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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?)

【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!

このQ&Aのポイント
  • ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
  • ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
  • ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。

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回答No.67

こんばんは。No.14,16 あともなどすです。ぶらじゅろんぬさんと同じく「人格はひとつ」の立場から「ネット人格」といわれる事情を,性格と人格の用語の混同としてまず回答し,人格の一性の法的要請を補足したものですが,不文律も重視しており倫理的要請等にも同意しています。そして私自身も人格と性格がよく分かっていないと述べました。その後,人格について考察を深めましたのてこれを述べたいと思います。 (1)個人人格の認識  ものを見る働きには「違う」と「同じ」があります。「違う」とみれば「同じ」と見えない。「同じ」とみれば「違う」と見えない。「違う」と見れば「多」になり「同じ」と見れば「一」になります。 思いつきでは「多」と「一」どちらかにしか見えないけれど,思いつきから自由になれば「どちらで見ようか」と問うことができ「多としてばかり見ていたから一として見よう」と答えることができます。また逆に「一としてばかり見ていたから多として見よう」とすることもあります。  どちらにでも認識可能だという答え(相対主義)があるので,どちらに認識可能かという問題意識は私にはありません。当為の問題として「どちらで認識すべきか」が私には意識されます。人格のごとき抽象的概念は「一」か「多」を恣意的に決めたものだという考え方をします。人格というのは「一」として要請,構想されたものという考えです。  ところでガリレオでしたか,科学の方法には分析と総合があるといっています。「一」から「多」に認識を変えるのが分析,その逆が総合にあてはまります。「一」なる人格を分析によって「多」と認識されるものは,部分人格といい,性格性の消失直前の深さまで分析されたものは性格(単位)といえるでしょう。この性格単位には多種の外延があります。  さらに深くなるとよく分からなくなります。身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等外面的な手掛かりを失うために内面的観点から分析することになると思います。ここではそれを保留しておいて,人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 (2)個人人格の形成  社会と個人の関係を双方向から眺めてみます。まず社会の側から個人の人格を眺めれば,一つずつ性格的特徴が現れ,眺めた個々個人の内側ではそれが性格群として統合されていきます。眺めた者同士,その人格に関する主観を交えれば客観的なものに変わっていくでしょう。社会の主観客観入り混じってはいると思いますが,それをもって眺めた側が対象人格である個人に接するので,個人は社会から自己の人格を規定されていくといえます。  たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。  さて,気をとりなおしてもう一方ですが,自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。個人はある性格を,統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。  このように,人格は状況により変じ,時とともに拡大成長して,あるいは場合によっては縮退して,形成されていくのだと見ることができます。いいかえれば社会環境と個人の相互作用によって個人の人格が形成されることは上の様な理解に基づいています。(逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) (3)個人の創作的人格  「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。  創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。「リアル人格」などという言葉がでてきましたから現実性で比べてみますと,後者がより現実性を持つといえます。  ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それて現実的人格を見てしまうということです。  演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 (4)人格対象への個人人格の自己投影  創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。  現実人格も形成的であり創作的であると言いましたが,現在の人格が拡大成長する場合,新たな性格が統合化されるはずです。その性格が社会からの働きで形作られたものであるにせよ,社会への適正化を図るため自ら創作したものであるにせよ,そこに現実的人格を覆いかぶせなければ社会側,個人側どちらから眺めるにかかわらず,現実的人格とはならないのです。  創作人格は,いわば現実性をもたない空虚な性格群に,現実人格を投影し,現実性を持たせることによって現実的となるのです。現実人格の現実性に依存する限り,創作人格はよく言ったところで現実的人格どまりであって,現実人格では有り得ないのです。   以上の考察から,「ネット人格」が人格といわれる事情は,以下にまとめたことの理解もなく表現されたということだと思うのです。 ○「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ○「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ○人格の単一性は,当為認識性によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを基盤とするような特殊な単一性であるといえる。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1)個人人格の認識  ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~  人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で,  「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。  この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。  ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~   ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等      ☆ 生活態度は 思想である。   ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。      ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か?        おそらく内包だと思われる。      ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か?        外延として扱いたくなるところのやはり内包。  ~~~~~~~~~~~~  (2)個人人格の形成  この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~   1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。   2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。   3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。   4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。   5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。  ~~~~~~~~~~~~~~~  (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として:  ★ ~~~  自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。  個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。  ~~~~~  (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面:  ★ ~~~  たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。  ~~~~~~  ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。  イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが?  マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。  (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。)  ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。    このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄から続きます。  (3)個人の創作的人格  (4)人格対象への個人人格の自己投影  これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。  特に《演技》論などについては 試みの議論です。    (3-1) 《創作性》について  ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~  3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。  ~~~~~~~~  ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち  ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。  ☆ と。  おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。  もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。  あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。  (3-2) 創作性にちなんで《演技》について  ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。  ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。  そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。  (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。  ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。  ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。  ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。    ☆ さらには  ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。  ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり  ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~  すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。  かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。  ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。  ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時  ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。  役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。  (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について  ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。  ☆ 《ひとつの人格》をめぐって:  ・その内包としての表現力:役者力  ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの  両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。  この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。  (4-2) 《自己投影》  ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。  ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。  ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。  ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。  人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。  ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。  いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。  さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。

その他の回答 (72)

