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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?)

【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!

このQ&Aのポイント
  • ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
  • ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
  • ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。

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回答No.67

こんばんは。No.14,16 あともなどすです。ぶらじゅろんぬさんと同じく「人格はひとつ」の立場から「ネット人格」といわれる事情を,性格と人格の用語の混同としてまず回答し,人格の一性の法的要請を補足したものですが,不文律も重視しており倫理的要請等にも同意しています。そして私自身も人格と性格がよく分かっていないと述べました。その後,人格について考察を深めましたのてこれを述べたいと思います。 (1)個人人格の認識  ものを見る働きには「違う」と「同じ」があります。「違う」とみれば「同じ」と見えない。「同じ」とみれば「違う」と見えない。「違う」と見れば「多」になり「同じ」と見れば「一」になります。 思いつきでは「多」と「一」どちらかにしか見えないけれど,思いつきから自由になれば「どちらで見ようか」と問うことができ「多としてばかり見ていたから一として見よう」と答えることができます。また逆に「一としてばかり見ていたから多として見よう」とすることもあります。  どちらにでも認識可能だという答え(相対主義)があるので,どちらに認識可能かという問題意識は私にはありません。当為の問題として「どちらで認識すべきか」が私には意識されます。人格のごとき抽象的概念は「一」か「多」を恣意的に決めたものだという考え方をします。人格というのは「一」として要請,構想されたものという考えです。  ところでガリレオでしたか,科学の方法には分析と総合があるといっています。「一」から「多」に認識を変えるのが分析,その逆が総合にあてはまります。「一」なる人格を分析によって「多」と認識されるものは,部分人格といい,性格性の消失直前の深さまで分析されたものは性格(単位)といえるでしょう。この性格単位には多種の外延があります。  さらに深くなるとよく分からなくなります。身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等外面的な手掛かりを失うために内面的観点から分析することになると思います。ここではそれを保留しておいて,人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 (2)個人人格の形成  社会と個人の関係を双方向から眺めてみます。まず社会の側から個人の人格を眺めれば,一つずつ性格的特徴が現れ,眺めた個々個人の内側ではそれが性格群として統合されていきます。眺めた者同士,その人格に関する主観を交えれば客観的なものに変わっていくでしょう。社会の主観客観入り混じってはいると思いますが,それをもって眺めた側が対象人格である個人に接するので,個人は社会から自己の人格を規定されていくといえます。  たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。  さて,気をとりなおしてもう一方ですが,自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。個人はある性格を,統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。  このように,人格は状況により変じ,時とともに拡大成長して,あるいは場合によっては縮退して,形成されていくのだと見ることができます。いいかえれば社会環境と個人の相互作用によって個人の人格が形成されることは上の様な理解に基づいています。(逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) (3)個人の創作的人格  「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。  創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。「リアル人格」などという言葉がでてきましたから現実性で比べてみますと,後者がより現実性を持つといえます。  ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それて現実的人格を見てしまうということです。  演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 (4)人格対象への個人人格の自己投影  創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。  現実人格も形成的であり創作的であると言いましたが,現在の人格が拡大成長する場合,新たな性格が統合化されるはずです。その性格が社会からの働きで形作られたものであるにせよ,社会への適正化を図るため自ら創作したものであるにせよ,そこに現実的人格を覆いかぶせなければ社会側,個人側どちらから眺めるにかかわらず,現実的人格とはならないのです。  創作人格は,いわば現実性をもたない空虚な性格群に,現実人格を投影し,現実性を持たせることによって現実的となるのです。現実人格の現実性に依存する限り,創作人格はよく言ったところで現実的人格どまりであって,現実人格では有り得ないのです。   以上の考察から,「ネット人格」が人格といわれる事情は,以下にまとめたことの理解もなく表現されたということだと思うのです。 ○「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ○「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ○人格の単一性は,当為認識性によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを基盤とするような特殊な単一性であるといえる。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1)個人人格の認識  ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~  人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,  「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。  この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。  ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~   ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等      ☆ 生活態度は 思想である。   ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。      ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か?        おそらく内包だと思われる。      ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か?        外延として扱いたくなるところのやはり内包。  ~~~~~~~~~~~~  (2)個人人格の形成  この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~   1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。   2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。   3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。   4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。   5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として:  ★ ~~~  自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。  個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。  ~~~~~  (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面:  ★ ~~~  たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。  ~~~~~~  ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。  イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが?  マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。  (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。)  ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。    このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄から続きます。  (3)個人の創作的人格  (4)人格対象への個人人格の自己投影  これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。  特に《演技》論などについては 試みの議論です。    (3-1) 《創作性》について  ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~  3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。  ~~~~~~~~  ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち  ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。  ☆ と。  おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。  もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。  あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。  (3-2) 創作性にちなんで《演技》について  ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。  ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。  そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。  (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。  ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。  ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。  ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。    ☆ さらには  ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。  ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり  ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~  すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。  かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。  ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。  ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時  ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。  役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。  (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について  ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。  ☆ 《ひとつの人格》をめぐって:  ・その内包としての表現力:役者力  ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの  両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。  この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。  (4-2) 《自己投影》  ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。  ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。  ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。  ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。  人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。  ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。  いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。  さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。

その他の回答 (72)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.44

#42です。 一般論としてですが、相手の癇に障るようなことを言えば、当然、それに対する反発があってもやむを得ない、と考えるのが自然です。 わたしのような凡人同志の場合では、「相手の癇に障るようなこと」をつい言ってしまいがちです。 そうして泥試合になることもあるかもしれません。 しかし、仮にどちらかがブロックしたことがわかれば、ノーサイドの合図だと考えます。 なぜなら、「どんな理由にせよ、交流を絶とうと決心させるほどの言動を自分がしたのかもしれない」という想像力が働くからです。 それが普遍的に正しい理由であるか否かは関係ありません。 【相手にとって】正当な理由であることが重要です。 それはおかしい、と言って穴倉に潜り込んだ相手を引きずり出すような乱暴なことをするのは哲学的かもしれませんが美的態度とは言えないでしょう。 わたしが言っているのは、これだけのことです。 > ですから わたしの行動はすべて――すべてです―― 受け身からのものです。 >決してわたしのほうから 何かを仕掛けるということは いっさいありません。 : そうでしたか。 そこまで高尚な方とは存じませんでした。 しかし、前回のご質問に対する回答の冒頭で述べたことでもありますが「ブラジュさんにしては言葉の持つ力を軽視しているように思える」とやはり言わざるを得ません。 つまり、「いっさいない」というのはブラジュさんの認識にすぎないわけで、相手にとってはそうでない言葉として伝わっている場合もしばしばある、という単純な事実を無視しておられます。 > それを外して そのあとの行動をうんぬんしている。そういうことです。 : とおっしゃいますが、外してならないとお考えになっているその大前提自体が前提として成立していない、という視点でぜひ再検討なさっていただきたいと思います。 このようなお考えでは、例を出せとおっしゃっていますが、例示に対する我田引水の解釈を聞かされるだけですから無意味でしょう。 と申しておきながらお願いするのも虫の良い話かもしれませんが、しきりにおっしゃっている欠席裁判とはどのスレのことを指していらっしゃるのか教えていただけないでしょうか。 そこから別の視点での回答が可能になるかもしれませんので。 無理にとは申しません。 一応のお願いはしても、どうしても嫌だということはごり押ししない主義ですので。     

