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昔の飛脚の一生懸命さとは?
- 昔の飛脚は大変な職務であり、遠方まで数日間かけて走り抜いた。
- 届け先が転居している場合、飛脚は落胆することもあった。
- 当時の飛脚は手紙の宛先が具体的でない場合もあり、苦労も多かった。
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飛脚は個別配達をしていた訳ではない。配達をしたくても表札も出てないし、郵便箱があるわけでもない。住宅地図も何も無い。近代的な住所制度は江戸時代には存在しない。宛先といっても「南川村の太郎兵衛様へ」ってだけです。だから誰の家を訪ねるのでも、いちいち通りがかりの人に聞くしかない。それではあまりに不便だということで江戸だけは時代が進むと江戸切絵図といって道や川も書かれた絵図が作られました。それは豪商が毎度同じことを人に聞かれて、いちいち案内していたら商売にならなくなったからなのです。そんなことなら地図を作れば売れるだろうという考え。 飛脚の仕事は、宿場町にある問屋場から次の宿場町に届ける箱を預かって指図人の指示に従って届けることだけです。東海道五十三次というぐらいでだいたい10km前後間隔で宿場町がありました。要するに飛脚は自分がよく知った道を往復しているだけだったのです。日本全国に6万も7万もあった村の地理や事情など知るはずがありません。問屋場の役人が箱の中を仕分けて、また新しい箱に入れ替えて次の飛脚に箱を託すわけです。役人といったが公務員でもなくて、それも商人の仕事だった。そういう商人のネットワークがあって、郵便業務は副業みたいなもので、その下請け人夫が飛脚だったというだけの話です。 それぞれの宿場町の問屋場で近隣の町村の管轄が決まっていて、商人が商売のついでに町の名主や村の庄屋に郵便を届けます。名主や庄屋は小僧に駄賃をやって、太郎兵衛宛の郵便を預かっているから取りに来いとお使いにやらせます。連絡を聞いた太郎兵衛が取りに来る。太郎兵衛が文字を読めなかったりすると代わりに庄屋さんが文面を読んで聞かせたりもするのです。村の地理や住民のことは庄屋さんがよく知っています。太郎兵衛はどんな人間かも知っているのです。だから村民は庄屋さんに頭が上がらないわけ。 江戸時代は何でも人が媒介します。旅人、商人、僧侶など往来もある。南川村に行く用事があるなら、ちょっと別な用事を頼みたい。相分かった。南川村なら北川村に行くついでに寄れるから引き受けましょう。 このように江戸時代は人と人の信頼関係が全てで、初めて会った人でも信じるのです。その信頼を裏切ったら御仕舞いです。独立採算で郵便事業が成立していたわけでなく、商人がネットワークを作って商売のついでに片手間で始めたものなのです。商人同士の連絡事務の、ついでに町民や百姓の手紙も預かるようになったという発展の流れです。 以上は現代人にイメージを分かりやすく把握できるように単純化して説明しましたが、日本全国一律に制度が確立されていたわけではありません。地域事情は恐ろしく千差万別です。現代でも2、3分間隔に電車が来る路線もあれば、1日に2,3便しか停まらないローカル線があることでも想像はつくと思います。江戸時代といっても260年間もあります。江戸時代の人は頭を使って、それなりに合理的な仕組を考えていたということも理解してほしいのです。
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- kyo-mogu
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E8%84%9A とりあえず参考に。 それらしき記述があります。
お礼
回答恐れ入ります。 飛脚のWiki、改めて一読しました。知らなかったことが多く私の勉強不足にあきれました。
- choibaka
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ご質問は、手紙などの「転送」と「返送」に関してなので、私にはお答えする知識・資料が無いのでできないのですが、、、。 ただ一つ、誤解されてるようですので(時間が経っているのにご回答者がいらっしゃらないから。私もこの質問に対する回答を楽しみにしていたのですが)、 「数百キロを数日間かけて走り抜いて」 飛脚は一人で届け先に配達した訳ではありません。各宿場に駅があり(宿場の数=駅の数かどうかは不明)、そこで交代です。つまり、駅伝ですね。旅費はかかりませんので、ご安心を。 届け先が単なる不在だった場合は、近所の人に手紙が来たことを言付けて、届け先近辺の飛脚屋(届け先への配達は、この飛脚屋からされますので、近所の人が配達をすることになります)の預かりになったとは思います。 個人宛の場合は、その家族に渡すとか。 一家総出の引っ越し、というのは時代的にあまり考えられませんが、その場合は、分かりません。 よくご存知の方のご回答を楽しみにしております。
お礼
回答有難うございました。 飛脚が「駅伝」形式だったとは存じませんでした。私の勉強不足でした。 文末のご回答の「不在の場合は近場の飛脚屋への預かりになる」というのは、その通りかもしれませんね。信憑性があります。 ただ預かった結果、最後の最後まで受取人の所在が分からなかったり、または受取人がいる筈のその場所に当該人物がいた形跡が最初からなかった場合はどうなったんでしょうね。 江戸文化などに詳しい人でもここまではさすがに分からないかもしれませんね。
お礼
飛脚の概要からその職務の細かい内容にまで触れて解説戴き、誠に有難うございました。 ここは昔宿場町だったという市や町が現在も点在しますが、これらは飛脚の中継地点でもあったのですね。リレー形式でやったという事でしょうから、例え走って次の宿場町まで行ったとしてもそれなりに時間が掛かったのでしょうね。飛脚がある宿場町へ到着したとしても、次の飛脚への引継ぎや「どうせ行くなら、もうちょっと待って手紙が増えたら出発してくれ」なんて問屋場から次のランナーは言われたでしょうからね。 太郎兵衛さんが文盲だった場合は庄屋さんが代読するというのは始めて聞きました。当時は基本的に農家が多かったでしょうし、寺子屋が出来る以前に飛脚は既にあったんでしょうから、そういう人がいても当然だったんでしょうね。 江戸時代もそれなりにシステマチックだった事実は今更ながら驚かされます。差出人⇒飛脚⇒問屋場⇒庄屋⇒小僧⇒太郎兵衛さんという構図は、現在の郵便や宅配便、地方自治体の伝達系統にも相通ずるところがあります。飛脚以外にも江戸時代に培ったノウハウが現在も脈々と息づいている例は他にもあるんじゃないでしょうか。一度そこらへんも考察してみます。 飛脚以外にも江戸時代の慣例、風習などをお示し戴き大変勉強になりました。