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【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!
- ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
- ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
- ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。
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こんばんは。No.14,16 あともなどすです。ぶらじゅろんぬさんと同じく「人格はひとつ」の立場から「ネット人格」といわれる事情を,性格と人格の用語の混同としてまず回答し,人格の一性の法的要請を補足したものですが,不文律も重視しており倫理的要請等にも同意しています。そして私自身も人格と性格がよく分かっていないと述べました。その後,人格について考察を深めましたのてこれを述べたいと思います。 (1)個人人格の認識 ものを見る働きには「違う」と「同じ」があります。「違う」とみれば「同じ」と見えない。「同じ」とみれば「違う」と見えない。「違う」と見れば「多」になり「同じ」と見れば「一」になります。 思いつきでは「多」と「一」どちらかにしか見えないけれど,思いつきから自由になれば「どちらで見ようか」と問うことができ「多としてばかり見ていたから一として見よう」と答えることができます。また逆に「一としてばかり見ていたから多として見よう」とすることもあります。 どちらにでも認識可能だという答え(相対主義)があるので,どちらに認識可能かという問題意識は私にはありません。当為の問題として「どちらで認識すべきか」が私には意識されます。人格のごとき抽象的概念は「一」か「多」を恣意的に決めたものだという考え方をします。人格というのは「一」として要請,構想されたものという考えです。 ところでガリレオでしたか,科学の方法には分析と総合があるといっています。「一」から「多」に認識を変えるのが分析,その逆が総合にあてはまります。「一」なる人格を分析によって「多」と認識されるものは,部分人格といい,性格性の消失直前の深さまで分析されたものは性格(単位)といえるでしょう。この性格単位には多種の外延があります。 さらに深くなるとよく分からなくなります。身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等外面的な手掛かりを失うために内面的観点から分析することになると思います。ここではそれを保留しておいて,人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 (2)個人人格の形成 社会と個人の関係を双方向から眺めてみます。まず社会の側から個人の人格を眺めれば,一つずつ性格的特徴が現れ,眺めた個々個人の内側ではそれが性格群として統合されていきます。眺めた者同士,その人格に関する主観を交えれば客観的なものに変わっていくでしょう。社会の主観客観入り混じってはいると思いますが,それをもって眺めた側が対象人格である個人に接するので,個人は社会から自己の人格を規定されていくといえます。 たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 さて,気をとりなおしてもう一方ですが,自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。個人はある性格を,統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 このように,人格は状況により変じ,時とともに拡大成長して,あるいは場合によっては縮退して,形成されていくのだと見ることができます。いいかえれば社会環境と個人の相互作用によって個人の人格が形成されることは上の様な理解に基づいています。(逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) (3)個人の創作的人格 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。「リアル人格」などという言葉がでてきましたから現実性で比べてみますと,後者がより現実性を持つといえます。 ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それて現実的人格を見てしまうということです。 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 現実人格も形成的であり創作的であると言いましたが,現在の人格が拡大成長する場合,新たな性格が統合化されるはずです。その性格が社会からの働きで形作られたものであるにせよ,社会への適正化を図るため自ら創作したものであるにせよ,そこに現実的人格を覆いかぶせなければ社会側,個人側どちらから眺めるにかかわらず,現実的人格とはならないのです。 創作人格は,いわば現実性をもたない空虚な性格群に,現実人格を投影し,現実性を持たせることによって現実的となるのです。現実人格の現実性に依存する限り,創作人格はよく言ったところで現実的人格どまりであって,現実人格では有り得ないのです。 以上の考察から,「ネット人格」が人格といわれる事情は,以下にまとめたことの理解もなく表現されたということだと思うのです。 ○「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ○「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ○人格の単一性は,当為認識性によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを基盤とするような特殊な単一性であるといえる。
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・・僭越ですが、ここで私の方から、先に一つだけ指摘させて置いて頂きたい事が有ります。 と言いますのは、 <bragelonne>さんは私からの反論に対して、再三再四 「最終的には全ての事象の統括者としての現実の自己が存在すると言う階層構造が<ループ>している」 のだと仰っていますが、その論点をお持ち出しになられて <ネット自我の存在> を否定しようと為さるのは、本当に失礼な表現ではありますが、さすがに <反則行為> ・・では無いでしょうか? と申しますのも、そもそも我々人間の種々の活動に置いては、それが読書であれ、ゲームであれ、テレビであれ、携帯であれ、 ・・そしてもちろんネットであれ、 「最終的には全ての事象の統括者としての現実の自己が存在する」 ・・と言うのは、論ずるまでもない当たり前の事実のはずなのです。 ですから、 <bragelonne>さんが 「最終的には全ての事象の統括者としての現実の自己が存在する」 と言う事実に立脚する論点に、そこまで拘りになられていらっしゃる様なのでしたらば <そもそもこの質問自体をお出しになられるべきでは無かったのではないか> と思うのですが・・。 それとも本件の論点自体が、そもそも最初から、それこそ哲学者デカルトの <我思う、故に我あり> の世界のように、 現実の自己の存在それ自体を疑うと言うような論点から入らねばならないようなモノでしたのでしょうか・・? <bragelonne>さんに対しては非常に失礼な表現を含んでしまう回答内容となってしまいましたが、その点が私としましてはどうしても腑に落ちてきませんでしたので・・。 やはりこれは、私の側での、論点や議論自体の読み違えでしたのでしょうか? もしそうでしたら、申し訳ない事ではありますが少し詳しく御説明を頂きたいのです。 ご返答の方、どうぞよろしくお願い致します。
お礼
