れば「多」になり「同じ」と見れば「一」になります。 思いつきでは「多」と「一」どちらかにしか見えないけれど,思いつきから自由になれば「どちらで見ようか」と問うことができ「多としてばかり見ていたから一として見よう」と答えることができます。また逆に「一としてばかり見ていたから多として見よう」とすることもあります。  どちらにでも認識可能だという答え(相対主義)があるので,どちらに認識可能かという問題意識は私にはありません。当為の問題として「どちらで認識すべきか」が私には意識されます。人格のごとき抽象的概念は「一」か「多」を恣意的に決めたものだという考え方をします。人格というのは「一」として要請,構想されたものという考えです。  ところでガリレオでしたか,科学の方法には分析と総合があるといっています。「一」から「多」に認識を変えるのが分析,その逆が総合にあてはまります。「一」なる人格を分析によって「多」と認識されるものは,部分人格といい,性格性の消失直前の深さまで分析されたものは性格(単位)といえるでしょう。この性格単位には多種の外延があります。  さらに深くなるとよく分からなくなります。身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等外面的な手掛かりを失うために内面的観点から分析することになると思います。ここではそれを保留しておいて,人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 (2)個人人格の形成  社会と個人の関係を双方向から眺めてみます。まず社会の側から個人の人格を眺めれば,一つずつ性格的特徴が現れ,眺めた個々個人の内側ではそれが性格群として統合されていきます。眺めた者同士,その人格に関する主観を交えれば客観的なものに変わっていくでしょう。社会の主観客観入り混じってはいると思いますが,それをもって眺めた側が対象人格である個人に接するので,個人は社会から自己の人格を規定されていくといえます。  たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。  さて,気をとりなおしてもう一方ですが,自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。個人はある性格を,統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。  このように,人格は状況により変じ,時とともに拡大成長して,あるいは場合によっては縮退して,形成されていくのだと見ることができます。いいかえれば社会環境と個人の相互作用によって個人の人格が形成されることは上の様な理解に基づいています。(逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) (3)個人の創作的人格  「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。  創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。「リアル人格」などという言葉がでてきましたから現実性で比べてみますと,後者がより現実性を持つといえます。  ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それて現実的人格を見てしまうということです。  演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 (4)人格対象への個人人格の自己投影  創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。  現実人格も形成的であり創作的であると言いましたが,現在の人格が拡大成長する場合,新たな性格が統合化されるはずです。その性格が社会からの働きで形作られたものであるにせよ,社会への適正化を図るため自ら創作したものであるにせよ,そこに現実的人格を覆いかぶせなければ社会側,個人側どちらから眺めるにかかわらず,現実的人格とはならないのです。  創作人格は,いわば現実性をもたない空虚な性格群に,現実人格を投影し,現実性を持たせることによって現実的となるのです。現実人格の現実性に依存する限り,創作人格はよく言ったところで現実的人格どまりであって,現実人格では有り得ないのです。   以上の考察から,「ネット人格」が人格といわれる事情は,以下にまとめたことの理解もなく表現されたということだと思うのです。 ○「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ○「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ○人格の単一性は,当為認識性によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを基盤とするような特殊な単一性であるといえる。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1)個人人格の認識  ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~  人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,  「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。  この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。  ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~   ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等      ☆ 生活態度は 思想である。   ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。      ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か?        おそらく内包だと思われる。      ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か?        外延として扱いたくなるところのやはり内包。  ~~~~~~~~~~~~  (2)個人人格の形成  この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~   1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。   2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。   3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。   4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。   5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として:  ★ ~~~  自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。  個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。  ~~~~~  (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面:  ★ ~~~  たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。  ~~~~~~  ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。  イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが?  マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。  (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。)  ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。    このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄から続きます。  (3)個人の創作的人格  (4)人格対象への個人人格の自己投影  これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。  特に《演技》論などについては 試みの議論です。    (3-1) 《創作性》について  ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~  3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。  ~~~~~~~~  ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち  ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。  ☆ と。  おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。  もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。  あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。  (3-2) 創作性にちなんで《演技》について  ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。  ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。  そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。  (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。  ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。  ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。  ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。    ☆ さらには  ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。  ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり  ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~  すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。  かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。  ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。  ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時  ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。  役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。  (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について  ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。  ☆ 《ひとつの人格》をめぐって:  ・その内包としての表現力:役者力  ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの  両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。  この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。  (4-2) 《自己投影》  ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。  ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。  ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。  ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。  人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。  ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。  いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。  さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。

その他の回答 (72)

回答No.54

No.10 http://okwave.jp/qa/q7116156.html?pg=2 ↑ うん、ここの回答どうみても欠席裁判じゃろ? 言葉の摺合せしてない。だし、オイラの名をあげてるけどあげる前にオイラがどう思ってるのか抜きに話をすすめてる。これ、欠席裁判じゃろ?NO10のQ&Aの中にオイラはいない。知らない人が見たら…「まだお若いのに…」ってオイラん家にお悔やみの電報届くかもしんないじゃん。で、電報送ってきた人とその日のうちに道でバッタリあった日には、腰抜かされちゃうよ。それにしたって生きてるのに死んだみたいによくみもしないで黒い札つけられるのはいただけませんことよ。ブロックされてないから、同質問のNo.15で意思表示できたからまだしもだけど。 人類のヨーロッパ到達年が20万年さかのぼる可能性、新たな遺跡発見で http://kaigo-nikki.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-78da.html

