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語らずという事

あえて語らずという事に、重みや上品さがあるように思いますがいかがでしょうか。 直接聞くことのできない言葉を感じとるという事は、思い込みと紙一重かもしれませんが大切なことのようにも思われます。 沈黙は時に饒舌に勝るという事をどう解釈されますか?

みんなの回答

回答No.8

 ANo.4  サインもあるでしょうが、サインなどの根底にあってそれを表わさせている、厳とした真實なる實在世界があるわけでしょう。  そういうものがない人の言葉はむなしいのですね。  そして何でも外表的に物象に確証を求めないようにした方が、認識の成立を可能にさせると存じます。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 むなしくない言葉にふれたいものですね。 中々できませんが・・・

noname#194996
noname#194996
回答No.7

敢えて語る必要のないものを語る必要がないのは当然です。 >重みや上品さがあるように思いますがいかがでしょうか そう見られたくて語らなかったら最善のケースでも不審に思われるだけです。 言うべきことはしっかり言いましょう。 >直接聞くことのできない言葉を感じとるという事は、思い込みと紙一重かもしれませんが大切なことのようにも思われます。 その通りです。ひとの話を聞くときは大抵皆がそうしていることです。思い込みは常に存在します。それを最小限にするためにも沈黙は必要だと思います。沈黙と言うよりも沈黙と悟られない沈黙の技術です。 >沈黙は時に饒舌に勝るという事をどう解釈されますか? 信頼関係がなければ勝てないと思います。総理大臣でも負ける時代です。

noname#156094
質問者

お礼

おっしゃるとおりです。 これでいいのだと思います。 正に現代人らしい解釈と思います。 大部分は言わなくとも分かる・・・という日本人独特の悪癖から解放されるべきだという事でしょう。 ですが、その悪癖を持った日本人の一人が私なのです。 さて、どうしましょう。 直るか、直らないか、手遅れか・・・ この質問を立てた時点で、すでに時代遅れなのかもしれませんね。 どうやら気が付くのが遅すぎたようです。 打てば即座に響く、という世界は分かっても、余り言葉にしたくない・・・ という悪癖から遠ざかることは難しいように感じます。 年は取りたくないですね・・・ 若々しくて溌剌としたいいご意見です。 ありがとうございました。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.6

問う答えるの両方が縁で結ばれていないと、無駄や害になるだけです。 また、妄想を膨らます第三者の存在がありますので、いかにそれらを避けるか考えると、沈黙や面白味のない回答というスタイルになると思います。 例えば、読経を仏がするのを邪魔しないようにという問答をする時点で、私の計り知らない境地に達している方か、げんがく趣味の方ですので、私は退散つまり沈黙するしかないでしょう。

noname#156094
質問者

お礼

>問う答えるの両方が縁で結ばれていないと、・・・ 縁という一字には深いものがありますね。 会話ができるというのも縁なのでしょう。 言葉に代わる沈黙も縁なのかもしれません。 見えない糸の絡んだ沈黙もあるのでしょう。 縁という捉え方はいいと思います。 ありがとうございました。

回答No.5

 こんにちは。  判断の基準をどこにおくかということに尽きませんか?  言いかえると 基準は決まっていて 人間の自由 それにもとづく意志疎通 色をつければ互いの信頼関係 これであるはずです。  あとは その場合ばあいによって その人が最終的に決めます。(ですから そのことも 試行錯誤になると思います)。  あとは 《敢えて語らず》の結果をどう捉えるかにもかかわって来ませんか?  沈黙を守ることによって 相手が事実とは違った情報を持ったままになってしまうとしたら どうなのか?  真実を知らないほうが 人間の自由にとって 有益だという場合が 実際にあるのかどうか?  たぶん もしほんとうのことを明かさず伝えないという判断を持ったとしたばあい おそらくそのときには そのようにこれこれのコトについては秘密にしておかせてくれと相手に伝えるのがよいでしょうね。墓場まで秘密のままにしておいてくれと頼むということでしょうね 自由および信頼関係のためには。    *  へたのすけさんは この問いを 上のようにコミュニケーション論一般としてよりは 思想の自己表現にあたって どこまでその思いや内容を言葉にするのがよいか? こういった切り口で挙げておられるのではないでしょうか?  ただし その場合でも 判断基準は 変わりません。気分は変わっているでしょう。自由や信頼関係という基準は そこでは至上命令ではなくなっていましょう。  たとえば この事柄について語るのは もうここまでにしておこうというとき 言葉にして語るのはここまでにしたいので勘弁して欲しいとはあまり言わない。つまり 言っても言わなくても そのことは 自由や信頼関係を傷つけるというおそれからは 解放されているように思います。  思想としてはその文体が 自由だからなのでしょう。  実利的にみれば あとは どのような効果があるかにかかっていることでしょう。  最後になってむしろ嫌味を申すとすれば 沈黙にしろ饒舌にしろ けっきょくは言葉による表現というのは ほのめかしであったり 何かを指し示すだけのものであったりするのだと考えます。  ものごとをそのまま言っても 言わずにだまっていても そのものごとが分かっているなら・またはいづれ分かることであるなら やはり同じことです。事実として明白なことを伝えるのは 基礎のはたらきとしてあるでしょうが それ以上のことを示唆するといった程度とかたちにおいて 言葉のはたらきというものが ほんとうにはあるのでしょう。  言いかえると 沈黙にしても 饒舌にしても けっきょくは同じことなのではないでしょうか? 饒舌にしても・饒舌にさえも そこには何ものかを指し示そうとする心つもりとしてのプラス α が 意識的でない《敢えて語らず》というかたちで伴なわれていましょう。  ★ 重みや上品さ  ☆ は その時代と社会の風潮によって作り上げられていると考えます。ほんとうは 屁の河童です。小さな場や大きな国としての場における空気として つまりむなしいこととしてつくり上げられているだけです。表現は 中身で勝負に決まってるぢゃないですか。貴族趣味はいただけません。(誤解ですよという言葉を期待します)。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 いつもながら多角的な見方や解釈は良い参考になります。 >それ以上のことを示唆するといった程度とかたちにおいて 言葉のはたらきというものが ほんとうにはあるのでしょう。 言葉の有用性は明らかなものであり、沈黙以上のものである、という事でしょうか。 この解釈は一面正しいように思われます。 ただし、そこにおける言葉が、どのように選ばれ、どのように用いられるのか、といった点については興味があるところです。 譬えた言い方になりますが・・・ 隙間なく描かれた絵もいいですが、余白の多い絵もいいものです。 人の意志をあえて確定させないという含みが、対する人を呑んでしまうという手法のようです。 失礼ながら、ブラジェロンヌさんの御文は細密画のように感じられます。 隙間なく埋め尽くすという饒舌の手法もまた素晴らしいものです。 だが雄弁を気取ってはいない点に見えない心の余白といったものが感じられます。 沈黙を気取らず、沈黙を言葉によって表しておられるのでしょうか。 だとしたら、そうしたスタイルは好ましいようにも思われます。 >思想としてはその文体が 自由だからなのでしょう。 自由は饒舌を生み、饒舌は自由をさらに生む、といったところにコミュニケーションがあるという解釈でしょうか。 言葉の活用の範囲が人それぞれに自由であり、そのことを認め合うところに コミュニケーションがあるということでもあるのでしょう。 ともすれば自由なコミュニケーションというものを忘れがちなように思います。 そうしたところから見れば、表面的な沈黙とは「屁の河童」でしょうか・・・ 意図的な浅い沈黙はそうかもしれませんね。 ありがとうございました。