bragelonne
質問者

お礼

 もし主観の問題だと言いたいのであれば それは まったくにおいて・無条件に 《お互いさま》なのです。  そのことを何ら考慮していない。つまり けんかは ぜんぶ ぶらじゅろんぬがわるいと 一方的に言っていますし 当事者の一方だけをなじっているということです。  話になりません。    われに還ってもとのあんたを回復したなら また話しましょう。

noname#151121
noname#151121
回答No.43

 こんにちは。ネット人格どうしがけんかしているように見えます。  けんかは受容の無さからくると思います。ひとがネット人格で変身願望を満たそうとする理由も他者からの受容や自己受容の不足にあると思います。人が人と受容しあうことは難しく、アダルトチルドレンの人にはなおさら難しいといいます。  http://ja.wikipedia.org/wiki/アダルトサヴァイヴァー  http://ja.wikipedia.org/wiki/アダルトチルドレン    アダルトチルドレンは人生を通じて他者を受け入れすぎていて、他者からとくに親から気分や言葉やルールを押し付けられることに慣れすぎているため、自分のルールを人に押し付けることに戸惑いがあまりなく、言葉などをやりやりする加減をはかる感覚が麻痺しているのか、だから自分は長文になるしずけずけ書いてしまい、なんでも言葉にしようとか精神のストリップだとか言い訳をし、文芸とか詩とか哲学とかいう枠に甘え、さいきん隠れ仁科になっているのですが、自分の分際を弁え埋没する練習をしていて、ついだらだら書いてしまいますがあまりばれることはなく、今はあんまりけんかが起きるのも問題だと思います。  私やブラジュロンヌさんはけちな父親が少ししか受容してくれなかったので、生育環境的からいってアダルトチルドレンかもしれません。たぶんありふれた普通のアダルトチルドレンだと思います。ACの問題の肝である受容不足は、家庭や個人や社会や世間やネットにもあまねいていて、宗教や信仰や、犯罪とか戦争とかの問題にも通じているものだと思います。    ACの人は自己受容が苦手なので他者とも互いに受容しあう感覚がなく、人と受け入れあうイメージを持ちにくく、自分が人と互いに受容しあう場面を自分のこととして思い描けず、受け入れられまいという不安や受け入れられたいという期待が強くありすぎて、疲れてしまい、対人的気分や対自的気分が薄くなり、対人的期待や対自的期待が弱くなったまま生きることになります。なっています。私はなんとなく手応えがなく、なるべく自分の感性に接着していたいとは思いますが、人と人が生きるなら確かな人々どうしの共生が平和を生み出すと思いましたが、それはたんなる言葉でしかなく、実感としての受容がまるで無いままです、仲よくしましょう←知ってます、出来ません、だっていちいち気持ちが吹き荒れるので、受容できず受容されえず不和はどうすることも出来ないのです。  brさんは人間どうしの受容が苦手だから神さまと受容しあう必要があって、それが信仰の動機なのだろうと思いますが、人の来し方は長いし知らないのでよく分かりません。ブラジュロンヌさんには信仰のぶ厚い受容があるなら良いでしょうけれど自分にはそれがありません。キリスト教は闘いと情熱の宗教らしくて自分には合いません。神さまとの受容では人との受容にはならないのでけんかするのだとも思います。    もしbrさんがACで、またそのことにbrさんや他の人たちが気づけば、けんかやいさかいも減るのではないですか。  ACはこの社会の人々の多数派だといいます。他者を仲間だと信じることが出来ず受容できない、そんな人が多数派であることも世界だから戦争等々がいつも起きる理由だろうと思います。  ACは病気ではないという理由は人々の大多数がACだからだそうで、社会の多数派が病んでいて病んでいるというか不完全というかただ単に受容を欠いています。受容するちからや経験の欠乏が受け継がれています。    ネットでならネット人格という部分人格によって人と仲良くすることが出来るだろうと思っても、アダルトチルドレンの人の吐く言葉はアダルトチルドレン的になり、本体がACをもつ人格なのでなかなかネットでも人と受容しあえず、むしろけんかしあうことの方が自然な状態で、不自然にACの人でも受容関係を築くところに辛うじて美みたいなものが起きるのかも、でも無理すれば祟ります。  したくてしているようなけんかではなさそうで、ついけんかしてしまうことや、どうにもけんかすらできないことをも、じぶんで受容すると良いのかも。  心が薄くなります。言葉で指摘したりされたりしても心が薄くなるばかり。どうせ人とのあいだに人間的受容はおこらないという諦め、その諦めを共有することによるAC間のきずなは?  