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禅が鎌倉で幕府を中心に支持された理由や事情は?
- 禅が鎌倉で幕府を中心に支持された理由や事情について解説します。
- 幕府と武家が禅宗を支持した背景や禅宗の影響力について説明します。
- 律宗や禅宗に関する歴史的な記録や研究書を探す方法についてお伝えします。
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武士=禅宗 極論すれば、偶然、あるいはその時の優秀な僧侶がどこにいたか、支配者がそれをどう判断したかということ。 鎌倉五山の第一位建長寺 開基 北条時頼、蘭渓道隆(開山) で、時頼はここに葬られています。 円覚寺 開基 北条時宗、無学祖元(開山) <時頼の息子ですね時宗、で墓所もここ 寿福寺 北条政子、栄西(開山) 浄智寺 開基 北条師時 <実際はおじさんにあたる時宗が弟の宗政(師時の父)のために作った 浄妙寺 開基 足利義兼、退耕行勇(開山)<義兼の奥さんは北条時政の娘、つまり源頼朝と相婿です。 つまり北条時頼・時宗父子を軸として五山が形つくられています。 時頼ってのは、偶然執権になった人。本当は兄の経時の系統が本流です。 で、経時はどこに葬られているかというと 天照山蓮華院光明寺 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82) 浄土宗なんです。 経時がそのまま長命で、北条家徳宗がこの系統に繋がって行ったら、鎌倉五山(的な)ものは浄土宗だったかもしれない。 ちなみに経時の息子は真言宗の僧侶になっています。 たとえば、浄土宗で北条政子が開基した寺院 http://www.bandou.gr.jp/03.htm というのもちゃんとあるわけで、寿福寺の代わりに、この寺が五山になっていたかもしれない。 まぁ五山というのが、中国の臨済宗起源なのですが、大元はインドの五精舎だから、グループ分けする発想があれば、適当に浄土宗でつくっているかも。 なんぜ京都五山はお寺が6だったりしますので、そのへんは融通無碍。 そういえば徳川家ももともとは浄土宗ですよね。 ===ここからは半分以上妄想 五山というのは貞時が浄智寺を五山に定めるというのが最古らしい。 貞時の正妻は宗政の娘で、師時の姉妹。 北条徳宗の面々は、本郷さんの本によれば、武士として統治原理を考えた人々だったので、精神的バックボーンとして臨済宗を採用した。いろいろ宗派があるが、自分たちの血流の正当性に近いのが臨済宗。なんせ浄土宗では、本来の本家である経時の方が嫡流に成るように見えてしまう。
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- TANUHACHI
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この問題に関しては戦後歴史学を含めて膨大な成果がありますがそれを比較的コンパクトに纏めているのが佐々木馨氏の論文(「日本中世の王権と教権」-『古代中世の社会変動と宗教』義江彰夫編 吉川弘文館)です。 以下その一節を引用してみます。 この論文には前提として「中世の天皇と神国思想」に着目しそれを5つの潮流として以下に整理しています。 (1)織豊・徳川政権という統一権力にその保証をもとめる「権力」説(富田正弘・上横手雅敬)。 (2)天皇を支えた「非農業民層」の存在説(網野善彦)。 (3)国土安全・万民快楽の保証は天皇の宗教的権力とする「呪術的祭祀王権」説(高木昭作)。 (4)最高峰の「家職」にある天皇は、宮廷儀礼の主宰執行・官位授与・元号制定権などの超越的権威を持つという「家職・官職階層制」説(永原慶二)。 (5)文化の政治性に注目した、公家層による「文化的統合」説(脇田晴子) こうした中にあった佐々木氏が注目するのは(5)です。 さて本題の鎌倉時代の王権と教権の関係ですが、佐々木氏は日本中世の思想界を「神国思想の信・不信を物差しにした場合」5つの思想空間から構成されているとの認識を示し、 (A)「公家的体制宗教」→神国思想を自らの体制擁護のために全面的に享受しつつ中世宗教界の首座に君臨して支配の正当性を一貫して繰り返す(顕密主義)。 (B)「武家的体制宗教」→神国思想の受容との点ではA同様であるが東国に新たな覇権を唱えるべく陰陽道などを積極的に摂取しながら「天皇王権」を相対化し、自らの「武家王権」を正当化する(禅密主義)。 (C)「反体制宗教」→神国思想を徹底的に排除し、公武いずれの王権とも「専修主義」を拠り所として対決を辞さない。 (D)「超体制宗教」→「体制・反体制」との生臭い現実を回避し、その意味で神国思想とも是々非々で向かい合い、飽くまでも自由な境涯を思念する(中道主義、悪く言えば風見鶏)。 (E)「もう一つの反体制宗教」→専修主義を説く「反体制宗教」から多くを学びながら自らもドン底生活苦の中から必死に「体制」からの解放の声を挙げ「民衆神学」ともいうべき名もなき民衆の神観念を爆発させる。 と定義します。 (A)が背景とする思想的基盤は「王法・仏法」の原理でありそれ故に旧体制としての国家組織からの保証を受けることになります。これに対し(B)は(A)が不変とする「神明擁護・国土の神聖視・神孫降臨」の3つの原理中「神孫降臨」を事実によって懐疑的な存在へと転じさせます。「自らが正当な支配者であることの証左」を明示するには必然的な帰結です。これが承久の乱のもう一つの意義です。そして(A)の宗教センターが比叡山の山門派および興福寺であるならば、(B)のそれは鶴岡八幡宮の運営に携わる比叡山の寺門派および東寺の真言密教でありまた新たな正統的支配を認知させるには新たな対抗軸および思想基盤的原理としての禅は適切な選択だったといえます。 一つ考えられることとして、「既にあったもの」と比較し優越性を持つには何らかの形で「それに対しうるだけの新しいもの」が必要であり、この根拠は「支配原理としての天皇制の位置付け」にあるように考えられます。天皇制を積極的に推進する「公家的体制宗教」とそれを相対化しつつも自らの権力確立の目的で相互補完的に是認する「武家的体制宗教」という二つの「体制的宗教」が存在する一方、「仏法為本」「神祇不拝」に拠りながら天皇制を否認しそうした「体制に組み込まれない」第三極としてのスタンスを構築した「反体制宗教」である浄土宗・曹洞宗も南北朝~室町期にかけて、勅願寺化や僧正補任などを媒体として「体制的宗教」へと組み込まれ変貌を遂げてゆきます。 僕の知る限りではこうした宗教と天皇の権威に関する研究を扱っている書物は最も古典的な『黒田俊雄著作集』(法蔵館)に始まり『日本の社会史-3』(岩波書店)『天皇と中世文化』:脇田晴子(吉川弘文館)『講座 天皇と王権を考える-4』(岩波書店)『中世国家の宗教構造』:佐々木馨(吉川弘文館)『神・仏・王権の中世』:佐藤弘夫(法蔵館)くらいです。 なお御質問の文中には幾つかの誤解もありますのでその点を指摘させていただきます。 (1)「【幕府と武家はなぜ】(顕密の寺院も建立・寺領付与・支援しているし八幡などへの戦勝祈願もよくやっていたのに=従来の政権や日本社会の習慣の延長線上にあるように思える」→鎌倉幕府の宗教への関与の仕方はそれ以前のものとは質的な違いがあります。 (2)「臨済宗、曹洞宗の側は、政権や武士などのパトロンにどのようなアプローチで向かったのか」→冒頭に引用した佐々木馨氏の論文をお読みになればわかります(この回答でも少し触れています)。 (3)「もしも二つの王権論に関わる視点であればそうした視点で顕密体制に対峙する宗教体制を作ろうとしているのであれば(文覚や後白河の関係があったにせよ)なぜ東寺や金剛峯寺などもあそこまで復興させたのか天台の支援をしたのか」→比叡山や東寺そして高野山も決して一枚岩の組織ではありません。分派が様々にあります。この辺は一般の啓蒙書などには記されていないために誤解を招きやすくなっています。 こうした問題に関しては宗教書というよりは歴史学書それも専門の論文をお読みになることをお薦めします。宗教の立場から書かれたものはどうしても宗教という色眼鏡の影響を受けてしまっているケースが多くみられますので。
お礼
詳しい回答と、書籍紹介、ありがとうございます。 「→鎌倉幕府の宗教への関与の仕方はそれ以前のものとは質的な違いがあります。」 この点を、少し補足してご説明いただけないでしょうか。 私の質問に対する回答としては、tanuki4uさんと、TANUHACHIさんの回答で、現状十分なので、自分の読める範囲の本を読んだり、視点を移したりしながら、これから勉強させていただきます。 ただ、「鎌倉幕府の宗教への関与の仕方の、それ以前のものとの質的な違い」のことがわからないので、この点を補足していただけるとありがたいです。 よろしくお願いいたします。
- mekuriya
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簡単なことです。仏教は奈良時代までが朝廷がスポンサーでした。朝廷が見込みのある人物を縁故採用して、国費留学生として唐に派遣しました。遣唐使と一緒に遣唐使船に乗せてもらったわけです。当然、生活費も何もかもスポンサーである朝廷が持ちます。それが学僧です。難解な漢字だけで書かれた経典を解読するのだから、おそろしく時間がかかります。奈良時代の仏教を奈良仏教というのですが、いうなれば国家公務員が勉強させてもらったような仏教です。この時代には、まだ広く布教されていたわけではありません。その奈良仏教が平安仏教、鎌倉仏教と変質していくにつれて朝廷から距離を置くようになります。