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.64

>《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか? これは対比的な概念であることに意味が有るわけです。 《ネットでないリアル人格》を何処に想定しているかというと、 学校、近所づきあい、職場など特定の場で固定的な人間関係が成立している状況を考えるものです。 そうした場所で、相互監視的に人物像の印象を他者が見定め合うと同時に、 自己が自己の属性と認めることによってアイデンティティを保持しているその属性の本質的な基底材である周囲のもろもろの条件が、自らにも人物像を写像させていますが、 しかしながら、とりわけ、学校や近所づきあいでは、それが短絡的に行われるのですね。 条件となる要素が少ないために、属性の出方が少ない。 集団の都合上、全体項を満たす条件が希薄であるために、複雑な情報は人物像に反映しない。 そのようなレベルで、せいぜい《リアル人格》が見做し価格のようにその学校集団などにおいて機能するのです。 すでにこの一枚岩的な人格の印象創出からして、集団の構造的かつ内的要請によるのですが、 やはり今日の学校集団や、住宅地のつきあいの構造的問題は杞憂の種ですね。 「自分ってこういうヒトだから」「ポジション」「キャラ」などにも同種の問題が潜みますが、 こうした状況依存的で薄く簡素な抽出にすぎない《リアル人格》が念頭にあったうえで対比的な《ネット人格》という言葉があり、普段の印象や態度や様子からは想像もつかないといった程度の意味で、人格というテーマそのものに拡げるような視座はこの際必要ないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほどと まづは分かったようになったのですが そこからまたあらためて考えて行こうと思い直すわけですが まづは あまがっぱさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  昔――江戸時代でしょうか―― 《目安箱》という自由な投書をゆるす制度がありましたね。身分制の雁字搦めの中にあっても少しでも自由の空気を吸いたい 吸わせてやろうということだったのでしょうか。  現代において《リアル人格》の生活はすでに身分制による制約があるわけではなく 《ネット人格》の行動はすでに単なる投書ではなく双方向のやり取りを自由にこなせるわけのものになっています。いますが そうなのですが 或る種の仕方でこの《目安箱》の制度を思い浮かべました。  そうなりますと――もしそのような視野で捉えてよいとしますと―― 人はたとえば ときどきは旅に出ます。これも 《ネット人格》の一種なのでしょうね。   テレビでは 外国人のタレントを出します。これもネット人格の場に当たりましょうか。  あるいはつまり 趣味をもってその時間を思う存分気の向くままゆったりと過ごす。  うんぬんと言って 考えすすめて行くと 意外ともっと複雑なのではないか 日常生活は と思うようにもなりました。すなわちたとえば にゅうとらるさんの言葉によると  ● (回答No.60) ~~~~  「わたし」が  紳士を演じるのも  蓮っ葉を演じるのも  ボクサーを演じるのも  赤ん坊を演じるのも  雄弁家を演じるのも  アホを演じるのも  「わたし」が  (意思と責任をもって)  している、  というそれだけだろ。  何も演じずに生きる、  というのは  できるんだろうか、  おいらはオカンも演じるし  仕事も演じる。  ~~~~~~~~~  ☆ というのが ふつう一般だとしますと   ★ 《ネットでないリアル人格》を何処に想定しているかというと、学校、近所づきあい、職場など特定の場で固定的な人間関係が成立している状況を考えるものです。  ☆ なのですが この対比は それほどあざやかに区分されうる二つの世界だとも思われない部分もあることに気づく。のではないでしょうか?  あるいはこうかも知れません。上の引用した見方にあるごとく 人はすでに生活日常の中でもいろんなキャラを演じていて 決して固定的な人格において生きているわけでもない。のではないか? です。  ★ 固定的な人間関係  ☆ は そうですけれど。つまり いくつかの側面を持った人格ではあるのですが 対面する人びとは 変わりつづけるというわけではない。いつも同じ顔を見ているのではあります。  あるいはもっとその内実を見てみる必要がありましょうか。でも 初めに納得した気分になったあと どうも 居心地が落ち着かないのを しょうじきに申しますが 見い出しました。  ★ ~~~  そうした場所で、相互監視的に人物像の印象を他者が見定め合うと同時に、  自己が自己の属性と認めることによってアイデンティティを保持しているその属性の本質的な基底材である周囲のもろもろの条件が、自らにも人物像を写像させていますが、  しかしながら、とりわけ、学校や近所づきあいでは、それが短絡的に行われるのですね。  ~~~~~  ☆ 職場は どうなのでしょう? という問いは措いておいても どうなのでしょう?  つまり  ★ 人物像の印象を他者が見定め合うのは 相互監視的に  ☆ だけか?   ★ 周囲のもろもろの条件が 自己の属性の基底材となる  ☆ だけか? (属性の であれば そうかも知れません)。  ★ 自己はその属性を属性と認めることによってアイデンティティを保持している  ☆ だけか? 属性よりも重要なものが――それが何であるか分からないとしても―― あるのではないか?  ★ ~~~  ・・・周囲のもろもろの条件が、自らにも人物像を写像させていますが、  しかしながら、とりわけ、学校や近所づきあいでは、それが短絡的に行われるのですね。  ~~~~~  ☆ もし《短絡的》だと認識すれば おおかた その閉塞性は打破できるのではないでしょうか? 家族らのもっと親しい人とそのことを話すことによって その狭窄性は乗り越えられうるのでは?  よって  ★ ~~~  「自分ってこういうヒトだから」「ポジション」「キャラ」などにも同種の問題が潜みますが、  こうした状況依存的で薄く簡素な抽出にすぎない《リアル人格》が念頭にあったうえで  ~~~~~   ☆ という導出の仕方には まだ部分的に納得できないものがあると思い直したのですが 反動的すぎましょうか?   言いかえると リアル人格のほうが むしろもっとドロドロした部分もあるでしょうし幅が広いと思ったのですが いまふと またまた 思い直しが現われました。  つまり いまや現代人は 物分かりが良すぎるようになって けんかはしないわ泥仕合は未然に賢くも防ぐわでほんとうに《状況依存的で薄く簡素な人格として日常を生きている》というのが 実態でしょうか?  すみません。途中で大幅に転調しつつあります。  でも このままを決定稿にしたいかたちで 書き継ぎますが というのも最後にあまがっぱさんのご見解によると 《人格》の問題でも じつは ないのだと言っておられるからです。  ★ ~~~~~  こうした状況依存的で薄く簡素な抽出にすぎない《リアル人格》が念頭にあったうえで対比的な《ネット人格》という言葉があり、普段の印象や態度や様子からは想像もつかないといった程度の意味で、人格というテーマそのものに拡げるような視座はこの際必要ないでしょう。  ~~~~~~~  ☆ つまり これまでにも見て来たとおり ネット上での自己表現には リアル生活でのそれとは違った側面が現われることがあるといった特徴のことだと分かる。こういうことでしょうか。  ● (No.7お礼欄=それまでのやり取りをまとめた結果として)~~~   現実・・・・・・・・ネット世界  _________________  1.おとなしい・・・・粗暴になる  2.嘘をつく・・・・・ほんとうのことを語る  3.率直・・・・・・・率直  __________________  ~~~~~  ☆ といった変化が見られるそうです。プラスにもマイナスにも変化を見せるということのようです。  ううーん。話があっちこっちにブレてしまいましたが こういうことでいいんでしょうかね。  あぁ ただし ぜふぃるすさんという例外がありました。かれの場合は リアル人格に匹敵するネット人格を リアル人格の総力を挙げて表現しうるように ネット上の自己表現において創り出して行くのだというご見解のようです。(そのときそう考えたことが いまあらためて捉えてみると これだと 違ってくるようにも思えます。つまりは けっきょくリアル人格がそのままその持てるチカラを十二分に発揮して行くのだと思えるようになりましたから。ふうむ。どうなのでしょうね)。  あまがっぱさん ありがとうございました。  あっ あまがっぱさん。欠席裁判に参加なさった件は まだ完全に消えたわけではありません。  いちど むしろ欠席裁判を弾劾するために投稿参加をなさったかと思う一件があったのですが ボドゥレール関連で何とか言う写真家か誰かの事例を出されたときですが――つまり あとで削除されましたが 質問じたいに あまがっぱさんの名前を出して 呼びかけたことがあったその件ですが―― ただしその後 裁判のほうへ寄って行かれました。と記憶しています。  今までそのことを出しませんでしたが この質問においてほかのみなさんに対してもその問題に一度は触れておくべきだと思っていましたし いま触れることになります。うやむやで済ますことを避ける そのことのみでしるします。

bragelonne
質問者

補足

 あまがっぱさん。変な言い分ですけれど よかったら いつでも お相手しますよ。    課題ごとにわたしの見解を示してまいります。  モニターみたいになるのかも知れませんし。  ふと そういうことが思い浮かんだものですから 感覚人間のままに しるします。

回答No.63

「美・サイレント」 http://www.youtube.com/watch?v=m_Hk9oJW0QI 季節が変わるたびごと 花を抱いて娘達は 着飾って街に出るわ それを目で追うあなたは 私のことなど忘れて 横顔の向こうで誘っているのよ んー 胸さわぎ Be silent be silent be silent be silent あなたの○○○○が欲しいのです 燃えてる × × × × が好きだから 女の私にここまで言わせて じらすのは じらすのは 楽しいですか 【QNo4462818 吉本隆明の思想について】 http://okwave.jp/qa/q4462818.html