ACかも知れない人に『あなたは普通にACかもですね』と書いても、どうにもならず、人にACでなくなるよう変更を求めても甲斐がなく、人から何かを指摘しても効果は薄いらしい。無条件の共感が大事らしいとは書いてあった。  同じACどうしは共感が出来るかも知れない。世の中の大部分の人がACらしいのでしばしばできるだろう。ただACでない人には難しいのだろう。どうしてそんな? と思うような反応をするものだから。そしてそのとげとげしさはAC本人にとっても驚きだったりする。  受容欠乏によるけんかをなんとかよさせるには、ACは傷ましいのだと周りの人たちに言うしかないような気がする。  人どうしがあまお互いの苦手について了解していないと、自分が自身や相手に何をしているのか分からない。ACの不受容さは深く長いので、人が言葉で指摘してすぐ変わるようなものではない。  期待できないことを自他に期待するとけんかになる。ACの人にはまず無条件な肯定や共感が必要なので、全くの受容をbrさんにするしかないのだろうか。それが一番よいのかも知れない。    サイコロさんは自己受容が上手そうなのもうらやましい、確かな自己受容がこちらからはまるで人間業ではないように思う、それ僕ばかりでなくbrさんにとってもなのかも知れない。自らにはなかなか出来ない自己受容への憎悪さえあるかも知れない。  自他への受容が成るのも成らないのも人によくあることなのだろうけれど。  人を受容することが出来ないのにそれが出来る自分だと思うと、その過度な自己像のせいで心が軋む。仲良くなんかうまく出来ない、そこをごまかすと事態がよじれ、人への受容ができるとかできているはずの自分なのにそれが出来ないのは相手が悪いからだとか、相手が人でさえないためだとかいう理屈に走ったりして、辻褄あわせに奔走することになると思います。  私は受け入れられるという過度な期待を持ちながら書き、自己批判でもありながら指摘なら不寛容さを伴うので、すると心が自動的に閉じるのがACで、全受容が基本的にないと落ち着かないとか。    ACの人にとって受容が上手くいかないことの方が自然で、人を受容することが難しい者どうしはそのもどかしさや無気力感を共有しあい分かち合いやすいのでしょう。ACは多いといっても、そういう自覚した人どうしが関わりあうことは、自助グループとかACのサイト以外では少なく、ACの自覚がなければ自分が人を受容できないわけがないと思うことがあるし、自分を受容しない相手を悪人のように扱うことになるかもしれません。  石を投げれば100人中60人くらいはACにあたるらしいですし、ネットでもたぶんそうで、なら人はACの人のACらしさをおもんぱかる必要があるかもしれず、ふまえるべきかもしれない。ACの人に成熟した大人らしいふるまいとくに受容そのものを期待することはできない。ACな人の受容と共感があるとすれば、自覚的ACどうしの受容と共感しかないかも知れない。受容のない共感の方法は、同じひとつの敵を憎むことというつまらないような、すべきでないことあるいはそういう不快で楽しいこと。  なぜ人は(ネットでも)いがみあうか。→ 交流分析によれば、互いの内なる三者――大人A、親P、子C――の役割が錯綜しているためとか。  http://ja.wikipedia.org/wiki/交流分析    brさんはよくけんかしているけれどなぜ敵が要るのかと思います。  受容のない人にとって世界中の人々はいちいちどこかしら敵であり、仲間にはなりきれない。  自分は父親や社会が敵だったりしたことがあり、彼らには否定が多く自分はそれが嫌でならず、不完全な世の中には敵視すべき勢力にこと欠きません、今も自分を含めた人々の非受容を減らしたいと思い。  敵や争いの場をあえてつくることで仲間や仲間意識が得られるという期待もありそう。  基本的に人は人の味方であるはずだと理性は言い、そばにいる人はきっと仲間なのだろうけれども、壊れた受容が誰に対してもそれは自分の味方ではないと言い。  そこを自ら曲げてつまり自分の苦手を看過ごして、自分は人と容易に仲間になれるはずだとかんがえていると、過ぎた期待なのでその無理が祟り、けんめいに多くの人と仲むつまじくしようとしながら可適応の反動がおきて、誰かてきとうな敵を見つけて邪険に扱いたくなる。  敵として相応しいのは、自分に似た能力を持ちながら、性質においては自分との真逆を行っていて、またその目的がまるで同じだったりするものです。ブラジュロンヌさんにとってそれがたまたまサイコロさんとかだったりするのだと思います。似た能力は語学力で、性質の違いは自己受容の有無、同じ目的はひとと仲良く話すことだと思います。  http://xxlarmesxx.blog134.fc2.com/blog-entry-625.html ACから回復した人たち