もちろん朝廷と敵対していたわけではなく、朝廷と適度な距離を保ったということですが。平安仏教は一口にいえば貴族がスポンサーだったのです。 臨済宗、曹洞宗は平安仏教である天台宗、真言宗に対して後発ですから、新しい支持基盤を獲得できないと自立できません。従来の宗派と異なる宗派を立てようと志すには、新しい市場を開拓し獲得しないと食べていけないし、勢力の拡大はままなりません。 その新しい支持基盤が、鎌倉時代に台頭しはじめた武士です。貴族階級は、平安仏教の牙城ですから、後発の臨済宗、曹洞宗が割り込む余地はないのです。また武士の方も貴族に対抗して政権の正当性を訴えるためには、平安仏教ではない新興の臨済宗、曹洞宗を支持する必要がありました。 お互いの利害が一致しているのです。 鎌倉時代は、鎌倉幕府が設立されたものの鎌倉幕府が全国を一元支配できたわけではありません。実際は朝廷と鎌倉幕府の二元支配でありました。承久の乱に鎌倉幕府が圧勝して、幕府の優勢を決定づけましたが、それには鎌倉幕府が臨済宗を支援したことも背景にあります。決して北条政子の演説だけで全国の武士がその帰趨を決めたわけではないのです。 鎌倉仏教と呼ばれているのは6宗派あるのですが、それぞれ開祖の時期が少しづつちがっていて、当時の支持基盤も少しづつ違います。 宗教という狭い視点に囚われている限りは何も見えてこないでしょう。先発の宗派に対抗して新しい宗派を打ち立てて生き残るには、既存の宗派とは異なる独自性を確立し、既存の宗派の支持基盤と異なる階層に浸透し、新しい支持基盤を獲得しないと生き残れない。逆に言えば、それに成功した宗派だけが現在に生き残っているといえるのです。ですから最初に教義があって、それに対応した支持基盤を獲得するというより、支持基盤を獲得する為に支持基盤に受け入れ易い、新しい教義を打ち立てるといった方が本当のところです。 例えば浄土宗は、南無阿弥陀仏とひたすら唱えることが大切だと説くのですが、そんなことどこの経典に書いてあるのか私は存じませんが、無学無教養な階層に布教する為には、至ってシンプルで都合が良い訳です。 仏教史をどこまで理解できるかは質問者さんの見識によります。 これだけは理解してください。仏教に限らず、あらゆる宗教は教義の是非や優劣によって、廃れたり栄えたりするのではありません。
お礼
回答ありがとうございます。 かなり長い期間、僧は基本的に官僧であり、私度僧は禁じられています。私度僧もそこそこいたのは間違いないですが、寺院は基本的に官許のようなものです。公認を得るためには、何らかの貢献をする必要があります。空海は文覚も同様です。 本人の宗教的信条が高いかどうかではなくて、それが宗派をなし、壮大な寺院を作り、なおかつ以降連綿と継続維持されるには、一時的な寄進だけでなく、体制的なものをどのように築くことができたのかが重要です。体制をどのように作れるか、どう維持できるかは、それぞれの社会状態をみなければ判断できません。 無学無教養な階層に布教するために至ってシンプルな教義で臨んだとしても、それだけで体制ができるものではありません。あらゆる宗教は教義の是非や優劣によって廃れたり栄えたりするのではありません。既存の宗教と違うことを唱えれば何とかニッチで市場を得られるというものでもありません。 実際は朝廷と鎌倉幕府の二元支配であるということが事実であるとして、それがどのような絡みで、なぜ禅宗を受けいれ、後代、京と鎌倉に五山を作るのか、天皇家と九条が絡んでいるのか、中国貿易の独占利益をどう位置づけるのかなど、そのあたりのプラクティカルな検討が記載してあるような書籍や簡単に手にできる論文等をご存じでしたら、よろしくお願いいたします。
- hekiyu
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本の名前は忘れましたが。 至極簡単ですが。 武士も仏教をやりたかったのですが、当時の武士は 無学で、字も読めないのがゴロゴロしていました。 そんな武士たちが、仏教の難しい経典など理解できません。 それに戦闘のプロである武士に仏教はそぐわないところが あります。 それで、武士にあった仏教、ということで禅が支持された のです。 禅は座禅が中心で、不立文字を原則とするため中心的経典を立てず、 臨機応変な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派ですので 武士の体質に合っていたのです。
お礼