noname#151545
noname#151545
回答No.62

仁科です、すみませんACのことよく知らないまま書いてたのばれました、3年に及ぶ研究なんかなくてウィキぺのACのページ読んで3分後くらいに書きましたすみません、3年間の閲覧を因にしたところにAC情報の縁があってbr-AC説いう果でした、でも他人からの指摘はできないものなのですね、自分だけをACと言えるくらいで 自分の問題ひとりで抱えるの苦手です 辛気くさく繊細ぶってすみませんでした ごみくず書いたのはまたひどいことでした麻痺してます、麻痺とかゴミ人間とかもそういうある種の超越願望で brさん絶対的超越的なところへピュッと派手に入るの気持ち良さそうですが信仰よくわかりませんけれど、相対的なのに対する絶対なら相対にたいして相対的に設けた世界で、そちらに超え出てている感じがするのはたんに相対的なことを看過するからですか、けちでな相対的ところを繊細におずおず巡るのも学者や生活者らしいことではないですか 僕もあほいう言葉使いますけど、哲学なら心理学でも認知とかなんや瞑想とかでもその胸中に湧く『あほ』いう思い『あほ』いう判断の中身を吟味するものと違いますか、こいつあほや頭おかしいで済ましたら哲学的にも怠慢やないですか レクですか。brさんレクなけんかですか、人ごとが当人にとっての大事か中事か小事かくべつつきません、他人の心配してる場合ではありません仁科です 久々に仁科で書きこんだら部屋みるみる汚れました掃除洗濯ゴミだし後回しになりこれ哲カテ依存の弊害、またシャワー浴びながら体洗って、わざわざ存在を愛そうと意識しないとならないのもそもそも自己受容が暮らしに根付いてないからだなと思います 鳥さんはリトルキスさんで伝記にあたるよう鳥さんからお告げがあったきがして哲学伝記アダルトチルドレンで検索すると中島さんがACだと載ってました人間ぎらい自己批判のひとです 決めつけ思い込みにすがってないと人せかいあらゆる輪郭なんだか頼りない感じがします、自分の目ない幼弱です裸で踊れません、人格が交流の中で見いだされ認められるように、自分のACらしさも交流のおりおりにかいまみえる思い出の小窓なんだか悲しい 自己受容より先に外界受容をという順序が意外です、仕事依存や自己犠牲の原因みたいですが、信仰からですか、 対人社会よりまず自己や身の回りの掃除も大事です、ねんねです 劇的比喩や自由よくわかりません、自由は言葉使いの自由とかルール作りの自由のことですか ネット人格は故人の本みたいにネットにある痕跡もで、メンターたりうる本や記述なら主体本人がなくなっても向き合って語り合えるそうですし、でもあほな僕は心についての助言もむりでした。この場合のあほな僕のあほは哲学や人倫にあるまじき怠慢つまり既存のレッテル(AC)を持ち出して風評も考慮せず全くの善意から他人にそれをただ貼って済まそうとした僕のあほのことです だらだらすみません

bragelonne
質問者

お礼

 きしみさん ご回答をありがとうございます。  ★ AC  ☆ これは 確か二十年以上前にわたしは聞いたと思います。新聞記事だったかと思いますが たしかに《モラトリアム人間》のごとくで あたらしい視点があるかなとは思いましたが それ以上には進まなかったことだけはおぼえています。  ★ 相対的なのに対する絶対なら相対にたいして相対的に設けた世界で、そちらに超え出てている感じがするのはたんに相対的なことを看過するからですか、けちでな相対的ところを繊細におずおず巡るのも学者や生活者らしいことではないですか  ☆ そうですよ。相対世界を超えているということは 相対世界の中で相対世界について より一層自由を問い求めて行くということのほかではありません。    ○ 和光同塵  と言ったりします。《超然主義》は お呼びではないわけです。生活第一です。  ★ あほ  ☆ 意味がないという意味です。と定義していますよ。  ★ レクですか。brさんレクなけんかですか  ☆ レクリエーションのことだろうか? それは あのバカが言っていることだ。おれには関係ない。  ★ 自己受容  ☆ この言葉ははっきりしません。たとえば  ○ 自分を愛するのと同じように 隣り人を愛しなさい。  というときの《自己愛》は あんがい知らない人もいます。おのれの自由ゆえに まづ・もしくは同時に相手の自由をという順序でないと どうしても空回りすると思います。ただの観念としてのアマテラス語と規定しています。つまりは あたまで立っている。逆立ちしている。と。  そして《受容》という場合は ぎゃくに《世界》を受け容れられるかという問いが先に来ると考えます。なぜなら 自己は 自己愛としてすでに およそ誰でも自然にそうするからです。  ★ 鳥さんは・・・  ☆ その人は コージンマルの人です。名をさえ聞きたくありません。  ★★ けんか腰の人にたいしても 鳥の飛びっぷり凄いです、  ☆ あぁ なるほど。それは 何でもあり思想ゆえでしょう。のっぺらぼう人生ゆえでしょう。いま A と言ったあと B と言う。それは 二つのことのあいだには 時間差があるから A と B とが矛盾していても いいのだという論理であるようです。つまり 自分の主張が ふたつの別のことでありうるという理屈です。  ★ 決めつけ思い込みにすがってないと・・・思い出の小窓  ☆ 先ほどの《観念だけの――お題目としての・恰好をつけるだけの――アマテラス普遍語》は つまりは訛っているという状態の言葉です。逆立ちしています。  あるいは その観念は あんがい強固であるわけです。たとえば《バイタ》という言葉を使うのは はしたないという A 語観念。相手に《被ばくヤロウ》というのは 無条件に失礼だという道徳堅固なる A 語人間。《 AC 》なる規定を保持する A 語教信徒。  これらの場合は 道徳や規範という四角い窓を自分の心の前にわざわざくっつけて世界を見ている。窓をとおしてしか見えないし 見ない。世間も空も 四角く見えるというわけです。  ぢゃあもし  ○ 決めつけや思い込みなどないのだという思い込みや決めつけをしたら どうなるか?  どうなりましょうや?  《わたしがわたしである》ために人びとは ややもすると 教養だ修行だ経験だと言って やたらいいものだと思ったら何でも自分の身につけようとする。反対である。要らないものをぜんぶ振り捨てて わたしがわたしである状態になる。のではなかったか。心の前に窓は要らない。アマテラス語単独分立の状態が いけません。  ★ 自由  ☆ とは おのれの欲するところをそのままおこなって みなの納得するおこないである場合を言います。  その境地の人間になるのは じんるいの最後のひとりとしてだという生活態度です。  ☆☆ 《わたし》が自由になるのは じんるい最後のひとりだという志向性と見通しのもとにです。  ☆ 自分は しんがりだという意味です。ただし人びとの中には その人たち本人の要望に応じて もう見捨てたり放っておいたりする場合もあります。  ★ あほ  ☆ そうですね。ただ あほであることによって 上司にかわいがってもらえるということもあります。出世が早い場合があります。あるいは 世間の知恵だけによっても 世間をじゅうぶん渡って行けます。哲学から見れば 二流でしょうね。その一流の哲学では あまり経済的な成功は見込めません。(まぁ ときには ベストセラーになる場合もありましょう)。  ・・・

bragelonne
質問者

補足

 ○ ビジネス  これはまだ何も決まっていません。

回答No.61

ぶらじゅろんぬさん、 お返事ありがとう。 ACですか? ずいぶん昔、 調べたり語り込んだりした ような気もするのですが、 ほとんど忘れちまいました。 少なくとも 他人(医師であっても)に 「あなたはACである。」などと 名づけられるものではありません。 自らACと名乗ることによって 本人が「生きやすくなる」 ために用意された 便宜的な言葉だったと思います。 当然「病名」ではありませんので、 「治る」とは言いません。 ・・・だったと思います。 勝手ながら諸事情で消えます。 ほぢゃ。               

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~  当然「病名」ではありませんので、  「治る」とは言いません。  ~~~~~  ☆ あぁ それは知りませんでした。忘れてしまっていました。つまり  ★ ~~~  自らACと名乗ることによって  本人が「生きやすくなる」  ために用意された  便宜的な言葉だったと思います。  ~~~~~  ☆ そうでしたか。これは うっかりでした。みなさん すみませんでした。  あぁ でも たしか新聞記事だったと思うのですが これこれに当てはまる場合は AC だと診断してみたりが たしかあったとは思ったのですが 勘違いしておぼえているのかも知れません。それにしても二十年以上の昔に聞いたのではないかと思います。  いづれにしましても 素人の見方をしたというだけのことであると お断りします。  ありがとうございました。