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.53

#47です。 > ☆ おそらくこれだけの資料にしぼって判断を成してもだいじょうぶな問題であるはずです。 : 件のURLの内容に関してちょっとお聞きしてもよろしいですか? 「⇒意味がわからない」とおっしゃっているのですから、わかるように説明するのが筋じゃないでしょうか。 少なくとも言い換えようと努めるべきでしょう。 対話を標榜するブラジュさんであればなおさらに。 なのに、全く同じ内容をコピペして御礼に代えていますよね。 「⇒ 説明もないことなので、対話する気がないと受け取りました。」 というのは自然な反応でしょう。 不利になるとわざと話を逸らすかすり替えているとしか思われません。 「⇒ここで私は打ち切らせていただきます。」 と彼女は回答していますが、打ち切らせたのはむしろブラジュさんのほうではありませんか? その認識はおありなんでしょうか。 こういった対応で終始しているようでは、答責性などと気取っても空々しく響くだけです。 喧嘩の定義自体を云々する局面ではありませんから、これはやめておきましょう。 ブロックまでして嫌だと言っているのだからストーカーまがいの投稿は自粛すべき。 繰り返しになりますがこのように申し上げておきます。 どちらの肩を持つとかいう感覚は全くありません。 ただ、今のブラジュさんの行為は見苦しいです。 これは感覚ですから、そんなことはない、あるいは、見苦しくて何が悪い、と言われればそれまでですけどね。 >それに対して 《外延》を曲解したとわたしが主張した事例です。 : 「人格の外延」にしても、それぞれの局面で色々な人格が立ち現われるという当然のことを七面倒くさく表現しているだけのように見えます。 難しそうな言葉を敢えて使っていますが、「だから俺は何でもありなんだよ」とごねているだけじゃないですか。 #36に、 「⇒「家に入れないぞ」とがんばると、「入れろ、入れろ」と大騒ぎなさる。私としては、そういう方は迷惑ですので、今後、私に関わろうとしないでください、と改めて強く抗議申し上げます。」 という彼女の言葉がありますが、これに対してはどう思われますか? 謝罪か路線修正からしか(もしそれを望むのであれば)次の対話は展開しようがないと思いませんか。 何を言われてもへっちゃらな方もおられるでしょうが、それはブラジュさんとの信頼関係が成立していればこそでしょう。 ある意味ではブラジュさんを理解なさっている方でしょうが、全ての人がそうであるとは限らないので、そのへんを混同なさると無用の軋轢が生じることになります。 ここで#49さんへの横レスを挿入させていただきます。 #49さん、おっしゃることは概ね同感です。 ただ、あの御仁の本質はといえば、やはり寂しいのだと思います。 わたしのような凡人はいくらか群がってきますが、#49さんのような頭の良い方との会話には飢えているのでしょう。 万が一にですが、改心する兆しが見えるようでしたら、あるいは、もう少し口の利き方を覚えたようだと思われたら、そのときにはまた相手してやってください。 #49さんとしても割合辛らつな表現も交えて応じていらしゃるようですが、そのこと自体が(おそらく)繊細な神経を逆撫でして無用の辛さを自己醸成してしまいます。 何もしないのが最大の対策、という場合もよくあることのようで。    

bragelonne
質問者

お礼

 はこぶるさん あんたも 人がよい。  ことばどおりに受け取っている。  だから 文脈が問題だと言っているのです。そうとう長い文脈を知っていないと分からないと思う。    だから 概念の理解としてだけでよい例をえらんだのです。  としたら まるで理解していないとくらあ。何をかいわんや。  

回答No.52

会社のパソコンを使ったとおもう? アクセスはパソコンからしか繋がらないとでも? 電波は回り込んで届く 電波が基地局から直接届かない場所でも携帯電話を使えることがあります。 http://www.nttdocomo.co.jp/support/area/radio/connect/feature/index.html

noname#151127
noname#151127
回答No.51

リトルキスちゃん、おひさしぶり。今、勤務中でしょ。ありがとうね。でも、ちょっと心配。会社のパソコンを使ったら、怒られちゃうでしょう。それに、仁科さんと同じく、釣りの道具の餌にされかねない・・・。前回でさえ、ひどいこといわれてたでしょう? 私としては、被害を最小限にしたいんだけれどな。飛び合いを競うのは、また今度にしない?

回答No.50

お賽ちゃん 「バイタ」って文字に囚われ意識が「売女」へ直結してることない? だったら、視野狭くなくない?俯瞰したって言うわりに 私なりに俯瞰…って? ほんとに?飛んでみたの?まだまだだね。 ほじゃ、ちょっと飛んでみるよ。 第74回 ヘレニズム哲学 新プラトン主義のまとめ http://homepage2.nifty.com/SON/tetugaku/TETU74.htm http://homepage2.nifty.com/SON/hp1_8_2_bk.htm バイタルサインでここまでわかる!―OKとNG― http://kai-shorin.co.jp/product/gm03.html バイタルサインの読み方 http://square.umin.ac.jp/koba-Riv/igaku/lecture/vital_sign_introduction.pdf ACにしたって、欠席裁判ってんだから、まずはACみて何か抜けてないか? Bだろって? ちがうよ、コードだよ。するとこのACってのは、 心理学用語のACではなしにACアダプタのACだろう。 【ACアダプター】 http://www.nttpc.co.jp/yougo/AC%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%BC.html ACは、Alternating Current の略で「交流」という意味。 コンセントから供給される電流は交流になっている。 一方、パソコンや周辺機器は直流(DC=Direct Current)で動く。 そのため、ACアダプターは交流を直流に変換する働きをしている。 なお、パソコンや機器によって対応するワット数や電圧が違う。 そのため、その機器にあったACアダプターを使わないと機器が壊れることがある。 電気系統あたってみた? ……伝記系統 ココ何のカテ? 哲カテだったよね。

