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【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!
- ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
- ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
- ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。
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こんばんは。No.14,16 あともなどすです。ぶらじゅろんぬさんと同じく「人格はひとつ」の立場から「ネット人格」といわれる事情を,性格と人格の用語の混同としてまず回答し,人格の一性の法的要請を補足したものですが,不文律も重視しており倫理的要請等にも同意しています。そして私自身も人格と性格がよく分かっていないと述べました。その後,人格について考察を深めましたのてこれを述べたいと思います。 (1)個人人格の認識 ものを見る働きには「違う」と「同じ」があります。「違う」とみれば「同じ」と見えない。「同じ」とみれば「違う」と見えない。「違う」と見れば「多」になり「同じ」と見れば「一」になります。 思いつきでは「多」と「一」どちらかにしか見えないけれど,思いつきから自由になれば「どちらで見ようか」と問うことができ「多としてばかり見ていたから一として見よう」と答えることができます。また逆に「一としてばかり見ていたから多として見よう」とすることもあります。 どちらにでも認識可能だという答え(相対主義)があるので,どちらに認識可能かという問題意識は私にはありません。当為の問題として「どちらで認識すべきか」が私には意識されます。人格のごとき抽象的概念は「一」か「多」を恣意的に決めたものだという考え方をします。人格というのは「一」として要請,構想されたものという考えです。 ところでガリレオでしたか,科学の方法には分析と総合があるといっています。「一」から「多」に認識を変えるのが分析,その逆が総合にあてはまります。「一」なる人格を分析によって「多」と認識されるものは,部分人格といい,性格性の消失直前の深さまで分析されたものは性格(単位)といえるでしょう。この性格単位には多種の外延があります。 さらに深くなるとよく分からなくなります。身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等外面的な手掛かりを失うために内面的観点から分析することになると思います。ここではそれを保留しておいて,人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 (2)個人人格の形成 社会と個人の関係を双方向から眺めてみます。まず社会の側から個人の人格を眺めれば,一つずつ性格的特徴が現れ,眺めた個々個人の内側ではそれが性格群として統合されていきます。眺めた者同士,その人格に関する主観を交えれば客観的なものに変わっていくでしょう。社会の主観客観入り混じってはいると思いますが,それをもって眺めた側が対象人格である個人に接するので,個人は社会から自己の人格を規定されていくといえます。 たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 さて,気をとりなおしてもう一方ですが,自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。個人はある性格を,統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 このように,人格は状況により変じ,時とともに拡大成長して,あるいは場合によっては縮退して,形成されていくのだと見ることができます。いいかえれば社会環境と個人の相互作用によって個人の人格が形成されることは上の様な理解に基づいています。(逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) (3)個人の創作的人格 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。「リアル人格」などという言葉がでてきましたから現実性で比べてみますと,後者がより現実性を持つといえます。 ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それて現実的人格を見てしまうということです。 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 現実人格も形成的であり創作的であると言いましたが,現在の人格が拡大成長する場合,新たな性格が統合化されるはずです。その性格が社会からの働きで形作られたものであるにせよ,社会への適正化を図るため自ら創作したものであるにせよ,そこに現実的人格を覆いかぶせなければ社会側,個人側どちらから眺めるにかかわらず,現実的人格とはならないのです。 創作人格は,いわば現実性をもたない空虚な性格群に,現実人格を投影し,現実性を持たせることによって現実的となるのです。現実人格の現実性に依存する限り,創作人格はよく言ったところで現実的人格どまりであって,現実人格では有り得ないのです。 以上の考察から,「ネット人格」が人格といわれる事情は,以下にまとめたことの理解もなく表現されたということだと思うのです。 ○「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ○「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ○人格の単一性は,当為認識性によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを基盤とするような特殊な単一性であるといえる。
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- el156
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No.8&13,20,26,27,28,30,66,69,73,74です。 #74のお礼欄にお答えします。 まず最初の観点について、「あり得えない」と言うのは非常に大変なことです。全ての可能性を否定しなくてはなりません。これに比べて「あり得る」と言うのは簡単です。一つの可能性だけ示せば十分だからです。あり得ないかあり得るか、という議論には本質的に最初からハンディキャップがあると思います。質問者の方はたいへんな方をなさろうとしています。これに対して私の回答は一つの可能性を示すだけです。その可能性に可能性として疑わしい点があるならお答えしたいと思います。勝手に自分がそう思っているだけというのでしたら、誤解です。が、それが唯一の真実だとして誰かを説得する気はありません。 2つ目の観点について、精神鑑定の段階で既に責任が問われているとは思いません。鑑定は、責任を問うことが妥当かを調べる段階だと思います。鑑定の結果、責任を問うことが妥当でないと判断されるなら、それは素直に責任が無いということだと思います。責任はあるのだけれど留保されている、と考える必要性は思い浮かびません。責任の有無は権限の有無(可制御か否か)によって判断されるのだと思います。権限の無い所に責任は生じないだろうということです。この考え方を一つの考え方としてご理解頂いた上で鑑定の結果はどうでも良いのであれば、責任の問題についてはここまでです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ その可能性に可能性として疑わしい点があるならお答えしたいと思います。 ☆ 違います。《あり得る》ための理由を明らかにして 人びとを説得しなければなりません。説得されていません。と言い続けています。その理由について説明しています。わたしは 質問者ですが ほかの訪問者のみなさんに代わって その説得が成ったと思われるまでは 疑問を問い続けます。 《ひとつの人格》は 公理にもとづいてみちびかれた原則です。 ゆえに それとは別にたとえば《ネット人格》があると言うのならば その《あり得る》という事例とその理由を明らかにしなければなりません。だからこそ たとえば現行の《公理》に代わるあたらしい公理を打ち出してくださいと言ったわけです。そういう問題になっています。 人間性についての理論 あるいは要するに《存在》論 これをあらためるという議論があって初めて《別種の人格》が 同じひとりの人間にあり得るという話になります。 ですから それ以外の議論は 勝手にご自分で《あり得る》と思っていればよいというまでのことです。説得されません。 ★ 2つ目の観点について、精神鑑定の段階で既に責任が問われているとは思いません。 ★ 責任はあるのだけれど留保されている、と考える必要性は思い浮かびません。 ☆ 違います。精神鑑定をおこなうという時点で 責任主体の特定が成っているのです。もしその特定が事実誤認だったとしたら? また捜査を始めて《犯人》を特定します。精神鑑定の必要があると思われれば そうする。それだけのことです。 《責任主体が特定される》ということ ここに《ひとつの人格》という命題が 間違いなく現実となっています。それ以外に 責任を問うという仕方はありません。そして 精神鑑定の結果がどう出るか これは いまの問い求めにとって何の関係もありません。 もし ★ 責任の有無は権限の有無(可制御か否か)によって判断されるのだと思います。権限の無い所に責任は生じないだろうということです。 ☆ ということであれば・つまり文字通りに《責任は生じない》と見るのであれば ひとつに その何らかの違法行為は あたかも自然現象のごとくに起きたと見ていることを意味します。つまりあるいは 犬か猫が起こしたという意味です。 ひとつに その責任主体としての容疑者は もし《責任能力がない》ことによって自由意志の潜在的にしろの保持者であることまでもが消えるのだとしたら それは どういう人間の取り扱いのなりましょうか? その違法行為をおこなった一定の時間においては たとえば犬のごとくに振る舞ったということになります。自由意志の保持者であることが消えるというのですから。 そうではなく 責任主体ではある。と同時に 心神喪失の状態にあったので 責任能力がないと判断する。ということが全体像です。もし仮りに責任主体であることさえ消えたとしたら? それでも それならすでに《人格》もがすでに消えているということです。犬なら犬に《人格》はありません。 もしこの仮定の話が おかしいのであれば 原則はつねに《ひとつの人格》です。それについて いくつかの応用例がある。こういうことではないですか? 犬には 《ネット人格》もありません。
補足
閉めるにあたって。 回答No.67 あともなどすさんによって《ひとつの人格》説が確認されたと見ました。 ぜふぃるすさんの――ネット上での表現をめぐる――人格説も 究極にはここに入ると見ました。 えるさんを初め みなさんには この・あとでさらに固まって行った《ひとつの人格》説にすでに途中から立って それを守る立ち場をオモテに出し みなさんのご見解に対しては反論これ反論につとめており 論争のおもむきが色濃くなったかと思いかえしています。 人格論 ないしけっきょくは 存在論 これが 大きく横たわっていると思い知らされました。 情報交換をしていただきありがとうございました。
- el156