回答No.60

うわ~散らかってるなあ・・・。 ぶらじゅろんぬさんこんにちわ。 ネット人格ですね、ネット人格。 「わたし」が 紳士を演じるのも 蓮っ葉を演じるのも ボクサーを演じるのも 赤ん坊を演じるのも 雄弁家を演じるのも アホを演じるのも 「わたし」が (意思と責任をもって) している、 というそれだけだろ。 何も演じずに生きる、 というのは できるんだろうか、 おいらはオカンも演じるし 仕事も演じる。 ほぢゃ。                    

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  にゅうとらるさんは  ○ アダルト・チルドレン    にお詳しいですか?  この用語は もうだいぶん前に聞いたことをおぼえています。いろんな規定をするようですから そしてそれはそれで 事態や情況の把握を容易にし有益にもなりましょうが 基本的な解決を言っている説を聞いたことが少ない。のですが。     *  はこぶるさん。の状態 もし触れるとすれば こまりました。となります。むろん勝手なコメントです。途中で議論をすすめることだけにかかずらわずに 何かどこかで触れて欲しくないことに触れてしまったのか? と尋ねていればよかった。     *  ▼ (回答No.33) ~~~  ちなみに私はネット人格ですよ。どこの世界に、二千字前後も自分の意見をだーっと他人に向けてまくしたてる人がいるものでしょうか。またクドクドと引用する人間がいるでしょうか。ネットの特性を生かして、それにあわせて投稿しています。しかしこうなると、本来の私の姿と外れて、非常に嫌みな人間と映ることもあるでしょう。仕方の無いことです。そうした開き直りを込めて、ネット人格と割り切っています。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふつうに考えれば だからネットでもそれとして自分を演じていると捉えればよいのですが これは 《ネット人格》という別種の人格だという主張のようです。思い込んでいるようですし 決め込んでいるようです。  こんなところでしょうか。  

noname#151127
noname#151127
回答No.59

>はっきりと事実誤認をただそうとして発言する場合や あるいは もう解消したかを確認するためにこころみに《挑発》してみる場合 事実誤認を問いただすことは、あなたのご自由でしょう。私も、それがあなたの名誉を傷つけることなら、謝らなければなりません。しかし、「解消したかを確認するために」とは、器が狭いことですね。それは他人に迷惑をかけているのと同じだと思います。今の文章もまた挑発でしょうが、何を確認なさっているのやら、私にはさっぱりわかりませんでした。私はもうやめましょう、と言っているのみです。それは静かに確認を取るべき話題ではないでしょうか。 >もしこのいざこざとしての前提がわたしの勘違いであったのだとしたら 欠席裁判を執り行なうこともあきらかに見え透いた誹謗中傷を表わすこともなかったでしょう。というのが 勘違いではないだろうという論証です。 この一節は、きちんと意味が取れませんでした。「俺は勘違いではないと知らしめるために、誹謗中傷のキャンペーンを打っている。お前が誹謗中傷の意図があったかどうかは関係ない、俺が怒っていることが証拠だ」と読んだのですが、そういうことですか。ブラジュロンヌさんともあろう自尊心を高くもっている方が、そういう愚かなことを書くとも思えず、一体何を、書いたのだろうかと首を傾げています。というのも、それは論理による証明という意味での「論証」と呼ばないことですから。もっていきようのない怒りを、ぶつけているだけでしょう。 しかし、いろいろ勘違いが多いのです。まず私の名前ですが、困りましたね、全く違うのですから。No43のお礼欄でいろいろ書いてありましたが、私の翻訳など、何を読んだのだろうと思っていました。「野郎」とは何を根拠にしているのだろうか、とも疑問でした。しかし、私を別人と勘違いなさっているということで、納得いきました。おそらくここから、勘違いのすべてが始まっているのでしょう。違うということを示すためには、私の名前を言うことが一番効果的なのでしょうが、それはできません。そこでOKwaveで私が示した、私の訳がどこかにあったら、もう一度読んでみてください。全く違う訳文ですから。 あなたがここまで私を追いかけてくる動機が恋愛感情なのか、それとも、野郎ということですので復讐心なのか、よくわかりません。おそらく私に対して、何か理想があったけれど、満たされなかったことが怒りに転じたのでしょう。しかし、猛烈な執着心であることは確かなようです。被害は拡大しそうですね。すなわち、他のユーザーに対しては、すでに、あなたから罵倒されるということによって迷惑がかかっています。売女と被爆ヤロウはないでしょう。加えて現実の他の方に迷惑がかかる可能性が大きいのなら、やはりやめざるをえないようです。退会しようと思います。 私にとっては、少し残念な終わり方です。私としては、(かつてにせよ)自分の対話した相手が、ストーカー化しているが、本当は、きちんとした方だと思っていたかったのですから。しかし、ここまで来ると事情は全然、楽観視できないようです。 おそらく戻ってくることはないでしょう。二度、戻ってきた私ですが、私自身が強くなったにせよ、他の方に迷惑がかかることは避けたいのですから。仁科さんやハコブルさん、相談にのってくださり、どうもありがとうございました。リトルキスさんも、本当はもう少しお話をしたかったところです。特に「飛び合い」をテーマにした面白い質問を考えたのだけれど、果たせなくて残念です。他の戻ってきたことを期待してくださった方、ごめんなさい。 最後にブラジュロンヌさんも、仲が良かったのはかなり前のことになりますが、どうもありがとう。少し頭を冷やして、普通の感覚に戻ってくれますように。仮に私を救えるとしたら、私の相談にのってくれることではなく(「けんか」なるものをすることではなく)、あなたがまともな方に戻ってくださることです。たまに哲学カテをのぞいてみます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 売女と被爆ヤロウはないでしょう。    ☆ ただしくは   ○ 《バイタ電波》および《被ばくヤロウ》  ですが これらは あんたに何ら関係ない。まったく関係ない。むろん はこぶるクンおよびぼさぼさクンというあんたとは別の相手とやり取りしているところで書いているもの。  関係ないことで いちいち投稿をしてくるものだから 何かあるだろうかとその意図を見究めようとして わざわざウソをついて《賭けを打った。あんのじょう効いた》とまで言って その無関係さによって 恥づかしくなったり自分が情けなくなったりすることを防いでやったのみ。  お  門  違  い。だよ。  ほんとうは ちょとつクンが ボドゥレールの文学的価値をうたがいそうではなくそれがあると主張するあんたの文学的センスの無さをなじったのだが ボドゥレールの詩作品に鑑賞しうる良さを その翻訳で示したのはわたしだった。つまり あんたは ちょとつクンを説得できなかった。詩そのものの内容にかんするかぎりは。  だから わたしが一枚噛んでいる。それが消えたか もう消えたか もう大丈夫か と気にしていたというのみ。わたしにかんする限りで。むろん そういう話はいっさい出さなかった。ところが ここに来て もろにわたしが標的になった。ふりかかる火の粉は払わずばなるまいて。それだけ。それのみ。  この問題すなわち文学論が解けないかぎり またやって来よう。むろん来ないことをのぞむが 心に刺さった棘が抜けないかぎり 落ち着くことはなかろう。とまでは こちら側でも思うのが ふつうのこと。  あとは またやって来たときのこと。ぢゃあ あばよ。