noname#151127
noname#151127
回答No.49

ハコブルさん、仁科さん、ご迷惑をおかけします。 この機会にブラジュロンヌさんという方の正体がだんだん見えてきましたが、私は、彼といかなる意味でも応答する気がなくなりました。「バイタ」と言いだしていた時点で、これは、おかしい人だな、とは思ったのです。 仁科さんに対する「被ばくヤロウ」という表現で、これはダメだ、とよくわかりました。いかなる意味でも冗談にならないからです。被災地で避難したということでした。避難したといっても、被爆したかどうかは知りません。しかし場合によっては、彼は一生、自分は原爆症になるかもしれないと悩む生き方をしなければならないかもしれません。また周囲からも「被爆者」というくくりで見られるかもしれません。売り言葉に買い言葉でも、これは度が過ぎています。いくら仁科さんという人が、「策士」であって、少々のことでは堪えないとタカをくくっていたとしてもです。 ブラジュロンヌさんのような方とは、これ以上、話をする価値が見いだせない、というのが私の気持ちです。話せば話すほど、ハコブルや仁科さんなど、第三者を巻き込んでしまいます。私としては、他にいくらも有益な時間の過ごし方があるのです。冗談でも他人に向かって「売女」「被ばくヤロウ」などと口にする方と、会話する気はありません。 もっともハコブルさんからすると、何が何だか分からないかもしれません。私なりに俯瞰して論理的なところだけを抜き出すと、ブラジュロンヌさんは、次のことを言っているのかもしれない、と推測できました。ブロック制はよろしくない。なぜなら、欠席裁判が行われてしまうからである。実際、自分はその被害にあってきた、と。彼のブロック制の問いを見ると、そういうことは書いていません。哲学カテだから何たらだと書いてあります。しかしずっと一貫して欠席裁判だといっていることを考慮すれば、結局、そういうことを思っているのかな、と推測できるのです。欠席裁判とは、次のようなことです。 ・ 私が彼のことを話題にし、挑発しているのに、ブロックしてしまう。 ・ 彼は抗議したいができず、憤りを持っていく場がない。 ・ 彼が外から当て付けの問いを立て、私を攻撃することになる。 例を挙げてみましょう。彼が欠席裁判であるといっているのは、この問いです。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7166906.html そして、彼の反応は次の通りです。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7194261.html しかし、欠席裁判なのでしょうか。彼が抗議で立てたスレッドのBAの方が言うように、彼の被害妄想も大きいと思います。私としては、 神経過敏な方に対して配慮を忘れていた、という反省があります。しかしそれを気にして自由を制限されたくもない、という気持ちもありました。 結局、ブラジュロンヌさんにしてみると、ブロックをやめろということですから、心行くまでけんかを行いたいのだと思います。また彼の人間観では、私が心底ブラジュロンヌさんを嫌っている訳ではない、憎悪も愛のうちだ、とお考えのようです。ですから、私に嫌がらせをすればすることは、正しい行為だとでも考えているのでしょう。 しかし、私は、全くそういう発想はありません。私はブラジュロンヌさんに、いろいろと非難もされ、あたかも成熟した愛についての考え方を持っていないというように言われたこともありました。しかし、それは彼の勝手というもので、私は取り合う気がしません。結局、愛についての考え方が全く異なるのですね。 私の意見は明確に決まっています。彼とはかかわり合いになりたくないのです。誹謗中傷という形でもやめてもらいたいのです。 ブロックを利用している理由は、私から見ると、次の通りです。 ・ トラブルが起きてしまい、対応できないと感じた。 罵詈雑言を投げあうばかりで、マトモな話し合いは続けられないと考えた。 ・ 事務局に相談する。ブロックを使う。 ・ ブラジュロンヌさんの気持ちは収まらない。彼が外部から攻撃するスレッドを立て続けに立てて、応戦を始める。 ・ 一々、通報しているような労はとれないと私が困り、当人に抗議する。 ・ 時に和解する。しかしまたトラブルが発生し、同じことが始まる。ブラジュロンヌさんは二年前のことまで持ち出す。 ・ ついに嫌になると私が退会する。 すでに構造的な問題になっています。ブラジュロンヌさんは、おそらく全く別の認識があるはずです。私と同じく煩わしいとか、嫌だという考えがあったら、どこかできちんと一戦を引いてやめようという気になるはずだからです。私からその提案は何度もしていますが、取り合わず、非を認めろという一点張りであるようです。 この理屈がどうも私には分からないのです。バスの中で「バイタ的電波を送ってくる」と表現が参考になりそうです。彼はバスの車両のなかで露出の高い女性に欲情し、痴漢したいという気持ちを感じて抑えられなくなったことがあるのでしょう。しかし自分の責任だとは考えない。露出の高い女が悪いのだ、むしろ俺に謝罪してしかるべきだ、と考えるのでしょう。同じことで、私がバイタ的にも魅惑的な質問を立て彼を誘っているということなのでしょう。ところが、愛人になることはなく、はねつけている。彼はお前は愛というものを分かっていない、とか、正直になれ、などと言い出すわけです。これはいつもの手なのです。たとえば、以下の一節です。 >「ひょっとして わたしに向かって すくってくれたまえと言っているの?」(No14補足欄)「だとすると ☆☆(No.14補足欄)  ひょっとして わたしに向かって すくってくれたまえと言っているの?