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No.8&13,20,26,27,28,30,66,69,73です。 #73のお礼欄にお答えします。 質問者の方は「ネット人格はあり得る」というのはどういう考え方なのかを問われています。質問者の方はその考え方を知りたいのだと思います。私は「あり得る」という考えなので、私の考え方をお伝えします。お礼欄の反応が私の考え方と違っていればそれは違う、と答えます。それは「私の考え方と違う」と意味です。私にとってはそれは私の考えている真実とは違う、という意味と同じですが、恐らく質問者の方にとっては「真実とは違う」という意味にはならないでしょう。それで構いませんし、それ以上に深入りする意思は有りません。考え方に疑問が有ればお答えします。それは私の考え方に対する説明ですから、その意味では、私自身が申し上げることが正解です。私の申し上げていることは、それがほうとうの真実かどうかは別にして、「ネット人格はあり得る」と考えている一人である、「el156個人の考え方」を説明している、と捉えて下さい。たった一人の考え方だったとしても、それは、あり得るかあり得ないかを問うのであれば、あり「得る」理由にはなるだろうと思います。 《責任の主体》は見解の相違でしょう。お礼欄の疑問がこの観点に絞られていると思うので、ここに絞ってお答えします。質問者の方が断定されている部分には回答のしようがありませんが、誤解と質問にはお答えしたいと思います。 精神鑑定で責任能力を調べる場合、鑑定の時期は犯罪を犯した時よりも少し後の時点にならざるを得ませんが、できるだけ速やかに行われるべきだと思います。鑑定の目的は事件を起こした当時の精神の鑑定であって、現在や将来の精神を知りたい訳では無いと思います。事件を起こした当時の精神の病が後になって完治したとしても、当時の状態で責任能力が無かったと鑑定される限り、責任を問われることは無いと思います。従いまして、精神鑑定で責任能力を問われない場合というのは、「実際問題責任を取ることができないから」恩赦されるといった特例ではなく、ものごとの本質として、真に責任を問われないのだと理解しています。それは、部下が監督権限の及ばないところで事件を起こした場合に上司が責任を問われないことと同様だ見ています。被害者の立場から見て加害者が罰せられないことが不条理に映る場合もあるでしょうが、それは別問題だと思います。被害者としては、あくまで本当に当時加害者に責任能力が無かったのかどうかという点で争うしかないと思います。加害者の方の気持ちとしては、精神の病が完治した時点で当時の自分が犯した罪に道義的責任を感じる場合があるでしょうが、その罪悪感は救済されるべきだと思います。この点に関して私が何かを見落としているとは思いません。 例えば酒を沢山飲んで犯罪を犯したとします。本人が自分が酒を沢山飲めば犯罪を犯すであろうことが予見できているのであれば、酒を沢山飲んだこと自体に問題があるわけで、だから酒を飲んだ本人は責任を取らなくてはなりません。未必の故意に当たると思います。これに対しもし仮に、本人が手足を縛られ、アルコールを注射されてその結果自己を失い犯罪を起こしてしまったのだとしたら、私は犯罪を起こした本人に幾分かの責任があるという観点を持ちません。その場合には、全責任は本人を縛ってアルコールを注射した人物の方にあると思います。もしそのような真犯人が存在せずに本人が感知しない間に偶然にアルコールが投与されたというようなことがあったとしたら、それは犯人のいない「事故」です。それでも犯罪を起こしてしまった本人は正気に戻った時点で責任を感じる場合が多いでしょうが、私の考えでは、その罪悪感は、救済されるべきです。注射されたものがアルコールの代わりに、麻薬や、もっと危ないものだったとしても同じです。 もし仮に犯罪者が反省して「あのときの自分は自分を失ってた」と弁明した場合、そうだとしてもその当時の精神状態が責任能力ありと判定される限りに於いて、現実にはその犯罪者は責任を追及されます。それは私としても責任を追及されるべきだと思いますが、私の考え方にとって悩ましい状況です。そもそも犯罪者というものは多かれ少なかれ精神が正常であるとは言えない、という見解もあるかもしれません。これを上のように完全に責任能力がない場合とどのように区別するのか、現時点で私は残念ながら明確な答えを持っていません。しかし、少なくとも、一方の端には、完全に責任能力が無い状態というのが存在する、というところまでは言えるだろう、と考えています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ たった一人の考え方だったとしても、それは、あり得るかあり得ないかを問うのであれば、あり「得る」理由にはなるだろうと思います。 ☆ 違います。《あり得る》ための理由を明らかにして 人びとを説得しなければなりません。わたしは 質問者ですが ほかの訪問者のみなさんに代わって その説得が成ったと思われるまでは 疑問を問い続けます。 勝手にご自分で《あり得る》と思っていればよいというのなら それまでです。そういう投稿が寄せられたというだけのことです。回答にはなりません。 責任能力という事柄について 完全な勘違いをなさっています。 ★ ~~~ 事件を起こした当時の精神の病が後になって完治したとしても、当時の状態で責任能力が無かったと鑑定される限り、責任を問われることは無いと思います。 ~~~~ ☆ というように――いいですか このようにして――すでに責任が問われているのです。《ひとつの人格》に対してです。それだけのことです。 その鑑定の結果は この質問では どうでもよいことなのです。どうか 問い求めている課題がどこにあるか。これをしっかりと把握してください。
- el156
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No.8&13,20,26,27,28,30,66,69です。 #69お礼欄にお答えします。 「けっきょくふたつは つながっています。」はOKです。 「自由意志が その本人のものであるしかない」というお考えに対しては、その「本人」とは何かということ自体、盤石ではない、というのが私の考えです。「本人」を決めているのは身と心だろう、身の境界は(皮膚があるので)はっきりしているが、心の境界が身の境界と一致する理由はない、というのが私の考えです。私は、本人としての心の境界は身の境界よりも外側にあるのではないかと考えています。そう考える理由は既に何度か申し上げておりますが、少なくとも身の内側だけでは何の行動も、何の思考も存在できないだろうと考えるからです。だから「…見るわけには行かない」という結論にはなりません。私の考えでは、言い方の問題ではありません。 そしてこの命題は、 「身と心を合わせた「本人」の上に2つの人格があり得るか?』という命題ではなく、本質的には 「一つの身に2つの人格(そして2つの心も)が対応する事があり得るか?」であるのだろう、と、捉えています。 これは命題が何か、ということですから、本来は質問者の方が決める事で、私が決めるべきでは有りません。しかし後者だと捉えている理由は、これも繰り返しになってしまいますが、もし前者だとすれば、質問が循環してしまうだろうと思うからです。尤ももし、質問者の方が、本人の心は本人の身に宿るということを「公理」にされるのであれば、この2つの命題の違いを論ずることに意味は無く、私の出る幕は既にありません。 質問者の方が日記を《外延》と見られていること、そう見る方が普通であることも理解しているつもりですが、私の考えは違います。即時性については程度問題に過ぎないと思います。例えば指折り数えて計算する場合なら折った指の情報とアルゴリズムはリアルタイムな心の機能として組み込まれている、という考えです。折るものが自分の指でも他人の指でも、頭の中の指やそろばんの球のイメージだったとしても、シナプスのスイッチの状態だったとしても、手段が違うだけで機能に違いは無くそれは本人の心の機能の一部だろう、という考えです。考えたり行動したりする際に身の外にある記憶やアルゴリズムの助け無しには何一つできないだろう、と考えています。それではどの範囲までが本人の心に当たるのかというと、それは心の機能が及ぶ範囲の「身近な」環境までであって、非常にはっきりしたものではないにしても、境界はあるだろうと思います。同意していただかなくても構いませんが、私の考えはそういうことです。単に「それは違う」と言われてもお答えのしようが有りませんが、「こういう場合はどう考えるのか?』という類の質問にはお答えできると思います。 3-5に関し、ジキルとハイドのような多重人格は別の人格に見えます。そう見えるのなら別の人格だと考えて何の不都合もない、というのが私の立場です。 3-6に関し、ジキルの責任は監督責任です。それは親が子に対して持つ責任、上司が部下に対して持つ責任と同じです。唯一違うのは、ジキルとハイドが「身」を共有しているという点です。この一点によって、ジキルは監督責任以上の責任を、法律によって取らされてしまう恐れがあります。法律は「身」を罰することしかできないからです。救いは精神鑑定でしょう。ジキルに「責任能力無し」と鑑定されれば、ジキルが法的に罪を問われることは一切無いはずです。この件については、#30の回答を再掲しておきます。 (1) 現実の人格がネット人格を制御できている間、ネット人格の起こした暴走は現実の人格が指示したのかもしれませんし、仮にそうでなかったとしても現実の人格には管理責任があります。何れにしてもネット人格のせいにすることはできません。 (2) 現実の人格がネット人格を、一時的又は継続的に制御できなる危険性ということは、考えるべきだと思います。継続的にそうなってしまったら、病気です。そうなったら現実の人格には責任能力が無くなっていると思います。「ネット禁止」などの法的処置やリハビリが必要になる可能性がある、と思います。
お礼
えるさん ご回答をありがとうございます。 《責任》ということにかんして そして特に責任の主体ということにかんして 見解の相違があると考えます。 ★ ~~~ (2) 現実の人格がネット人格を、一時的又は継続的に制御できなくなる危険性ということは、考えるべきだと思います。継続的にそうなってしまったら、病気です。そうなったら現実の人格には責任能力が無くなっていると思います。「ネット禁止」などの法的処置やリハビリが必要になる可能性がある、と思います。 ~~~~~ ☆ 心神喪失で責任を問えないという場合 これは 《責任の主体》がその人に特定されてそのあと 特殊なケースとして 刑罰を科さないという処置になるのだと思います。責任能力がないと判定するというのは 一たん責任の主体を特定したあとだという見方です。 つまり《責任の主体》は つねに何の例外もなく《ひとつの人格》に決まっています。 このことは 社会的な取り決めとしても現実であり 個人の心の真実としても無理なく成立している現実だと考えられます。 ここを見落としておられる。こうとしか考えられないのですが。 つまり ジキル博士とハイド氏の事例でも同じですし 日記の場合にしても 同じなのです。 日記が 人格の――すでに表現されたものとしてその外部にあるところの―― 一部だということであっても その書かれた内容にかんして説明責任を負うのは 日記ではなく 表現者本人でありその《ひとつの人格》である。このように・そしてこのようにだけ 言っています。 ★ 「自由意志が その本人のものであるしかない」というお考えに対しては、その「本人」とは何かということ自体、盤石ではない、というのが私の考えです。・・・ ☆ これについても そうであってもいまは構いません。問題はそこにはないからです。 表現されたものが 本人の外部にあってそのかたちで《ひとつの人格》の一部だと言ってもいいわけですが 自由意志は――自由意志の主体は―― その《ひとつの人格》としての本人であり そうでしかないと言っています。つまり そのことだけを言っています。外部にある《物》が 固有の意味で《ひとつの人格》であることは出来ません。その意味で《本人》であることもあり得ません。 《説明責任》の主体――つまりそれは自由意志の主体―― これは 《ひとつの人格》であるしかない。そしてそのことを問わない場合には ★ その「本人」とは何かということ自体、盤石ではない ☆ と見ても構わないでしょう。《心がどこまで延びるか》といったことについての扱い方も 人によって違って来るのかも知れません。けれども そのことは ここでは問うていません。そういうかたちだと思います。 この観点をどうしても認められないということでしょうか?