noname#151127
noname#151127
回答No.58

ハコブルさん、どうもありがとうございます。よくわかりました。私が「頭が良い」には参りました。前にブラジュロンヌさんをそう評されましたが、決してよい意味ではないことがわかっていますから。きっと奥深い意味がおありなことでしょう。おそらくハコブルさんには他に見えていることがあるだろうと思い、それを伺ってみようかと考えたのです。 何かするだけ、ろくなことにならないというお考え、よくわかりました。私も私で、ブラジュロンヌさんを相手にすると辛辣さが増し、自分のためにならないと常々思っていました。おっしゃる通りにしようと思います。おそらく今後は、 ・ブラジュロンヌさん、スレッドを立てては、挑発行為を繰り返す。 ・私はそれを目にするといやだな、と思うけれど放っておく。 ・ブラジュロンヌさん、さらにスレッドを立て、挑発行為を繰り返す。 ・私が放っておき、ブラジュロンヌさんがついに飽きる。 ということになろうかと思います。それとも、ブラジュロンヌさんが我慢比べを仕掛けてきて、私が音を上げるということが起きるかもしれません。少々暗澹としますが、それもまた、仕方のないことなのでしょう。ありがとうございました。 仁科さん、軽んじている訳ではありませんでしたが、確かにわざと名前を書きませんでした。おそらく他人に助言している場合ではないだろうと思ったのです。私の相談事というのは、簡単にいえば、レクリエーションの時間が面白くないとぼやいているだけです。どうでもよろしいことではあります。 さて、言葉を選んで慎重ですが、要するに、ブラジュロンヌさんはアダルトチルドレンの症例であるから、慎重に扱うようにという助言と受け止めました。おそらく仁科さんご自身は、彼に対して今まで、そうやって接されてきたのでしょうね。何となく、そのように感じていました。仁科さんは、彼の望む若者像を演じていたようにも思いました。ブラジュロンヌさんは、仁科さんのことを策士だと言うことで、「俺はわかっているんだぞ」というサインを送りながらも、それを喜んでいたように思います。そしてNo49のお礼欄では、彼はあなたに甘えているな、と感じました。仁科さんからすれば、サイコロは要領が悪いな、と感じることでしょうね。こればかりは、どうしようもないのです。私は見知らぬ老人を受け止める度量がない、と申しますか。あるいは単に、そりが合わないのでしょう。 リトルキスさんは・・・名前を出されたくないということですね。私としては善意のつもりだったけれど、これが欠席裁判と感じるのですか。こうやって改めて言われると、傷ついていたんだなと思いました。 あの時、私は本当はお礼欄に長い文面を用意しました。でも投稿前に、これは重いなと思って、消してしまった。変わりに短くて、様子を見る文面を投稿しました。私はリトルキスさんがどこまで本気か、はかりかねていました。ブラジュロンヌさんの肩を持ちたくて、詭弁を弄しているのか。それとも、本気で抗議しているのか。前者だろうなと思いました。そうしてそうなら、何をいっても受け付けてくれないだろうと思ったのでした。実際、No30に、そういう投稿が来たから、いっそうそういう気持ちになりました。 でも、改めて数ヶ月後にこうやって言われるところを見ると、本当に抗議していたのだな、と思った次第です。私の方は、もうほとんど忘れていたのですから。さすがに誰も死んだとは思わないだろうとは思います。あの文面では。しかし仮に誹謗中傷の意図がなかったとしても、確かに第三者のユーザーの名前を出すことはエチケット違反でした。ごめんなさい。 さて、ブラジュロンヌさん。結局、ブラジュロンヌさんが何をしたいのか、私にはついにわかりませんでした。私に、誹謗中傷と迷惑行為をやめろ、というだけのことですか。迷惑行為=あなたの欄への投稿は、できるだけやめたいと思います。誹謗中傷と、ブラジュロンヌさんが感じることも、控えようと思います。また他のユーザーとのやり取り全般で、あなたのことに触れたものはありません。どうも私の投稿を監視なさっているようです。それはそれで大変なことでしょう。ご安心ください。 欠席裁判ですが、2年前の件については、すでにきちんと謝罪したと思いますし、謝罪は受け入れられていたと考えていました。というのも、その後、再びやり取りが復活した時期があったからです。「美の乞食」については、私には誹謗中傷を行おうというつもりも、ブラジュロンヌ像を織り込むつもりもありませんでした。その時、すでに述べた通りです。 最後に、(特に要望を表明している訳ではないので、何をしたいのか判然としませんが)、私にブロックをやめ、けんかの相手をせよ、と期待しているのかな、と感じています。それは無理です。私はお相手しかねます。私としては、もうこれで幕引きとしたいのですが、ブラジュロンヌさんの方は何をお考えなのでしょうか。当て付けのスレッドを立て、削除すれすれのラインで私を挑発し続けたいのなら、どうぞご随意になさってください。マナー違反であると論証することも私に取っては疲れることですし、こうやって投稿することも、労力がかかります。また第三者を巻き込んでしまっています。もうやめたいな、と感じています。双方の合意で終わりにすることが一番だと思いますが、そうは感じませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.43お礼欄) ~~~  相手がわたしを敵だと見るのを《受容》して 必要なかぎりで それに応対するというかたち。このかたちにかんするかぎり 敵が居ます。  相手によって 理由はまちまちです。なぜなら その相手の・わたしに対する《敵視》の仕方が違うからです。  賽子の野郎は そもそも文学の感覚がないと来ています。専門は ボドゥレールですが だからここでは《詩》ですが その中身については まったくと言っていいほど分かっていません。その翻訳もまったく味気なく死んでいます。ただし その周辺の事柄にかけては 一人前の知識があります。詩人の生涯のあらゆる事柄 その時代その社会のありさま 家族や交友関係 その読書の経歴 その思想等々あらゆる事情を探り出す研究をしているようです。  そして 詩心は ゼロです。  わたしは このことを言ったことはありませんが・つまりいま初めて言うのですが すでに質疑応答のやり取りを通じて そのようにわたしが評価しているということを相手はうすうす知ったのでしょう。だから わたしを敵視しています。  ~~~~~~  ☆ この問題が 自分の中で解決しないかぎり・あるいはまた 誰とのやり取りで起きたかにこだわることなく問題のみとして捉えるようにならないかぎり あなたは わたしのところに来ましょう。  すべてはその前提(つまり しがらみ)を受け身として受けたところから わたしの行動も発言も出て来ています。  そちらが《挑発》と受け取るようなことも すべて受け身からの発言です。はっきりと事実誤認をただそうとして発言する場合や あるいは もう解消したかを確認するためにこころみに《挑発》してみる場合や すべて わたしが自由でいつづけるための行動です。  この問題はおしまいだというのであれば あるいは そんな問題は初めからなかったというのであれば そう受け取ってほんとうにおしまいですが それでも あんたのことだ コージンマルばかり。  ウソでも しかしながら もう済んだことだ もしくは 初めから何もないと確言したならば それで ことはぜんぶおしまいでしょう。  つまりは もしこのいざこざとしての前提がわたしの勘違いであったのだとしたら 欠席裁判を執り行なうこともあきらかに見え透いた誹謗中傷を表わすこともなかったでしょう。というのが 勘違いではないだろうという論証です。  それとも 《ネット人格》なら 何をやっても勝手だという信念をお持ちなのでしょうか。広田さん。