☆ と言っていることになるのだが。ともあれ 答えられないというのであれば 何をか言わんやとなります。」(No15お礼欄) http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7353850.html 救ってくれも何もないものです。これだけ私に迷惑をかけているのですから。しかし、こうした挑発は彼にとっては遊戯の行為なのですね。というのも次のように言うのですから。「じょうずに侮辱してくれたまえということか。つまりは ご自分の筋書にのっとって 侮辱してください。さもなければ またあらたな手口を考えます。ってなところだろ」。 侮辱してください、とは奇妙なことです。ハコブルさんや仁科さんのおっしゃるように、彼にとっては疑似恋愛なのかもしれません。ブラジュロンヌさんは、こうやって侮辱のさじ加減をすることで、じゃじゃ馬慣らしをする色男にでもなったつもりなのかもしれません。 私から見れば、ブラジュロンヌさんは、妄想と現実の区別がつかなくなっているように見えるのです。だがブラジュロンヌさんから見れば、私が自分を偽り、本当の自分の欲求を押さえつけている、ということになるようです。「その人の場合は ほんとうには心の奥底でみづからが そのような自己批判をしたがっているのです。さもなければすでに死んでいます」(上記のスレッド、No32お礼欄)。 ブラジュロンヌさんは、「心の奥底」に私が潜ませていると彼が思い込んだものに応えて、批判なのか、誹謗中傷なのか、何ともよく分からない迷惑行為を働いているということのようです。簡単に言えば、私の無意識を見極めたから、無意識に潜んでいることをして差し上げている、という主張であるようです。かくして彼には罪悪感は一切ないと思います。そしてこのような思考回路の持ち主に取っては、私が「やめて」といっていても、「やって」と言っているように聞こえるのでしょう。 さて、私はどうするべきでしょうか。あまりに過熱化すれば、私としてはアカウントを消したり、やめたりすることになるかもしれません。一度はそうなりました。これはこれで癪なことです。しかし、場合によっては、「ゴミ溜め」と揶揄されることも多い質問サイトから「追い出してくれた」ことを感謝するべき、という風にも言えるのかもしれません。とても有益なやり取りもある一方、無益なやり取りが多いことに意気消沈もしていたのですから。 ブラジュロンヌさんの様子を見ると、これはもう、埒が開かないと思います。和解は前にあったと思いますが、まだ同じようにトラブルを起こされても迷惑なので、私としてはすっぱりやめたいのです。しかし、ブラジュロンヌさんはそうしたことが理解できないのです。 後学のためということではありますが、もしよいお考えがあれば、ハコブルさん、ご助言くださったら幸いです。長くなってしまい、申し訳ありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ぼさぼささん。  あなたへの返答で大いなる賭けを打ってみた。それも あなたへのブジョクをことばに表わして。  案の定 効いた。やって来た。  それにしても ぼさぼささん あと味がわるいことですよね。でもたぶん それも回転してしまいましょう。それまで わたしをうらんでいてください。精神衛生のために。    はこぶるさん せっかくの機会だから あんじょうウルトラ C で決めてや。  事実誤認をただすことのみをおこないます。  ★ バイタ的電波 → ○ バイタ電波  ☆ 《的》があるかないかで 直接の実際のコトを表わさないか表わすかが決まります。  ★ 疑似恋愛  ☆ これは そう言うかどうかを別として その種の経験がわたしにもいくらかあります。つまり早い話が 男がわたしに近寄ってくるという事態です。  この場合は まづその電波は じつは バイタ電波とそれほど違わないのです。ただし わたしの対応の仕方は 臨機応変にして(つまり ぶっつけ本番のかたちで)いくぶん違っていました。  《発情するのは自由だが 発狂するのは自由ではない》と言ってやります。ところが 女の場合とは違って その一発で効きます。顔を背けるでもなく驚いた様子を見せるでもなく ううーんと(声には出しませんが)うなったようにして やがて分かったと言ったふうにして去って行きます。  まぁ 数少ない経験ですので これが一般性をどこまで持つかそれは分からないとは言っておきます。    こうやってその事態になってみると ぼさぼささん あなたにはわるいことをしたと思います。あなたには 何の関係もなかった。それが わたしには見えなかった。あぁ おおきなへまをやってしまった。  なあに ぼさぼささんから一発くらって もうおしまいさ。でもお年寄りを大切にしようという気持ちの持ち主のようですので その打撃は加減してくれましょう。  ブジョクはするわ 何の関係のないイザコザに巻き込むわで てんやわんや。なんでこのわたしの質問にやってくるの? 来たとしても 名を隠したままでいればいいものを。  あぁ そうだ。あなたが いい助言を発表する機会なのだ。と思えばすくわれる。哲学者としての正式のデビューになる。そう思って 負い目を少しでもわたしは下ろしたい。はっはっ。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄で まちがいがありました。  ●(まちがい):《発情するのは自由だが 発狂するのは自由ではない》と言ってやります。  ○(ただしい):《発情するのは自由で発狂するのさえ自由だが 人に迷惑をかけるのは自由ではない》と言ってやります。  つつしんでおわびして 言い直します。