ご回答をありがとうございます。 たしかに同じパタンを出し続けるのは 気の進まないことではありました。 でも 問題は 質問趣旨にも示しましたように 実際にこの質疑応答の場で 《ネット人格》は 現実とは別にあるのだからといった指摘を受けたわけです。 そういう指摘は 前々からうすうす感じて来ていましたが 今回は 真っ向から直接に聞いたのでした。でしたら それは どういう《人格》なのか? ときわめて単純に――ほかの情報をいっさい得ずに――問うたのでした。 でしたら けっきょくは 《多重人格》のようなものにまでは到らず 普段の自分とは違った自分が出るといった現象を言うのだと まづおそわった。それも よいほうの自分が出ることもあれば わるい・つまり普段はおとなしいのに粗暴になるといったわるい自分が出てしまう場合もある。ここまでも分かりました。 そしてちょうど ぜふぃるすさんから 実際の情況は これこれこういふうになっているのだよと これもおそわったわけです。 あとは 少し弱気になって言えば 《人格》という言葉を使うかどうか。ここが分かれ目であるというところまで来たのではないでしょうか。 もしその問題に絞るのならば 厳密に言うと どうなるか? これです。 そしていま得ている中間の結論は こうです。 ○ ネット上の自己は 現実の自己とは別様に動いたりするというとき それは 最大限に言うとしても 《部分人格》であろう。 となっていると思います。 じねんさんという方は 《現実の自己の多面性》だという見方で 結論づけられたと受け取っています。 しかも でもあたかも別の人物としてのように振る舞いたいという願望やらそのようなかたちでの創出という行為にたずさわりたいのだという側面はあるだろう。ということで それは 広く《あそび》なのではないかと お応えしたところです。 ぜふぃるすさんも 親と子との関係だとおっしゃるものですから 創作者に例をとって 紀貫之が 女に成りすまして著述した土佐日記なる作品は あたかもわが子のように思ったであろうと お応えしました。つまり 《あそび》という部類に入るのではないかと。 この多面性を表わすようなあそびにかんして それでもそこで――そのように成功しているのならば―― あたかも別の人格が創造されたようではないかと 問われるならば それはそうかも知れないが それは どうしても貫之なるひとつの人格のほかに 別のワ゛ーチュアルな人格が 造り出されたと見るのは むつかしい。と申し上げました。(もしくは まさにワ゛-チュアルな人物像を言うのであって そこまでのことだと)。 その意味は 《部分人格》とまで言えたとしても それは 現実の自己たる人格と その横に並び立つようなものではない。こういう意味です。なぜなら 現実の自己がいなければ 部分人格たる想像上の人物は 成り立たないのですから。そこには 階層の上下があります。 ここまでやって来て現在の段階では 《人格》という言葉を ネット上の自己についても使うかどうか。この問いのみとして 残っているかと思います。 ふつうの現実にある人格と並び立つような・それと対等な概念としては 使えない。これが 質問者の側の答えです。 デカルトは関係ないと思います。
・・解りました。 つまり、 <bragelonne>さんが仰りたい事の内容は 「仮に、ネット上の自己が現実上の自己の精巧なる分身であり、それ故にネット上の自己を <現実上での自己とは別の独立した人格> だと認めることが出来るのだとしても、その <ネット上の自己> に善悪の価値判断をさせている処の者がやはり <現実上の自己の人格> でしか無い以上は、 <ネット上の自己の存在>は現実上の自己の人格の枠内から外れた所には存在し得ない」 ・・と言う事なのですね? ・・しかしですね、 <bragelonne>さんは既に先の私へのご返答の中で、私の <親子関係の喩え> の主張をお読みになられた上で 「人形に別人格を付与し得るのだとしても~云々」 と言う様に、 <人形にも別人格が付与され得ると言う考え方自体は成り立つ> 事をお認めにはなられている訳ですから、よって現時点に置いて、既に話の論点は <人形の人格が独立していると認めてもよいのか> から <人形の人格だとしても一人前の人格になり得るのか> の方へと、 切り替わっている様に思われるのですが・・。 ・・・いかがでしょうか? 私の側でもし、議論の重複や論点の読み損ない等が有るようでしたら、どうぞご容赦下さいませ。 ・・それでは、ご返答お待ち致しております。
お礼
ぜふぃるすさん ご回答をありがとうございます。つづいてです。 ほかの回答者の回答内容をめぐってのやり取りで 或る程度 ぜふぃるすさんとのやり取りと重なるかとも思い 今回の直前のかんたんなご返答で そのままとしていました。 そして 根幹としては あれで足りていたとも考えます。 そうして 論点が進みました。 ★ ~~~~ よって現時点に置いて、既に話の論点は <人形の人格が独立していると認めてもよいのか> から <人形の人格だとしても一人前の人格になり得るのか> の方へと、 切り替わっている様に思われるのですが・・。 ・・・いかがでしょうか? ~~~~~~ ☆ これについても 何だか申し訳ないようにも思えるのですが つまりいつも・どこまでも 《現実の自己としての統括者なる存在》 これを ただひとつの同じ人格として 打ち出すことになります。 つまり ★ <人形の人格だとしても一人前の人格になり得るのか> ☆ は それとして ひとつの主題をかたちづくるのかも知れないのですが けれどもここでは《ネット人格》が存在するか? これが 問いです。 ということは やはり同じパタンで申し訳ありませんが こうなります。 ○ ~~~ 《わたし》は自分が思うように動かすことの出来るかたちにおいて ネット上の自己を作り出す。それが人形のごとくであってもそれとして あたかも人格を持つかのように自己表現するようにさせる。 このとき ネット上の自己は 《一人前の人格》に果たして成り得るか? と問う。けれども問うたとしても けっきょく仮りにそれが申し分なく成り得たとした場合にも 統括者としては 現実の自己が 控えている。この階層構造がどこまでもつづく。 ~~~~~ になります。 ですから 思うように仮名の人物をこしらえて これを一人の表現者として 堂々と動き回るようにさせる。こうしたいし 実際にそうしたとすれば それは あくまで現実のわたしの《あそび》としてであろうと思うということになります。 じねんさんとのやり取りでは 女に成りすまして土佐日記を書いた紀貫之のことが出ました。そういう《もうひとりの自分》としてのあそびではないでしょうか? 人格が分割される というわけではありません。自己分割しつつ増殖して行くというわけには行きません。 でも貫之は 土佐日記を わが子のように思ったでしょう。
- el156
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No.8&13です。 No.13のお礼欄、1~3までは私の考えと同じということで間違いありません。 No.4,5には違和感があります。 ネットが環境であるという点は、私もそう考えています。 しかし人格の主体が「ひと」の方にあるかどうか、自由意志が「ひと」の側にあるかどうかという点は怪しいと考えています。 脳みそに記憶や情報処理の能力があることや、脳内にひとの感情を左右する物質があることは科学的にわかっているようですが、だからといって人格や意思が脳の中に存在するという科学的な証拠がある訳では無いと思います。 私は、人格にしても意思にしても、各人の内側と外側の環境(ネットを含め)との関係だと考えます。環境は無限です。外側の環境というのは総体としては万人に共通であっても、関係するものについて考えるのであれば万人共通ではなく、一人一人違います。環境の個々人に関係する側面は、無限の環境の中から各人に固有に(たまたま)割り当てられ、何が割り当てられるかは各人の人格や意思の一部にもなっている、と考えておりまして、私の考えでは、人格にしても意志にしても、ひとの内側と外側の貢献はどちらが主とは言えません。従いましてひとの内側だけが共通だからと言って、人格が一つの人格として環境が変わっても一貫性、整合性を保たなくてはならない必然は無いのではないかと思います。 区切られた環境の中で別の人格を持ちたいと望む場合もあると思います。小説家ならフィクションの中に閉じた環境を作り登場人物に人格を与えることができます。特殊な環境を作ってその中で別の人格を楽しんでいる人もいるようです。私はそのような趣味は無いので本当のところはわかりませんが、そのような「別の人格を望んでいる一つの人格」に対して、特殊な環境の中で別の人格を演じている間、それは「演じている」のか、それとも別の人格になりきっているのかの区別は明確ではないと思います。別の例で言えば、映画などで役者が見せる真に迫った涙や演技は、「演じている」を超えてその役に本当になりきっていると考えるべき場合があるのではないかと思います。 さらに、例え環境が変わらなかったとしても、ひとりの人の人格が一つの人格として整合性を保つことができているのは、むしろ奇跡的なバランスで成立している危ういものなのではないかと思います。普通の環境で人格の整合性が無くなって社会生活に支障をきたせば病気ですが、例えば長い間信じていたものに裏切られた場合等、その人の人格を構成する深い部分が壊されてしまうと、誰でもバランスをくずして人格としての整合性を失ったり、逆に生存を続ける為に人格を分裂せざるを得なかったりする病気になってしまう危険はあるのではないかと思います。 以上の点から、一人の「ひと」という区切りは単なる物体の区切りに過ぎず、一人のひとに対して複数の人格が時分割で一対多対応することはあり得ることであって、特にネットという閉じた環境にログインしている間別の人格を持つことは、その環境と現実世界とのリンクが細ければ細い程、十分にありそうだと思います。