回答No.57

【QNo5170144 無明( 煩悩 )とは 何なのでしょう?】 http://okwave.jp/qa/q5170144.html

noname#151121
noname#151121
回答No.56

で人のけんかあんまりどうでもいいです。はこぶるさんサイコロさんブラジュロンヌさんの三つ巴を猫の絵にして思います。口げんかしても言葉通じないと犬吠えあってるみたいになりますから なぜか哲学そんなの普通なのか このページでもbrさんサイコロさんに言葉を書いても、いちいちなぜかよくある細かい文字の契約書みたいに『読み解かないでください/理解できるかな? くくく』みたい分かりづらくてなりません サイコロさんにとっても理解不能なほどで、brさんもっと簡単に抽象的でないように書けば話 さくさく進むと思います そして人々 心地よいしかるべき距離感を見出して保てるとおもいます  あとbrさんなぜかへびや蜘蛛っぽいので、人に距離感あえてとらせない方法好んできたと思います。へび蜘蛛でひと不快に不自由にさせた麻酔をかけることなります。  多くの人にとってサイコロさんもbrさんも悪でないです ブロックされてbrさん強く憤り、悲しむbrさんサイコロさんを人類の敵と見なします。サイコロさんはbrさんからすれば愛すべき敵であって 人類みんなの敵ではありません。キリスト教 brさんにとって敵は愛すべきで、brさんは信仰により世界全体とかと和解癒着とかしてるらしいので、brさんの敵は全世界の敵いうことになるのか 繊細なサイコロさんは情熱的愛情の攻撃をされ brさんをブロックする必要あったのだと思います ブロックし問いを立て言葉使って複数の人と仲間になりbrさんを遠巻きに眺め落ち着く必要性まで あったのと思います でbrさんその群から疎外され更に怒り高めたと思います  助言書きます。いや無理です 暮らしや心廃れてる自分が人にそれぞれの修め方を書けるわけありません。でも書きます。  brさんは全回復はしてないアダルトチルドレンかも知れないので 人から『 お前の言葉は要らない・受け付けない 』というメッセージを受け取ることや、ブロック機能を行使されることには耐えられないことがあります。なのでサイコロさんもその他の人もそういうおもんぱかりをもってbrさんとの関係の仕方を探っていくと良いと思います。brさんいっけん強そうですが、その内側には自己受容の未熟な部分があり、神や世界と和解してても 自らや他者との和解が不足してて、自分のことを自分で認められるかや、自分の存在他者に認められているかどうかについての気がかりがあり、ひとの物腰をうかがい、ひとに受容されているかどうかで心が揺れやすく、信仰を必要とするほど繊細なので、人はbrさんのその繊細さを忘れない方が良いです かんたんに互いに安定した関係性をやすやすと期待してもむだと思います 世の中におおぜいいるめんどくさい人々の1人だと思います  brさんは 全回復はしていないアダルトチルドレンなのかも知れないので、人から『お前の言葉は要らない』とか『お前は在るな』とかいうメッセージを受け取ったり、そんな言語的/非言語的メッセージ受け取ったような感じがしたりして 悲しく腹立たしくもなったとき『あ じぶんは今 アダルトチルドレン としての 繊細さが うずいている から このように 心が 感じすぎて いるのだ 』と 思いかえすと、怒りや 悲しみが 強く湧いていることの 原因を、一部でも 自分に 引き受けることが できて、すると他者への攻撃心や執着心も少なくなり、距離感を保てますから 関係性がはたんせずにすみよいと思います。人から疎外された悲しみもそうして緩和して、自分のなかをおさめつつ 信仰による受容感覚を取り戻せばよいと思います。怒りや悲しみが心に強く湧くとき、その理由のすべてを他者のせいにせず、心の漣や嵐が、より内部にある自らの感じやすさ 繊細さにも起因してると思えば、人に対する敵意はおさまるかもと思います。  私は他者から敵意があってもなくても、自分けっこうぽんこつだ思ってひとり自足してればいいと思います    brさんとサイコロさん気の毒なくらい二人とも繊細です ハコブルさんとかに助言求めているところ似てます。  どうするか落ち着いて自分で決めればいいです。     ・その他の女性  おっぱいさんですね

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。    ★ brさんもっと簡単に抽象的でないように書けば話 さくさく進むと思います   ☆ これは すでに段階が違って来ていると理解すべきです。むろん 初めはそういうふうにしていました。じっくりとそして同じことを何回でも説明していました。局面ががらりと変わってしまいました。以前と違ったいまのそのような対処の仕方は これもすべて 受け身から出発したものです。  もしこの・わたしの言う流れが分からないのなら 困ったものです。  何とか説明しようと思えば:  すでに今は 人間の復活劇という第何幕かに入っています。あるいはつまり すでに生け捕りにしています。その状態をさぐりつつあるところです。と言っても 問題はすべて本人がどうしたいか どうするか これです。見守っているところです。生け捕りの状態がやはりいやだと言ってくれば 放し飼いにします。ほかのわたしのような人に託すこともあります。  それとも わたしがブロックして 来ることをも拒めばよかったろうか?  助言をいただきました。それでも批判します。  ★ ~~~~  ・・・人から疎外された悲しみもそうして緩和して、自分のなかをおさめつつ 信仰による受容感覚を取り戻せばよいと思います。怒りや悲しみが心に強く湧くとき、その理由のすべてを他者のせいにせず、心の漣や嵐が、より内部にある自らの感じやすさ 繊細さにも起因してると思えば、人に対する敵意はおさまるかもと思います。  ~~~~~~  ☆ それでも開き直りになりますが ここに捉えられている世界は 程度問題の世界です。五十歩百歩の世界。  百歩疎外された者が 五十歩疎外された者に おれのほうがかなしいはずだ なぐさめてくれと言おうとしている。あるいは それも言わないから おれはえらいと言っている。  つまりは 感受性において 百歩の人と五十歩の人とをくらべて いづれにしても自分のほうがつらい立ち場だからえらいのだと思って自重せよと言っている。    わが心の信仰の庭は この相対性の世界を超えています。  ★ ~~~  ・その他の女性  おっぱいさんですね  ~~~~~  ☆ ほかにも。みんなですよ。

bragelonne
質問者

補足

 フェイスブック やってみる?