- atomonados
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こんばんは。お礼ありがとうございます。あともなどすです。 疑問1.疑問2.にお答えしたいと思います。 通常の認識はひとつの具象のレベルで行われています。しかし抽象化することもあり,具象と抽象が曖昧となりがちです。 (1)《抽象/具象》の形式で記述したものはこの曖昧さを表しています。 (a)「《動物/ドウブツ》は《犬/イヌ》の内包である」 (b)「《柴犬/シバイヌ》は《犬/イヌ》の外延である」 (2)内包・外延を正しく用いてこうなります。具象性と抽象性が必然的に振り分けられます。 (a)「動物はイヌの内包である」 (b)「シバイヌは犬の外延である」 (3)具象のレベルのみで,内包・外延は用いてしまうと。無意味です。 (a)「ドウブツはイヌの内包である」 (b)「シバイヌはイヌの外延である」 (4)具象のレベルで正しくはこうです。抽象のレベルの説明はできません。 (a)「ドウブツはイヌより広くまとめられる」 (b)「シバイヌはイヌより狭くまとめられる」 (これらは外在的なものの範囲であり,ここでは内外を用いませんでした) (2)の正しい用法をはなれると,(3)と(4)の具象レベルのみの話となり, (3)と(4)では(4)のほうがよいだろうという疑問が発生しているのだと考えられます。 そしてなぜよくない(3)の表現を用いることを,(2)の立場は主張するのかということです。 比較する(3)はまったく値打のないものです。 ごらんいただいて分かるように(2)と(3)は全く異なるものです。
お礼
あぁ やれやれです。説明してくださってありがとうございます。こんばんは。あともなどすさん。 なぜかあまり重要視して来なかった具象・抽象が決め手でしたか。 次のような用法になりましょうか? (1) 日記(つまり日記を書くというその行為性)は――次の条件のもとに かつ 可能性として―― 人格の内包である。 ・ 人格とは 自己表現の過程をつうじて 自己形成する主体のことを言うという条件。 ・ そのとき 日記は 自己表現の一環としてあると捉えられる。 (2) ハイド氏は――つまり ハイド氏として自己表現するその行為性は―― ジキル博士の内包でも外延でもなく その人格の一環であり その《ひとつの人格》の一側面である。 (3) 人格の外延は 知性と境地である。その知性と境地とにとって 生活上の行為が反復性を持つときつまりその習慣によって付随するようにつけ備わった性質を 性格と言い これをも内包としうる。 (4) もしネット上で自己表現する《わたし》が その特定されうる場において特有の性格をかたちづくるとすれば わたしの《ひとつの人格》の一環として 《ネット性格 ないしは大雑把に ネット人格》と言って言えないこともない。 おそらく《ワ゛ーチュアルな世界において形成された性格》というひとつの側面であると考えられる。 (5) 性格の内包として 《家庭性格》や《職場性格》あるいは《ネット性格》が取り上げられうるであろうか? ネット性格が ほかの性格とはその中身が相当程度において違っているとき それを《ネット人格》と言いたくなるほど別種のものとして扱いたい気持ちが起こらないでもない。けれども それとても《ひとつの人格》の一環である。 (6) あるいはむしろ ぜふぃるすさんの場合は 《ひとつの人格》のふつうの自己表現と同じチカラやそれを発揮した成果内容としての表現を目指すという意味での《ネット人格》であるらしい。差がないという意味のようである。 やれやれです。と思いますが どうでしょう? (わたしにとっては 内包・外延は 遣い勝手があまりよいようには思えません。内在・外在あるいは 類・種・特殊・個の区別あるいは 範囲の内と外といった言い方をするようにしようと思っています)。
- atomonados
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おはようございます。あともなどすです。 No.70 お礼欄 論理学上の内包・外延はほぼご理解いただけた思いますので,それについては抜粋する形で触れたいと思っています。「○ (内包と外延のあたらしい定義) ~~~」の部分を,正式な用法で考察しましたところ,表現についての理解が深まりました。回答もつくり投稿しかけましたが,熟成といいますか,抽象的表現で読みづらく,すこし時間をかけて表現を練りたいと思います。後半部分「○ ~~~1.自己表現という行為は 人格の全体――ないし《わたし》の表現能力の全体――の発現である。…」は目を通しただけでまだ考察はできていません。これらを省き,お礼欄に答える形で,補足させていただきます。 ★ でも どうもこの定義ないし用語じたいが おかしいとも思われませんか? 《動物》の意味内容には 《人間・犬・猿》は含まれます。つまりその場合には 内包だと思われます。 ☆ 言葉には,辞典的規定側面と事典的規定側面があります。一般的な辞書はこれらが併記されることがあり,前者は断定的に,後者は例示として記述されています。これらの記述の関係は,抽象的と具象的の関係です。さらに,一般的と特殊的,内在的と外在的,理論的と事象的,表象的と現象的の関係にも見られるかもしれません。 意味内容といわれれば内包の型を,そして指示内容といわれれば外延の型を私は連想します。意味内容という言葉から内包を連想するのは私とて同じです。しかし,対象そのものが内に包みこんでいる,内属する性質,つまり属性として捉えた(したがって対象そのものより抽象的な意味)を内包というのであって,対象クラスの要素(したがって対象そのものより具象的なもの)として内に包み込まれたものをいうのではないのです。 たとえば《動物》という概念そのものは《犬性》を内包しないのです。《犬性》をもたない《動物》という概念に対して,《犬性をもつ具象(すなわち犬ですが)》を外におし延べ(集合の図では内に含むのでまぎらわしいし,通常の感覚に反しますが),外延というのです。 《犬》を説明する方法として《動物(性)》というような内属する性質を述べたものは「内包」であり,《土佐犬,秋田犬,柴犬》と具体例を列挙したものは「外延」なのです。 したがって,言葉を説明する方法としてこの二つの型を,「内包」と「外延」として区別することは妥当ですし,この区別が考察に役立つこともあると思います。 ★ 次の一点は ひっかかります。 ★ ・・・(ふまじめさ)は性格であり,性格は(まじめさ)をもつなら,(ふまじめさ)は(まじめさ)をもつとなり矛盾します。・・・ ☆ つまり まじめさも ふまじめさも 性格に属するそれぞれ具体的な要素なのではないでしょうか? どちらかを排除するというのには 納得がいきません。 ☆ おっしゃるとおりです。妥当ではありません。申し訳ありませんでした。正します。 もし,まじめさがもし性格の内包ならば,ふまじめさも性格の内包です。 すると性格そのものの属性として,まじめさ(性)とふまじめさ(性)があることになります。 これは性格そのものが,まじめであり,ふまじめであると言っていることになります。 このことは,厳密には,まじめとふまじめは程度をもち中間の状態もあるので矛盾概念ではないものの,少なくとも事実に反することであり, 仮定があやまっていたことになります。 よって,まじめさは性格の内包ではありません。 矛盾属性や反対属性(上の例)はもてない。けれど矛盾要素や反対要素(人クラスの要素としての男性と女性)をもつことができるようです。 ★ 言いたかったことは 用語をしかるべきかたちに入れ替えるなら これまで述べた来た人格と通称《ネット人格》とをめぐる議論は それとして有効であるかと思います。 ☆ 承知しました。 ★ (たぶん現行の定義では 内と外という言葉が――欧米の原語でもそうらしい( in- / ex- )ですが―― 必ずしも分かりやすいように実態と対応していないように思われます)。 ☆ はじめは誰でも分かりにくいと思います。
お礼
あともなどすさん お早うございます。ご回答ありがとうございます。 今回は 《内包・外延》にこだわってみるかたちになりましょうか。 ★ ~~~~ ☆ (たぶん現行の定義では 内と外という言葉が――欧米の原語でもそうらしい( in- / ex- )ですが―― 必ずしも分かりやすいように実態と対応していないように思われます)。 ★ はじめは誰でも分かりにくいと思います。 ~~~~~~~ ☆ つまりまづその分かりにくさをあらためて わたしの文章でかかげます。 ☆☆(No.70お礼欄) ~~~ ▲(辞書の定義) 例えば「動物」の外延は人間・犬・猿など。 ☆ これは 《内包》だと思っていました。もしくは 類と種との関係としてです。 でも どうもこの定義ないし用語じたいが おかしいとも思われませんか? 《動物》の意味内容には 《人間・犬・猿》は含まれます。つまりその場合には 内包だと思われます。 《人間》の外延は 日本人・韓国人・中国人・・・であると言うのですが これらの各国人は 《人間》に含まれます。だから《内包》と言ったほうが ふさわしい。のではないですか? ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり外延と内包とは 重なる部分があり 混同されがちであるのではないか? そこをどう処理しているのかです。 いちばん分かりやすいと思ったのは 次のご説明です。 ★ ~~~ ( a ) 《犬》を説明する方法として《動物(性)》というような内属する性質を述べたものは「内包」であり, ( b ) 《土佐犬,秋田犬,柴犬》と具体例を列挙したものは「外延」なのです。 ~~~~~ ☆ つまりは ただし分かりやすいのは 現行の用法がこのように用いられるという例示として分かりやすいと思われます。そうなのですが しかも 物言いを持ちたくなることも 同時に起こります。 疑問1. ( a )について 動物のほうが犬よりも範囲が広いのに 犬が動物(動物性)を内包するというその言葉から受ける感覚としては どうもそぐわない。 疑問2. ( b )について 土佐犬や秋田犬は 犬の種類であってその犬という範囲の内におさまるにもかかわらず 《外延》と言っている。これも 言葉から受ける感覚としても意味の取り方としても そぐわないようだ。 ☆ 疑問2は あともなどすさんも 次のようにおっしゃっています。 ★ ~~~ たとえば《動物》という概念そのものは《犬性》を内包しないのです。《犬性》をもたない《動物》という概念に対して,《犬性をもつ具象(すなわち犬ですが)》を外におし延べ (集合の図では内に含むのでまぎらわしいし,通常の感覚に反しますが), 外延というのです。 ~~~~~ ☆ というカッコ内の但し書きのところです。 けっきょくは その疑問にも答えるかたちで説明されているところは つぎです。 ★ ~~~~ ( c ) 意味内容といわれれば内包の型を,そして指示内容といわれれば外延の型を私は連想します。 ( d ) 意味内容という言葉から内包を連想するのは私とて同じです。 ( e ) しかし,対象そのものが内に包みこんでいる,内属する性質,つまり属性として捉えた〔* 意味〕(したがって対象そのものより抽象的な意味)を内包というのであって, ( f ) 対象クラスの要素(したがって対象そのものより具象的なもの)として内に包み込まれたものをいうのではないのです。 ★ ( g ) 〔* 《内包》は〕矛盾属性や反対属性〔* まじめと ふまじめというような〕(上の例)はもてない。けれど矛盾要素や反対要素(人クラスの要素としての男性と女性)をもつことができるようです。 ~~~~~~ ☆ ( c )と( g )が原則であるようです。 いぢわるく見れば ( g )に対して 次のようにさらに物言いを言えないわけではないようですが つまり: ○ 心づもりとして基本的に《まじめ》でありつつ その表現方法は おどけたりふざけたりして《ふまじめ》であるという場合もいくらでもある。