お礼
ご回答をありがとございます。 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。 2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。 3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 4. ただし ★ 現実世界での人格が「主」で、ネットや車の運転、ゲーム等をやっているときの人格を「従」と考えることができるのは、単に現実世界での環境との関わりの比重が大きいからだ、と思います。 ☆ と見られるごとく 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。 5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。 ~~~~~~~~~~~~~~~ まづこの命題を掲げておいて 個々に見てまいります。 ★ 私は、人格にしても意思にしても、各人の内側と外側の環境(ネットを含め)との関係だと考えます。 ☆ これは (3)と同じですね。 端折った引用の仕方になりますが ★ 私の考えでは、人格にしても意志にしても、ひとの内側と外側の貢献はどちらが主とは言えません。 ☆ と同時に この歩く文体・動く人格あるいはまた関係過程としての人格 これを それぞれそのようだと見止めるのは 人間のほうです。決して環境のほうではありません。もしそれでも外部だと言い張るのならば それは 他者としての存在であり やはり人間です。 しかもその人格形成として文体をああでもないこうでもないと言いつつうんうんと推して進めるのは 人間の側です。言わば加工する工場のようでもあり それをああだこうだと判定する知性をも になっている。そしてこの側面は 環境ないし外部にはありません。 その意味で (4)のように《文体の主体は 人間のほうにある》と考えます。 ★ 従いましてひとの内側だけが共通だからと言って、人格が一つの人格として環境が変わっても一貫性、整合性を保たなくてはならない必然は無いのではないかと思います。 ☆ これは わたしの命題の内容とは微妙に違います。(3)では 内部たるわたしと外部たる環境との問いと答え そのやり取りに人格があり そのやり取りをしている過程そのものが 人格の形成過程であると言っています。ああだこうだと言いつつ うんうんと自己を推してあゆむのが 人格です。 言いかえますと そのように自己形成の過程として《わたし・文体・人格》は そのつど《整合性を持つように自己をかたちづくりゆく》という捉え方です。かたちづくる工場じたいは 人間の側にあるということは すでに上に確認しました。 そして《整合性を持つようにみづからを推して進む》というその過程が過程であることは 《一貫性》を持っているはずです。なぜなら その存在は それぞれの《わたし》として言わば掛け替えのないものであり それとして一貫しているからです。 えるさんは 《人格》というとき 何かそこに《完全性》があるという先入観を持っておられませんか? 自己形成体として捉えれば 問題ないのではないでしょうか? ★ ~~~~ 「別の人格を望んでいる一つの人格」に対して、特殊な環境の中で別の人格を演じている間、それは「演じている」のか、それとも別の人格になりきっているのかの区別は明確ではないと思います。別の例で言えば、映画などで役者が見せる真に迫った涙や演技は、「演じている」を超えてその役に本当になりきっていると考えるべき場合があるのではないかと思います。 ~~~~~~ ☆ これは 独立してひとつの主題を成すと思われるのですが わたしは次のように考えます。微妙に違いを持って見ています。 すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。 かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。 ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。別の見解があるというところまで お伝えした格好になります。五分五分ということで 述べました。 ★ さらに、例え環境が変わらなかったとしても、ひとりの人の人格が一つの人格として整合性を保つことができているのは うんぬん ☆ この議論は 自己形成体としての《一貫性や整合性》であるという捉え方としてすでに触れたと思います。 ★ 以上の点から、一人の「ひと」という区切りは単なる物体の区切りに過ぎず、一人のひとに対して複数の人格が時分割で一対多対応することはあり得ることであって、特にネットという閉じた環境にログインしている間別の人格を持つことは、その環境と現実世界とのリンクが細ければ細い程、十分にありそうだと思います。 ☆ この《現実の自己 対 ネット上の自己(複数でもあり得る)》の構図は それがあり得てもあくまで 統括者(これが ふつうのほんとうの人格〔の加工主体〕)とそれの分身たちという階層構造としてある。というふうに これまで問い求めて来ています。どうでしょう? 《別の人格》が 現実のわたしという人格形成体と 対等に並列して存在しているとは 見られません。現実のわたしという基礎の上に乗っかって 成り立つようになっています。 というのが 現在のところ 中間の結論です。 ちなみにこのように結論を出すという行為も 外部の環境ではなく 内部のわたしです。その意味で 人格は 簡単に言うときには 人について言うかたちを取ります。わたしの人格とか あなたの人格とかです。
- 来生 自然(@k_jinen)
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#17です おっしゃるように、「一つの人格の階層構造」というより「一つの人格の多面性」に相当するのでしょうね。 多重人格という概念の場合、(一つの人格として)複数人格の統合ができない(記憶にない)ということが生じるようですが、そのようなことは無い状況でしょうから、「一つの人格」になると思います。 一方で「ネット人格」といった用語が用いられるのは、ある種の願望の投影があるのではないでしょうか? >>>#17解答欄 私自らが「別人格」として意識的に区分しようとしているからです。 私の場合、異なる「性格」ではなく、やはり、「書き言葉と話し言葉の差異」+「名付け」+「隔離」といった状況を意識することで、k_jinenなる「別人格」を創り出そうとしているように思っています。 <<< にて「しようとしている」、「創り出そうとしている」としています。「不可能だけれど、そのような方向へ向かいたがっている」という願望的な要素が入っているのにお気づきでしょうか? 適当な「隔離」と「状況設定」にて、一定の役割を演じられる状況が持続可能であれば、そこに仮想的な人格を想定して、自身を投影しようとする(したくなる)のかもしれません。 これに似たこととして、具体的な事物・言葉・記号を介して抽象的な概念へと思い入れする状況があると思います。対象としての抽象的な概念が存在し得なくても、人々の願望・思いが対象を成立「させようと」している状況にも近いのではないでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 対象としての抽象的な概念が存在し得なくても、人々の願望・思いが対象を成立「させようと」している状況にも近いのではないでしょうか? ★ 一方で「ネット人格」といった用語が用いられるのは、ある種の願望の投影があるのではないでしょうか? ☆ 少々わが田に水を引きますが それを ○ 《あそび》 と言ったわけです。そしてどうしてもその《あそびとしての別人格》という意味合いを出して表わしたいというのならば ○ 《わたしの部分人格としての ネット人格》 というように 正式には規定しておくのが 最低限必要な条件ではないでしょうか? ★ 「一つの人格の階層構造」というより「一つの人格の多面性」に相当するのでしょうね。 ☆ これについても 規定にかんすることとして細かく行きます。 ○ 世界の中で人びとは多様性において存在している。《われ》も あたかもそれに応じるかのように性格として 多面性を持つ。その中の一面やもう一面を わたしはネットの世界で強調して表わしたい。――というとき このわたしと ネット上の部分人格とは 確かに《〈一つの人格の多面性〉に相当する》のですが もう一方では 統括者とその分身という関係にある。この後者の関係は 揺るがないかたちを保つ。ゆえにその関係のあり方は 《階層構造》を成す。 ☆ つまりは 並列して わたしとネット上の部分的わたしとがあるということにはならない。決してならない。そういう意味です。わたしという基礎の上にのっかっているのみです 部分人格は。 ★ ~~~~~ ・・・ 私の場合、異なる「性格」ではなく、やはり、「書き言葉と話し言葉の差異」+「名付け」+「隔離」といった状況を意識することで、k_jinenなる「別人格」を創り出そうとしているように思っています。 <<< にて「しようとしている」、「創り出そうとしている」としています。 ~~~~~~~~~ ☆ たとえば なんでしたか 《男もすなる日記といふものを・・・》でしたかの土佐日記 これは或る種の見方でそのように言うところの《願望》であり《創出》なのでしょう。 そうして けっきょくのところは どうなりましょう? 紀貫之本人のひとつの人格のもとにおさまります。ですから 《創出》をみとめるとしても 《あそび》だと捉えるのが いちばん哲学としてはふさわしい。こう考えます。 そうとう田に水がたまりましたよ。たまりすぎました。奮起してもらわなくっちゃ。自分のためであり 日本のためです。これは メイレイです。と言わなくては 冗談になりませんよね。