bragelonne
質問者

お礼

 あまりありがたくないご回答をありがとうございます。  まづ 質問に答えなさい。  ☆☆ ~~~  《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?  現実の《わたし》なる人格とは別に そんなものがあるのですか?  ~~~~~~  ★ ネット人格どうしがけんかしているように見えます。  ☆ ただ見えるだけ。  ★ けんかは受容の無さからくると思います。  ☆ と同時に きちんと受容したゆえに 相手にその間違いを分からせるために そして相手の物腰に合わせて けんかをする場合もあります。  次のふたつの命題は ムジュンなり:  ★ 人が人と受容しあうことは難しく、アダルトチルドレンの人にはなおさら難しいといいます。  ★ アダルトチルドレンは人生を通じて他者を受け入れすぎていて    ★ brさんはよくけんかしているけれどなぜ敵が要るのかと思います。  ☆ 《要る》わけがありません。  もし 《居る》の意味だとすれば こう答えましょう。  相手がわたしを敵だと見るのを《受容》して 必要なかぎりで それに応対するというかたち。このかたちにかんするかぎり 敵が居ます。  相手によって 理由はまちまちです。なぜなら その相手の・わたしに対する《敵視》の仕方が違うからです。  賽子の野郎は そもそも文学の感覚がないと来ています。専門は ボドゥレールですが だからここでは《詩》ですが その中身については まったくと言っていいほど分かっていません。その翻訳もまったく味気なく死んでいます。ただし その周辺の事柄にかけては 一人前の知識があります。詩人の生涯のあらゆる事柄 その時代その社会のありさま 家族や交友関係 その読書の経歴 その思想等々あらゆる事情を探り出す研究をしているようです。  そして 詩心は ゼロです。  わたしは このことを言ったことはありませんが・つまりいま初めて言うのですが すでに質疑応答のやり取りを通じて そのようにわたしが評価しているということを相手はうすうす知ったのでしょう。だから わたしを敵視しています。  あまさんは どうでしょう? あなたにとっては 知りたいところかも知れません。  あなたは 女性としての心理をどう思いますか?  そして 哲学のこととしては わたしのあまりにものスサノヲ振りに 驚嘆しているということでしょう。うらやましくもあり それは決して学術的なあり方ではないので 見下しているとも言えそうです。  いづれにしても どこかで閊(つか)えるところがあるのでしょう。  あるいは もうひょっとしたら 解消されたかも知れません。  ほかの女性陣。女としての心理 これが 色濃くかかわっています。  割り合いそうではなく むしろ男であるかのように 言わば《押し籠もり》をしてくる場合もあります。  女としての心理というのは 意外と女にも 男と同じように征服欲があるのです。これが満たされなければ 敵視します。憎らしいでしょうね。つまり 憎らしいとか憎いとかという感情は じつは 好意を伴なっている場合がないわけではありません。とまでだけ言っておきます。  はこぶるさんが 突然わたしを敵視し出しました。たぶんわたしの精神分析無用説が そろそろこたえて来たのだと推測します。  ぼさぼさ氏が 投稿の中に敵視する要素をちりばめています。まだ 人間が分かっていないわい。という理由でしょう。  ふられおん氏。わけ分からん。  じねんさん。今回の場合は 納得なすったよう。いつもは ぐずるのに。今回は いさぎよい。  ぷしゅてくす。典型的な《押し籠もり》。  ほかには 見解の相違があっても けんかを交えるというまでには行っていないと思いますが 見逃しがありましょうか?  ★ AC  ☆ なんて 大したこと 言っていないでしょう。ただの心理学ではないですか。  人間が分かっていないわい:  ★ 似た能力は語学力で、性質の違いは自己受容の有無、同じ目的はひとと仲良く話すことだと思います。  ☆ わたしは 言語は八十いくつまなびましたが つまり言語類型論をもっぱらにしていましたので広く浅くになってしまいました。決して特定の言語についての語学力があるわけではありません。  自己受容などと分かったようなことを言っているに過ぎない。  わたしが能天気で(日本晴れ人間であり エポケー人間であり リセット人間であり) 世界との関係においてやわらがしめられており自己をその遥かな緑の野の続く限り十二分に受け容れており それゆえにこそ 多くの人びとをそのまま受け容れることができるということ。これについても 分かっておらぬわい。  目的が 《仲良く話すこと》だと?  ちゃんちゃらおかしい。人はあくまでおのれの自由を問い求めてあゆむ。おのれのであるゆえにこそ ほかの人びとのことに気配りをする。相手が一秒自由になれば そのぶんこちらも自由になれる。という愛――つまりは 人間関係(ただし ヱ゛クトルである)――のことをほとんど誰も知らない。巨大なアース役装置であることも その一環である。アース役であることが目的ではない。  まだおねんねだよ。この被ばくヤロウ。(と言ったままにしておくと 語弊が生じる。やっかいだな 《ネット人格》であることは)。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.42

#38です。 あれこれ瑣末な箇所を突いても、それこそ泥仕合になりますし、他人様の恋愛感を拝聴する趣味もないので、そういうことは避け、極力要点のみに絞って申し述べます。 > ☆ 大事であるもないも わたしはいちども自分からけんかを売ったことはありません。 : なるほど。 つまり、事柄の認知に関して若干のずれがあるということなのかもしれません。 むしろ、喧嘩を売っていないスレを挙げることが難しいぐらいじゃないですか。 否定されるかもしれませんので、念のため補足しておきますと、相手に喧嘩を売らせるような言動をなさっている、と申し上げたほうがわかりやすいかもしれませんね。 これなら自覚がおありでしょう。 それ自体が悪いことだと言ってるわけではありませんよ。 むしろ大いに喧嘩は奨励するという立場であることは兼ねてから申しあげているとおりです。 しかし、くどいようですが、ブラジュさんを嫌がってシャットアウトする相手までを追いかけて喧嘩の続きをやらなければ気が済まない、というのはいかがなものか、と申し上げているわけです。 この一点です。 そんなに難しいことですか? 口幅ったく言ってみれば、コミュニケーションの美学というものを全く欠いた姿勢とはお感じにならないのですか? と申し上げているのです。 小学生の喧嘩じゃないんですから、あいつがああ言ったから俺だってこう言ってやらなきゃ気が済まない、というのはどうなんですかねえ。 > (6) ★ 〔* わたし=ぶらじゅろんぬが さいころクンに対しておこなう〕ストーカーのごとき付きまといもこれでご納得がいくでしょうし、彼も冷静に省みれば気づいてくれるものと思います。  ☆ わたしは すでに方針を明らかにしたように誰に対してもブロックをおこなっていませんが あちらはわたしをブロックしています。その状態で いったいどういうふうに《ストーカーのごとき付きまとい》をおこなうのでしょう?  : すでに上で述べましたが、何をやった、かにをやったは関係ありません。 ブロックしたということで十分意志は表明しているじゃありませんか。 ネガティブキャンペーンだって立派なストーカー行為ですよ。 そんなこともわからんようになっちゃったのかなあ。 > (あ) もし区別をつけるべきだというのならば どこでどのようにしてわたしが区別をつけられずにいたか それを例示しなければ話は成り立ちません。 : 簡単ですよ。 ネガティブキャンペーンを張ることによって、自分をブロックした相手を執拗に非難し続ける。 これは、区別をつけられていない、と言われてもしかたないでしょう。 > けれども 《捨て台詞》は 記憶がはっきりしませんが どうなんでしょう。わたしの心つもりとしては そんな言い回しを使う気はありません。 : そうですね。 ブラジュさんが質問者という立場がほとんどですから、回答者がブラジュさんの気に入るような回答をしない限り暴言を吐き続ける。 回答者が君子として立ち去れば、最後の暴言が捨て台詞という位置づけになる。 こういった構図になると思います。 「結果捨て台詞」と表現してもいいかもしれません。 捨て台詞を吐いて自分から立ち去ったことはない、ということをおっしゃっているのだと思いますが、このようなわけで、本質的には同じ意味になるでしょう。 まあ、どうでもいいことですが、ついでに。      補足も拝見しましたが、先方は謝罪していますよね? 喧嘩も厭わないほどの論議こそが哲学の本懐である、という筋を通すおつもりなら、こうした泥試合になる可能性は当然想定済みでしょう。 その結果として、ブロックして交流を絶ちたいという表明がなされる場合もあるでしょう。 すまなかったという謝罪に至る場合もあるでしょう。 いずれの場合も受け入れるべきだと思います。 そんなに難しいことは言っていないつもりなんですが。   