そういう性格ないしそれが表現されたかたちがある。 つまり ★ 厳密には,まじめとふまじめは程度をもち中間の状態もあるので矛盾概念ではないものの ☆ という見方から広がる問題です。 人格の属性としての性格――つまりは 自己表現としての人格が 自分の習慣となったかたちをクセとして形成した性格――には そういったいろんなサマやあり方がある。ということですが 大きく捉えて言えば こういうふうにもなると思いますが いかがでしょう? つまりは ○ 人格は 自由意志がつねにおのれの心やその判断に従うとは限らない。(タバコが体によくないと知っても これを止めない場合がある)。つまり へそ曲がりを起こす。ということは むしろ人間の人格は その内に矛盾をもかかえている。その矛盾がそのまま相い対立するふたつの性格をかたちづくるかも分からない。仕事では几帳面なのだが 家庭ではだらしない。しかもこのふたつの性格要素をもって ひとつの人格としてまとまっている。 ということは 要素としての性格なら 内包すると言えるのなら もうそれだけで用は済むのではないですか? なぜなら あとは それら諸要素のいくつかの組み合わせのごとくに現実の人格はかたちづくられており この場合には属性を取り上げる必要がなくなる。 つまり ★★(回答No.68) ~~~ 性格(人格構成単位のそれぞれの「一」)とは,「真面目さ」「几帳面さ」「陽気さ」「嫌味な性格」の類で,列挙したこれらが外延となります。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに《外延》を用いる必要も謂われも――この事例では―― ないように思われるのです。つまりこれらの性格の諸要素は それぞれが単に観念的に個々の部分として切り出されたものであって 必ずしも現実の複雑性と対応しているとも思えないからです。 これは ただ単に心理学への嫌味であるかも分かりません。 * 物言いはそれだけですが こうなると 別様に独自の用語をつくっておこうかとさえ思います。 ○(従来の《内包・外延》に代わるあたらしい用語例)~~~~ 人の《表現力》・・・《表現行為》・・・《表現されたもの》 ____________________________ ・潜在・・・・・・・顕在化・・・・・・顕在物 ・内在・・・・・・・外化・・・・・・・・外在 ・内面・・・・・・・外化行為・・・・・外面 ・ウチヅラ・・・・ツラを下げる・・ソトヅラ ・内心・・・・・・・表情・・・・・・・・外心 ・内蔵・・・・・・・表出・・・・・・・・表現物 ・中身・・・・・・・表示・・・・・・・・表紙・表題・看板 ・思い・・・・・・・表明・発言・・・・表象・形象・オモテムキ ・報身・・・・・・・現出・・・・・・・・応身 ____________________________ ☆ もうちょっと練る必要がありそうですが。つまりこれは 愛嬌に過ぎないかも分かりません。
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ふたたびこんばんは。No.14,16, 67, 68の あともなどすです。 No.68 お礼欄 ★─────────────────────────────── ★ 性格(人格構成単位のそれぞれの「一」)とは,「真面目さ」「几帳面さ」「陽気さ」「嫌味な性格」の類で,列挙したこれらが外延となります。 ☆ これらの四つの例示されたものは 《性格》の種類ですね。性格は 人格の属性として 内包です。だとすると 例示された具体的な性格像は 内包であるように思えます。つまりは 真面目で几帳面な性格なら 約束の時間には遅れないという《表現されたもの》が現われます。これが 外延だと思います。 ───────────────────────────────── ★ これらの四つの例示されたものは 《性格》の種類ですね。 ☆ もちろんそのとおりです。《性格》の外延です。その根拠は,より抽象的な《性格》とより具象的なまじめな性格の関係です。ある概念Aの外延は,概念Aより具象性が高くなります。ある概念Aの内包は,概念Aより抽象性が高くなります。そう考えているからです。 この考えが間違っているのかもしれませんから,さらにその根拠をみます。私は【具象的概念】の階層を調べています。生物>動物>哺乳類>イヌ と 下位概念にいくほど具象性が強くなります。その概念を規制するものの数が増加します。イヌとは,生物であり,動物であり,哺乳類であり,四足であり,体毛があり,陸上にすみ,…。生物には,動物以下の規制はありません。 【抽象的概念】は調べていませんでしたが,徳には正義,勇気,節制…があるなどといいます。徳はとにかく抽象的ですが,勇気というと抽象性が和らいで,具象性が加わっています。これだけでは証明にはなりませんが。 もうひとつの根拠を述べます。ある概念Aの内包(属性)がaだとしたら,Aであるものはかならずaをもつものになります。イヌは動物(性)という内包(属性)をもちます。イヌならば動物(性)をもつのは必然です。 もし,《性格》が真面目な性格(まじめさ)という内包(属性)をもつというならば,それは必然的に《性格》は真面目な性格(まじめさ)をもつということになります。しかし(ふまじめさ)はどうなりますか。(ふまじめさ)は性格であり,性格は(まじめさ)をもつなら,(ふまじめさ)は(まじめさ)をもつとなり矛盾します。よって《性格》が真面目な性格(まじめさ)という内包(属性)をもつのではない。となります。 ★ 性格は 人格の属性として 内包です。 ☆ どうでしょうか。どちらが抽象的でしょう。どちらも抽象的ですが,たとえば「人格は形成される」に対し「ちょっとまって,抽象的で分からないから具体的に言ってくれ」と求められたら。 「たとえば,ここにすごくおおざっぱな性格の子供がいるとする。そのおおざっぱさが災いして色々トラブルに出会う。そのうち気をつけるべきところは気をつけるようになり,いわば几帳面な性格を少しはもつようになる。おおざっぱさと几帳面さのバランスがすこしはとれるようになる。こういうことも,ある種の人格形成なのだよ」というふうに説明することがある。 ここでは,人格の具体的説明に性格を用いている。性格の方が人格より具象である。ということになりませんか。ふたつの概念が階層構造にあって,より抽象的なものが内包になり,より具象的なものが外延になる。だから,性格は人格の内包(属性)ではないのではないですか。 また,いろんな性格の中からその背後にある本質的なものを抽象してそれを人格というのではないですか。ですから,人格のほうが 性格の 内包(属性) だと思いますが。 したがって, 性格は,人格の外延ではないでしょうか。 ここでいっている性格は,イヌの性格とか車の性格とか広義の意味ではなく,人の性格でしょう。私はそのつもりで性格と言う語句を用いていますが。 ★ だとすると 例示された具体的な性格像は 内包であるように思えます。 ☆ 上に述べたように,人格>性格>まじめさ の階層構造になっていると考えています。具体的な性格像は外延と考えられます。 ★ つまりは 真面目で几帳面な性格なら 約束の時間には遅れないという《表現されたもの》が現われます。 ☆ 《真面目で几帳面な性格》はみえないもの,《約束の時間には遅れないという《表現されたもの》が現われ》はみえるもので,これを階層構造にしていいものか躊躇します。無遅刻行為は性格の一種ですか。行為の一種でしょう。 ★ これが 外延だと思います。 ☆ 《真面目で几帳面な性格行為》の外延として無遅刻行為があると思います。《真面目で几帳面な性格》の外延としてあるのではないと思います。 人格>性格>まじめさ 人格>性格>几帳面さ │ 行為>性格行為>《真面目で几帳面な性格行為》>無遅刻行為 こんな感じで概念の階層と,階層系列どうしの関係があると思われますが。
お礼
そうなんですか。外延・内包は そんな遣い方だったのですか。 あともなどすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 いやぁ 今頃こんなあいまいな理解であったとは。 ▲ (外延) ~~~~~~ (三省堂「大辞林 第二版」より) http://jisyo.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search_wd?ie=utf8&q=%E5%A4%96%E5%BB%B6&mode=0&type=0&dic=0&id=jj_03073600&s=1&e=5&ej=1&je=1&jj=1&ns=1&ct=0 〔論〕〔extension〕ある概念に対応する事物ないしその集合。 例えば「動物」の外延は人間・犬・猿など。 ▲ (内包 (同上辞典)) ~~~~~ (1)内部にもつこと。 「危険性を―する」 (2)〔論〕〔intension; connotation〕ある概念において、その適用される事物(外延)が共通に有する性質。概念に含まれる意味・内容。 例えば、「人間」の内包は人間を特徴づけるさまざまな性質。さらに「日本人」の内包は、これに「日本国籍をもつ」などが加わる。 「日本人」は「人間」に対して内包を増すが、外延は減ずる。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《内包》の説明の最後の一文が わかりにくいのですが。 《日本人》と言えば 《人間》の中から 韓国人や中国人などを除外するから 《外延は減ずる》。けれども 《「人間」に対して内包を増す》というのが 分かりません。《人間》という場合には 各国人に共通の属性のみを扱うから その量は少ない。最大公約数のごとくに。日本人という場合には 人間が持つ属性の数よりも多い属性を持つ。でしょうか? そんな数の比較は 意味があるのでしょうかねぇ。日本人にあって韓国人にない性質と言ったって それがあるとしても 人間の潜在性としては どの国の人にもあると言えないこともない。 さて 完全に勘違いをしていたようです。 ▲ 例えば「動物」の外延は人間・犬・猿など。 ☆ これは 《内包》だと思っていました。もしくは 類と種との関係としてです。 でも どうもこの定義ないし用語じたいが おかしいとも思われませんか? 《動物》の意味内容には 《人間・犬・猿》は含まれます。つまりその場合には 内包だと思われます。 《人間》の外延は 日本人・韓国人・中国人・・・であると言うのですが これらの各国人は 《人間》に含まれます。だから《内包》と言ったほうが ふさわしい。のではないですか? 次のように用いていましたし いまそのようにあたらしい定義として提案したいというほどの思いを込めて これまでどおりの用語で説明してみたいと思います。 ○ (内包と外延のあたらしい定義) ~~~ 1. 《ことば》という主題についてあつかうと言ったほうがよいかも知れません。 2. 《ひと》という言葉は 具体的な存在が数多くいるので ひとつの《種》を成す。その一員としての個人から見れば 《類――すなわち人類――》である。 3. 人類は 動物という類に属し――したがって 動物という類の中でひとつの種を成し―― 動物はさらに生物という類に属する。 4. 動物は ヒトやサルというそれぞれ種を含み それゆえ意味内容として含んでおり そのことを称して《内包する》と言う。 5. たとえば動物の足跡やあるいは遺跡などとしての人間の生きたことの痕跡 これらは 《表現されたもの》として《外延》と呼ぶと。 6. そこで 人格にかんする扱い方としては: 6-1. まづ人の生きる動態は ほかの誰のでもないその人自身の自由意志が存在するということにもとづき 掛け替えのない存在である。自由意志による選択を経て自己表現をおこなうというのが 生きる動態である。 