noname#151121
noname#151121
回答No.48

 こんばんは。  『ネット人格=ネットで見られる人格』てのは、ネット人格という言葉がbrさんから刈られそうなので、ネット人格という言葉がふびんだったから、反発してネット人格という言葉の別の使い方を書いたのでした。 ・人格は誰のもの?  →br:おれのもの(あくまで主観的なもの)  →Eva最終話:みんなのものでもある(客観されてはじめて結ばれる像もある) ・現実の“わたし”なる人格とは別のネット人格はあるか  → 初音ミクとか  http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52496855.html 『初音ミクはネットワーク上に生命体として生きている。文化や文明といった広域的なミームではなく、人格を持った初めてのミームが、ミクさん。』    エーシーのこと ・矛盾のこと  br“ACが人と受容しあうことは難しい”と“アダルトチルドレンは受け入れすぎる”が矛盾している  → ほんとだ (受容よくわからない)  → でも辻褄あわせ:『アダルトチルドレンは自己受容(自分で自分を肯定する心の働き)が足りないから、他者から受容されることを求めつつも、自分なんかが受容されることを信じられないものの、それでもたまらなく受容されたいのに、受容されそうで受容されない状況には、悲しくて腹立たしくて耐えられない。だから相手をまずとにかく受け入れすぎる。すると受け入れる加減を測る部分が麻痺する。そして今度は相手(同じ相手か別の相手)に自分を受け入れさせすぎる。なので適度に相手を受容することや、自分を適度に受容させるということが難しい。人間関係音痴なんだな』ということ。   ・br「ACなんて大したことない、些事だ」  ぼさ:齢とるとそうなのか……。頑固じいさんだ。ACを足蹴にして。見くびっていた。つよいしおとなげない。信者だから精神が強化されているのか、強い人は苦手だ。弱さにしか共感はわかない。けんかであれ人とやりとりできるのはうらやましい。    若い頃に能天気でぼんやりしていたというのは、AC由来の無気力・鈍感状態いわば防衛のための膜だったのだろう。そしてそれに付随してというか覆うように信仰による強化が加わったと、幾つかの言葉で説明されているみたいなら、言葉ならそれは意図的な自己受容、自己効力感の説明で、もし天然の自己受容、天然・無自覚な自己効力感なら言葉にはなりにくいだろう。    怒られた。  惚けて寝たきりだったじいちゃんも怒るときだけはなぜか矍鑠としていた。晩年には口げんかをする相手が要るのだろう。そのけんか相手は敵ではなくある種の健康増進のための味方なのだろう。本人たちが言語機能のために楽しく口論していても、傍から見て辛そうに口論しているとはらはらしてしまう。ちょっと大丈夫ですか止したほうが良いのではないですかと、お節介を焼きそうになるくらい、本当に辛そうに口論しているようなので困る。もし当人達が公開の場で本当は楽しい口論をしているなら、健康のための楽しい口論をしている旨を当事者たちが示してくれたら、こちらははらはらせずに済むのに。 ・自己受容  自己批判が大事だと書いたことがあって、まんまとベストアンサーに選ばれたけれど、でも自己批判ばかりでも暗いし滅入るし、バランスをとるためにもというか、生きるために自己受容が要る。  brさんは意外と自己受容しているのか……ちぇ、もっと弱いかと思ったのに、むしろアダルトチルドレンの方が他人から労わられるぶん、自由に好き勝手に言えてお得かも知れないのに、そして誰からも相手にしてもらえなくなって静かなのに。  怒られた。  3年に及ぶ夜昼なきブラジュロンヌ研究(結論:AC)は失敗か。いいや図星だと思う。けちな見方をすれば、ACにあてはまらないはずはないだろう。  弱いから強がっているのだ。たしかにACだけれど回復したところが大きいのだろう。もう思春期ではないのだ。あの甘酸っぱい季節を遠くへ忘れてきて、開き直っているのだ。AC+αのαのところが大きいのだろう、そこで生き延びたのだろう。天然の自己受容よりもACを経由した自前の自己受容の方が強いのかも知れない。人為的な偽物の方が、天然物より意図的なぶん強いというのが偽物語(アニメ・小説)の言うところだった。 ・『ただの心理学』  されど心理学だ。ひとの心の動きやどんな思いでそうしているのかはよくよく気になるところだもの。僕にとっては。 ・『ぼさぼさ氏は敵視を散りばめている』  散りばめたのは誤字だけで、敵視はしていないと思います。brさんにとって敵視になるであろう表現は削りに削ったし、ACは病気じゃないとも書いたし、むしろそっと包み込むような労わりや気遣いの盛り合わせだったと思います。  あるいはこちらの弱さに似たものばかりをbrさんに見ようとしたから、弱い面へ一緒に沈溺しようと、ACサークルに引きずり込もうとしたのを敵視と思ったのかも。  brさんが本当にまんまACで実際こころが弱かったら、まるでサイコロさんらが弱いbrさんのことを苛めているみたいになるから、それはどちらにとっても誰が見ても老人虐待で憐れな光景だから、brさんはあえて強いふりをしてACを克服したように見せているのかも、自他をかばって。  でももう本当にACを克服して心がたんに強く鈍い食えないじいちゃんになってるなら、より若くてまだ繊細な感じのサイコロさんには優しくしないとならないだろう。  それともみんな強いのか。弱いのは僕ひとりか。  僕は学問の厳しさを知らないのでよく分かりませんが、brさんは人の学問に厳しいというか学問的に人には厳しいけど、人から学問的に厳しくされるのが苦手なようにミエマス。言葉って八十個もあったんですね。  ・女の心理……  ネットでえせな恋愛ごっこをして、生身の女を求める自分を受容できないのが、とうとうアダルトチルドレンらしいところなんじゃないですか。  ぼくは避難所で禁オナしていましたが、団地に引っ越したらオナニーのしすぎで童貞線が切れました。もう治りましたけど、需要のない情報です、仁科です。春の夜です。   ・あまさん  あまさんはおちつきのある婦人です。あまさんはあまさんの命を運んでいます。 ・その他の女  おっぱいさんですね  

