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大化の改新や平安時代の勢力範囲

大化の改新や平安時代のヤマト政権、平安時代の日本の領土や勢力範囲は今でいうとどのくらいだったのでしょうか?

みんなの回答

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (678/1421)
回答No.2

 孝徳天皇在位の末年(654年)、足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとの記述が有ります。  この8国の内の道奥国(後の陸奧国)が当時の勢力範囲の北端です。  (今の福島県から徐々に北に広がり、宮城・岩手・青森県へといたります。)    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD  南の方(九州)は、通説(記紀など)では5、6世紀には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に分割管理していたようです。  朝鮮半島へは 『宋書』では438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記されており、倭国が当地に強い影響力を持っていたように思われます。  663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗北し朝鮮半島への影響力を失いますが…。    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84  なお、九州は7世紀末まで倭王朝とは別の王朝(九州王朝説)が存在していたとの異説(白村江の戦いをやったのもこの王朝という説も…。)もありますが…。    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.1

誰も回答しないんですね。(^_^; 出羽国は712年制定です。 実際には 705年越後城。760年秋田城と勢力を伸ばしたのです。 白村江の戦いで大敗北を喫したヤマト政権は敵の上陸を極端に恐れ防人を設置します。 それと同時にアイヌと新羅との関係が密接になるのを極度に恐れ、 日本海側の蝦夷地を一気に征伐したのです。 兵力4万2千人と軍船800艘を一気に失ったのですから 国家の存亡すら危うい危機的状況であった事は十分に伺えます。 陸奥国の地図に回答がありまして、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD 712年の頃は新潟以北、福島以北は蝦夷地でした。 大化の改新の頃も同程度であったと推測されます。 平安時代末期には奥州藤原氏が平泉を拠点として栄えます。 平泉は京に次ぐ人口を擁したと言われています。 砂金を算出し、その多くを経典購入に費やしたと言われています。