6-2. この表現する主体が 人格を有すると言われる。格は 格子という場合に見られるように――または 網の目(ネットワーク)の場合と同じように―― 結節点とそれらをつなぐ部分とがある。結節点が 主体であり 何の某という個別の存在である。《つなぎ》とは 主体どうしの関係性である。社会的な動物であることだとも言い換えられる。 6-3. 表現者が人格を有して 自己表現する。そこには 《表現力》と《表現行為そのもの》とそして《表現されたもの》とが現象する。 6-4. 表現力は 人格の内面にある能力である。(そしてその能力を発揮するという意志が 中軸である)。つまり 人格は 表現力を《内包》する。したがって 《表現されたもの》は このとき人格の《外延》である。 ~~~~~~~~~~~ ☆ このほうが すっきりすると思いますがねぇ。 ★ ~~~ 行為>性格行為>《真面目で几帳面な性格行為》>無遅刻行為 こんな感じで概念の階層と,階層系列どうしの関係があると思われますが。 ~~~~~ ☆ この場合でしたら: ○ ~~~ 1. 自己表現という行為は 人格の全体――ないし《わたし》の表現能力の全体――の発現である。 2. その中に 性格の発現もむろんある。たぶん表現力の現われのひとつだと考えられる。 2-1. クセ(エートス)とも言える。そしてそれは すでに自己表現した結果としても出来ている。つまり反復性による慣れから来ている。 2-2. そうすると 《表現されたもの》として 性格は 外延であるとも見なされる。けれどもそれが クセとしては 表現力に付随するかたちとなっていて 人格が内包するものだとも見られる。つまり 性格を 人格の属性であると見る場合である。 3. そして性格としては 《真面目》や《几帳面》などがある。属性として後天的に内包されたと見得る。 4. 真面目で几帳面だという性格が 表現されたなら たとえば決められた時間に遅れないといったかたちとなって現われる。この《遅刻しない》という現われは 表現されたものとして 人格の外延である。 5. 表現行為そのものは どう位置づけたらよいか? 5-1. 人格の発現中でありまた同時に 人格の自己形成中であるとも捉えられる。 5-2. この行為を境にして 人にも分かるように外に表現されたものを取り上げればそれは外延となったものであり 表現力のことを言えばそれは 人格の内包だとそれぞれ分けて捉えられることとなる。 ~~~~~~~~~ ☆ この定義に従うなら: ○ 日記は 表現されたものとして 人格の外延である。 ○ ~~~ ハイド氏は その変身している存在そのものは ジキル博士という人格の内包にとどまる部分が大きい。 言いかえると ハイド氏が仮りに表現力を持っているとしても その表現力は ジキル博士の人格が内包するそれだということである。 さらにまた ハイド氏が表現したことは 表現されたものとして・しかもジキル博士によって表現されたものとして ジキル博士の人格の外延である。 ~~~~~ ☆ あともなどすさんは 正式の定義にもとづいて議論されていると思います。その点 もうしわけありませんでした。 次の一点は ひっかかります。 ★ ・・・(ふまじめさ)は性格であり,性格は(まじめさ)をもつなら,(ふまじめさ)は(まじめさ)をもつとなり矛盾します。・・・ ☆ つまり まじめさも ふまじめさも 性格に属するそれぞれ具体的な要素なのではないでしょうか? どちらかを排除するというのには 納得がいきません。 言いたかったことは 用語をしかるべきかたちに入れ替えるなら これまで述べた来た人格と通称《ネット人格》とをめぐる議論は それとして有効であるかと思います。 (たぶん現行の定義では 内と外という言葉が――欧米の原語でもそうらしい( in- / ex- )ですが―― 必ずしも分かりやすいように実態と対応していないように思われます)。
- el156
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No.8&13,20,26,27,28,30,66です。 前置きに関しては本筋と関係ありませんので一点だけ。私は、回答者の「やめる」権利は、質問者に与えられている評価、終了、ブロックなどの圧倒的権限に比べれば微々たるものだ、と思います。しかしこういったルールに不満がある訳では、もちろん、ありません。 2番目の、多重人格について、平たく言えば、多重人格だって実際あるわけですから、ネット人格だってあり得ないとは言えないだろう、という意味です。質問者の方から、「多重人格(という病)は多重人格ではない。」と反論されそうですが、それは少し待って下さい。少し待って頂いたとして、次の段階は、現実にネット人格と言われているものが多重人格なのかどうか、ですが、私はこれを、限定された環境の中での多重人格ではないかと考えています。そしてそれが病としての多重人格のように、現実の環境の人格からの統制が効かなくなったり、上下関係が逆転したりする恐れはある、と見ています。この部分は単なる私の推測です。 ネット人格を「あり得る」か「あり得ない」か、と問われればそれはあり得る。現実にある現象としての所謂ネット人格が人格か、という問いに対しては異論があるでしょうが、私の意見としてはそれも人格だと見ている、ということです。 3番目の「説明責任から人格が一つと言えるかどうか」については、質問者の方のお考えと私の考えの違いがはっきりしたということで、良いのではないかと思います。「けれども」以降は私にとっては唐突ですし、私はそう思いません。 5番目の日記への私の「こだわり」と、6番目の「ひとという一つのハードウエア」は、相互に、又、2番目で棚上げした「多重人格」があり得るのかどうかにも関係します。 以前にも申し上げましたが、ネット人格や多重人格があり得るかどうか、を問うためには、「何処に」複数の人格があるか無いかを問うのか、を明確にしなくてはなりません。「一つの人格が二つの人格を持ち得るか?』という問いでは循環してしまいます。だから「何処に」という定義は、例えば皮膚の内側にだとか、頭蓋骨の内側にだとか、そういった物理的境界を示す必要がある、と思います。そういった考えから、「殻の内側」と呼んで誤解されてしまったり模索しながら、「ひとという一つのハードエア」という表現を使って来た訳ですが、「身」と言った方が素直で良かったかもしれません。 いわゆる「人」はもちろん、ハードウエアではなく、身と心が一体になって人として機能する訳ですが、その心の部分には身の外側の、例えば日記のようなものも含まれるのだろうと考えているということです。心を機能として考えるとき、日記の記録を身の内側(脳内)の記憶と区別する必然性が見当たらないからです。日記は例として挙げただけです。日記に限らず、私たちが何か行動する場合でも、何かをじっくり考える場合であっても、それは「身近な環境」無しにはあり得ないと思います。だから身の内側だけで心を語る事は不可能だと考えています。だから身はひとつでも心は(その一部を構成する身近な)環境によって変わると考えています。それが身と心の対応関係が盤石なものではないと考える根拠になっています。盤石ではないから多重人格のように柔軟な形で現れる場合もあるのだろうし、ネットのような閉じた環境で別の人格が現れたとしても不思議ではない、というのが私の考えです。お気づきかもしれませんが、私の考えでは人格は身の中に閉じ込められていないので、この段落の最初の「何処に」という定義は実は不明確になります。ですから厳密にいえば、一つの身に複数の人格が「対応する」という状況があり得る、と考えている、ということになります。
お礼
えるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 直後のあともなどすさんのご回答へのお応えを先に書きました。《内包・外延》の用語についてわたしはあいまいであったと分かったからです。その点は もし必要でしたら そのわたしの書き込みを参照なさってください。 さて おそらく二つの問題が尾を引いていると思われます。 ・ 《人格》とは 何を言うか? ・ 《多重人格》は――《人格》という用語を使ってはいるが―― 果たして《人格》の多重だと言えるか? けっきょくふたつは つながっています。 症状においていくつかの《人格のごとき現われ》が起きていても それらが《ひとつの人格》の自己表現としてのいくつかであると見られなくはないからです。 その《ひとつの人格》というのは あくまで自由意志が その本人のものであるしかないというところに根拠を持ちます。ですから いくら多重性という現象が起きても 《ひとつの人格》とは別の存在がある(出来上がった)と見るわけには行かないと思うからです。 通念として二重人格という場合には あれっ あいつは人格が変わったなというふうに捉えるわけだと思いますが その変わった状態としての人格は 元の《ひとつの人格》から出たものであり そうでしかないという意味です。言おうとしていることは。 あとは 言い方だけの問題ではないでしょうか。 ○ 日記ないし《ネット人格》をめぐって: 1. 人格には 内面にそなわる表現力と その表現行為そのものと そして表現されたものとの三つがあると考えられます。 2. 日記は 表現力としての人格によって《表現されたもの》として 人格の《外延》だと見ます。 2-1. 外延は 表現力としての人格から 切り離されています。人格としての主体(《わたし》)から見れば その外に現われたものです。表現行為が終えられたかたちになっています。 2-2. ということは そのただいま表現行為中だというのでもなく ただちにその問答において説明責任が問えるかたちからも離れています。 2-3. ゆえに 仮りに日記が 何かの証拠に採用されたというとき その証拠能力ないし信憑性は あくまで《人格の外延》としてのものです。主体からは一応すでに切り離されています。つまり もう一度表現主体によって 発言がなされなければ 説明責任を果たし得ない状態です。 2-4. 表現者としての人格がいまいちど証言して初めて 証拠能力が成り立ちます。日記そのものだけでは 《ひとつの人格》を代理し得ません。ただしその《外延》として残ります。 2-5. 日記は その人の《身》でもありません。 3. ネット上で自己表現する場合も同じく 《ひとつの人格》の表現力と表現行為と表現されたものとの三つがあります。 3-1. 表現の行為も その結果も みなすべて 《ひとつの人格》のものであり わづかに《表現されたもの》は 外延として 日記と同じように 人格から疎外されています。外化されています。 3-2. 表現の行為の最中を取りあげて考えても それは《ひとつの人格》による表現でしかありません。たとえ変わった性格や行動が現われてもです。まったくそれまでには見られなかった振る舞いだったとしても ただそれだけのことです。まだ知られていなかった一面があったというだけです。 3-3. ネット上での自己表現において たとえそれ以外での自己表現とはまったく正反対の現われが出たとしても みな《ひとつの人格》のものです。 3-4. その上で どうしても《ネット人格》だと言いたいとすれば それは 言い方だけの問題だと考えます。これは ジキル博士とハイド氏の件ですでに考えたことです。 3-5. ふたつの正反対の性格や行動が現われたとしても それらを《ひとつの人格》が その表現能力において潜在性としてでも備えていたと見ると どうして都合がわるいのでしょう? というより そう見る以外に 辻褄のあう見方はないのではありませんか? 3-6. つまりたとえば ハイド氏はその犯罪行為で法的な処理に付されるが ジキル博士は そのこととは何の関係もないなどいうことが あり得ますか? 《ネット人格》が 《ひとつの人格》というときの《人格》と同じ意味で《ひとつの人格》とは別に存在するという見方は そういうことを含んで語っていることになるのではありませんか?