bragelonne
質問者

お礼

 ですから わたしの行動はすべて――すべてです―― 受け身からのものです。  それを外して そのあとの行動をうんぬんしている。そういうことです。  今回うかがってみれば ぜんぶそうです。  決してわたしのほうから 何かを仕掛けるということは いっさいありません。  ★ 補足も拝見しましたが、先方は謝罪していますよね?  ☆ 謝罪していますか?  別にそのことをとやかく言うために 例示したのではありません。  謝罪の精神が たしかに字面では 最近の文章にも現われている。こうも言えるようです。  といった問題を提出しています。  つまりは では その二年前の謝罪事件と今回の《謝罪の精神ないし 反省の心》の文面とのあいだは どうだったか? という意味です。欠席裁判を二回を初めとして すべて事実を曲げた中傷を書き続けています。それに抗議するわたしの文章が 付きまといだとあなたは言うわけです。  だから ひとつだけでもいいから しっかりと文脈を捉えて これこれこうだと例示したらいいぢゃないですか。わたしが仕掛けたことなど決してありません。  例を出してから デカい顔をして ものを言いなさい。

bragelonne
質問者

補足

 けっきょく No.38の嫌疑は どれもこれも すべて例示無し 証拠無し 根拠無し。  恥づかしみを知りなさい。  きちんと文脈をおさえて 一つだけでいいから 例証してみなさい。あなたの言っていることは いっさいありません。

noname#161175
noname#161175
回答No.41

・・確かに私自身も、自分の守備範囲外のカテに <素人同然で> 参加させて頂いていました事については、百も承知ではあったのですが。 なるほどその様な事情もお有りだったのだと言う事ですね。 重々、承知させて頂きました(笑)。 しかし何事も、初めての事と言うのは知らないことが多いものですね。 今回、私は、実はほとんど勢い任せでこの質問に入らせて来て頂いた訳なのですが・・、 これはこれで大変、勉強になりました(笑)。 やはり人生何事も、日々 <精進> だと言う訳なのですね。 ご教授頂き、どうも有難う御座いました。 ・・今度こそはしくじりませんからね(笑)。 それではまた。

bragelonne
質問者

お礼

 説教までしてしまい お恥づかしいところです。  でも 実情だとは思いますので 当分は こういうスタイルで このカテは行くのではないかとは思います。  ていねいにご返事をいただきました。   ありがとう。

noname#151127
noname#151127
回答No.40

ブラジュロンヌさん、まず外延について、少し分かりにくい表現をしたと思うので、補っておきます。私の話は取り合わないとおっしゃるので、あなたのためというより、全体のためですが。外延とは考察対象に概念を適応することですので、解体も何もあったものではないと思うかもしれません。だが、裏を返せば、不適切な考察対象を外延だと称せば、もとの概念そのものが根底から壊れるのです。要するに外延と含めてよい範囲を規定していないので、あまりに野放図な議論にしかなっていない、と指摘しているのです。結局、ブラジュロンヌさんの議論では、動物の自我が人格とどう異なるのかが、わからない。またご本人の振る舞いも、人間的だとは感じられない。したがって、そもそも人格という概念そのものを破壊している、と伝えたのです。 私の抗議の方については、白紙ですね。都合が悪くなると、これですか。やれやれ。私もこういうときに、あなたの決め台詞をまねして、人間以前の存在であるブラジュロンヌよ、滅びて生まれ変われ、などと言って差し上げるのが良いのかもしれませんね。しかし、どうも大江健三郎の「新しい人」のパクリかな、という程度にしか、あなたの言葉は思っていませんが。 ハコブルさん、ありがとうございます。バイタ的とは、vitalか何かの電磁波の用語だと思っていましたが、「売女」的ということでしたか。こうした語の選択に、彼の人生が透けて見えます。しかし、もういいでしょう。彼にしてみると、聖なる恋の思い出と私が重なっていたのかもしれません。ところが、私は全然別の人間であった。そこで、彼は八つ当たりを私にしているのでしょうし、自分の希望と異なったが魅惑されて仕方ないという意味で、「売女」と私のことを呼んだのでしょう。 私としては、彼の恋の想い出に関連するような記述を並べて、いくらも彼の心をえぐることはできます。ブラジュロンヌさんご自身が張っているリンク以外に、実は他に例があるのです。しかし、七十にならんとする老人が心に秘めている聖なる思い出を汚すのは気の毒です。ハコブルさんのお話には同意しますが、ここでやめておきましょう。それにブラジュロンヌさんは、おそらくは、その方に誹謗中傷されて、じっと耐え忍んだ経験があるのかもしれません。私に対して誹謗し、音を上げさせることが、実は彼の思惑に適っているのかな、とも思えました。ブラジュロンヌさんを喜ばせても仕方ありませんから、放っておくことにしたいと思います。 ゼフィルスさんの方ですが、事情は一切、考慮しないということのようですね。ご承知と思って言いませんでしたが、他のユーザーのことを質問欄で問題にするのは違反なのです。したがって、誰がはじめに問題を起こしたかと言えば、ブラジュロンヌさんと言えます。私としては、No23のお礼欄に抗議したということです。事務局に通報するということもあり得たかもしれませんが、彼を監視して、すべてを通報する訳には参りません。それに「当てつけ」という行為は、証拠が出てこないものです。言い逃れをされて、当人が反省するということもありません。No23のお礼欄は、その明白な証拠であり、現場を押さえて抗議することが、効果的と考えたのでした。 しかし、お話を斟酌すれば、抗議するのではなく、普通に通報した方が、マナーに適っていたのかもしれませんね。それは失礼しました。だが、これは当局に通報すれば、おそらくは質問欄そのものが削除の可能性さえある違反です。せっかく参加なさったのですから、ゼフィルスさんもお嫌でしょう。私もそれは行き過ぎかと思います。当てつけではあるに違いないが、他の参加者はそういうつもりが無いのでしょうから、私としては熟慮した上で、ご当人に抗議するという形をとったのでした。 私としては言うべきことはすでに述べたのですから、あとはブラジュロンヌさんが良識ある行動をとってくださるものと期待して終えようと考えています。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 私としては、彼の恋の想い出に関連するような記述を並べて、いくらも彼の心をえぐることはできます。ブラジュロンヌさんご自身が張っているリンク以外に、実は他に例があるのです。  ☆ これは 思わせぶりであることが いちばん いけません。はこぶるさんがやきもきするでしょう。  明らかにしておくべきでしょう。  わたしはそれを思い出しません。  これだけは 事実に基づこうとする叙述のようです。  あとは いちゃもん・いいがかりのたぐいでしょう。    あとは  ○ 外延  の議論 これは聞いてあきれますが これでも妥当性のある話に聞こえるだろうと踏んでいるようです。言いかえると 訪問者のみなさんは この程度で丸め込めるという腹づもりのようです。  ☆☆ もう猛威をふるうこともないでしょう。  ☆ といったことが 吹き飛ばされてしまいそう。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.38