お早うございます。 <zephyrs>です。 本日はどうやら、絶好の <ネット日和> の様ですので(笑)、私も腰を据えてどっぷりと議論の方に参加させて頂こうと思っております。 本日もどうぞよろしくお願い致します・・。 さてそれでは早速、本題に入らせて頂きます。 ・・どうやらここに来て、本議論の焦点は 「ネット上での言動に対して最終的に責任を取るのが現実の自分でしかない以上は、ネット上の <もう一つの人格> の存在などは認められないのではないか?」 ・・と言う点に絞られて来た様ですね。 では、この論点に対する私の反論から参らせて頂きます。 さて、私の今回の主張を単刀直入に言わせて頂きますと、ネット上の自己と現実上での自己との関係と言うモノは <親子関係> に喩えられるのではないか? ・・と言う事なのです。 つまり、未成人の子の言動に対して最終的に社会的責任を取るのは確かに <親>ではありますが、だからと言って子の独立した人格の存在が認められないと言う訳ではありません。 子も子なりに、自分の言動に対しての責任を取って生きている部分は、やはりある訳です。 そして同じ事が、本議論の内容にも同様に当てはまるのです。 ・・ネット上での自己表現に置いては、確かに、まさに私自身が先に申し上げさせて頂きました通り、 <相手に自分の事を知られることもなく逃げる> ことが可能です。 しかしそこでもし、どれだけ自分に都合が悪くなろうとも、どれだけ形勢が不利になろうとも、 <逃げずに> <相手からの問い掛けに対して反応し続ける態度> を貫き通す事さえ出来ていれば、その人物の <ネット上の自己> は、まさに幼いなりに責任を負いながらも生きている未成人の子供と同じ様に、 「完全ではないにせよ、一個の独立した人格として責任を全うしながら存在している」 ・・のだと考えられるのでは無いでしょうか? もちろん、ネット上の自己を親子関係に置ける <子供> に置き換えるのはやや唐突かも知れませんが、それでもやはり、 <子は親に似るもの> ですし、子が衣食住の生計に関しては、完全に親に頼らねばならないと言う事情を鑑みましても、 そう無理のある議論ではないだろうと考えます。 ・・以上が、私からの <本日最初の反論> になりますが・・。 ・・いかがでしたでしょうか?
お礼
ぜふぃるすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 いつもは 土曜の午後の野暮用が午前に繰り上がりまして 今朝は早くに返答が出来たのですが いままで出かけていました。 まづは素早く ひと言ご返答申し上げます。 クローンでも分身でも子でも 善悪の価値判断を抜きにした操り人形のようなかたちなりますので ぜんぶやはり 統括者は ご本人お一人であり その人格だとなります。 どうでしょう? 人形のほうにたとえ別人格を付与しえたとしても その人格としての比重は 比べ物にならないほど違うはずだという意味です。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
人格と性格との区別をどうするのか?という点が一つの問題になっているようですね? 電話や手紙等の間接的な応答の場合でも、偽名を使うことは希でしょう。そうして「電話の世界」とか「手紙の世界」といった、「別の世界」という認識区分も通常は発生しないでしょう。 しかしながら、「ネットの世界」では、偽名を使うことは日常茶飯事であり、(おそらく、それゆえ)「リアル世界」とは区分されることが多いのが実情でしょう。 他者から見て同一人物と認識される場合に、異なった性格を認めた場合、たとえば、運転中の性格、コンパでの性格、酒に酔ったときの性格が、日常と著しくかけ離れていたとしても、「同一人物」と認識しうる限りにおいては、「同一人物の異なる性格」として認識されるでしょう。 しかしながら、同一人物と認識されない場合、対面し得ない状況であれば、「別名」にてやり取りしあう状況は、容易に「別の人物」として認識するのが、当然の状況になりうるでしょう。 「同一人物の別性格」であっても、そこに「名付け」と(対面できない故に相手に「別人だと認識」させるに十分な)「隔離」があれば、「別人格」として認識されうるのではないでしょうか? ※「名付け」と「隔離」があれば、「性格」の差は、あまり重要でないかも知れません。顔の見えないメールでの対応が実際にあって会話するときと異なるのは、よくあることです。書き言葉と話し言葉といった区分が為されるのも、関連していると思います。 もう一つの理由として、ネット世界では、自己防衛的に実名や個人を特定しうる情報の表出を極力さける傾向にあり、このことが「別名」+「隔離」といった状況を、より強力に生み出すのだと思います。 ※注:冒頭、間違っても「お久しぶりです。お疲れ様♪」と入れないのは、k_jinenと「(質問に対し、冷静に回答を行うものとして)名付けられた対象」を、私自らが「別人格」として意識的に区分しようとしているからです。 私の場合、異なる「性格」ではなく、やはり、「書き言葉と話し言葉の差異」+「名付け」+「隔離」といった状況を意識することで、k_jinenなる「別人格」を創り出そうとしているように思っています。
お礼
じねんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 いきなりですが: ★ ~~~ ※注:冒頭、間違っても「お久しぶりです。お疲れ様♪」と入れないのは、k_jinenと「(質問に対し、冷静に回答を行うものとして)名付けられた対象」を、私自らが「別人格」として意識的に区分しようとしているからです。 ~~~~~ ☆ というように おなじひとつの人格として存在しておられる。としか考えられないのです。 ですから その仮りに言うところの《別人格》をも含めて あともなどすさんの用語で ○ ご本人と k_jinen さんとは 同じひとつの人格の内部において 階層構造を成す。 と見ればよいと。人格は ひとつである。 たしかに お話をうかがうと 《現場》では微妙にその心理なども入り組んでいて 複雑ではあります。ありますが けっきょくは――それは局を結ぶというのでしょうか―― 同じひとつの人格に帰着するし それだけではなくむしろ その人格がすべてを統括するようにして演じ分けているのだというふうにです。 ★ 私の場合、異なる「性格」ではなく、やはり、「書き言葉と話し言葉の差異」+「名付け」+「隔離」といった状況を意識することで、k_jinenなる「別人格」を創り出そうとしているように思っています。 ☆ というご本人なる人格だと見られます。同じひとつの人格が みづからの世界を持ちその中でひろくいわゆる《あそび》をも持っているのだと。 ですから 次のようにおっしゃるときには それはもう表現の問題つまり用語の問題にちぢんで行っていると思われます。 ★ 「同一人物の別性格」であっても、そこに「名付け」と(対面できない故に相手に「別人だと認識」させるに十分な)「隔離」があれば、「別人格」として認識されうるのではないでしょうか? ☆ すなわち 《別人格》というふうに《人格》という用語を用いるかどうかだけの問題に狭まっていると考えます。 階層構造と言うなら それは 《人格》の階層のようなものですが おそらくそれら内部の《別人格》は全体としての人格にあくまで従属しているはずですから 実質は《性格》であろうと見るわけです。何なら《部分人格》と言えば まだ《科学的にして良心的》なのではないですか? と思います。 ★ しかしながら、同一人物と認識されない場合、対面し得ない状況であれば、「別名」にてやり取りしあう状況は、容易に「別の人物」として認識するのが、当然の状況になりうるでしょう。 ☆ 直前の あともなどすさんとのやり取りでは 《結婚詐欺や俳優》の例を出しました。結婚詐欺などは 《対面しつつ 別の人物に成りすましている》場合です。単に《別名》を使うだけではなく 名を変え歳をいつわり経歴を詐称する場合もあります。 つまりは 《別の人物》として認識したとしても 人格は ただひとつです。 どうでしょう?