noname#151121
noname#151121
回答No.55

 こんばんは アース役って信仰の意味もあっても人から思いの受容をしすぎなのでアダルトチルドレン的です。他者をアース役にするのも受容させすぎなのでアダルトチルドレン的です 。“人はあくまでおのれの自由を問い求めてあゆむ愛・ベクトル人間関係・アース役……これに反応しないとAC説を放棄したも同然” → 反応しわすれました。まあ強いことだなと思いました。なんで同然なのかわかりません 対話は大切なので仲良し話も目的になって良いと思います。自己受容が成れば寝ていても自由だと思います。キリスト教の自由は神と連結して世界を自由自在に生きたり活かしたりすることですか楽しそうですね ブラジュロンヌさんは人の相談に乗りますがbrさんにもメンターというのが要るのではないですか。  けんかしなければ良いと思います。どちらかが負けてつまらないじゃないですか人なんかが人なんかに勝っても。けんか腰の人にもふぬけたまま負ければ良いじゃないですか。負けてあげるのではなく勝ちたい人にはたんに負ければ良いじゃないですか。と思うのGHQのせいですか引きこもりだからですかなぜ勝ちたいのか分かりませんというか忘れました覚えていますけれど、負けていることがあはれであり自由じゃないのですか。けんか腰の人にたいしても 鳥の飛びっぷり凄いです、ちゃんと書けるのに 哲学伝記とか読みません中島義道さんはアダルトチルドレンらしい 哲学カテゴリは心理学カテゴリではないし哲学カテには健康的で常識的で退屈な言葉は要らないということなのか知りません 哲カテで人がよくお互い理解不能になって、作文と読解が上手くいかず言葉が機能していない場合が多く 通訳が必要なほどだとよく思います。brさんは鳥さんの通訳が上手 哲カテ中にあるbrさんカテゴリのようだとよく思い ネットから見えるbrさんの人格について云々することのできるページだと思いました 初見の人にアダルトチルドレン指摘されるよりは、見知った奴から指摘される方が受け入れると思ったので名乗りました “虚構の中の人物は 哲学議論にとって 意味ない。それと対話が出来ないから” → 対話できない相手に人格かんじられないということわかります。父とか全ての人とかと対話できないので、人といるときは相手や自分に人格そなわっていること忘れます ・自己受容 これは“世界との和解”のことだと思われる。“世の中を自分と同じようにとうとぶことが出来るかどうか”のこと。   → 性急です その手前です 自己受容は自分をとうとぶことです 世界とか世の中とかとの和解の前段階です。いわば下地です。土台。ここぐらぐらしやすいのACです。自己とうとべないと自他が味方におもえません。しっかりしません。余分な敵意や疲れが増えます。すぐキレます 他人にキレ 自分にもキレます 疲れます。信仰があっても自己受容がないと他者との受容関係も適度に築けないから、敵対します。信仰してもしていなくても攻撃的排他的になるようです。      被曝野郎と書かれても僕の心とかもう精神衛生とかまるで関係ないくらい荒んでるので言葉なんか何でも平気です。言葉自虐ばかりして言葉で傷つきません。すでに砂です。被曝野郎も挨拶かネタ程度です暴言として機能しません。言葉に対して心機能してませんその言葉退屈か簡単か難しいか見分けるくらい。原発事故直後しっかり引き篭ったので多分あまり被曝してません たとえ悪口放たれても言い返せず、心死んでて誇り示せないないのも不健康で良くないですが、自分(当事者)まるで平気なのに、傍から優しい人が見るとあまり平気そうでないというの厄介です 自分は平気ですとポーズをとらなければ誤解されます。なので平気ですと僕は書きます。ところが自虐によってすでにぼろぼろ灰でした 優しい傍観者が代わりに憤ってくれたり。brさんもサイコロさんも誇り高い感じ、よく分からないけれど責任感なのかそれも 心が怠けてる私の代わりに人に悲しんでもらうのも悪いので、分かりやすく自分で適度に憤らなければ、それが心の再活性化への道かも知れず、いまも姉妹や姪たち福島県内で薄っすら被曝して、そう思うと『被曝野郎』は嫌な言葉だけど、野郎なので女には用いられません。父は事故当時 放射線プルーム? が流れて来た時に外いましたからけっこう被曝したので被曝野郎です 被曝した男性なので被曝野郎で 父のこと苦手なので被曝野郎で良いと思います  とくに何か言い返す気になれず それでもbrさんに悪口を書こうとするなら、悪口は相手のことを言い表す言葉で すると僕がbrさんを言い表すとすると、ただそこにあるごみくずみたいなおじさんだ という感想というか印象というか空想くらいで ひとりで部屋にぽつんと座ってるすすけた男性がイメージされ そんなのはいつもの自分のことでもあり 半廃人が半廃人を罵っても何にもなりません。僕だけがごみくずなのかも知れませんし  アダルトチルドレンというか心のすっかりやつれている人は心の感覚が鈍磨してて、人間関係をもつ際もメッセージを放ったという感触や相手から受け取ったと手応えを得るには、大げさな言葉や劇場的刺激が必要なのと思います  他者から悪意そのものや攻撃心そのものを向けられていることには耐えられませんから、どういう悪意や攻撃心のあらわれでもそれはきっと善意なのだろうとか軽口にすぎないだろうとかいう解釈を勝手に自動的に加えて捉えます。『この被曝ヤロウ』も『しっかり頑張れよ、この被曝ヤロウ』に脳内変換されます。罵倒語から激励の言葉への自動変換です  自分はごみくずだけどわりと簡素で清らかなごみくずだから、それほど憎まれるものでもなかろうと、自分やbrさんは考えていると思います……と何の根拠もなく書くと思い込みですが、部分情報や記述片を持ってきて根拠するより、全くぼんやり全体をかんじてただ勘で述べてるだけですから、哲学にはならないのです。埋没練習をもっとする方がいいですデビューとかできません  ひばくひばくひばくの思い出『被曝ヤロウ』に対する言葉も前回答文に含まれてて、福島県民がネットで『セシウム水道水wwwうめえww』と掲示板に書いて、読んだ人に『突き抜けてやがるww』と書かれてましたが、自分はひたすら怯えてたものの、被曝すると卵子や精子の生産一時止まるそうで、自分は童貞線が切れ血を見るほどオナニーできますから、被曝の方はたぶん大丈夫ですよというメッセージでもあるのでした。被曝によるよりむしろ過度な自慰依存や老化老衰が原因でタネの尽きることに怯えます。お嫁さんと出会えなくなるような風評被害困ります、無職も困ります。雪山さんとビジネスというの気になります。あまさんのように命次代へ運べるものになりたいものです  サイコロさんはこぶるさんにだけ助言求め、仁科の助言求められてないとこに勝手に悲しみ感じ どんな言葉書いてあってもたいして悲しくならないですが仁科いう名ないことに勝手な悲しみわりとあるです。名前あれば単によろこびます brさんそういう悲しみ分かると思います  悲しいのは『お前の言葉は要らない』と言われることです。子を受容しない親もそういうメッセージ出します アダルトチルドレンを作る言葉でもあると思います そんなメッセージはこちらの人間存在がまるごと否定されるような気持ちにさせます。そんな意向が相手になくてもこちら傷つくなら被害妄想で   記述文体で人格作って熱心に提示してる人(brさんとか)にとって このサイトで書き込むこと禁じられるのは『在るな』みたいなメッセージ 『在るな』ではなく『書き込まないで』というメッセージなのに メッセージの強度がAC的な不安によって『在るな』の意味にまで高まります。自己受容が未成熟なので かわりに他者に受容して欲しいのに、『在るな』とか『要らない』とかいう受容拒否(受信拒否)に存在否定を命じらるような不安に傾きます。たいていの人にとってたんなる拒否にすぎないこと(ブロック機能とか)に対しても、そのメッセージの解釈や意味が 地球や人類や人格や存在を左右する域にまで達してて、感受性がするどくて脆い。1人から拒絶されてもなんてことない気がしますけれど 1人の自分が拒絶されることは辛く 恨みは1人を攻撃することで晴らす快感に変化しえ 『在るな』に対してこちらも『在るな』を言いけんかになります  繊細さが原因なので繊細さの自覚がカギと思います。自分の存在を揺るがされるような不安の原因は、相手であるのではなく、自分の自足の少なさにあるためだと気づいて、相手は別にこちらの存在を否定しているのではなくこちらの行為を否定しているだけだ、ということに気づくこと大切だと思います。もし他者がネットでこちらの存在まで否定しても、自己受容・自足が信仰その他によって成ってれば、相手を強く否定しなくても大丈夫と思います  brさん普段感情あまり起きにくいと去年二月あたり書いてました。砂のような日に気持ちの動くこと少ないものです。なのにサイコロさんと精力的けんかしてすごいと思います『お前の言葉は要らない』と言われる悲しみ怒り恐怖が感情の動く原因と思います。そこがbrさんの繊細な部分だと思います  私『お前の言葉要る』と書かれても価値あること書けないの悲しいです 『お前の言葉は要らない』というメッセージはこういうサイトでブロックに当たると思います。僕は現実で全ての他者ブロックしてますが、ネットで人をブロックしたことなくとんずらは多くネットでも現実でも妹以外とけんかしたことありません 『私の言葉を読め』言われるのもうっとうしいと思います。また陰口はきらい

