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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《ネット人格》なんて 別の人格があるのですか?)
【ネット人格とは】あなたは知っていますか?ネット上でもう一つの人格が存在する!
このQ&Aのポイント
- ネット人格とは、現実の自分とは異なる人格がネット上で存在することを指します。電話や手紙と同様に、ネット上でも人格が変わることがあります。
- ネット人格には、現実の自分とのギャップが生まれることがあります。人々はネット上で自分を別の人格として表現することがあり、その人格に対して意見や感情を持つこともあります。
- ネット人格の存在については、賛否が分かれています。一部の人々はネット上での人格の変化を楽しんでいる一方で、他の人々はネット上での人格の偽りや誤解を問題視しています。
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- amaguappa
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- littlekiss
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noname#151545
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- 阿加井 凛悟(@neutral)
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noname#151127
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noname#151127
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- littlekiss
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noname#151121
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noname#151121
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お礼
あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 (1)個人人格の認識 ★ (人格全体の「一」と人格構成単位の「一」) ~~~ 人格全体の「一」と人格構成単位の「一」が規定できた時点で, 「多」なる単位の「一」から総合して統一的性格群をつくり,徐々に全体の「一」に向かいます。 この過程の把握が人格形成の認識に寄与します。 ★ (人格構成単位のそれぞれの「一」) ~~~ ・《内包》:身体的特徴,習慣,行為,しぐさ,態度,表情等 ☆ 生活態度は 思想である。 ・《外延》:表現されたもの。日記。虚構作品でもよいかも知れない。 ☆ ジキル博士にとってハイド氏は 外延か? おそらく内包だと思われる。 ☆ 旅の恥はかき捨てというときの旅人なるわれは 外延か? 外延として扱いたくなるところのやはり内包。 ~~~~~~~~~~~~ (2)個人人格の形成 この箇所で明らかにされた議論は 次のわたしの文章をおおむね敷衍してもらったものと思います。 ☆☆(No.13お礼欄) ~~~~ 1. 人格は 《わたしがわたしである》ことの――つまり自己同一性なるその自己の――自己表現にある。別様に言うと その自己表現としての歩き方にある。文体と言う。 2. つまり 《文体》が・その動態が 人格である。 3. つまりはこの文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 4. ただし 文体の主体はやはり《ひと》のほうにあると考えられる。それは ひとえに人間にそなわる自由意志のゆえにだと考えられる。ネットの世界も 言わば《環境》の側であると。 5. 他者なる人間には 自由意志があって 《わたし》と対等にして自由な関係にあるが 環境には 自由意志がないからという単純な理由による。 ~~~~~~~~~~~~~~~ (2-1) 《わたし》が 社会に適応する過程として: ★ ~~~ 自己規定的な人格形成は,社会からの影響に端を発して社会への適正化によってなされる自発的なものと考えられます。 個人はある性格を,〔* おのれの内なる既成の〕統合性格群に受容してより多様性のある統合とするか,統合性格群から排除してより統合性のある統合とするかを取捨選択,試行錯誤しながら適正化を常に図っていると見られます。 ~~~~~ (2-2) 社会が《わたし》を規定する側面: ★ ~~~ たとえばイエスの人格が超人的人格に形成されたのは,処女懐胎等を信じた社会がイエスの人格を超人的なものに規定したという考え方を容易にもつことできます。また,超人的人格を認めぬ社会が存在しても当然とことと解釈できます。二つの社会が十字架にシンボライズされているのかどうかは分かりませんが,十字架上のイエスは二つの社会の狭間で社会的人格規定によって人格分断を経験しているかに思えてきます。 ~~~~~~ ☆ これはですね。いい方法・いい見方があると思います。 イエスは ふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ぶ神の子でありみづからも神である存在(つまり 神格)を持つというふうに《想定した》と捉えれば無理なく 言わばそういう《物語》として《二つの社会》に分断されずに済むと思うのですが? マリアは 人間イエスを夫となるべきヨセフとのあいだにもうけたふつうの女性としての人間であると同時に 神の子キリストを聖霊なる神によって身ごもったつまり処女懐胎した女性としての人間である。と イエス・キリストの想定から 派生して想定される。物語のふくらみ。 (2-3) ★ (逆の働きである個人⇒社会と,自然環境と個人の相互作用による人格形成については考えが定まらず,保留しておきます。) ☆ たしかにわたしの文章も 扱っていません。自然環境との応酬はおもしろいかも知れません。がなにぶん資料を集めなければならないでしょうね。 このあと (3)(4)については 分けて考えてお応えしてまいります。
補足
お礼欄から続きます。 (3)個人の創作的人格 (4)人格対象への個人人格の自己投影 これら二つの事柄については 合わせて捉えて見てみます。 特に《演技》論などについては 試みの議論です。 (3-1) 《創作性》について ☆☆(お礼欄 人格の定義) ~~~ 3. つまりはこの〔動態であると捉えた人格としての・また人格を成す自己表現そのこととしての〕文体は 《〈わたし〉と 〈自然環界なる環境および第二の自然としての社会的自然なる環境〉とのあいだに繰り広げられる相互の問いと答え》 このようなやり取りの過程から形成されると同時に その形成過程そのものである。 ~~~~~~~~ ☆ このとき《文体》なる自己表現に《創作性》があるかという問いが取り上げられる。すなわち ★ 「ネット人格」にはどうやら創作的含意があるようです。これに異をとなえるつもりは有りません。むしろ人格は形成的であるから創作的であるといっていっこうにさしつかえません。人格という概念に,「創作性をもつもの」という内包があることを認めます。 ☆ と。 おそらくこの《創作性》は われと環境とのやり取りにおいてわれがおこなう想像力のみによる表現すなわち《虚構》のことではないかと見られます。あるいは むしろ直接的にそのような想像力のいとなみとしての《試行錯誤》であると。そこに一編の物語や人物像をかたちづくるようなまとまった部分も出来ていると。 もしそうだとして そのときには 人物像なり物語なりの《表現されたもの》としては すでにわれなる人格の外延になったのではないかと考えます。それに対して 創作性というときのその想像力や構想力としての能力 これは 人格に内包されているであろうと見ます。文体としては・つまりは文体の歩き方( basis )としては 創作力を内包し それを表現したもの・つまりは表現=外化=疎外したものは すでに外延となっている。 あたかも創作によって成ったものとしての子は 親にとって――人格は異にするも―― 社会的生活における共生者としては一体である。無条件にあたかも自分のことのように思える。人格にとって《外延》は そのような一面をも持つと思われる。 (3-2) 創作性にちなんで《演技》について ★ 創作的人格を考える上で,ここでは即興劇の役柄と役者の人格をたとえにしようと思います。役柄と役者の人格で創作性を比べれば前者がより創作性を持ちます。 ☆ 《役柄》あるいはむしろ《演じられたもの》は 外延です。その創作力ないし演技力は 内包です。 そして 人は 役者になっても 人生全体をつうじての《ひとつの人格》です。 (3-2-1) ここから演技論については わたしの推測を交えた試論です。 ★ ここで鑑賞者の観点からこんなことが言えます。濃厚な性格を演じる主役グループに対して,希薄な性格のエキストラ,いずれに人格を認めるかというと前者です。 ☆ ここで言う《人格》は 人格の外延のことです。表現されたものです。いづれに認めるかというのは もし認めがたいという場合には その外延としての表現されたもの=つまり演技が その内包としての表現力=演技力とともに 稀薄であったのだと。このことは 主役・脇役・エキストラの別無く 次にも当てはまりそうです。 ★ しかし,主役といえども役者が大根ではつまらないです。想像世界に没入できず,現実世界に引き戻される感があります。役柄の創作的性格が希薄になり,役者の現実的性格が濃厚であるということです。それで現実的人格を見てしまうということです。 ☆ さらには ★ 演技者の立場から見た場合も同じようなことが言えると思います。現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時に,役者経験がないため強く主張はできないですが,役者は役柄の人格に成りきったと自覚すると思われます。 ☆ ここです。わたしの推理ですが そしてすでに一度述べてもいました。つまり ☆☆ (No.20お礼欄) ~~~~ すなわち 《役者が別の人格に成りきっている》のもそれは大きく《演じている》のだと考えるというものです。というのも――わたしも素人として言うのみですが―― 役者というのは ほんとうに役者なのであって 真に迫る演技というのは ほんとうに《演技をしている》のだと思います。つまり早く言えば《うそ》なのです。言いかえると ウソのほうが 真に迫って見えるのであり それがいい役者だということになるのだと。 かなしい表情を表現するとき 心の中でおもしろいことを思っていてもよいのです 役者は。そしてそのように心の思いとは別の表情を演じたときのほうが 《役に成りきっている》と見えるのだと。 ですから これは これだけでひとつの主題を形成しますので とりあえずここまでとします。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまりはここで あともなどすさんの次のお考えに対立するかたちです。 ★ 現実の役者性格を極度に希薄にして創作の役柄性格を極度に濃厚にした時 ☆ むしろ《役者であるわれをそのまま保持し その表現力=演技力を思う存分に発揮して》という捉え方です。つまりは《われは役者であるという性格および自覚を 稀薄にするのではなく濃厚に発揮して》だと思ったりします。《役に成りきる》ということは 《その役を自分のもとに引き寄せて来る》のではないかと。 役に入って行くというのは その情況や場面にすうっと入って行く。演技は その役柄を自分のもとに引き寄せているのではないかと。 (4)人格対象への個人人格の自己投影 (4-1) やはり《表現(創作・演技)されたもの》について ★ 創作人格とは(3)で述べた役柄のようなものであり,そこに役者の人格を投げ入れなければ,鑑賞側,演技者側どちらで眺めるかにかかわらず,人格なるものは見えてこないといえると思います。 ☆ 《ひとつの人格》をめぐって: ・その内包としての表現力:役者力 ・外延としての表現されたもの:役柄・演技されたもの 両方が相まって 創作性の創作性たる良さやチカラが現われる。芸術性や芸術力と言ってもよいかも知れない。 この芸術性が 《自己投影》という視点からも分析される。 (4-2) 《自己投影》 ★ ○ 「ネット人格」と「リアル人格(発信側/受信側)」の関係は,投影客体と投影主体の関係であり,投影主体の内に統合されるものである。すなわち,投影主体ただひとつが人格である。 ★ ○ 〔* 自己投影されたものとしての〕「現実的部分人格(顕在面は現実的性格群)」は人格ではなく〔* 人格の外延であって〕 「現実人格(顕在面は現実性格群)」(発信側/受信側)ただひとつが人格である。 ★ ○ 人格の単一性は,当為認識性〔* つまり何を表現しどのように自己投影するかに際しての特に志向性 つまりはわれの意志とその判断〕によって与えられる。それは社会との相互作用性,形成性・創作性,投影性ら妥当と思える人格観に反するものではない。それどころか人格の単一性はそれらを〔* 社会的な相互依存の関係が重層的にはたらいている構造的な〕基盤とするような特殊な単一性であるといえる。 ☆ 《わたし》は その自由意志による自己表現ということにおいて――勝手に他人に自分の思いや考えを代弁されては困るといったように―― 社会的に独立した存在である。と同時に その自己表現は 社会や自然との間に互いの問いと答えを繰り返しながらおこなうものであり そこでこそ《わたし》の文体ないし人格が形成されていくと見るからには 社会的に《わたし》どうしが関係しあう存在である。(ちなみに 《関係の絶対性》と言った人もいる)。 人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。網の目(ネットワーク)の結び目であると同時に その結び目をつなぐ《きづな》をも有する。 ちなみに きづな(絆)とは 煩悩のことをも意味させるようになった。まさに関係の絶対性である(!?)。 いささか断言の口調であって まことにあい済まないことと思います。 さらに一段と上の試行錯誤を互いに目指したいと思います。