- atomonados
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お礼ありがとうございます。こんばんは。No.14,16, 67の あともなどすです。 今回は,内包・外延,抽象・具象を用いた分析方法の話になります。私は考察の道具として矛盾概念を基本にしていますが,これらの二項対立も,ちょうど鋏の二つの刃が共同で対象を切り分けるように,役立たせることができますね。 抽象と具象は矛盾概念ではなく反対概念でしょう。そのなかに中間をもち,より抽象的だとかの程度があります。内包・外延はさらに複雑な二項対立です。単純な反対概念ではないようです。使い方をまちがうと危険ですので道具の理解ということも重要だと思っています。 ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~ ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等 ☆「身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等」はそのあとに続く「外面的な手掛かり」として具体的に列挙して示したものです。それらは「外面的な手掛かり」の《外延》です。 例として,命題「イヌは動物である」ですと,「イヌは動物の外延である」となります。ですから外延を用いるとこういうことです。 「身体的特徴は外面的な手掛かりの外延である」 「習慣は外面的な手掛かりの外延である」 「行為は外面的な手掛かりの外延である」 「しぐさは外面的な手掛かりの外延である」 「態度は外面的な手掛かりの外延である」 「表情は外面的な手掛かりの外延である」 また命題例では「動物(性)はイヌの内包である」となります。同じ意味で「イヌには動物(性)という内包がある」となり,内包を用いるとこういうことです。 「身体的特徴には外面的な手掛かり(性)という内包がある」以下省略。 イヌは動物の一種です。イヌ(下位概念・種概念)が動物(上位概念・類概念)の種(要素)のひとつということです。ですからこうもいえます。 「身体的特徴は外面的な手掛かりの一種である」以下省略。 動物とはイヌの類です。動物(上位概念・類概念)がイヌ(下位概念・種概念)の類(集合)であるということです。ですのでこうもいえます。 「外面的な手掛かりとは,身体的特徴の類である」以下省略。 イヌは動物(性)の具象です。イヌの方が動物に比べて,より具象的です。よってこうもいえます。 「身体的特徴は外面的な手掛かりより具象的である」以下省略。 動物(性)はイヌの抽象です。動物の方がイヌに比べて,より抽象的です。よってこうもいえます。 「外面的な手掛かりは身体的特徴より抽象的である」以下省略。 ★ ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。 ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か? おそらく内包だと思われる。 ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か? 外延として扱いたくなるところのやはり内包。 ☆ くりかえしになりますが,命題「イヌは動物である」に概念「イヌ」「動物」があり,この関係を《内包/外延》で分析します。「イヌは動物の外延であり,動物(性)はイヌの内包である」となります。内包は属性です。 属性(内包)の多くは他の外延に適用できて,「ネコは動物の外延であり,動物(性)はネコの内包である」ともいえます。 「イヌは動物の一種であり,動物とはイヌの類である」と,類概念(上位概念)と種概念(下位概念)にこだわった言い方もできます。 命題「イヌは動物である」命題「チワワはイヌである」を《内包/外延》分析しますと, 「イヌは動物の外延であり,動物(性)はイヌの内包である」 「チワワはイヌの外延であり,イヌ(性)はチワワの内包である」 ここにイヌという概念の曖昧さが示されます。外延にも内包にもなりえます。イヌ(それ自身)とイヌ(性)に分けて明示すると混乱が少なくなります。人格も曖昧で,人格(それ自身)と人格(性)のどちらかという分析が必要でしょう。性格は性格(それ自身)と性格(性)とすると何かへんな感じがします。そこらあたりをさらに私は考えていくことになるでしょう。 「ジキル博士とハイド氏」は,おそらくこの表現では概念構造が曖昧で混乱するのです。ですから恣意的にある個人Aを類概念として,ジキル博士とハイド氏を種概念とすれば解決します。 「ジキル博士は個人Aの外延である」 「ハイド氏は個人Aの外延である」 「個人A(性)はジキル博士の内包(属性)である」 「個人A(性)はハイド氏の内包(属性)である」 個人A(性)は抽象的ですから男性(性)をあてはめ, 「男性(性)はジキル博士の内包(属性)である」 「男性(性)はハイド氏の内包(属性)である」 ということもできるでしょう。 個人A(性)を想定すればよいのか,男性(性)を想定すればよいのか,問い求めに応じればいいわけで,今は「ネット人格」を考えるにあたり,その想定が,表現物(性)がよかろうか,創作物(性)がよかろうか,創作(性)がよかろうか,人格(性)がよかろろうか,性格(性)がよかろうか,・・・と試行錯誤しているのだと思われます。そして自己投影性はどうだと私は新たに思ったわけです。 《ジキル博士にとってハイド氏は 外延か?おそらく内包だと思われる。》は各個人の主観の中にある概念構造によってそう思われるということだと思います。客観的には判断できません。私の主観は上に述べたような構造になります。主観だから恣意的と言っています。そのように構想するのが自分が理解しやすいし,社会的要請にも適正化された構造だと考えています。 順序が違っていました。 《★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~ 《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。》 性格(人格構成単位のそれぞれの「一」)とは,「真面目さ」「几帳面さ」「陽気さ」「嫌味な性格」の類で,列挙したこれらが外延となります。 《表現されたもの。日記。虚構作品》は,性格の外延というより,外面的な手掛かりの外延です。ここにも概念構造が違いがみられます。 性格とは,それら現れたものを手掛かりとして,それらを表す対象主体の属性としてはみえないものでありながら,それを推量する主体側の心の内に,みえるものとして描かれる推量する主体側の自己の性格の投影だと考えています。 いいかえると,「他人の性格は実は自分の性格」というようなことです。自分自身に照らすということなしに,たとえば日記という物自体が性格(性)を成立させることはないでしょう。 ★☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。 ☆ なるほどそうですね。キリストは人格と神格が分裂でなく調和しているのですね。 神は神格。人は人格。キリストは神格と人格の調和。なのですか。キリスト格がいちばんりっぱでなく,神格がいちばんりっぱなのでしょうから,人格はできるだけすくないのがよいのだと思いました。神格をとりいれると言うより,余計な人格を消していって,最後に残るのが神格というようなことに。でもそんなことは困難で,最高になしえたのがイエスとかブッダとかなのかなと思いました。よこみちにそれていますか。 補足の方も読ませていただきました。他の回答やそれに対するお礼,補足もすべて目を通しています。しかし提示されたことすべてに言及できません。どうしても,他人の意見を聞き入れず,自分の意見だけを主張するようになってしまいます。答責性が果たせなくともご容赦願います。
お礼
あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 内包・外延は ひとつの場合に絞って用いていましたね。確かに。 それは 次の場合です。 ☆☆(No.67補足欄) ~~~ 《ひとつの人格》をめぐって: ・その内包としての表現力:役者力 ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの 両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。 この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。 ~~~~~~~~~~~ ですから この形式・このパタンにしたがって こうでした。 ○(あ) ジキル博士にとってハイド氏は 外延か? ――おそらく内包だと思われる。 ○(い) 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か? ――外延として扱いたくなるところのやはり内包。 (あ) ジキルという名の人間が 《ひとつの人格》をになっています。 ・博士であることは 属性として内包です。 ・(学者であるという属性は 内包です。ところが 博士という肩書として他人が受け取るなら それは 外延であるとも見られます)。 ・ハイド氏に変身した場合 《表現されたもの》として外延であるように見えるけれども それは やはりジキルさんの――かなりヘンな――性質であり属性であると考えました。 ・つまりは 変身したすがたは 外延であるかも知れないけれど 変身するという性格は 属性であろうと。 (い) わたしが《ひとつの人格》です。 ・旅に出るのは わたしであり 同じ人格です。 ・旅の恥はかき捨てだと思いそのように行動するのは 一方で思いや行動として表現されたものは 外延であるように捉えられますが 他方でそのような振る舞いに及ぶという性質は わたしの属性であり やはり内包だと見ることが出来るのではないか。 ★ 性格(人格構成単位のそれぞれの「一」)とは,「真面目さ」「几帳面さ」「陽気さ」「嫌味な性格」の類で,列挙したこれらが外延となります。 ☆ これらの四つの例示されたものは 《性格》の種類ですね。性格は 人格の属性として 内包です。だとすると 例示された具体的な性格像は 内包であるように思えます。つまりは 真面目で几帳面な性格なら 約束の時間には遅れないという《表現されたもの》が現われます。これが 外延だと思います。 だと思うのですがねぇ。 次の事例についての捉え方は あいまいだったとは思います。 ★ ~~~~~~ ★★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~~ ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等 ★ 「身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等」はそのあとに続く「外面的な手掛かり」として具体的に列挙して示したものです。それらは「外面的な手掛かり」の《外延》です。 ~~~~~~~~~ ☆ その列挙された項目の中で 《態度》を取り上げ しかも ○ 生活態度は 思想である。 と捉えました。思想なら 表明された態度が《表現されたもの》として 外延でありえますが 自己表現に際しての考え方や歩み方をも意味しますから それとして 内包であると考えたわけです。 考えてみれば 《身体的特徴》以外は みな内包としての内面のチカラと 外延としての《表現されたもの》との両面を持つというようにも思われます。 身体的特徴は どうでしょう? 身としては むしろ内包であるかも知れません。ほかの人がそれをこれこれという特徴だと捉えるとすれば それは外延になってしまったと言えるかも知れません。そのような特徴としての受け取られ方は その身の本人が 統括して制御することが出来ないだろうからです。 この自分と他人とに分かれるということ・分かれてその何かが受け取られるということ このことは 次の命題とかかわっているかとも考えられます。 ★ ~~~~ 性格とは,それら現れたものを手掛かりとして,それらを表す対象主体の属性としてはみえないものでありながら,それを推量する主体側の心の内に,みえるものとして描かれる推量する主体側の自己の性格の投影だと考えています。 いいかえると,「他人の性格は実は自分の性格」というようなことです。自分自身に照らすということなしに,たとえば日記という物自体が性格(性)を成立させることはないでしょう。 ~~~~~ ☆ ただし まだよく分かりません。まだわたしは考えが 練られていません。 とりあえずは こうです。 ○ みづからの意志が 統括し一般に表現するチカラを保持している場合 その表現力ともろもろの付属物は 内包であり 人格のいろんな要素ないし側面を成している。 ○ 内包としての表現力によってすでに表現されたもの これは 外延と見なす。 単純に内と外とで分けられるようにも考えるのですが いかがでしょう。 ★ キリストは神格と人格の調和。なのですか。 ☆ ええ。そう理解しています。 イエスは イエホシュアというありふれた名のことで 別の人には 同じ名前であるのに ヨシュアと言い習わしています。つまり ふつうの人間です。 この人間が 同時に――想定ゆえに・物語として―― 神であるキリストだと受け留められたというかたちです。《調和》であるのですが それぞれ完全な人間であり完全な神です。 人間イエスとしては 大声で泣いて十字架に就きました。神キリストとしては 神のこころとして この磔の刑を その初めからのはかりごとにのっとって すすんで受けました。これら両面が 同時に成り立ちます。という想定です。
- el156
