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柳生新陰流で・・

新陰流兵法目録事をみると動きにくい長袴をはいています。 真剣でやりあうのに、なぜ動きにくい恰好をしているのでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E6%96%B0%E9%99%B0%E6%B5%81

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  • Pinhole-09
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回答No.1

ご指摘の目録は宝山寺蔵のものですね。 これは一般的なものではありません。 この目録の奥書によると竹田(金春)七郎が、慶長六年 柳生石舟斎から頂いた絵巻に息子の八郎重栄が、柳生家 の承認の元に説明文を付けたとあります。 特別なものです。 江戸博物館で開催された柳生展で見た、石舟斎が但馬守に 与えた目録は文章だけです。 これが一般的な目録です。 つでに石舟斎が柳生新陰流の奥儀を伝えたのは、金春七郎 と甥の兵庫助の二人だけで、但馬守には与えていません。 但馬守の剣術はいま一つで、すぐれた政治力を活かせと 判断しその通りになりました。 特別な絵巻目録を七郎から懇望された石舟斎は足利将軍の 剣術指南を参考にしたのでしょう。 足利義輝が塚原卜伝等の指南に習い、剣術の達人であった ことはご承知でしょう。 鎧剣法が主の時代、普断着の京剣法に通じていた卜伝らは 将軍が身を守る剣術指南にはうってつけでした。 その剣法を教える絵を参考にした。 但馬守はすでに家康に指南役として仕えており、殿様剣法 の指南書になることも考えられた。 どちらにしても御殿内の衣装で戦う剣法として書かれたと 推察されます。

good-925
質問者

お礼

「御殿内の衣装で戦う剣法」だから長袴ということですね。詳しい解説ありがとうございました。

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