回答No.4

 饒舌でもいいのでしょうがあまり聞きませんで、言葉としては雄弁という語ではなかったかと存じます。    心のことにしろ、森羅万象万物にしろ、ことばですべてが表現できるものではないのでしょうね。  基本は何か言語表現以前というか、事柄の基底には常にことばを越えたものがあるんではないですか?  まぁ創作でしょうが、神奈川の宿場での大石内蔵助(東下りのはなし)と垣見五郎兵衛との出っくわしで、大石内蔵助が黙って、三方に浅野家の家紋の袱紗を敷いて長矩の切腹の(短)刀をのせて出した。  これもまぁ沈黙の金でしょうか。  弟子の菩薩達が蓮池の側の土手で釈迦が講話をしていた。  ある弟子が知的な質問をした。  釈迦は黙って手にした蓮の花をひねった(向きを変えた)。  質問した菩薩には通じなかった。  別の菩薩が喜びの微笑をほころばせた。  釈迦はこれで通じ合えた事をことば以上に身にしみ、お互いに微笑んだ。それで他の菩薩達も意味がわかった。 

noname#156094
質問者

お礼

以心伝心の重さでしょうか。 言わなくても分かる、という世界です。 そこには言葉に代わる何らかのサインがあるようです。 通常の会話では、表情や態度がそれに当たるのでしょう。 伝えるべき事は言葉にのみ限らない方法があるという事にもなります。 サインの重要性を重んじるところに、沈黙の必然性も生じてくる・・・という事にもなりますか ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

沈黙は金、饒舌は銀、という言葉がありますね。 日本海海戦の英雄東郷さんが、英国に出かけたとき パーテイで、普段寡黙な東郷さんが、珍しく饒舌で あったそうです。 それをタイムズだったかな。 が評して、沈黙を続けていた方が良いのに と。 ちなみに、英国の海軍協会? には東郷さんの銅像が 飾ってあるそうです。 これは外国人では彼一人だとか。

noname#156094
質問者

お礼

そうですね。 言葉使いは人格を表すものです。 一言一言が重い場合もあれば、軽い場合もあります。 沈黙という間のある言葉の方が上品だということなのでしょう。 ありがとうございました。

noname#180065
noname#180065
回答No.2

時と場合によると考えます。 原発問題に対して、政府が沈黙をする場合、 拉致問題に対して、北朝鮮が沈黙をする場合、 病気を抱えていて助からない事に対して、医者が沈黙をする場合、 仕事で重大なミスに対して、会社員が沈黙をする場合。 意外と日常で上記に近い勘違いはよくあると考えます。 沈黙は、問題解決には至りません。 上記のような状態の場合です。

noname#156094
質問者

お礼

沈黙の必要性ですね。 ありがとうございました。

回答No.1

基本的に「相手は自分の話に興味を持っていない」ことを肝に銘じておくことは、人生において無駄にはなりません。 加えて「相手は、相手の言いたい事を云うものだ」と理解しておくともっと良いでしょう。 で、言いたいことが言えないと、腹も膨るるものですが、そのストレスはOKWaveなどのQ&Aサイトで憂さ晴らしをする、ってのは如何でしょか?

noname#156094
質問者

お礼

気がついてみると、いつの間にか降り積もったものが沢山あるような感じがします。 それが、ふっと出てきて今の自分を見ているような感じもします。 そんな事の影響でしょうか、声や言葉の奥にあるものを、いつも探ってしまうようになってしまいました。 会話を割り切って解釈できなくなるという事は、ある意味悲しいことかもしれません。 饒舌な人の姿が幸せに感じられます。 ありがとうございました。

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