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「ネット人格」 高広伯彦 (抜粋) 『先月26日、日本最大手のパソコン通信ニフティで起こったトラブルについて東京地裁が一つの判決を下した。ある女性会員が誰もが自由に書き込め、見ることができる「電子会議室」で「事実無根の中傷を書き込まれた」と名誉毀損の訴えを起こした裁判で、被告である男性会員に有罪判決を下したのだ。情報法の立場などからは、無法地帯だったネット上の発言に対して一定基準を示したとして評価されているが、ことはそれだけでないハズだ。というのも誹謗中傷を受けたのは、ネット上の人格であり、それが現実の人格と不可分であるという前提においてのみこの判決が有効なのではないだろうか?ということである。別の言い方をすれば、男性がネット上でヴァーチャルに女性人格を演じていて、その女性人格に対して誹謗中傷が向けられた場合、今回の事件は判例になるのだろうか?』 この裁判で訴えた女性は,フォーラムユーザーの多くに誰であるか知られていました。そのうえでの裁判なので,「ネット人格」が人格として認められたというわけではないようです。 読んでくださいと言うわけではなく,念のためソースをあげておきます。 ニフティサーブ現代思想フォーラム事件第一審判決 http://www.law.co.jp/cases/gendai1.htm 高広氏の最後の一文,「別の言い方をすれば、男性がネット上でヴァーチャルに女性人格を演じていて、その女性人格に対して誹謗中傷が向けられた場合、今回の事件は判例になるのだろうか?」 これをお礼欄の☆の論法でみると。 ヴァーチャル女性人格が人格であったとする。この人格は「匿名性」をもっている。どうやって原告となるか? ヴァーチャル女性人格は,未成年のごとく制限行為能力者であるとみなされるのではないか。そして男性が代理人として訴訟を起こす。法廷では一人二役を演じなければならない。しかしまあ,人格を認めると,おっしゃるように複雑になりますね。 そのことより問題は,「ネット人格」に人格があろうがなかろうが,そう実感してしまう人が一部いるということ,またそのことは誰にもそのような心面があるということですね。人格と感じてしまって,プラスマイナス総合してその効果の価値を見極めないと,うかつなことはできません。ネット上の匿名発言に「責任ないので気楽」という思いもありましたが,今は慎重になっています。 またバーチャル人格感を強くもつ人は,心の病にならないのだろうかと心配です。 ANo.15について こんばんは。私もぜふぃるすさんの意見は同じだと思いますよ。ぜふぃるすさんの意見ももっとだと同意できるんです。 > 一つの人格が「『ネット性格』を操る性格」という二階層の性格を生みだしている。前者(=《一つの人格つまり 全体としての人格》)は意識的 後者はなかば無意識的だ。 これなんですが,じつは私も「性格」と「人格」が区別できてなくて,考えていたんです。もともとは,こうだったんです。 一つの人格が「『ネット性格』を操る性格」という二階層の性格を生みだしている。前者(=《ネット性格》)は意識的 後者(=操る性格)はなかば無意識的だ。 たとえば,男性が女性を演じる場合。女性的性格がネット上に現れます。そして男性性格は悪く言えば「嘘つき」の性格になります。 女性性格を動かすことは,すなわち,嘘をついていることで,それにしても嘘をつく性格が女性性格を操るというのは強引かなあと。どちらも一つの人格が作用しているとするほうが意見としてはピッタリです。 言語表現ですが,形式的な美というか,そういうのが,私は好きなんですね。「前者は~後者は~」なんて対句表現好きです。階層構造にしたのもそんな理由で,三角形でつないでもよかったんです。人格や意識,無意識という概念も図形的な捉え方をしたいだけなんで,ばらばらにするなり適切な言葉を選ぶなりして新たに組み立てていただくほうが分かりよいかなと思ったりします。
お礼
なるほど。《現場》は 複雑であり微妙ですね。 ご回答をありがとうございます。 次の じねんさん のご回答(No.17)も 複雑で微妙なところを説明してくれていますし その内実をうったえている見解のようですが あともなどすさんも うかがってみますと きわめて微妙な世界を経験しておられた。といったところでしょうか。 でも次の要約が 全体としての見方になるかとわたくしも思います。 ★ ~~~~~~~ たとえば,男性が女性を演じる場合。女性的性格がネット上に現れます。そして男性性格は悪く言えば「嘘つき」の性格になります。 女性性格を動かすことは,すなわち,嘘をついていることで,それにしても嘘をつく性格が女性性格を操るというのは強引かなあと。どちらも一つの人格が作用しているとするほうが意見としてはピッタリです。 ~~~~~~~~~ ☆ そして同じく その じねんさん の見方をも取り入れて考えるなら 昔〔の話ばかりになってしまいますが〕で言えば 《結婚詐欺》というのがありました。 結婚することを約束して金品を巻き上げる詐欺ですが そのとき 男にしても女にしても だます相手に見合った人物に成りすますわけです。あたかも別の人格を演じます。 これでも 人格は同じひとつだと言いたいわけですが こうなると 俳優の場合が例に挙げられて来るかも知れません。限られたかたちにおいてですけれど 別の人格に成りきって生きる。でも人格は ひとつです。 というように 煮詰めて行けば 《ひとつの人格》という見方にたどり着くと思っています。 ★ ~~~~ 高広氏の最後の一文,「別の言い方をすれば、男性がネット上でヴァーチャルに女性人格を演じていて、その女性人格に対して誹謗中傷が向けられた場合、今回の事件は判例になるのだろうか?」 これをお礼欄の☆の論法でみると。 ヴァーチャル女性人格が人格であったとする。この人格は「匿名性」をもっている。どうやって原告となるか? ヴァーチャル女性人格は,未成年のごとく制限行為能力者であるとみなされるのではないか。そして男性が代理人として訴訟を起こす。法廷では一人二役を演じなければならない。しかしまあ,人格を認めると,おっしゃるように複雑になりますね。 ~~~~~~~ ☆ 演劇の役者であることが 現実の人生で起こる。という見方が 煮詰めて行くと現われる。のかと思っています。同じひとつの人格の世界における ★ 階層構造 ☆ という説明でよいのではないでしょうか。