回答ありがとうございます。 文字を読めない、学問する時間もその気もないのはよくわかります。そのための易行はたくさんあるし、すでに平安末期から各宗派は密教化(呪術と祈祷による個人や依頼主の直接利益)の方向に進んでいて、信者に修行や学問、哲学信仰行為を求めてはいないので、あえて禅宗に何かを求める必要があったとは思えません。また各宗派は兼学の傾向が強くかつ(競争的ではあっても)排他的ではありません。融通無碍・臨機応変なところがあります。神事や祭祀、祈願を禁じないし、健康保持や息災にも熱心です。 不立文字を原則とするため中心的経典を立てず臨機応変な以心伝心の方便など種々の特徴を禅が持っていたにしても、具体性に欠ける禅がプラクティカルな武家政権や地侍、領主に魅力的であるようには思えないのですが、そのあたりに関して、例証など分かり易い説明や書籍がありましたら、お願いいたします。
- tanuki4u
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本郷さんの本はどうでしょう? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E5%92%8C%E4%BA%BA 武士から王へ―お上の物語 統治者としての責任を持つために、その理論的バックグランドづくりとしての禅宗受容 なんてことが書いてあったような気がする。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B8%88 この人は、真言宗だけど、本郷さんも書籍で言及しているようです。 曹洞宗の場合、実は道元って一時期知られていない人でした。 キリストまでは言いませんが、知る人ぞするくらいの人だった。なんせ 厳しい人だったので。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A9%E5%B1%B1%E7%B4%B9%E7%91%BE この人が、一般人にも分かりやすい体系に曹洞宗を作り上げ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A8%E5%B1%B1%E7%B4%B9%E7%A2%A9 この人が、曹洞宗という集団を作り上げています。 キリスト教で言えば、螢山がペトロで峨山がパウロみたいな感じです、道元がキリストなら。 http://www.amazon.co.jp/%E5%B3%A8%E5%B1%B1%E7%A6%85%E5%B8%AB%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E4%BD%83-%E5%92%8C%E9%9B%84/dp/4833012197 読んでいないが 組織者として峨山が詳しいようです
お礼
ありがとうございます。五味さん、本郷さんの本や、岩波の日本中世の国家と宗教、日本の歴史を読もうと思っています。瑩山が一つのポイントなのでしょうか。このあたりも気にとめて探してみようと思います。http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/SotoSectAndKeizanZen.htm 丁度、葬式仏教が明確になる時期と重なる行動をとっているようですし、興味を惹かれました。五穀豊穣、鎮護国家、西方浄土への期待から、個人の救済に易行で進んだ浄土教、同じく易行専修の法華教、葬式仏教への変化という時代に、瑩山が檀家制度も合わせた複合化を目指したのでしょうか。それにしても、なぜ真言や天密でなくて、禅宗を取り込もうとしたのか、武士の側の意向がよく見えません。峨山という人が具体的にパトロンとどのようなことをしたのか、教団をどう組織化したのかも興味深いですが、手にしやすい本はないでしょうか。峨山禅師物語は国会図書館に行くことになるのかしら、、、 他に参考になるそうなことがありましたら、是非アドバイスをお願いいたします。 ありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。前回の回答の続編でしょうが、確かに、個人的事情というのも絡んできますね。 栄西にしても、天台僧として最澄の四宗相承を引き継いだ傾向があり、密教を最上位のように扱ってもいますね。僧が何をしたのか、と、パトロンたちが何をしたのか、色々見ていかないといけないということはよくわかります。 当時中国では禅宗が勢いをもっていて、日本としては中国貿易や銭の輸入を必要としていたという事情も、禅をそこそこ大事にすることに関係していそうな気がしています。 本郷さんの本を読んでみます。 兄妹や対抗勢力、あるいは新興勢力などとの関係上、誰とどう組むかということもあったでしょうし、叡山の僧(上層部の出自、多くの僧の堕落状態)なども武士層としては、組むべき相手の選択に影響を与えたのかもしれませんね。 結構、興味が尽きません。 No5でTANUHACHIさんが、たくさんの本を紹介してくださった(これらの本も高価ですが、、、)ので、どこまで読めるか、読んで理解できるか、問題は山積みですが、自分のわかる範囲で、少しづつ勉強しようと思います。 ありがとうございました。