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豊臣秀吉が書いたこの手紙の訳が分かりません
自分で訳してみたものの全文は訳せなかったので投稿してみましたm(;_;)m 図々しくて申し訳ないですが、もし良ければ日本史に詳しい方がいましたら以下の文の訳をよろしくお願いします。>< 「豊臣秀吉直書」 天正14年 11月4日 ~上杉少将どのへ~ 去年甘一日の書状、今月四日披見を加え候。 随って家康上洛無きに方いては三川境目に用心の為に殿下御動座成され、北国衆其の外江州何も宰相に相添え、 関東へ差し遣わすべき旨相定め候の処に、家康上洛候て入魂せしめ、何様にも関白殿次第と申し候間、 別して親疎を残さず、関東の偽家康と談合わせしめ、諸事相任せるの由仰せ出され候間、其の意を得られ心易くべく候。 真田・小笠原・木曽両三人の儀も、先度其方上洛の刻みに申し合わせ候如く、徳川所へ返し置くべき由仰せられ候。 然れば真田儀討ち果たすべきに相定め候といえども,其方日比申し談じられ候間、真田を立て置き、知行相違せざる様に仰せ定められ、 家康に召し出すべきの由、仰せ聞かされ候と雖も、其方の為に候間、真田儀御遺恨を相止められ、 御免成なさるべく候の条、其方よりも真田かたへも申し聞かされるべく候。 委細増田右衛門尉・石田治部少輔・木村弥一右衛門尉申すべく候也。
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- fujic-1990
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前回ご質問の伊達家の文書中の「上様御内証も候哉」の「内証」うっかり内緒と返還してそのままにしてしまいましたが、内証って「懐具合」のことですよね。 辞典を引き直してみましたが、いろいろな意味がある中、「一家の財政、勝手向き」とありますので「上様の財政事情のことだろうかと」と訂正します。 以下も、そのあたりザックリと辞書もろくにひかずに訳しますのでよろしく。 今回は、特に当て字というか、誤字が多いようで、訳しづらいのでザックリ意訳している部分があります。 ★ 「豊臣秀吉直書」 天正14年 11月4日 ★ ~上杉少将どのへ~ ★ 去年甘一日の書状、今月四日披見を加え候。 去年31日の書状は、今月4日に開いて見直しました。 ※ 廿を「じゅう」と音で読むなら、甘は二十のこと。廿を訓で「にじゅう」と読むなら甘は三十。どっちか不明。 ★ 随って家康上洛無きに方いては三川境目に用心の為に殿下御動座成され、 したがって、家康が上洛してしてこない場合には、三河の境界に、用心のため関白殿下が席を移され ※ (三河は徳川領、動座はこの場合出陣する意味) ★ 北国衆其の外江州何も宰相に相添え、 (越前などの)北国の武将のほか、近江のなにがし(某)も宰相に従わせて ※ (当時の宰相が誰だかわかりませんが、前田利家かな。もしかしたら上杉景勝をおだてているのか?) ★ 関東へ差し遣わすべき旨相定め候の処に、 関東へ派遣するべきことを決定していたところに ★ 家康上洛候て入魂せしめ、何様にも関白殿次第と申し候間、 家康が上洛してきて、口添えさせて、いかようにも関白様のご希望とおりにと申すので、 ★ 別して親疎を残さず、関東の偽家康と談合わせしめ、諸事相任せるの由仰せ出され候間、 特別に親しいか疎遠かを問わず、関東の為、家康と談合させ、いろいろな事を(家康に)任せるとおっしゃられたので ※ (偽家康? 偽→為?) ★ 其の意を得られ心易くべく候。 その気持ちを理解して、安心してください。 ★ 真田・小笠原・木曽両三人の儀も、先度其方上洛の刻みに申し合わせ候如く、徳川所へ返し置くべき由仰せられ候。 真田・小笠原・木曽の三人のことも、先日おまえが上洛した時に申し合わせしたように、徳川の所へ返しておくようにおっしゃられました。 ★ 然れば真田儀討ち果たすべきに相定め候といえども,其方日比申し談じられ候間、 だから、真田は討ち果たすことに決めたのですが、おまえが毎日のように申し入れていたように、 ※ (日比→日々?) ★ 真田を立て置き、知行相違せざる様に仰せ定められ、 真田はそのまま存続させておいて、領地もこれまで同様にしておくようにとおっしゃられ、 ★ 家康に召し出すべきの由、仰せ聞かされ候と雖も、 家康に(真田を)呼び出して使うべき旨、言い聞かせられましたけれども、 ★ 其方の為に候間、真田儀御遺恨を相止められ、御免成なさるべく候の条、 おまえの為にしたことだから、真田のことは恨むのはやめて、許すべきであるということの道理を、 ※ (其方が誰をさすのか不明。真田か上杉か? 真田への伝言内容が書いてあるなら、ここは「徳川儀」となるべき?) ※ (候の条、の条は接続詞ともとれるがあえて道理と訳したい) ★ 其方よりも真田かたへも申し聞かされるべく候。 おまえからも真田のほうへも言い聞かせてやってほしい。 ★ 委細増田右衛門尉・石田治部少輔・木村弥一右衛門尉申すべく候也。 そのほか、詳細は、増田右衛門尉・石田治部少輔・木村弥一右衛門尉が口頭で言うことになっている。 ---------- 少し前、 (それまで庇護されていた上杉を裏切り、当時は徳川に臣従していた)真田の領地を、徳川家康が真田の同意を得ずに北条にくれてやって(バーター)、徳川が別な所での争いを終結させる事件があった。 が、「俺の領地は徳川からもらってものではないのに、無断で取り上げるとはなんたることだ」と怒った真田が(最終的には)豊臣に頼って、徳川と対立した。 上杉家も真田の裏切りに腹を立てていたらしい。 この文書は、秀吉が徳川と真田らの間を仲介をして、徳川を説得してもう一度家臣として使うようにさせたので、おまえ(上杉景勝)も、真田に遺恨を残すなとアドバイスしてやってくれ、という依頼書のようです。