本日も、現実の私が関わる<現実の業務>が無事終了致しました。 <bragelonne>さんにつきましても、お仕事の方、どうもお疲れ様です。 ・・それでは早速、ネット上で議論を交わす、 <戦闘再開> と行きましょうか(笑)。 さてでは、まずは私からの反論の番とさせて頂きますが、まずは最初に <bragelonne>さんが、先の私への返答の中で一番力を込めて疑義を呈されていた、 「ネット上の自己表現が、<旅の恥は掻き捨て>では駄目で、ネット上の自己にも現実のそれにするのと同様の情熱を傾けないといけない、と私が考える理由」 について、まずご説明させて頂きます。 と言いますのは、そもそも現代のインターネット社会というのは、私 <zephyrs>や <bragelonne>さんをも含めた非常に大勢の人間が、ごく当たり前に 「ネット上に自分の仮名(ハンドルネーム)を持ち、匿名での情報発信、ないしは自己表現をするようになった時代」 ・・なのだと思うのです。 しかし、ネット上での自己表現の場が広がるに反比例して、人と人とが <面と向かって対峙する>機会は、かつての時代よりも確実に減少してきているはずなのです。 所謂、 <便利になった社会がその副産物として人にもたらした、人間関係の希薄化>などと言われる現象ですね。 けれども私には、昔よりも人と人とが <接する> 機会そのものが、本質的に減少してきているのだとは、どうしても考えられないのです。 何故ならばそれこそ今の時代、人と人とは <ネット上でかかわり合っている> からです。 つまり私が言いたいのは 「現代人は、現実の人間関係が希薄になっている分をネット上で補い、それでバランスを取っている」 のであろう、と言う事なのです。 であるとすれば、今の時代、ネット上で自己を表現すると言う行為は、 <自分の全人格を形成するために不可欠な行動の一つなのではないか> と、考えられるのです。つまりは、 「現実の自己とネット上の自己との両方を全うに生きることが出来て初めて自分は全うな現代人になれる」 はずだと言うのが私個人の考え方なのです。 ・・もちろん、私のこの考え方がある意味 <極端>なものだと言うご批判については、非常にご尤もではあるのです(笑)。 しかし、上記の論点について良く良く御吟味下されば、私の <ネット上での自己表現>に対する個人的な考え方が、 「多少極端ではあっても否定さるべきモノでもない」事は、お分かり頂けると思います・・。 以上が、<bragelonne>さんが御指摘の一つ目の論点への、私の反論になります。 それでは引き続き、二つ目の論点についての議論へと入らせて頂きます。その二つ目の論点と申しますのは・・ 「ネット上での自己表現がどんな内容になっているのであれ、結局は現実の自己が全てを <ホストとして管理している> のだから、人格の分割は起こらないのではないか」・・とする論点です。 この問題につきましては、私と<bragelonne>さんとが、 <同じ現象をそれぞれ異なる視点から眺めている> のだと解釈されるのではないでしょうか? つまり<bragelonne>さんは、ネット上の自己が、結局は現実上の自己の性質の延長線上にしか成り立ち得ない点に注目し、だからこそネット上の自己がどうであれ 「ネット上の自己と現実の自己との間に境界線等は存在し得ない」 と主張されるのに対し、私の側は ネット上の自己が、現実の自己と寸分たがわぬ個性を有する事が出来ると言う事実の特異性に注目し、それ故に 「ネット上の自己は現実上の自己のクローンであると考えられ、だからこそネット上の自己と現実上の自己との間には、明確な境界線が存在する」 のだと考えている、という事です・・。 つまり、この内容を一言で申し上げさせて頂きますと 「相似であるが故に同一である、と捉えるか、逆に相似であるがゆえに同一ではない、と捉えるかと言う視点の違い」 ・・と言う事には、なりはしないでしょうか? 以上が、二つ目の論点に対する私からの反論なのですが・・。 ・・いかがでしょうか(笑) 以上の私からの回答をお読み頂きました上で、新たな疑問点など生じましたら、また遠慮亡く御反論下さいませ。 ご返答お待ちしております。
お礼
ぜふぃるすさん こんばんは。お仕事 おつかれさまでした。ご回答をありがとうございます。 一つ目の論点ですが それについては その後 あともなどすさんとのやり取りにおいて 次のように捉えつつまとめました。 ☆☆(No.14お礼欄) ~~~~~~ ● (回答No.14) ~~~~~~~~ ☆《「ネット人格」は別の人格ではない。》 一つの人格が「『ネット性格』を操る性格」という二階層の性格を生みだしている。前者(=《一つの人格つまり 全体としての人格》)は意識的 後者はなかば無意識的だ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そして《「『ネット性格』を操る性格」》も 《なかば無意識的》であったそのあと 全体の人格としてはその《わたし》なる本体の持つ一側面であるのだから 《わたし》はそのことをけっきょくは自覚し引き受けることになる。このように ぜふぃるすさんとのやり取りでは 考えました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~ 「現実の自己とネット上の自己との両方を全うに生きることが出来て初めて自分は全うな現代人になれる」 はずだと言うのが私個人の考え方なのです。 ~~~~~~~~ ☆ このご見解と それほど離れてはいないはずです。 二つ目の論点も 同じように別段どうも違っているものではないようです。 ★ ~~~~ 「相似であるが故に同一である、と捉えるか、逆に相似であるがゆえに同一ではない、と捉えるかと言う視点の違い」 ・・と言う事には、なりはしないでしょうか? ~~~~~~ ☆ おそらく これに対して物言いをつければ 次のようにおっしゃるでしょう。 ○ 現実の自己とネット上の自己とが 《相似であるがゆえに同一ではない》と見たあと そのあと 後者つまりネット上の自己の行動について 現実の自己が責任を取る。 こうおっしゃるでしょうから けっきょく同じことだと思われるのです。 どうでしょう? それでよろしいでしょうか?