bragelonne
質問者

お礼

 1.  決めつけがいちばんいけない。とまづ言っておかなくてはならない。  2.  前回こたえたものの中で ひとつだけ重要だと思うくだりをふたたび掲げます。  ☆☆ ~~~~  目的が 《仲良く話すこと》だと?  ちゃんちゃらおかしい。人はあくまでおのれの自由を問い求めてあゆむ。おのれのであるゆえにこそ ほかの人びとのことに気配りをする。相手が一秒自由になれば そのぶんこちらも自由になれる。という愛――つまりは 人間関係(ただし ヱ゛クトルである)――のことをほとんど誰も知らない。巨大なアース役装置であることも その一環である。アース役であることが目的ではない。  ~~~~~~  これに反応しないということは ぶらじゅろんぬ= AC 説を放棄したも同然。  3.  《人格》にかんしては わたしの定義に その《外延》が入っていないと見るのは お門違い。  虚構の中の人物について《人格》を見るのは 勝手だが また人格論の材料にするぶんにはよいとしても 哲学の議論にとって 意味がない。それと対話が出来ないからである。  4.  ★ 自己受容  ☆ これは 《世界との和解》のことだと思われる。《世の中を自分と同じようにとうとぶことが出来るかどうか》のこと。《わが心がやわらがしめられたなら われはわれに還り さしさわりがなくなる》。  《精神の緑野に憩うことができる。これを開拓していくことができる》。  《しがらみから自由で つねにリセットして行ける状態にある》。  《しがらみから自由》ということは そうでない人の状態を受け容れることができることを意味する。相手がけんか腰なら その状態をもまづは――その《存在》を愛して・またそういうけんか腰になるような考えを狭いと見て自己においても批判しつつ―― 受け容れる。  5.  ★ 3年に及ぶ夜昼なきブラジュロンヌ研究(結論:AC)は失敗か。いいや図星だと思う。けちな見方をすれば、ACにあてはまらないはずはないだろう。  ☆ 結論だけをポーンと投げ出すという《心理》も分からないではないが それは よくて愛嬌。  例示し ここまで分析し吟味し検証したという推論の過程をしめすことが なくてはならない。  いまのままでは ただの占い。わたしのもっとも忌み嫌うなりわい。  6.  ★ 言葉って八十個もあったんですね。  ☆ 言語は 定義の取り方によって 二千個とも四千個あるとも言われます。日本語と沖縄語とを分ける場合。あるいは 関西弁や東北弁や鹿児島弁や・・・をそれぞれひとつの言語として独立させ得ないとは言えない。  エスキモーは 今ではそれを話す人が絶えたかも知れないロシア領アジア・エスキモーとアラスカのそれとグリーンランドのそれとの三つの言語に分かれる。グリーンランドからカナダを通ってアラスカまで辿って行くと あたかも言葉が地続きであるようなかたちで ぜんぶ分かるようになるとか。つまり 少しづつ違っているから 途中の泊り先ごとに学んでいけるとか。でも あなたの地域の言葉をわたしは分からない。なら 言語として別と言える。  十二世紀ころ スラブ民族は ひとつの言語で聖書を書いた(翻訳した)。その後 ロシア語・ウクライナ語・ポーランド語・ブルガリア語等々と分かれた。チェコ語とスロワ゛キア語とは あるいは セルビア語とクロアチア語とは どちらの場合も 関西弁と東京弁とのあいだほどにも分かれていない。後者の違いは 先生を しぇんせいと また 世界を しぇかいと 発音する違いだけだとか。(文字も 違う文字を使っている)。  7.  ★ brさんは人の学問に厳しいというか学問的に人には厳しいけど、人から学問的に厳しくされるのが苦手なようにミエマス。  ☆ 例 示 せ よ。例 示 し て あ げ つ ら え。  直前のNo.47お礼欄に 文脈を離れて取り上げても一般的に判定できる事項すなわちこの場合 学問としての主題が ふたつ 挙げてあります。《苦手》だったら こういうことは取り上げない。つまり 逃げる。冗談も休み休み言いたまえ。  8.  あとは 落書きのようなもの。どうしても反応せよというものがあれば ふたたびうったえられよ。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  《わたしの思想の表明が 学術的にととのっていない》という意味のことをわたしが言ったのは こういうことです。  研究者ならその論文としては あくまで研究史にもとづくということが 必要条件になります。有名でない学者であっても 研究史を研究して発表した論文が評価を受けてその内容が研究者のあいだで迎え入れられていたなら そのような研究成果にいちいち触れて敬意を表しつつ 論文を書き進めなければならない。  歴史の過程において この時代にはここまで考えられ 次の時代にはさらにここまで研究が進んだといったようなことを踏まえて 自分の研究をも発表しなければならない。  わたしは いま現在この現代の情況においては まるきりあたらしいことを打ち出す必要があると考えて 上のようなきちんとした歴史のあゆみを踏まえずに いきなり自分の思想を推し出しています。  要するに だれはこう言った かれはそう言った さらに別の人はそれらについてこれこれと言った・・・というふうに研究史をしっかりと踏まえて議論をしなければ たいていは相手にしてもらえないというものです。  これを しちめんどうなので わたしはしていません。そういう意味にとってください。念のため。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.47

#46です。 >関連する事項だと思うから つきあってやっているのに そちらがこれらの問題は提起しているのだから その準備は自分でしなくてどうするの? : おっしゃりたいことはごもっともですが、大局的に考えないと意味がないんなじゃないですか? 欠席裁判を論拠にしたいなら示してくれれば何らかの反応はしてみましょう、と言っているだけですよ。 はっきり言って結果は目に見えているので、わたしにはどちらでもいいことです。 つきあってやっているのに、というご不満を出すとするなら、それはむしろ逆でしょう。 > なあんて。こんなんぢゃ あとは もういちいち読む気も話す気もしない。 : 皮肉のつもりはありませんが同感ですね。 それほど難しい理屈は言ってないんですが。 「少しは、男の度量で裾を捌いてくださいよ」とほざきましたが、この【感覚】がおわかりにならないのなら、何を言っても無駄だろうと思います。 満足いくまで正論(と思うこと)を主張し続けられると良いでしょう。   