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No.8&13,20,26,27,28,30です。 #30のお礼欄でコメントを頂いた後、それは私の考えとは違う、と思う部分がいくつかあったのですが、この場の雰囲気が変わってしまった為に答える機会を失っておりました。 こういう状況ですから、まず最初に、回答者としての私の立場を表明しておきたいと思います。私はこのサイトの公式なルールやガイドを大切にするつもりです。質問は質問でなくてはなりません。意見表明のための質問や議論喚起のための質問は禁止されています。従いましてこの質問は意見表明や議論喚起を目的になされているのではない純粋な「質問」であると想定します。私はこれに対して「回答」をします。お礼や補足欄に疑問点が記されていれば更にそれに答えますし、誤解があるようなら補足や訂正の回答をするかもしれません。質問者の方への反対質問は、必要最低限に抑えます。この場は私が質問すべき場ではないからです。「回答」は私の考え方になりますから、私の回答が正しいという保証はありません。その判断は、質問者の方に委ねます。その上で元のご質問を、「ネット人格はあり得るか、あり得るというならそれはどういうことなのか、納得行くまで質問を繰り返したい」と捉えました。私は「あり得る」という立場ですから、質問者の方は質問を繰り返す、私はそれに回答するという構図です。私は、質問者の方が「希望される限り」私の考えをお伝えします。私の考えに誤りがあると自分自身が感じれば訂正する場合もありますが、議論して合意に到達しようという意思はありません。 ===================== 次に#30までに申し上げた私の考えの要旨をまとめて復習しておきます。 私はネット人格はあると考えています。 現実環境の人格とネット環境の人格を統合する人格の存在を想定しません。 人格は、ひとという一つのハードウエアの内側にある訳では無く、環境にある訳でもなく、ひとと環境との関係の上にあると考えています ひとという一つのハードウエアと、人格との対応関係は一対一とは限らないと考えています。 一時的にそうなる場合の例は、役者が役になり切って我を忘れている瞬間とか、作者の意図を離れて物語の中で自由に動きだす主人公等です。この場合、現実世界の人格は別の世界の人格に対してリーダー格ではあるものの全てを掌握して包含関係にある訳では無く、同格で存在する別人格のリーダーであるに過ぎない、という考えです。自分の作った物語であったとしても、物語の世界の中では、作者ですら自分の作った登場人物の意思に逆らうことができなかったりする場面がある、と考えています。 恒久的な例は、多重人格と呼ばれる病です。この場合にはリーダーの管理能力は完全に失われています。特殊な例ではありますが、この実例が、ネット人格をあり得るとする最も強力な根拠と考えています。 他の回答者の方の回答内容をあまり良く読んでいる訳では無いのですが、私の考えは、恐らく回答者の中でも質問者の方のお考えから一番遠い位置にあるのではないかという気がしています。 ===================== 前置きが長くなってしまいましたが以下本題です。#30のお礼欄に戻り、誤解と感じる所にコメントしたいと思います。 「この公理を破るあたらしい公理」を考えるつもりはありません。公理は疑い得ないものですから、思考の停止を意味します。だから公理は少ないに越したことは無いと考えています。質問者の方から見るとむしろ私が「公理ということをしきりに嫌う」ように見えるかもしれませんが、そういうことです。説明責任は、倫理的には果たすべきかもしれませんが、果たすひとも果たさない人もいるでしょう。果たさない人が人では無いとは思いませんから、それが統合する人格の存在理由の証明に使えるとは思いません。 哲学について、私はとてもそれを語れる立場にあるとは思えませんが、少なくとも知性や学問の王であるとは考えていません。 普通は疑わずに常識として済ませるところを、何でも疑ってみることが許されるところが、哲学の特色の一つだろう、という程度の理解です。何でも疑い得る中で何を疑うのかは自由だと思いますし、そうやって何でも疑うことは、思考の進め方の一つに過ぎないのであって、それが「王」であるなどとは全く思いません。質問者の方も、「《そうとは限らない》ところをつねに穴埋めします」と仰っていますので、この点に関しては捉え方に大きな違いは無いと思うのですが。 日記については、まだずいぶん誤解があると思います。 「日記にあることをぜんぶ事実だと見なしてよいか?」という質問に対しては、事実でないこともあるでしょう。 でも同様に、或はそれ以上に、人の頭の中の記憶も事実でないことがあります。記憶は事実でも嘘をつく場合もあるでしょう。果たして真実は日記に書かれたものなのか、それとも本人の今の発言が真実なのか、議論になる場合もあるはずです。極端な逆の例として、その人が日記の中に別の人格を持たせるという場合もあり得ます。その場合には日記に書かれていることは、全部嘘かもしれませんし、その人の現実世界での説明責任を果たす上で日記は何一つ役に立たないでしょう。このような極端な例を別にすれば、その人が生きている間は、日記はその人と一体になって説明責任を果たすでしょう。繰り返しになりますが、日記だけが説明責任を果たすと言うつもりはありません。しかし日記などの文章だけが単独でものを言う場面も無い訳ではありません。例えばその人が亡くなった後で「心のこもった」日記や手紙等の文章が発見された場合などです。少し本筋からずれてしまいますが、「心がこもっている」というのはそういうことではないかと考えています。 私がこのように考えるようになった大きな理由の一つは、事故等で海馬を失った人が使っている手帳の存在を知ったことです。新しい記憶ができなくなった彼らにとって、手帳は普通の人の脳内の記憶と同じ価値を持っていて、人格の一部になっていると感じました。 多重人格と呼ばれる病については、それがどこからやってきたのかには関係なく、少なくともその病の状態では、ひとという一つのハードウエアと複数の人格とが一対多対応している状態だと考えています。その病がどこからやって来るのかについての私の推測は、#26の2項後半や#20の第三段落でお伝えした通りです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 1. 質疑応答のあり方について 《情報交換》と理解しています。回答者および質問者 双方の情報と言う意味に理解しています。 ★ 意見表明や議論喚起 ☆ 見る人によって何とでもというほどに見られましょう。討論とでも けんかとでも見られましょう。 ですが 質問者としましては あくまで情報交換において互いの問い求めを進めていくという基本線にあります。 ★ 議論して合意に到達しようという意思はありません。 ☆ むろん 《見解の相違》において合意に達するという場合があります。微妙に理解の仕方が違うとは思います。回答者にしろ質問者にしろ 一方的に情報を流すというようなやり取りではないように理解しています。またただし 回答者は 途中であっても やり取りをやめるのも自由でしょう。その点は 優遇されているかたちです。質問者によって引き留められることはないというかたちにおいて。 2.《ネット人格》はあるという根拠について ★ ~~~ 恒久的な例は、多重人格と呼ばれる病です。この場合にはリーダーの管理能力は完全に失われています。特殊な例ではありますが、この実例が、ネット人格をあり得るとする最も強力な根拠と考えています。 ~~~~~ ☆ これは ネット人格を 《多重人格と呼ばれる病》の一種とするのか よく似た状態として捉えるのかで違って来ませんか? 後者だとすれば 《病》ではないであろうし 似てはいるが じつは別の人格というところまでは行かない状態であるかも知れません。 つまり そうだとすれば まだ決まりませんね。 そこのところを 互いにそしてみなさんとも 問い求めているのだと思います。 もし《まだ決まらない》となれば 消極的にながら ネット上での自己表現にかんして何か人格のようなものが出来ているとは言えない。こういう中間の結論になるとは考えます。 なお ほかの根拠や状態の特殊性などについて 次に考えます。 3. 自由という公理にともなう《説明責任》について ★ 説明責任は、倫理的には果たすべきかもしれませんが、果たすひとも果たさない人もいるでしょう。果たさない人が人では無いとは思いませんから、それが統合する人格の存在理由の証明に使えるとは思いません。 ☆ たとえばこういう問題だと考えます。つまり 公理ではなく 人為的につくり人びとが取り決めあった法律があります。いえ これは憲法ですが たとえば納税の義務という条項があります。 公理ではありませんが この場合でさえ 例外はないのです。納税の義務を果たさない人が人では無いとは誰も思いません。けれども 人格は その存在〔としての単位体〕についてひとつです。 ★ 統合する人格 ☆ この表現を いまですが いま 言い直そうと思います。人格は ひとつ。というかたちにです。 人格の部分的な側面またはそれと同じような意味での性格 これらを《ひとつの人格》は 統括している。です。 4. 哲学の位置づけについて ★ 哲学について、私はとてもそれを語れる立場にあるとは思えませんが、少なくとも知性や学問の王であるとは考えていません。 ☆ これは 推測を間違えました。あやまります。 5. 日記について ★ 「日記にあることをぜんぶ事実だと見なしてよいか?」という質問に対しては、事実でないこともあるでしょう。 ☆ とわたしは指摘しただけです。 ★ このような極端な例〔* つまり 虚構として書いた場合〕を別にすれば、その人が生きている間は、日記はその人と一体になって説明責任を果たすでしょう。 ☆ つまりこのように説明責任を果たすという場合にも それが 説明責任を果たすに足る事実だと証言するのは その本人でありそれとして《ひとつの人格》であると申し上げています。 これは一貫していますので 回答者さんは 故意にこだわっているとしか思えません。 《日記の文章が心のこもったものだった》話も 《手帳が脳内の記憶と同じ価値を持つ》話も 《本筋からずれて》います。《ひとつの人格》のもとに そのような場合もあると言うに過ぎません。《ひとつの人格》説を否定するものではない。のではないでしょうか。 6. 《ひとという一つのハードヱア》という表現について 人は 《ハードヱア》ではないでしょう。ものごころがついてたとえば言葉をおぼえて話すようになるといった《人間化》の過程を経ることが必要ですが それ以前は だからハードヱアだということにもならないでしょう。そういう言葉は好みませんが 使うとしますと 《ハードヱアとソフトウェアとが一体となった存在》です。身と心に分けたとしても 一体であるはずです。 病になったから この《ひとつの人格》が 分裂してしまうわけではありません。そういう症状を見せているだけです。また強調して 多重人格と言ったりするだけでしょう。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
根本的に、思考的背景が浅いところに2つの観念の対比(リアルとネットという対比)が生じているのが《ネット人格》という語彙を支える構造であるため、人格というテーマに混ぜ込むべき事項ではない、というのがわたしの投稿の主旨です。 つまりこの語が拡げうる議論は、論点を絞り出すところから始めなければならないでしょう。たとえば、ネットコミュニケーションでは大脳新皮質と眼窩前頭皮質が過度に働くであろう、そして、情報交換における報酬と快楽が意思決定や行動の動機となるはずである。このとき、他者とはどのように存在を規定されているか、しかし自己とは、旧皮質の情動的な階層を保って世界を認識しているがゆえに、情報が制限されるネットコミュニケーションにおいては、他者に対して自己に都合のよい情動性を投影することによって、新皮質および眼窩前頭皮質が満足するような共感の擬態を単独に創りあげようとするだろう。。。。 、、、たぶんまず伝えておくべきは、《ネット人格》という語彙が小中高生の、ううん、大学生の大方も変わらないけれども、こどもの語彙だとわたしが思っているということでしょうね。いわゆる学校裏サイト的な場所にふさわしい。といっても、こどもカルチャーも侮れないのが現代らしさで、言葉は独り歩きして、軽い符牒として大人が使うのにちょうどよい按配になっているのでしょう。その軽い符牒は、《リアル人格》というこれまた軽い符牒と1対なのですが、人格にリアルもマドリードもへったくれもないわけです。それらの符牒は本質的に人格を解析するための論理構造に支えられているのではなくて、本質的にネットを人間の存在論的ツールとして捉える(道具を使う人間の道具との関わりに焦点をあてる)論理構造に支えられているのでしょう。 返信いただいた内容は扱っていることがらが違うと感じましたので応答のかたちになりませんでしたが、こんなところで参考になれば。 *** 先日わたしの質問に回答をくださったばかりのサイコロさんがおやめになったようで、サイトから自らを引き剥がす弾みがついて良かったねと申し上げますが、外国暮らしは寂しいですから、いつでもまた来てはいかがと添えます。 そういえば、ブラジュロンヌさんはわたしにお尋ねでしたね。ブラジュロンヌさんが超ド級の規約違反の私信で質問を立てたのがあんまりなので、お気を強くという回答を付けました。あのとき、『美の乞食に問う:醜さとは何か』は欠席裁判だと思うかどうかとお尋ねでしたね。 わたしが思うに、あの質問には、ブラジュロンヌさんのカリカチュアが質問の前提に混ぜられた可能性は伺われます。質問者本人にはそのつもりはないかもしれませんが、わたしは半ば無名のなかに半ばブラジュロンヌさんを思い浮かべました。見る人が勝手にあてはめるカリカチュアの本来の働きというわけです。カリカチュアであるとしてもボードレール風を模倣したスタイルによく嵌っており、スタイル演出の役割を果たしていると感じました。そして、導入部の枝葉末肢のことよりも質問の本筋が美学の問題として良質でした。実際、ブラジュロンヌさんのことを示した回答はありませんでしたね。 はっきり言って、あんな模写の芸当は20代を捧げたくらいの積み重ねで身に付いた成果のひとつであるはずなので、質問者はこんなところにはもったいないボードレール研究者だとわたしは思いました。 もう一度言いますが、回答群には、ブラジュロンヌさんに関するものがありません。暗黙にもです。 わたしの文章などは、指示語が先に立って、説明的術解を直後に置くようなことを平気でするので、(猪突さんはたぶんそれを面白がって褒めてくれていたように思うけれど)、もしや暗示があるのでは? などと思って読まれると思い込みに揺さぶられて脈絡の明晰さが損なわれかねません。読みにくいと思って飛ばして下さる方は問題ないのですが、長い伏線や脈絡を辿れず勝手な読み込みをする方がいちばん相性の悪い読み手です。 ブラジュロンヌさんがサイコロさんに対して書いていたのだったか、どこかでわたしの投稿の冒頭部分を引用しておられたのを見ましたので、そしてまさにそれが、指示語が先に立っている代物で、しかもボードレールの文を括弧付きで織り込んであるものでしたから、読み間違えてるなというのはわかったんですが、まあ、後の折にボードレール本文もご紹介したのでブラジュロンヌさんなら読み直せばわかるだろうと思ってそれきりに。以下の#13の回答ですね。ギースと言う人は、ゴシップ紙の挿絵画家で、ボードレールが論じた人物です。 http://okwave.jp/qa/q7166906.html?pg=3 「同心円の事象....その事象に巻き込まれている」とは何を指しますか? 答えは 「インターネット」、または「インターネット時代」です。数行後に書いてあります。 この際、黙って聞いていただきたいのですが、 折々、ブラジュロンヌさんは被害妄想と混乱と記憶の書き換えが涌き出る。と数名は思っていることと思います。 証拠になっていないものを証拠のように揚々と挙げてくるし。。。 これらを装って挑発の種にしているとみるひねくれた向きもあるやもしれませんが、装っても天然でもどっちでも同じです。 あと、あのボードレールの自訳というかスサノオ訳には、あまりこだわらないほうがよいと思います。 訳す心のスサノオをして訳した文もきわめてスサノオなので、訳した態度もスサノオでうっちゃるのが妥当というものです。 バイタ電波、は、チャネリング系のようで面白いと思いました。 わたしは、ブラジュロンヌさんをブロックしたことはありませんよ。されたことはありますが。 そろそろ桜もほころび始めました。よい春を。
