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秀吉が作ったと言われている「一夜城」について
今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。 どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。 1)墨俣城を作るまでの歴史的背景 2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将 3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか? 4)墨俣城の主な役割 など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか? 1つでもお答えいただければ幸いです。 どうぞ、宜しくお願いいたします。
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元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。 また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。 そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。 そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。 最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりました。 また斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。 真偽の程は判りませんが、義龍は信じました。そして道三を親として接しませんでした。 また道三も義龍を疎んじました。 そして道三は美濃を信長に譲るという遺言を書きます。 つまり信長を息子のように思ってたのです。 そして道三と義龍が戦を起こし、義龍が勝ちます。そのとき、信長はいち早く援軍を送ります。信長も道三を親のように思ってたのでしょう。 しかし、道三も信長と義龍がぶつかるのは時期尚早と見て、勝てないとみるやいなや、信長の軍が来る前に早々に自害して果てました。 こうして信長は美濃を攻める大義名分を得たのです。この時代、大義名分は重要でしたからね。 また、美濃は非常に作物が多く取れる実りの多き国です。 美濃の名前もそこから来ています。 そして交通の要衝でもあります。 後に有名になる関ヶ原は北に北陸街道、南に伊勢街道、東西に中仙道と主要な街道が交わる重要な土地です。 ですから、天下取りを目指す信長にはぜひ手に入れたい国なのです。 そして義龍の代になっても攻めきれなかったのは義龍の力ではなく、美濃の国人の力です。 この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。 結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。 信長が子飼いの部下(その代表が秀吉)を大事にしたのはそういう気苦労を避けるためです。 さて、道三が亡くなってからはこの国人たちを自分の陣営に引き込むための工作が水面下で行われていました。 しかし義龍は元の主君である土岐氏の血を引くと皆が信じていたし、本人もそう宣伝していたので結束は意外と高かったのです。 しかし龍興の時代になって、徐々に国人との信頼関係が揺らいできます。 蜂須賀小六というのはそんな国人の頭の1人です。ですから、小六にならって信長についた国人も一夜城築城には関わっていると思われます。 そして人数ですが、それは正式な記録がないのでなんとも言えません。 さて、墨俣に城を築く理由ですが、これも交通の要だからです。 墨俣は稲葉山(今の金華山)のふもとを流れる川の三角州です。 また稲葉山城のような山城は戦時中にこもるだけの城で平時はふもとに住んでいます。そして篭城に備えて食料をためています。 篭城戦は根競べです。大きな城を攻めるときは攻め手が食料がなくなって引き上げるということもあるのです。 普通は篭城は援軍の当てがあって初めて篭城できるといわれ、援軍の当てのない時は攻め手に有利な戦いに見えますが、実は攻め手にも不安要素はあるのです。野営では常に敵の攻撃を恐れているので兵の消耗が激しいです。しかし城があれば見張りを除いてゆっくりと寝る事が出来ます。 また、川の脇にあるということで、城への補給を断つことも出来ます。 こういう山城では川は重要な補給路になるからです。夜の闇にまぎれて船を出せば補給が可能ですからね。 そして城側への心理的な影響もあります。目の前に城を作られた。これは自分の国が滅びる不安をかきたてます。この頃の戦は士気を無くした方の負けです。死者はそんなに出ず、1割の兵が死んだら大敗と言われます。 そこで信長は柴田勝家らに命令して城を作らせましたが失敗に終わりました。そこで秀吉が名乗りを挙げました。 城の作成は他の方が答えたように上流からいかだを組んでもって来ました。 上流の地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画です。上流には木曾杉と言うよい木材の産地があったのです。そして小六の案内で、やすやすと敵国に侵入し木材を切ることが出来ました。 そして他の家臣たちに出来なかった墨俣城を築城できたことで秀吉の名は織田家・その家臣の間にに知れ渡り、それから出世街道をひた走るのです。 