bragelonne
質問者

お礼

 もしきちんと結着をつけたいのなら・というより判定者としての役割りをきちんと果たしたいのなら いい材料を提供しましょう。  それは 文脈にこだわらなくてもよいやり取りの場合です。つまりは 哲学としての主題に絞って議論がなされる場合です。昔のよりは 最近のものがよいでしょう。次の事例はどうでしょう?  ○ 【Q:なぜ けんかをしては いけないのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7353850.html  ▼▼(回答No.6) ~~~  おひさしぶり。ブロックの問題であるとか、名古屋の問題、あるいはコミュニケーションの問題など、何かと私の問いに注目なさっているようですね。私からすると、ブロック機能を使って私があなたとの対話に応じないことに、あなたが業を煮やしたのか?とも思えています。この問いが、その答えをお伝えするのにちょうどいいようですから、お応えしておきます。きちんと書いたので、きちんと読んでくださることを希望します。  まず、あなたがどのような「けんか」を問題としているのか 、確認しておきましょう。けんかとは何か。批判とありますね。しかしこれは、単なる批判ではありません。自己批判がベースと言っている以上は、自分のことのように相手を考え、批判を行うと言っているのです。ここで、批判する者は、相手の身に自らを置き換えている、というわけです。一種の愛がある訳です。あなたも「存在を愛し」と言っている以上、私の解釈はそう間違っていないと思うのです。  しかし、一般的にいう「けんか」とは、そういうものでは必ずしもありません。批判者は自分の利益を獲得するために争っている可能性があるからです。したがって、あなたが聞いている「けんか」とは、利益に関する闘争などの事例を除外し、一種の「愛の鞭」のような特殊例として、まずは限定して考えた方がいいように思います。どうでしょうか?  上述の確認を経た上で、私の意見を述べると、愛情に基づくけんかは、意味がないように感じます。理由を書いてみましょう。  まず他の方が既に触れているようですが、通常、「愛の鞭」は、忠告や助言というべきものです。ところがこれが「けんか」になってしまった。なぜか。相手が批判を受け入れられないからです。このときに、批判者がどのように振る舞うかが、重要な問題です。  私の意見ですが、仮に愛情があれば、相手のペースを見て、傷つけることをさけます。ところが、「けんか」を辞さないということは、相手のペースなど関係ないということです。したがって、ここで「けんか」をしてしまうのなら、本来の愛情を損なってしまうことになります。愛から始まった行為であるにもかかわらず、相手に承認してもらえず、自己満足の押し付けになってしまいます。せっかく愛情から始まった行為なのですから、愛情を貫きたいと私は感じます。そこで私は「けんかしては意味がない」と感じるのです。  もちろん、忠告や助言が受け入れられないとき、「私に関係ないからどうでもいい」と消極的に考えて、身を引く人もいます。それと愛の鞭を比べると、どちらの方が愛情を持っているかといわれれば、「けんか」する人に違いありません。しかし、結局のところ、愛情があるのなら、けんかしないものです。相手をいさめるという内容を伝えたにせよ、けんかにならないように工夫するものです。  繰り返しになりますが、このようにしてけんかをさける理由は、相手のことを愛しているからです。そして私は、「けんか」するということは、嘘の愛情しか相手に持っていなかったということを証立ててしまうことになると考えています。  以上述べたことをまとめると、あなたのおっしゃる「けんか」は特殊なようですから、けんかに関する一般的な議論というより、むしろ、愛情による暴力が許されるか?というお話だと考えます。私はあなたの主張を読む限り、「愛情とはいいものなのだから、愛情に基づく行為である限り、物理的な暴力を別とすれば、何をしても限りなく許される。何が悪いのか分からない?」と言っているように思えます。  しかし、そのような乱暴なものが、愛情である訳がない、と私には感じられるのです。そして「けんか」である限り、あなたの愛は相手によって承認されていないのであって、あなたは愛を知らないことになる、と思うのです。愛が本当にあり、それを証立てたいと感じるのなら、けんかしない方が首尾一貫した振る舞いであると思えます。  もうそういうご回答が寄せられているのでしたら、あしからず。あくまで私が自分の言葉で意見を表明する必要性があると感じられたので、投稿しておきました。  投稿日時 - 2012-03-10 19:55:20  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~~~  もしあなたのご回答が 質問の趣旨説明で述べている命題を反駁しえたとすれば その命題そのものを 身を持って論証したことになりましょう。  もしそうではなく やはり質問の命題は間違っていると言い張り続けようとするのならば ご自分の回答内容の中で 推論にあやまりがあったと明らかにするか または その投稿としての行動に じつは愛はあるように見せかけたけれど それは偽りであったとやはり明らかにするかして 回答内容じたいの不成立ないし間違いを論証しなければなりません。  投稿日時 - 2012-03-10 21:41:59  ▼▼(回答No.8) ~~~~~~~~  思い直して、応答する気があるということでよろしいのですか? だが、あなたの書いていることは、意味が分かりませんでした。筋が通っているように思えません。  >ご自分の回答内容の中で 推論にあやまりがあったと明らかにする  >または その投稿としての行動に じつは愛はあるように見せかけたけれど それは偽りであったとやはり明らかにする  >回答内容じたいの不成立ないし間違いを論証しなければなりません。  奇妙なことをおっしゃる。自分でわざわざ投稿しておいて、自分で自分の回答を壊すのも変な話です。私はちゃんと書いたと思っていますし、特に間違いや嘘があるとも思いません。そう思うからこそ、投稿ボタンを押したのです。あなたが間違いだと感じる点があれば、あなたが自分で指摘すれば良いのではありませんか。  投稿日時 - 2012-03-10 22:18:00  ☆☆(No.7お礼欄)  ~~~~~~  もしあなたのご回答が 質問の趣旨説明で述べている命題を反駁しえたとすれば その命題そのものを 身を持って論証したことになりましょう。  投稿日時 - 2012-03-10 22:25:55    ▼▼(回答No.9) ~~~~~  >もしあなたのご回答が 質問の趣旨説明で述べている命題を反駁しえたとすれば その命題そのものを 身を持って論証したことになりましょう。  繰り返しますが、言っている意味が分かりません。しかし推測して差し上げると、あなたは反駁という行為を、「けんか」と同義だと捉えているようです。その上で、お前は「けんか」をしかけに投稿してきたじゃないか?お前は投稿した時点で、けんかを肯定しているのだ、と言っているようです。  しかし、けんかの意味をはき違えているといえます。私は「けんか」しておりませんし、別にあなたに愛情を持って批判したのでもありません。質問があり、それにお答えしたのみです。あなたにしてみると、掲げていた命題に「けんか」を挑まれたと感じたのかもしれませんが、けんかとはそういうものではないでしょう。何より、私は、あなたのいう「けんか」を一般的な意味合いではないことを最初に確認しています。  説明もないことなので、対話する気がないと受け取りました。前の投稿で述べたように、基本的にあなたの言動は不愉快であり、その点について謝罪も一切ないまま議論が進んでいます。ここで私は打ち切らせていただきます。  ~~~~~~~~~~  ☆ おそらくこれだけの資料にしぼって判断を成してもだいじょうぶな問題であるはずです。  判定をどうぞ。  あぁ もうひとつありましたね。  わたしが《人格の外延》ということを言った。それに対して 《外延》を曲解したとわたしが主張した事例です。これも 概念の定義をめぐっての議論ですので 文脈とは別に結着のつく問題でしょう。  その場所を示すのみとします。   本質問です。=【Q:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?】   No.36の回答欄およびお礼欄 No.40回答欄およびお礼欄