お礼
《ネット人格》論は それほど大きく問題がこじれているとは見えないのですが? あまがっぱさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 《赦し》論のほうで長い議論をしました。あとに回してすみませんと思うのですが そのあと 息抜きにほかの質問を見ていました。こんな回答が目につきました。 ▼ ~~~ お礼欄はお礼のためのものである。 考えが異なったり、間違っていると思えたとしても、ただスルーするようにと、ここのガイドラインに書かれています。 ~~~~ ☆ 例によってなのでしょうが たぶんそれだと哲学カテの意味がなくなりましょう。 かえって別件から入りましょうか。 ☆☆(No.64お礼欄) うやむやで済ますことを避ける そのことのみでしるします。 ☆ この条件においてのみ触れただけでも 異議ありということのようです。 欠席裁判か否かの判定については 次のふたつの文章から出来ると思われます。ちなみにわたしも投稿していますが 途中からブロックされたということです。その時点で欠席裁判が無条件に成り立ちました。 ▲ (【Q:美の乞食に問う:醜さとは何か?】趣旨説明欄) ~~~ 美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。 ☆☆(【Q:《いきほひ》の美は 縄文人の火焔型土器が原点か?】趣旨説明欄)~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7168385.html (β) 《次の作品は 果たしてうつくしいか?》 ( a ) 尾形光琳 紅白梅図 ( b ) 大徳寺龍源院 枯山水(方丈前の石庭) ( a )は初め ひょうたんのお化けかと思いました。 右側に描かれている紅梅は みごとにその枝っぷりをしめしていると感じましたが 左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えます。 色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが 第一印象は そんなふうです。美とは感じません。 けばいとも感じられる金色は ぎゃくにあざやかだとも感じられますが。それは 洗練されたアマテラス人格語の成熟度を表わしましょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ あまがっぱさん。さらにご見解を吟味しつつ思ったことですが もうこれ以上は不毛です。《触れているか》どうか これだけで話は決まりましょう。その質問者が すべての発言をウソで固めているという反面の事実にもよります。その人間が ★ ~~~ 「同心円の事象....その事象に巻き込まれている」とは何を指しますか? 答えは 「インターネット」、または「インターネット時代」です。数行後に書いてあります。 ~~~~~~ ☆ というとき あまがっぱさんの心つもりとは別に わたしの文章もその同心円に入るとわざわざ言っているのですから。(そのお礼欄) そして《特定の人とは関係ありません》とことわったから 関係ないということにはなりません。 こんなところでしょう。 ボドゥレールの翻訳は わたしのそれの問題ではありません。からみましたが 問題はそれとは別に成り立ちます。 * ネット人格は 《人格》と規定するのが間違いだということで おおむねみなさんが納得していると思います。せいぜいが 性格だとか人物像だとかキャラだとか そういった部分人格であると。 前回は リアル人格との対比に重きが置かれていました。今回は たしかに《ネット人格》じたいの内実を分析しておられます。詳しくなると思いますが 結論が変わらないだけではなく その理由についても 同じ筋道に見い出される内容だと見られます。 ★ 本質的にネットを人間の存在論的ツールとして捉える(道具を使う人間の道具との関わりに焦点をあてる)論理構造に支えられているのでしょう。 ☆ ちょっとワルを演じたいのなら 旅の恥はかき捨てといったように《旅》の事例を ネット世界に喩え得るものとして出しました。実生活ではほんとうのことを言えないから言いたいというための表現の場としてなら 旧いですが《目安箱》の事例を出しました。 このように日常生活のほかにそのひとつの側面として 生活の道具であるような事例を出して ネット世界と同じようではないかとたずねました。 特に問題も見落としもないと思うのですが。 * ★ ~~~~ わたしの文章などは、指示語が先に立って、説明的術解を直後に置くようなことを平気でするので、(猪突さんはたぶんそれを面白がって褒めてくれていたように思うけれど)、もしや暗示があるのでは? などと思って読まれると思い込みに揺さぶられて脈絡の明晰さが損なわれかねません。読みにくいと思って飛ばして下さる方は問題ないのですが、長い伏線や脈絡を辿れず勝手な読み込みをする方がいちばん相性の悪い読み手です。 ~~~~ ☆ このあたりがなお気になりましたが そしてあとでヒラメキを得て考え直すことになるかも知れませんが いまでは このように思います。すなわち つねに・そしてどこまでも尋ね返せばよいと。問いと答え この繰り返しであると。 こんなところです。
補足
まづは 言い落としました。すみません。 春爛漫に向けて 毎日をすこやかにお過ごしくださいませ。 ★ チャネリング ☆ って何ですか? 占いかなんかのたぐいですか? 現実のことであると言うために さらに事例を出しておきます。 繁華街を夕方あるくと 接客業のおねえさんたちが それと分かる姿で見かけられます。出勤ですね。 交差点では 信号によって止まります。ちょっとした人ごみをつくります。そのとき やはり その種のデンパが来ます。 いわゆる余裕としてのアソビだったら 放っておきますが 時には あたかもすでに意志をかたちづくるまでの勢いでその念力をも込めて 発射する場合もあります。ですから こちらは言います。《違法バイタ電波行為は やめなさい》と。 バスの中などで見られる反応とは違ったものが返って来ます。どんなだと思いますか? ふつうは―― 一般の女性たちは―― 顔を背け目線をあちこちにやって 知らん顔をするのですが けっきょくホステスさん方は もうすでに《ええ 分かったの?》と言うかのように 一瞬の間ののちに まづ アハッと笑います。そして たいていはこちらを向いて さらにニコッとして アハッ アハッ アハハハハーと笑い続けます。その内 信号が青に変わると 隣りの女性らと談笑して去って行きます。
お礼
あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (1)個人人格の認識 ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~ 人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で, 「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。 この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~ ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等 ☆ 生活態度は 思想である。 ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。 ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か? おそらく内包だと思われる。 ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か? 外延として扱いたくなるところのやはり内包。 ~~~~~~~~~~~~ (2)個人人格の形成 この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。 2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。 3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。 5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として: ★ ~~~ 自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。 個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 ~~~~~ (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面: ★ ~~~ たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 ~~~~~~ ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。 イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが? マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。 (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。 このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。
補足
お礼欄から続きます。 (3)個人の創作的人格 (4)人格対象への個人人格の自己投影 これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。 特に《演技》論などについては 試みの議論です。 (3-1) 《創作性》について ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~ 3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 ~~~~~~~~ ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 ☆ と。 おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。 もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。 あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。 (3-2) 創作性にちなんで《演技》について ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。 ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。 そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。 (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。 ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。 ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。 ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。 ☆ さらには ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~ すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。 かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。 ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。 ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時 ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。 役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 ☆ 《ひとつの人格》をめぐって: ・その内包としての表現力:役者力 ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの 両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。 この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。 (4-2) 《自己投影》 ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。 ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。 人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。 ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。 いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。 さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。