bragelonne
質問者

お礼

 心理学は 現状分析のみです。状態を分類するのみです。時間過程がありません。  精神分析は 医学だと主張し 治療という看板を掲げ じっさい治療をしています。していますが 治癒するとは思っていません。完全に治癒するとは思っていない。病状を分類しどれかに当てはめます。  その病名にしたがって 患者と医者との関係が どこまでもつづく閉じた世界です。その相関関係において 心理学よりは時間過程があるようでいて もう初めからすでに閉じられた世界に入ってしまいます。治癒するかしないかは もうどうでもよいようになるのだと見ます。  たとえ寛解したとしても 大きくは医者と患者という関係世界は抜けられません。精神分析という世界は きちっとした枠組みがこしらえられていて これは 消えません。彗星がぶつかって やっとその枠組みが壊れかけるかなというところでしょう。  アダルト・チルドレンという規定も 同じことです。枠組みをはめるのみ。現状分析のみ。分類作業をするのみ。そうしたあとは その窓をとおしてしか もう世界を見ることができません。  という問題をまづ指摘します。  つまり 心理学がいやしくも学問を標榜しているかぎり 多少は現実に当てはまる部分はありましょう。という意味です。そう見なければウソだという意味です。  個別に反応しますが 上の前提は 重要でしょう。  ★ アース役って信仰の意味もあっても人から思いの受容をしすぎなのでアダルトチルドレン的です。  ☆ 信仰にかかわるかと言えば かかわると思います。意識していなくても。  ★ 人の思いの受容をしすぎ  ☆ これは ひとつに 感受性のもんだいです。ひとつに それが ふつうであって そのほかの人たちが 感受性がにぶいだけだという見方も成り立つかも知れない。ひとつに だから AC という分類をおこない当てはめるという作業に 何の意味があるか。  ★ 他者をアース役にするのも受容させすぎなのでアダルトチルドレン的です 。  ☆ これは 意味がない。人がほかの人に対して アース役になれと言うことは出来るが その役にするということは 無理。もしそういう実態があるのならば すでに成っていて そのアース役であることを自覚するという場合を言うのであろう。それを AC と規定して いかなる意味があろう。  ★ 人はあくまでおのれの自由を問い求めてあゆむ愛・ベクトル人間関係・アース役……これに反応しないとAC説を放棄したも同然” → 反応しわすれました。まあ強いことだなと思いました。なんで同然なのかわかりません   ☆ AC は そんなことを考えてもいなかろうし 実際おこなってもいなかろうから。  ★ 対話は大切なので仲良し話も目的になって良いと思います。  ☆ みんなと仲良くたのしく話をしていなさいね ママはちょっと用事を済ませて来るから。といった情況では 目的になり得ます。哲学で目的と言えば 存在論としてのものでしょう。  ★ 自己受容が成れば寝ていても自由だと思います。  ☆ たぶん そうだと思います。  ★ キリスト教の自由は神と連結して世界を自由自在に生きたり活かしたりすることですか楽しそうですね  ☆ 《教》ではなく キリスト信仰あるいは単に信仰。《わたし》が自由になるのは じんるい最後のひとりだという志向性と見通しのもとにです。  ★ ブラジュロンヌさんは人の相談に乗りますがbrさんにもメンターというのが要るのではないですか。  ☆ 当たっています。アウグスティヌスの文章は じつは教会教会していてふるいとも思うところがあるのですが でも引き締まっています。それは わたしにとって メンターたり得ます。  もう少し行きましょうか。次の段落。  ★ けんかしなければ良いと思います。どちらかが負けてつまらないじゃないですか人なんかが人なんかに勝っても。  ☆ (1) すべてつねに 受け身である。(2) けんかが待った無しの場合もありうる。(3) 勝つか負けるかは どうでもよい。先ほど上に見た《自由》の実現度合いや実現方法にかんがみて そのヨリよいほうに就く。つまり軍配が上がるようにことをはこぶ。(4) だから 人と人とのあらそいだとは見ていない。じんるいと世界が 何ミリ自由への道をすすんだかのたたかい。  ここらあたりが まだよわいようだ。考えが練られていない。すなわち  ★ けんか腰の人にもふぬけたまま負ければ良いじゃないですか。  ☆ も  ★ 負けてあげるのではなく勝ちたい人にはたんに負ければ良いじゃないですか。  ☆ も 判断や行動の基準にはならない。《仲良しクラブのおあそび》ではないのだ 人生は。肝に銘じるように。  ★ 負けていることがあはれであり自由じゃないのですか。けんか腰の人にたいしても 鳥の飛びっぷり凄いです、  ☆ ん?  ★ 中島義道さんはアダルトチルドレンらしい   ☆ という たとえばこういう規定 これは 何の意味がありますか?  ★ brさんは鳥さんの通訳が上手   ☆ 《鳥さん》ってだれ?  ★ 自己受容は自分をとうとぶことです 世界とか世の中とかとの和解の前段階です。いわば下地です。土台。ここぐらぐらしやすいのACです。  ☆ ここ 見解の相違。順序をぎゃくにした見解を持ちます。《世界との和解が成って初めて あるいは生まれて来たことのその与件をそのまま受け容れることが出来て》初めて人は 自己を自己として受け留めている。と考えます。  ★ 自己とうとべないと自他が味方におもえません。  ☆ 人を《味方に思う》ことなどありません。《みんな敵でいい》主義。そうして初めて 少しは味方もいるなぁと思うようになる。  みんな敵でいいと思っていると その敵意というのを 受けて感じてふつうだということです。  ★ 余分な敵意や疲れが増えます。すぐキレます 他人にキレ 自分にもキレます  ☆ という敵意は 自分のものでしょう。みな敵だと思っていれば こちらがわざわざ敵意を持つこともない。持たせておけばよい。《余分な》はおろか 敵意が要らなくなります。  もしキレたとしたら それも すべて受け身からです。相手がキレたのに合わせてのものです。敵ならキレてもしかたがないとまづ受け留めます。そこで わたしは自由でいたいので 相手を自由でいるように何とか工夫して持って行こうとする。そのとき いっしょにキレたふりをするのも 一法です。   ★ 信仰があっても自己受容がないと他者との受容関係も適度に築けないから、敵対します。信仰してもしていなくても攻撃的排他的になるようです。   ☆ 順序がぎゃくと見ます。他者や世界のほうが先。自己だとしたら それはこの世に生まれ落ちたそのことについての受け留めだと思います。五体満足の場合は 自己との和解はあまりなく 世の中との和解が先に来ます。というのも 世界との関係としてむしろ《自己》が形成されて行くのだからです。初めから《自己》があってこれを自己が受容してうんぬんという順序だとは思えません。  ★ brさん普段感情あまり起きにくいと去年二月あたり書いてました。砂のような日に気持ちの動くこと少ないものです。なのにサイコロさんと精力的けんかしてすごいと思います  ☆ 《感情が起きにくい》ことと《相手の敵意やけんか腰に合わせて 同じようになる・つまり感情をもあらわに出す》こととは 両立します。前者は ニュースを聞いたりして世界と相対するときのことです。  ★ 『お前の言葉は要らない』というメッセージはこういうサイトでブロックに当たると思います。  ☆ よほど繊細に出来ているのおおお。わたしの反応? あほとしか思えない。意味がないという意味です。  もし存在を否定する意図があるとすれば 同じ人間として 自分の存在をも否定してもよいと認めたことになる。ただ単に おまえはしゃべるな! と相手を排除しようとする意図だとすれば それを言う意味が分からない。対話で おまえはしゃべるな! というのは 精神錯乱に落ち入ってそう吐いているとしか考えられない。いづれにせよ あほです。そして そういう場合には 感情が起きにくいわけです。 あほかという思い以外には。  ★ サイコロさんはこぶるさんにだけ助言求め、仁科の助言求められてないとこに勝手に悲しみ感じ  ☆ ぢゃあ あほに信頼をよせるあほだ。

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