ブラジュさんこんばんは。(といった挨拶はふだんあまりしないのですが) >ぜふぃるすさん サンキュウ。 : 事情を良く知らない相手に対する、この媚びよう。 あまりにも情けなすぎるじゃありませんか。 それほどご自身の言動に自信が無いのでしょうか。それだけならまだしも、 > ひとつは わたしも 売り言葉に買い言葉で いろいろと返していますので そういうところをほじくりたいもののようです。 : ときたもんだ。 しかつめらしくおっしゃっていますが、【誰が最初に売ったのか】ということが大事ではないですか? (たぶん)彼女がブロックしたのが最初だとして、【なぜブロックしたのだろうか】という点について全く考察がなされていない。 これはブラジュさんご自身に問題があった、と考えるのが正当ではありませんか? 真摯な議論を標榜なさるのであれば、この点について明確に説明できるはずです。 ブラジュさんはわたしを見くびっていると思いますが、これが全ての根本ですよ。 この点について明確な答えがなければそれまでの人物であったと見なすことにしましょう。 太鼓持ちにはなりたくないので、詭弁を弄さず素人にもわかりやすい回答ができるか否かでブラジュさんの誠意を測らせていただきます。 ここで、#36さんへの横レスを挿入させていただきます。 >>ガミガミ電波ならぬバイタ電波を しきりに受けていた。これは 横に近づけば どんな場所でも起こりますが 特にはバスのような或る種の密室において起こりやすい。 バスでその電波を受けていた? 私と関係あるお話なのですか? 私がこのお話から思い浮かべたのは、パナウェーヴという宗教団体のお話ですが、あなたは彼らと同様、電磁波に敏感でらっしゃるのかもしれません。お気の毒様です。 : これは、むしろ非常にわかりやすい症例と考えます。 とはいえ、おそらく、という注釈つきにならざるを得ませんが、つまり、ブラジュさんには、過去に「バイタ」と呼ぶべき女性が存在したと捉えるのが自然だと思います。 これも一種のコンプレックスと言って良いと思いますが、つまり彼の中で錯綜が生じているということが容易に推測されます。 以前にも触れましたが、あなたとその昔の(たぶん)彼女は【本質的な部分で】共通点があるのですよ。 あなたに対する憎しみに満ちた表現は、昔の彼女への代償をあなたに支払わせようとする彼の無意識が働いていることになります。 似ていなければ払わす意味がありませんから。 つまり昔をやり直したいという願望のひとつの表現の仕方でもあるでしょう。 ストーカーのごとき付きまといもこれでご納得がいくでしょうし、彼も冷静に省みれば気づいてくれるものと思います。 あなたが絡めば絡むほど、忸怩たる思いを持ちながらも一種の満足感を彼は得ているはずです。 その意味で、絡んであげるのは一種の人助けと言えるでしょう。    横レスはここまでです。 ついでですから、もう少し申し上げますが、 ブラジュさんともあろう人が、喧嘩と泥試合の区別がついていないんじゃないですかね。 他人には批判するなら根拠を示せ、と口をすっぱくして言うわりには、自分の都合が悪くなると捨て台詞か暴言の言いっ放しです。 恥ずかしく思いませんか? まさか、捨て台詞や暴言にまで対等な返答を期待している、というわけではありませんよね? そこまで他人に甘えているわけではないでしょう。 であれば、その態度を改めるか、または、徹底的な対話こそが重要という看板を下ろすか、どちらかにしてもらえませんか?   

bragelonne
質問者

お礼

 これは まづ話し合いをする態度ではないですね。よってごあいさつをしません。  (1) ☆☆ >ぜふぃるすさん サンキュウ。  ☆ この場合の投稿にはわざわざ 《ご回答をありがとうございます》と述べるまでもないと思ったまで。  (2) ★ 〔* けんかを〕 【誰が最初に売ったのか】ということが大事ではないですか?  ☆ 大事であるもないも わたしはいちども自分からけんかを売ったことはありません。どの事例かを示せばよいのではないですか。  (3) ★ (たぶん)彼女がブロックしたのが最初だとして、【なぜブロックしたのだろうか】という点について全く考察がなされていない。  ☆ この《彼女》とは誰のことか? 明らかにしてください。その場所もです。  (4) ★ ブラジュさんはわたしを見くびっていると思いますが、これが全ての根本ですよ。  ☆ 前回のやり取りの最後のほうの途中から こわれたと思った。それだけ。  (5) ★ つまり、ブラジュさんには、過去に「バイタ」と呼ぶべき女性が存在したと捉えるのが自然だと思います。  ☆ 話の筋が違うと申し上げておきます。つまり     【Q:男と女】( noname#80116 は わたくし・ぶらじゅろんぬです)   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3689191.html  にそうではない種類の女だったと明かしています。それが出て来るのは途中あたりからですが 初めから読んでもらったほうが 分かりよいでしょう。  ですから その推測を前提にした議論は ぜんぶ的外れです。  (6) ★ 〔* わたし=ぶらじゅろんぬが さいころクンに対しておこなう〕ストーカーのごとき付きまといもこれでご納得がいくでしょうし、彼も冷静に省みれば気づいてくれるものと思います。  ☆ わたしは すでに方針を明らかにしたように誰に対してもブロックをおこなっていませんが あちらはわたしをブロックしています。その状態で いったいどういうふうに《ストーカーのごとき付きまとい》をおこなうのでしょう?   (7) ★ ブラジュさんともあろう人が、喧嘩と泥試合の区別がついていないんじゃないですかね。  ☆ この命題(判断)については ふたつの応答があります。  (あ) もし区別をつけるべきだというのならば どこでどのようにしてわたしが区別をつけられずにいたか それを例示しなければ話は成り立ちません。  (い) 《喧嘩と泥仕合》の区別をつけないどころか 《おまえを消すぞ》という脅しをも引き受けて話をつづけています。あるいは No.33の補足欄に書いておいたように 《人格の外延――外延ですよ 外延――》としては 相手に応じてしかるべき言葉による表現をも用いるし 用いて来たと言っています。泥仕合であっても 存在を愛するという前提があるかぎり しばらくは相い応じるはずです。    すなわち《区別がついていない》のではなく ついていても 相手の境地に応じて必要不可欠だと判断するかぎり 屑のごとくなってでも 対応します。必要ないと見たならその瞬間に止めます。  (7-1) ですから  ★ 自分の都合が悪くなると捨て台詞か暴言の言いっ放しです。  ☆ の内 《暴言》は使っています。相手と同じ目線になることが必要だと思えば そうします。  けれども 《捨て台詞》は 記憶がはっきりしませんが どうなんでしょう。わたしの心つもりとしては そんな言い回しを使う気はありません。そして この捨て台詞の場合は相手に応じて使うというものでもないと心得ています。だから たぶん使っていないと思いますが これはいま定かではありません。  例をしめせばいいのではないですか?

