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島流し
昔の島流しという刑について、 離島に流される場合は解かるのですが、伊豆半島などの逃げ道の多い本土に流すことについては何か意味があったのでしょうか。 単に田舎の山奥だから謀反を起こせないだろうとかの理由だったのでしょうか。 そこから遠くへ逃げ出すこともできたのではないかと思ってしまいます。
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それが案外難しかったのです。 まず流刑地の食料は配給制でしたので、移動中に必要な食料を確保することが難しいかったでしょう。また当時はすべて歩いての移動ですから、わらじなど旅支度をきちんとしないと非常に危険でした。 さらには、流刑者の服装はいわゆる囚人服で脱走すればすぐに分かるわけですから、どのように普通の服を調達するかという問題もありました。また、江戸時代までは地域の結びつきが強く、よそ者はすぐに分かります。 ということで、街道を利用して脱走するのは非常に困難を伴います。 では山の中を行くとすると、やはり食料の問題と、地図も持たないで峻険な地形を移動するのは非常に危険です(道なんてないですから)あと山賊などに出会うと命の危険もあります。 ということで、山の中を移動して脱走するのは死にに行くようなものですね。 これは想像ですが、伊豆半島の流刑地までは船を利用して行ったと思いますので、流刑地から一般人がいるところまでまともな道もなかったのではないかと思います。 そうするとさらに困難ですね。
お礼
今更のお礼で申し訳ございませんが、大変参考になりました。ありがとうございます。