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陀羅尼について

真言を唱えることで、内面から清浄、清らかになるのでしょうか?

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  • MOG56222
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回答No.7

>身を守っていくお守りであること。 武道の精神であることなんでしょうか。 仮定の話になりますが、もし餓鬼を観て嫌悪感を抱き、梵天を観て羨望を抱くならば、嫌悪や羨望は私達を狂気へと導くでしょう。 それは、潔癖症や神になったつもりの自我肥大のような症状かもしれません。 それを防ぐには、全ての生命に対し公平で、平安を祈る態度だと思うのです。

その他の回答 (6)

noname#156094
noname#156094
回答No.6

真言は人と仏との接点としての体験的指標の意味があるのだと思います。 仏への信心に基ずいた行の指標の一つであるとも思います。 古来からあった真言(マントラ)に、人と仏の接点としての解釈を与えて密教が成立した点から見れば それ以外の、何らかの利益を求めて真言を唱えることは いわゆる「雑密」と呼ばれる、広義の密教には含まれても、正式な密教とは区別されてしまうものです。 真言念誦の世界は仏との一体の世界であり、自内証の世界であることから多くは語られることのないものです。 その世界をうかがい知ることは困難だと思いますが、離欲した境地であることは間違いないものと思います。 清浄とも言えるかもしれませんが、単なるそうしたイメージでは片付けられないと思います。 結果的に俗欲にとらわれた身であれば、そう見えるかもしれません。 真言を唱えることは、仏様の本名を唱えることです。 子が親を呼ぶように、信じて呼びかけることです。 そこには濁りのない世界があるものと思います。 無垢な信心から真言を唱えれば、自ずから清らかであることは確かだと思います。 清らかな水にして初めて仏様が映るのでしょう。 信心なくしては真言の意味もないと思います。 また、清浄ということも有り得ないと思います。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.5

他の生命に対する祈りは修行の基礎であり、身を守る御守りであるなと最近実感します。そういう地味な部分がしっかりしていないとなかなか清くなりがたいと思います。

sarasuva
質問者

お礼

なるほど!地味で確実な行為を続けて基礎が出来、身を守っていくお守りであること。 武道の精神であることなんでしょうか。 ありがとうございましたm(__)m

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

真言を唱えることで、内面から清浄、清らかになるのでしょうか? ○ なりません。 唱えるだけなら蛙も毎日やってます。蛙が毎日ゲコゲコやって清浄、清らかになるとおもいますか。蛙も人も同じです。真言でも念仏でも南無妙法蓮華でも唱えるだけでしたら蛙とおなじですね。そんなことを釈尊は教えてませんね。 「清浄、清らかになる」には反省行が必要なのですね。真言を唱え続けては反省できないですね。つまり、反省する時間がないでしょ。 蛙のように唱えれば、蛙のようになれるかもしれませんが、少なくとも清らかな人間にはなれませんね。 清らかな内面を持つには内面を見つめる必要があるということですね。悪しき過去は反省し、悪しき原因は取り除き、良き原因を未来に残していくことが清らかな内面を創る唯一の方法ですね。何が善で、何が悪かを学ぶのが仏典、お経ということですね。そういう意味で意味もわからず唱えるだけでは蛙と同じというわけです。

sarasuva
質問者

お礼

頭脳と身体が一体化して、始めて真言が役に立っていくのでしょうか。 ありがとうございましたm(__)m

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.3

真言を唱える人で戦争反対をした人はいません。

sarasuva
質問者

お礼

本来の真言とは軍人さんの為にあったものだったのでしょうか。 ありがとうございましたm(__)m

回答No.2

 こんにちは。  検証ということが なりより大事でしょう。  千年・二千年を経て どうなったでしょうか?  自己満足はあり得ましょう。とのみ。

sarasuva
質問者

補足

行道のあり方 煩悩を沈めると言う意味では、自己満足あるのみなんでしょうか。 ありがとうございましたm(__)m

回答No.1

そう信じて念じれば、そうなるでしょう。 心のあり方に関する限り、可能な可能性は全て可能ですから。

sarasuva
質問者

お礼

気持ちなんですかね ありがとうございましたm(__)m

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