- atomonados
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質問者と同じ立場で 《「ネット人格」は別の人格ではない。》 です。《「ネット人格」は別の人格である。》と言われる事情は 簡単に言いますと「性格」と「人格」の区別ができていない人が多いということでしょう。ググって こんなところをざっと読んでみました。 ○1996年12月30日に あるサイトで「ネット人格者」なる言葉が見られました。これより古いものは分かりません。このサイトの用法は間違っていないと思います。 ○1997年6月6日 「ネット人格」 高広伯彦 『メディア人間学』 京都新聞朝刊15面 http://www10.plala.or.jp/misamatsuda/takahiro8.html ここで「ネット人格」は 性や年齢を偽った仮想の人格として表現されています。主観的に「別人格」説をも主張されていますが,「人格」という概念が正しく使えているかどうかが私は論点だと考えています。 ○1997年6月13日 ネット人格(その2) 松田美佐 『メディア人間学』 京都新聞朝刊15面 http://www10.plala.or.jp/misamatsuda/matsuda8.html こちらは「同一人格」説です。新聞社として論説のバランスを取る必要があったのでしょう。論題のネット人格は修正されていません。 ○2002年3月18日 『ネットだと5人に1人「別人格」、大胆・陽気に』 読売新聞 http://homepage1.nifty.com/hiro_t/banned2002/020319.htm 「5人に1人が通常の自分と違う「ネット人格」があると感じていることが、広告会社「国連社」(東京都新宿区)のアンケート調査でわかった」 つっこむとしたら「大胆・陽気は性格だろ!」です。 ○http://web.keio.jp/~uedas/sotsuron/hashimoto02.pdf こちらは「インターネット上の別人格」という論題でありながら,P7で「人格」の複雑性「性格」の多義性をふまえて「人格」と「性格」とをほぼ同義の語として用い,…と曖昧にしてしまっています。 ☆《「ネット人格」は別の人格ではない。》一つの人格が「『ネット性格』を操る性格」という二階層の性格を生みだしている。前者は意識的 後者はなかば無意識的だ。 大変勉強になりました。どうもありがとうございました。
お礼
あともなどすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 きちんと検証してくださいました。(わたしは 無頓着でして 何の情報も得ずにただただ そんなことがあるかという疑問のみで 設問しています)。 ★ 大変勉強になりました。どうもありがとうございました。 ☆ いえいえ。ですから これが 質疑応答の場のいいところでしょうか。とてもありがたいです。 ★ 《「ネット人格」は別の人格である。》と言われる事情は 簡単に言いますと「性格」と「人格」の区別ができていない人が多いということでしょう。 ☆ こういうふうに論点を一つひとつ押さえ固めつつ行かねばならない。こう思う次第です。 ○ 「ネット人格」 高広伯彦 ~~~~ 僕がチャットを介して知り合った女性は、「ネット人格」の自分は実際の「自分」よりも良く言われすぎている、イメージが良すぎるとして悩んでいた。つまり「ネット人格」は自分でありながら自分でない「人格」でもあるのだ。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ ここなどですね。つまり その女性は ただひとつ同じ人格であるし ありつづけているはずなのです。自己表現したものについて自分との違いを見い出し悩むというのですから ただただ自己同一性なる《わたし》であるからこそだと思われます。それをわざわざ《人格》という用語までを持ち出して論じるから ややこしくなる。あぁ ぶりっ子しちゃったというのではないのでしょうか? 少々長いですが 次の説の骨子をかかげておきます。 ○ ネット人格(その2) 松田美佐 ~~~~ もっとも、自分の開示したい社会的属性だけを「ネット人格」の前面に押し出したり、「虚偽」を書き込んだりすることは充分考えられる。しかし、その場合でも「ネット人格」とは、私たちが状況に応じて「親/子」「上司/部下」「先生/生徒」などとして振る舞うような社会的役割の亜種であるように思うのだ。 どの役割の「自分」も自分であるように、「ネット人格」も「フォーラムという状況における自分」である。 「実社会」において「役割を演じている」という感覚を持つことがあるように、時には自分の「ネット人格」に違和感を感じることだってあるだろう。ちょうど、親が「親」に、先生が「先生」になりきれないことがあるように。ならば、「ネット上の人格」をめぐる問題は、社会的役割とアイデンティティの関係性といった、社会学にとって古くからある問題としてとらえ直すべきではないだろうか。 ~~~~~~~~~~~ ☆ たしかに これで基本的なことを述べていると受け取れると同時に 一般論としてであるので さらに細かい各論についての例証などが必要とされるのでしょう。《ネット人格》という言葉はそのまま用いているようです。 次の資料も せっかくですから このスレとして引用しておきたいと思います。 ○ 『ネットだと5人に1人「別人格」、大胆・陽気に』 読売新聞 ~~~ 調査は、2002年1月にネット上の女性向けホームページを通じて行い、4345人(男性約3割、女性約7割)から回答を得た。その結果、回答者の9割がネット上で仮名を使っており、二つ以上の仮名を持つ人も全体の半分に及んだ。 「普段の自分とネット上の自分に違いがあるか」との質問に、約8割が「あまり違いはない」「全く違いはない」と答えたが、「やや違いがある」(15.9 %)「かなり違いがある」(1.9 %)とネット利用時の人格の変化を認めた人もいた。 人格の違いを複数回答で選んでもらうと、「陽気になる」(46.8 %)や「大胆になる」(40.5 %)が多く、次いで、「社交的になる」(38.5%)や「やさしくなる」(24 %)、「まじめになる」(19.9 %)など。「下品になる」(5 %)や「乱暴になる」(4 %)は少なかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるように やたらと《人格》という言葉を遣い過ぎだとわたくしも思います。長い目で見ると その《変身ぶり》が少しづつ調整されて行くとも言っているようです。 ○ 「インターネット上の別人格」 ~~~~ (慶応大学文学部 図書館情報学科 2002年卒論) ・(梗概をぶらじゅろんぬが要約すると) 《ネット人格》という用語をそのまま使っているようですが これをめぐって それは プラスにもマイナスにも影響を受けて形成されるという調査結果を得た。 《匿名性》という特徴も 同じくプラスにもマイナスにもはたらいていると見られる。 ~~~~~~~~ ☆ 《プラスにも》ということは 現実の人格に良い影響を与えているということであって これは別人格になることを意味しない。こう考えられます。では《マイナスにも》という場合は どうか? これにしてもあくまで現実の人格に対してなのですから 別人格が形成されたというわけではないと思われます。ネットの世界が 隠れ家のようになっていたとしてもだと思います。 ただし その本論はこれから読んで あとで補足欄にしるしたいと考えます。 ★ ~~~ ☆《「ネット人格」は別の人格ではない。》 一つの人格が「『ネット性格』を操る性格」という二階層の性格を生みだしている。前者は意識的 後者はなかば無意識的だ。 ~~~~~ ☆ そして《「『ネット性格』を操る性格」》も 《なかば無意識的》であったそのあと 人格としては《わたし》の本体の持つ一側面であるのだから 《わたし》はそのことをけっきょくは自覚し引き受けることになる。このように ぜふぃるすさんとのやり取りでは 考えました。 あともさん この主題は あんがい大きい問題をかかえているようにも思えて来ました。分かりませんが このあとやり取りの流れによっては さらに詳説していただかなければならない論点が出て来るかも分かりません。そのときはすみませんが よろしくお願いしたいとも思います。ありがとうございました。
補足
お礼欄をおぎないます。 それは 次のふたつの議論の中から 共通にあるひとつの用語を取り出し それのヰキぺによる説明について 例によって物言いをつけるものです。 ○ ネット人格(その2) 松田美佐 ○ 「インターネット上の別人格」 ▼(ヰキぺ:フレーミング (ネット用語)) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0_(%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E7%94%A8%E8%AA%9E) フレーミング(英語: Flaming)とは、相手を激高させたり侮辱したりすることを目的に発信するインターネット上に書き込む文書のこと。 論争や喧嘩に発展する様相をフレーム(Flame, 炎)と呼ぶ。さらに激化した罵り合いをフレーム戦争(Flame War)と呼び感情が先走り誹謗中傷合戦になり易い。フレーミングとフレームは同義として取り扱われることもある。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりは 《ネット人格》があるとすれば このような《フレーミング》の場合が ひとつの恰好の事例であるのではないかと考えられるからです。(ただし それによって代表させようとするものではありません)。 その説明に対して そのつど批評(註)をあたえるかたちを取ります。 ▼ (同上) ~~~~ § 概要 敵意を抱いてニュースグループの投稿記事、電子掲示板の書き込み、電子メールのメッセージ、インターネット・リレー・チャットなどへ投稿する失礼なメッセージは討論の目的を逸らし簡単にフレームを招く。 *(ぶらじゅろんぬ註):初めからすでに《敵意を抱いて》という条 件をつけている議論である。のだから 割り引いて聞かねばならな いであろう。 インターネットでは実際に対面していないため、非言語コミュニケーションによる重要なメッセージが伝えられない。 * (註):それはそうだ。ただし 文面だけからは何が何でも そ の表情が分からないというものでもない。 顔つきは分からなくても その感情がどうであるかくらいは―― つまりちょうど上に《敵意を抱いて》という条件づけをしていた けれども そのような中身としての感情くらいは―― 文章だけから でも じゅうぶん分かるはずだ。 怒っているかうれしそうにしているかくらいは 分かる。 相手に上手く伝えることができないコミュニケーション不足から、欲求が満たされない不快な心理状態になり、言葉の暴力によって不快を与えた相手を制圧する短絡的なフレーミングが多い。 * (註): 《コミュニケーション不足》からの《性格変化》は ネ ットの世界に限らない。ほかでも ふつうに起こる。 ただし ネットの世界であるゆえに――つまりあるいは 匿名性で あるゆえに―― 《短絡的なフレーミング》に走るというのは 納得 できるように思われる。 さらにただしそれは せいぜいが 《ののしり》や《そしり》と なって現われるくらいではないだろうか。 でも考えてみれば 面と向かって話をしている場合にも 昔から 《捨て台詞》というものがある。去り際に ののしったり あるい は脅したりする場合である。大して違わない。 つまりけっきょくは 《短絡的な振る舞い》という部類に入る。 言葉に表せない暗黙知は、インターネット上で行動を共にするネット仲間で共有したインターネットコミュニティが形成されると、思考・行動が同調し、ネット社会での人格が形成され、繰り返し行動することでより強固になる。 * (註): 《思考・行動が同調し》とあるのは 初めに《敵意を 抱いて》という条件づけをしているのだから 出て来る場合であろ う。誰もが《同調》するとは限らない。 その同調の結果 《ネット社会での人格が形成され》と言ってい る。果たしてそうか? これはあまりにも狭い範囲の事例を扱っているとしか考えられな い。つまりは 《互いに同調する》という時点ですでに もともと の人格のもとにある性格が そういう付和雷同に近い中身のものだ ったと考えられる。