bragelonne
質問者

補足

 No.39補足欄は このNo.38補足欄に書き込もうとしたものです。  場所を間違えました。  ぜふぃるすさん 変な書き込みと感じられたと思います。すみませんでした。  こういうことがあるぞと わたしも思わせぶりなことを はこぶるさんに言ったものですから それを言っておこうと思っての書き込みでした。場を間違えてしまいました。

noname#151127
noname#151127
回答No.37

失礼、変換ミスがありましたので。 >別の「擁護」を当てはめた方が良いでしょう。 正しくは「用語」です。

noname#151127
noname#151127
回答No.36

ブラジュロンヌさん、さて補足を読みました。応答してきているようなので、私も簡単にお答えしておきます。 >人格を何か枠組みのある固まったものと勘違いしている。外延はいくらでも いろんなかたちであり得ます。 まず、あなたがいっているものは、人格でも何でも無いようです。人格に関するあなたの意見からは、自己を律するという観点が抜けており、したがって「人」格と、人であると限定する必要がないように思えます。あなたのいっているものは、赤ん坊や動物でも持ちうる意識であって、広い意味での「自我」とでも呼ばなければならないようです。 ことによったら、こうした広いものを「人格の外延」と表現なさるのかもしれませんが、外延まで含めたら、「格」はもう解体してしまっていて、別の擁護を当てはめた方が良いでしょう。 さて、次に電波のお話。私は正直、何をいっているのかつかみかねています。 >ガミガミ電波ならぬバイタ電波を しきりに受けていた。これは 横に近づけば どんな場所でも起こりますが 特にはバスのような或る種の密室において起こりやすい。 バスでその電波を受けていた? 私と関係あるお話なのですか? 私がこのお話から思い浮かべたのは、パナウェーヴという宗教団体のお話ですが、あなたは彼らと同様、電磁波に敏感でらっしゃるのかもしれません。お気の毒様です。 ともあれ、ネットにおいては、私がその電波の発信源だとでもいいたいようですね。やれやれ。私からしてみると、ガミガミ電波の発信源は、あなたなのです。私は嫌なので、あなたをブロックしました。すると今度は、私に直接電波を送るのではなく、当てつけの質問を大量に立てることで、電波を送る手だてをあなたは思いつかれた。その証拠に、No23のお礼欄に、本音として、フランス野郎を退治してやろうという気持ちがあったという旨が書かれています。私からすると、大変、迷惑ですよ。「滅びよ」とはもうしませんから、私の迷惑にならないことをお考えになってくださいませんか。私自身は、自分の質問欄で、ブラジュロンヌ君のいっていることは大間違いだ、とも何ともいっていません。何も言及しないように努めていますよ。 私のことを「押し籠もり」と表現なさっていましたが、私から見ればあなたは、「押し込み」です。説明の必要もありませんが、無理矢理入ってきて、アラシを行う方のことです。「家に入れないぞ」とがんばると、「入れろ、入れろ」と大騒ぎなさる。私としては、そういう方は迷惑ですので、今後、私に関わろうとしないでください、と改めて強く抗議申し上げます。 >知らなかったほうがよかったと言うかも知れませんね。 確かに、お互いに知り合わなかった方が良かったかもしれません。ゼフィルスさんなるご友人ができたのですから、私のことは放っておいて、新しいご友人を喜ばせる問いでもお考えになって、楽しくお過ごしになったらどうでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 訪問者のみなさんに書いているのだけれど。  たしかに何か書いておくことは おそらく必要なのであろう。白紙との違いは 大きいという単純な理由。  ○ 人格の外延  《外延》という意味を取り間違えているため 話になっていない。  あとは訪問者のみなさんが 全体を見渡せるように書いたというのみと確認しておく。

noname#151127
noname#151127
回答No.34

おやおや、私の投稿を一々チェックしているのですか。引用しているように、要するに、あなたのことを話し相手と私は見なさなかったのです。あなたも同様であるということのようです。そういうわけで、お互いに一切関係なく、ここのサイトを楽しみませんか? それが普通の大人の振る舞いだと思うのです。あなたが、いつまでも僻みっぽく、他人を誹謗していることをいぶかしく思います。

