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好きの反対

好きの反対は嫌いではなく、   興味がないだ、と言う友達がいます。   彼女曰く、嫌いも興味があるからなのだそうです。   自分は違うとおもいます。   好きの反対は嫌いに間違いはないと考えます。   好きということは何かそれに関わりたいということで(色々なもの例えば食べ物でも)   嫌いということは絶対関わりたくないないと言うことなのだと思うのです。   (例えばゴキブリは見るだけで嫌とか)   皆さんは好きの反対についてどう考えますか???  

みんなの回答

noname#194996
noname#194996
回答No.9

そのひとの心の中に(正の価値としてか、あるいは負の価値としてかは置いて)存在するかどうかがひとつのポイントですね。負の価値をもっていたものが、あるきっかけにくるりと正逆反転することはままあることです。愛して欲しいという特定の他人にその可能性を持たせるには、とりあえず負の状態であれその人の心に入り込む(存在する)ことが条件になります。好きも嫌いもこの条件に入ります。 その人の心に存在しない(興味がない)のはそれ以前の、別次元の状態です。とりあえずは可能性がゼロということですね。これも好き(可能性大いにあり)の反対だと言われればそうかもしれません。

  • graf_
  • ベストアンサー率61% (51/83)
回答No.8

こんばんは ちょっと考えたらあることに気づいたので回答します。 好きの反対は嫌いというのは間違いないと思います。 こんなものを疑っていたら面倒この上ありません。 では、なぜ「興味が無い」が好きの反対と言うことができるのでしょうか。 この考えも不思議と間違っているとは思えません。 この原因は「軸」にあります。好き嫌いという話は好き嫌いという軸の上にあってこそ成り立ちます。 つまり、「好きでも嫌いでもないものは好きですか?嫌いですか?」という反則を持ち込まれているのです。 ここはきっぱり「そんなことは今、話にあがっていない」と一蹴してしかるべきなのです。 それは「好きでも嫌いでもないもの」の話の軸は「興味があるかないか」ということだからです。 なぜこのような事態が起こってしまうのかを考えると次の3点が挙げられます。 1、人は興味をもってもらえないことをすごく嫌がるから、興味を持ってもらえない=嫌いという構図がある。 2、好き嫌いという話の軸は「好きでも嫌いでもないもの」を含めることができないので、論理的な戦いに弱い。 ※興味があるないの軸は同様に知っている知らないの軸に弱く。知っている知らないは真に知っているか知らないかの軸に弱い。 3、人は議論に勝ちたいという潜在的な欲望がある。軸をすげかえて相手の論を混乱させる。 ちなみに、話の軸をずらした理屈のことを屁理屈というようです。