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.46

#45です。 > 自分の認識がただしいという前提で話をしています。  人の話を聞こうとしないのなら 話にならない。 : それはお互いさまでしょう。 その前提で話をしない人がいるのでしょうか。 > 自分とのやり取りの話ならまだしも 第三者となっている話に どうしてそんな一方的に自分の認識と判断が正しいと言って首をつっこめるのか。 : それを言っちゃあ、お終いでしょう。 ご自分の発言に対してコメントされるのが嫌なら公の場での発言はなさらないほうが良いでしょう。 > わたしがブロックしたときのことは では どう捉えるのか。 : あの節、ブラジュさんを非難した記憶はありませんが。 むしろ応援したはずですよ。 > 人が欠席裁判をするつもりはないと表明したら そのままその表明が ただしいと判断すると言っている。 : ですから、欠席裁判なる現場をお示しください、と申しあげたでしょう。 あまりわけのわからんことを言わんでください。 仮に欠席裁判があったとして、それをさせるだけの要因はブラジュさんにもあったのではないのですか? 全くの純白の天使である自分を悪魔がいじめているとでも言いたいわけなんですかね。 少しは、男の度量で裾を捌いてくださいよ。     

bragelonne
質問者

お礼

 あのね。関連する事項だと思うから つきあってやっているのに そちらがこれらの問題は提起しているのだから その準備は自分でしなくてどうするの?  ★ それはお互いさまでしょう。  ☆ こんどは 自分が言えばいいってもんぢゃないよ。  もし第三者として 公正な判定をしたいのならば しっかりとやりなさい。  まづ双方から それぞれ単独で話を聞き それから さらに全体として把握するようにしなさい。  だから まづは分からないところを それぞれに尋ねるところから始めなくて どうする。  なあんて。こんなんぢゃ あとは もういちいち読む気も話す気もしない。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.45

#44です。 > もし主観の問題だと言いたいのであれば それは まったくにおいて・無条件に 《お互いさま》なのです。 : 【無条件】という認識は(今回の論議に関しては)誤りです。 相手はブラジュさんをブロックするという行為に及んだ、という厳然たる事実があります。 この点を全く考慮していません。 好きなことだけ言ってブロックするなどとんでもない奴だ的な、まことに小学生然たる感覚となんらかわるところはありません。 そのあと、ブラジュさんの質問に投稿したのは、欠席裁判をするつもりはないという意思表明(つまり、直接的に文句を言いたいなら言えば良いという姿勢を示す意味)でもあり、感触を確かめるだけの価値のある方だと判断したからでしょう。 まあ、お二人とも常人よりは頭が良いのですから、もっとましなことに神経を使っていただきたいものです。 > そのことを何ら考慮していない。つまり けんかは ぜんぶ ぶらじゅろんぬがわるいと 一方的に言っていますし 当事者の一方だけをなじっているということです。 : 金玉はついとるのか? と言いたくなりますね、全くの話。 ブラジュが悪かった、と言って何か損が生じるとでも言うのですかね。 ブロックさせるというのは相当なインパクトがあった、ということ。 そのことだけを素直に認めれば、自ずと答えは出るのではありませんか? わたしとしては、「もとのあんた」から少しは進化してほしいものだと捨て台詞しておきましょう。    

bragelonne
質問者

お礼

 事実認識が違っています。  自分の認識がただしいという前提で話をしています。  人の話を聞こうとしないのなら 話にならない。  自分とのやり取りの話ならまだしも 第三者となっている話に どうしてそんな一方的に自分の認識と判断が正しいと言って首をつっこめるのか。    わたしがブロックしたときのことは では どう捉えるのか。  人が欠席裁判をするつもりはないと表明したら そのままその表明が ただしいと判断すると言っている。