作品は作者の手を離れたときから一人歩きするという考え方もありますから、様々な解釈があってもよいのだとは思います。
しかし、私は、「花のたね」が収録されている詩集『駱駝の瘤にまたがって』の「閒人断章」の部分の、他の作品と合わせ読んでみて、「たまのうてな=砲台」説には与することができません。
少し古いですが、旺文社文庫の村野四郎編『三好達治詩集』(昭和44年初版)には、同じ「閒人断章」に含まれている「ひと日むなしく」についての解説には「戦後社会に対する批評的感情がモチーフになっている」と記されてていて、戦時のことを読んだ詩とは理解されていません。
また、同書では、「花のたね」の解釈として、
> たとえ立派な夢をこしらえて、そこに花を咲かせたところで(よくそうした飾り立てた詩を作る人がいるが)、そのときの本当の心情を、どうしようもあるまい。
自分が作る詩は、たとえはかない花であっても、紅く咲いてくれと願って蒔(ま)くたねのようなものだ、という
と記されています。
これも古いですが、中央公論社「日本の詩歌」シリーズの22巻『三好達治』(昭和42年初版)には、まず、「ひと日むなしく」について、
> 三国(引用者注:福井県。昭和19年3月から同24年2月まで過ごす)での空虚な日々、一日を憮然(ぶぜん)として所在なく空費してしまうが、心では世を慨嘆し怒っているのだ。
とあります。
さらに「花のたね」については、「達治の優美な抒情詩人の一面を物語る」「憂愁の人の悲しい思念をのべている」と評されていて、戦場に向かう勇壮な兵士を詠んだものというのは、やはり一般的な解釈ではないと思わされます。
深い意味はともかくとして、
(自分の心を喜ばせようと)宝石で飾り立てた(ような立派な)高楼を築いたとしても、
今日の私のこの心の憂いをどうしようか(、どうもできない)。
(それよりは、せめて)はかない(さほど役に立たない)ことではある(かもしれない)けれども、紅色の
花を(心を慰めてくれるものとして)期待して、(その花を咲かせる)種を蒔くのである。
というような意味になると思います。
「金で幸せは買えない」というよりも、「自分の悩みは贅沢を尽くしても癒せないほど深い。しかし、その憂いが少しでもなくなることを期待して(種を蒔くという)努力をするのだ」という感じではないでしょうか。」
お礼
な、なるほど!! なんだか奥の深い詩ですねぇ・・・・・