noname#151127
noname#151127
回答No.33

 >おかげさまで フランス野郎たちも もう猛威を振るうというわけには行かないでしょう。峠は越えたか または見えたと考えます。 私は複数形の一人ということになりそうです。またこうやって当てつけと侮辱を行う訳ですね。やれやれ。かくも大掛かりな憂さ晴らしが必要とは、ご老人の僻みに呆れつつも、御愁傷様とお伝えしておきます。 ちなみにネット人格は、あなたがご自身が顕著な例であると、私はずっと思っていました。どういうことか。あなたはまず、やたらと引用が多い。これはネットの議論でなければできないことです。それから私と話しているときに、人格がしばしば崩壊しますね。アナウンサーになってみたり、超人になってみせたり。聖人のようなことを言ったかと思えば、僻んだお爺さんになったり。坂本龍馬風の土佐弁になってみたり。丁寧な口をきいていたかと思うと、突如、「ざけんな」などと叫んだり。 これらの実例は、いちいちあげてみせる必要も無いでしょう。しかし、あなたにしてみると、仮にお会いして話していたとしても、同じように、人の言葉を一々引用するのでしょう。また突如、ぶっ壊れたり、多重人格になったり、粗暴な口をきくのでしょう。挑発し、突如、ストリップしてみせろ、などというのでしょうね。 よろしいでしょう。あなたの振る舞いの数々が、ネットならではの遊びを行う人格だと思っていたのは私の誤解であったという訳です。全部、ご自分自身の日常の姿であると。 しかし、・・・ネット人格といった方が、まだマトモな方であるという解釈ができたかもしれません。私に対する憂さ晴らしの一環なのでしょうが、こうやって自分で自分の墓穴を掘っても、あまり意味が無いと思えます。 ちなみに私はネット人格ですよ。どこの世界に、二千字前後も自分の意見をだーっと他人に向けてまくしたてる人がいるものでしょうか。またクドクドと引用する人間がいるでしょうか。ネットの特性を生かして、それにあわせて投稿しています。しかしこうなると、本来の私の姿と外れて、非常に嫌みな人間と映ることもあるでしょう。仕方の無いことです。そうした開き直りを込めて、ネット人格と割り切っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~  論理的な思考が無くても、ものを知らなくても、意見を表明する権利はあると言えます。素人でも発言してよいのが民主主義です。知識があるものが封殺するということはよろしくないのです。・・・  したがって、私は対話する相手を選ぶことにしています。私が何かいうことで、意見を封殺してしまうような相手ならば、私は中身のあることを言いません。  ~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(No.27お礼欄) ~~~~   ● 心や知性の主体の所在を考えるとき、それがひとの側(人の境界の内側)にあるとか、頭蓋骨の内側にあるとか、或いは大脳皮質の中にあるとかでも構いませんが、そんなふうにどこかに境界線を引くことはできないだろう、という程度の意味です。   ☆ 《主体》の意味を明確にしておけばよいのではないですか?  たとえば 構造主義は あくまで社会的な人間の関係が或る種の仕方で言えば《主体》なわけです。言いかえると 《無主体》説です。《主体なき過程》というふうに。  これは 網あるいはネットワークを例にとれば わたしの考えですが 網の結節点をないがしろにしているというものです。つなぐ線やひょっとすると何もない網の目を重要視しているかも知れませんが 結び目については放ったらかしです。つまり この結節点が 一人ひとりの《わたし》です。そしてこの意味で と同時にわたしはとにもかくにも《考える》というよりは《思う そして 意志する》ゆえに 《主体》です。  《なぜそう考えるのか?》や《なぜそうしたのか?》の問いに答える(つまり答責性を有する)のは つなぎの線でもなければ網の目でもなく 結び目を成す存在であり この存在でしかないからです。  むろん 網のつながり全体が 環境でありその世界の中にわたしは位置しており ここで《人格形成》がおこなわれます。  《境界線を引く》ことが目的ではなく 説明責任を負う行為の発信元を明らかにするためです。そのように言うときには けっきょく大道は無門なりのごとく 外壁はむしろないですよ。  別の質問では 世界は地で われはそこに位置づけられている図である。人がそれぞれ図である。ならば みな地続きであるのではないか? と問うています。そういうことですよね?・・・でも 意志および行為の主体は 存在します。ということになりませんか?  ~~~~~~~~  ★ それから私と話しているときに、人格がしばしば崩壊しますね。アナウンサーになってみたり、超人になってみせたり。聖人のようなことを言ったかと思えば、僻んだお爺さんになったり。坂本龍馬風の土佐弁になってみたり。丁寧な口をきいていたかと思うと、突如、「ざけんな」などと叫んだり。  ☆ 人格を何か枠組みのある固まったものと勘違いしている。外延はいくらでも いろんなかたちであり得ます。自己形成体であり 過程であり動態であり 相手との関係において網の目の意味をも読んで 臨機応変に振る舞うものであり けっきょくすべてを引き受けている人格は 何にでもなりましょう。  ガミガミ電波ならぬバイタ電波を しきりに受けていた。  これは 横に近づけば どんな場所でも起こりますが 特にはバスのような或る種の密室において起こりやすい。  違法電波ゆえに やめなさい。と指摘すると ええっ? と言った顔をして どこかよそへ顔を振り向ける。  一群を成す第一波において 初動の波は見逃しますが 固まったかたちになったときには 上の指摘をするわけです。  やがて 情況が静まったころふたたびやって来ます。第二波です。この場合はかなりおのれの意志をも固めてはっきりとしたかたちで 念力を込めておとづれて来ます。  ほろびなさい。と指摘します。こんどはあからさまに ドキッとしたようです。顔をよそへ振り向けるなどということはしません。いったい何が起こっているのかと怪訝そうに考える顔になります。  〔ちなみに この《ほろびなさい》を この質疑応答の場でも言いますが ここではさすがにそのままにはしておけず 《ほろびて 古き人を脱ぎ あたらしい人を着なさい》と説明を入れてやります。語弊があるでしょうから おとなしく言います。  もうこの場では どうしても言えなかった第三弾が じつはさらにあります〕。  第三波がやって来るのです。この場合は 相当の決意を持っています。ウソではない。ホントウだと言いたいのでしょう。念力も 半端ではありません。  そこで 《永遠の火の中に行きなさい》と言ってやります。これで たいていは 電波がやみます。  仮りに――ときどき――第三波の名残りがさらに来たときには さすがに弱まっています。デンパがです。放っておいてもよいのです。実際 取りあわないようにしていれば もうそれ以上は来ません。  中で 特殊な場合がありました。一回ないしその気(け)のあるものを入れて二回ほど。  途中で――第二波の途中で―― 声に出た言葉で 《いいぢゃない。減るものではないでしょうに》と言います。《ねぇ。いくら? いくら出せばいいの?》と言って来ます。  《そうさなぁ。GNP の一年分でいいよ》と言ってやります。それでおしまいになります。  当時は GDP ではなく GNP でしたが 300兆円ほどでした。  これらすべて 《人格の外延》だとすれば そうとなります。  いちいちこのサイトでの事例を並べなくても 現実ではもっとすごいことが起こっています。  ということを知るとよいかも知れません。知らなかったほうがよかったと言うかも知れませんね。