回答No.7

マザー・テレサは、「愛の反対は無関心」と言っています。 なぜそうなのかというと、これには実は深い理由があるのです。 このことは、私たちの自我というものがどのように存在しているのか、ということに関係しているのです。 自我というのは、関係性によって支えられることで生み出されています。 多くの人は、自我が形成される過渡期の頃のことを覚えていないのですが、自我が作られる前は、私たちには自分のアイデンティティがありませんでした。 その時々で自分は別もので、ただ一瞬一瞬を生きているのです。 それが、周りの人々と関わっていくうちに、自分を名前(と言う一つの概念)で呼ぶようになり、そのうち更に、そこに常に同じ人格が要求されているように感じ始めます。 誰に対しても同じであり、昨日と今日で同じような同一の人格が必要であるように感じ始め、それを周りの人間関係における特定の位置づけとしてイメージしていくのです。 そして、それが明確になった段階で、頭の中に作り出した観念的な人格と自分を同一化させることで、初めて「自分になる」のです。 決定的なのは、そのとき自分のことを「ぼく」とか「わたし」という一人称で呼ぶようになるということです。 このように、自分というものは実在しているわけではなく、自分の頭の中に観念的に存在するものです。 意識がその観念と一体化しているがゆえに、私たちは「自分が生きている」「自分が存在している」と思い込んでいるのですが、本当は自分以前の動物的な生命体が、脳の中で「自分」という観念を存在させているのです。 その観念は、周りの人々などの中での位置づけとして明確化され、存在しているものです。 だから、「自分とは何か」を考えるとき、私たちは、誰の子供であるとか、国籍はどうとか、どこに住んでいるとか、性格はどうとか、そういう周りとの関係性でしか自分を表すことができないのです。 自分という観念は自分の頭の中にあり、更にそれだけではなく、周りの人々の頭の中にも、このわたしの人格像が存在しています。 わたしがその人の人格を、わたしと関係づけながら頭の中に存在させているように、その人もわたしの人格を頭の中で存在させているのです。 これを、「他者を承認する」と言うのですが、人々はお互いの自我を承認し合うことで、お互いの自我を支え合い、存在させ合っているのです。 だから、もし社会と隔離されて一人で生きていくことになれば、おそらく一年も経たないうちに私たちは自我を失ってしまいます。 以上のように、自我は人々に承認されることで存在しているのです。 このような人間にとっては、相手を承認しないということがもっとも残酷なことなのです。 「嫌い」とか「憎い」というのは、方向性はどうあれ、相手と何らかの関係を認めており、その意味では相手を承認していることになります。 嫌われたわたしは、その人に嫌われる存在としての自分を関係性の中で維持できるのです。 ところが、その「嫌い」という関係性すら断たれてしまうと、わたしはその人にとって存在しないことになります。 「興味がない」とか「無関心」というのは、相手の存在を承認しないということであり、自我として生きる私たち人間にとってはもっとも残酷なことなのです。

回答No.6

好きは興味の一形態。嫌いも興味の一形態。 好きと嫌いをアウフヘーベンしたのが興味。 そして興味の反対が黙殺ですよ。

  • misawajp
  • ベストアンサー率24% (918/3743)
回答No.5

無視

  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.4

好き嫌いや反対という言葉の定義次第でしょうね。 好きの反対は嫌いでも無関心でもどっちもありだと思いますよ。 好きという言葉を「対象に対して好ましいと感じる状態」と定義し、反対を「好ましい」にかければ 好きの反対は「対象に対して好ましくないと感じる状態」=「嫌い」=「対象を積極的に害したい状態」と定義できますね。 また、「好き」の反対を、対象に対して「好き」という感情が一切湧かない状態と定義すれば「好き」の反対は「無関心」となりますね。 つまり、どっちも単なる言葉遊びであり、どっちでも個々人で好きに決めればいいのです。

回答No.3

私も前に考えたことがあります。 そして自分なりに出した結論は、「'好き'の反対は'嫌い'でもあり'無関心'でもある」です。 好きの反対は普通に考えれば嫌いです。 でも、好きも嫌いも関心があるから言えることです。 だからそういう考えをすれば'好きという関心'の反対は'無関心'、つまり'興味がない'のだと思います。 これは逆に嫌いの反対にも同じことが言えるんですけどね(笑) '好き'という言葉自体の反対は'嫌い'だと思いますが、興味のあるなしで決めるなら'嫌い'ではないんだと思います。 あくまでも私の考えです(´`)

  • k_mutou
  • ベストアンサー率12% (101/783)
回答No.2

彼女さんの言う通りだと思います。 “興味がない”=“相手が死のうが苦しもうが全く関わる気がない”です。 “嫌う”=“心の底では気になる存在”なのでは? それに“嫌う”と“記憶”にも残ります。“好き”でも記憶に残ります。 ゲーテという方が 『【興味】のないところ、すなわち【記憶】もなくなる』と言ってますよ。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.1

辞書的な意味では無くて、女性心理的な意味であるならば、愛情があるからガミガミ言うのはある種の真理ではあると思います。

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