決してその元の性格が 変わったりあらたに形 成されたりするわけではなかろう。人格に到ってはなおさらであろ う。 このヰキぺ氏は かなり料簡が狭いと言わざるを得ない。 ▼ 繰り返し行動することでより強固になる。 ☆ これは そうであろう。 凝り固まった強い意志は、中立的な観念を持つことが出来ず、暴言を書き込む事よりも自論が支持される事を優先する。 * (註): 《凝り固まった強い意志》。というところを見るとこの ヰキぺ氏も そのようなマイナスの場合をもっぱら取り上げている と考えられて来る。料簡が狭いと見られるような事例をもっぱら取り 上げているのだと。みづからは それに批判的であると。 だとすると あらためて分かるのは これは ネット世界に浸るこ とによって 《人格が変わる》のではなく ネット世界において《朱 に交われば赤くなる》のたぐいの事例ではないのか? つまりもとも と そういう性格であったという意味だ。 ネット世界でなくても 《自論が支持される事を願い求め そのこ とを何ごとにも優先させる》というのは ふつうの現実世界において も日常茶飯事である。 この時、言葉の暴力を正当化するために「表現の自由」がよく引き合いに出される。 * (註): 《自論が支持される》ために みづからもその支持者も 《暴言を吐く》ということだろうか? そして そのような自己表現 は あくまで《表現の自由》なのだから 自分たちは わるくないと 言い訳するのだと。 だとしたら ネット世界においてその傾向が助長されるとしても けっきょくすべては もともとのその人の性格から来ていると思わ れるのだが どうなのだろう? むろん それだけの人格だったということになる。人格が変わっ たわけではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ けっきょく どう見るべきか? ○ ネット世界は 現実の生活にとって 或る種の仕方で《おあそび》の時空間となっている。か? ○ 《おふざけ》のための《余裕としての場》を提供していると受け取られている。か? ○ だからと言って 《ネット人格》が 別様にかたちづくられたり 存在するようになったりするものではない。まるで 話が違う。そのおあそびの時間に飛びつくような性格であったのであろうし その性格を持った人格であった。 さらに問い求めがすすむとよいと考えます。むろん再反論をふくめて そう のぞみます。
- el156
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No.8です。 私は、私の人格が、私の脳みその中にあるとは考えていません。私の脳みその中にある人格が私の行動を支配しているとも考えていません。私の人格は私と環境の関わり方の傾向で、私と環境の総体にあるのだと思います。私が居なければ私の人格が存在しないのと同程度に、もし環境が無ければ、或は環境と私との間のリンクが完全に切れていれば、私の人格は存在しないと思います。私の脳みそに何のインプットも無ければ、情報処理装置としての脳みそは機能しないだろうと思います。 環境が変わった時別の人格があるかどうか、という問いに対しては、環境が変わった時どの程度人格が変化するか、変化した人格に変化前との連続性や整合性があるか、という問題ではないかと思います。ネットの人格というのは、車の運転をする時やゲームに熱中している時に人が変わったりする場合があるのと同じで、程度問題だろうと思います。 現実世界での人格が「主」で、ネットや車の運転、ゲーム等をやっているときの人格を「従」と考えることができるのは、単に現実世界での環境との関わりの比重が大きいからだ、と思います。
お礼
える156さん お早うございます。さらに詳しく説明をいただきました。ご回答をありがとうございます。 今回おっしゃったことは ぜんぶ 質問者の趣旨と同じではないかと思います。《ネット人格などという別の人格があるとは考えられない》という質問者の立ち場の基礎にある考え方・そういう趣旨として 同じではないかと考えます。 1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。 2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。 3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 4. ただし ★ 現実世界での人格が「主」で、ネットや車の運転、ゲーム等をやっているときの人格を「従」と考えることができるのは、単に現実世界での環境との関わりの比重が大きいからだ、と思います。 ☆ と見られるごとく 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。 5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。 ご文章を復唱しえずじまいになりましたが どうでしょう? 曲解はないでしょうか?
お礼
あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (1)個人人格の認識 ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~ 人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で, 「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。 この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~ ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等 ☆ 生活態度は 思想である。 ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。 ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か? おそらく内包だと思われる。 ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か? 外延として扱いたくなるところのやはり内包。 ~~~~~~~~~~~~ (2)個人人格の形成 この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。 2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。 3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。 5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として: ★ ~~~ 自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。 個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 ~~~~~ (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面: ★ ~~~ たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 ~~~~~~ ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。 イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが? マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。 (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。 このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。
補足
お礼欄から続きます。 (3)個人の創作的人格 (4)人格対象への個人人格の自己投影 これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。 特に《演技》論などについては 試みの議論です。 (3-1) 《創作性》について ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~ 3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 ~~~~~~~~ ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 ☆ と。 おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。 もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。 あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。 (3-2) 創作性にちなんで《演技》について ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。 ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。 そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。 (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。 ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。 ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。 ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。 ☆ さらには ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~ すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。 かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。 ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。 ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時 ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。 役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 ☆ 《ひとつの人格》をめぐって: ・その内包としての表現力:役者力 ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの 両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。 この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。 (4-2) 《自己投影》 ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。 ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。 人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。 ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。 いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。 さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。