そして墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走りました。 上記で書いたように国人は大名と完全な主従の関係ではありません。となると新しい国主になりそうな信長に傾くのは当然の帰結です。 極端な話、彼らは自分の領土を安堵してくれれば国主が誰でも構わないのです。 そして美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄(良通)、安藤守就、氏家卜全(直元)の3人を味方に引き入れ、さらに竹中半兵衛(重治)を秀吉がくどき落としました。 この美濃三人衆は有力国人で、3人が団結すれば国主(この場合は斎藤家)も逆らえないほどの力を持っていました。 そして、ここが攻め時と判断しやっと稲葉山城を攻め落とすのです。 このとき龍興は越前の朝倉氏の下へ逃げ込みました。 また秀吉は一夜城が得意で、小田原攻めの時も一夜城を作っています。 もっとも、この一夜城は森の中に城を作って完成してから城との間の木を伐採して城から見るとあたかも一夜で出来たように思わせる心理的な作戦でしたが。
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- takesama
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すいません。本そのものは本日、家に置いてきてしまいましたので、下のURLを参考にしていただければ・・・。 では。では。
お礼
本当に何度も有難うございます!! 超速攻のお返事でめちゃくちゃ驚きました。 これは面白そうですね(^^) 私も主人もこういうのは好きなので、買うことにします♪ 大変感謝しております♪ 追伸:(こんなに何度もいいのだろうか…(^^;))gooのフリーメールって使ってますか? よかったら、1回覗いてみてくれませんか? 見当違いだったら、ごめんなさい。m(__)m
- takesama
- ベストアンサー率24% (29/117)
コンコン。ガチャッ。失礼します。まだ開いてましたね。良かった。(もうそろそろ一週間かなと思ってたので) 槍が深々と刺さり、瀕死状態のtakesamaです。「何度でも嬉しい」という言葉に甘えて再び登場させていただきます。 ご指摘の件に関しては、反論したいのは山々なのですが、ここでは回答者同士が議論する場所ではありませんので、敢えて触れません。それで、僕も勉強不足の点もあり、このままでは戦国武将フリークの名が廃るということで、色々調べてみました。よって、無理から責任をもって本題に戻します。 興味深い本を見つけて借りてきました。藤本正行著の「信長の戦国軍事学」と言う本です。 これには、信長の軍事的な”通説”(定説?)を思いっきりぶった切ったことが書かれておりまして、墨俣城についてももちろん書いています。 それによりますと、(考察は長々と書いていますので割愛させていただきますが、)『秀吉が墨俣一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせるだけの史料的な裏付けがない』とのことです。 前々回の回答と同じように夢の無い話になりました。興味があれば一度、読んでみてください。また、混乱を招いてしまったかもしれませんね。御免なさい。 これも、指摘を受けると確実に”討ち死に”ですな。 追伸の追伸:興味はありますが、なんのことやらさっぱりわかりません。
お礼
takesamaさん、何度も有難う♪ 本当にいろいろな本が出ているのですね。 いっぱい勉強しなければ…。 うーん…。 > 秀吉が墨俣一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせるだけの史料的な裏付けがない というのがあると、この疑問自体がなんなのだろう…、という気にもなってきますが、いろいろな説が知りたいので、これも読んでみますね。 えー今回は1ヶ月くらい様子を見る予定です。<締め切り 質問がちょっと、複雑(?)なので。 では、いつもご回答下さって、本当に有難うございました。 追伸:ん~…(^^;)では、URLの末尾を(この質問は http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=70172 となっていると思いますが)64271・70373・70000 にして、質問・回答・お礼を全部読んでみて下さい。 これ以上のヒントは言えません…(ごめんなさいね)
補足
すみません、takesamaさん。 「藤本正行著の「信長の戦国軍事学」」探したのですが、よくわかりませんでした。 よろしかったら… ・Bookサイズ(ハードカバー?文庫?) ・出版社 を教えていただけないでしょうか? 何度もすみませんが、よろしくお願い致します。m(__)m
- miska
- ベストアンサー率30% (18/60)
再び横槍を入れさせていただきます。 僕も真田家は大好きなのですが… > takesamaさん > 徳川軍を敗戦させたのは、武田軍が一度、真田軍が二度です。 武田軍も、三方ヶ原の前年に三河に侵攻して小競り合いながら勝利しています。 というわけで最低二度は勝っていることになります。 …というより、実際のところ徳川家って単独で勝った戦いはほとんどないんですよね^^; # 姉川、長篠、関ケ原などは徳川家とは言えないでしょう > 「太閤記」より、「真田太平記」をお奨めいたします。 太閤記は秀吉の伝記に伝統的につけられるタイトルなので、一本の小説と比較するのは無理があるかと。 と書いた直後になんですが、お薦めの小説ということで。 司馬遼太郎の一連の戦国モノを薦めておきます。 ・国盗り物語(全四巻、道三、信長、明智光秀の話) ・新史太閤記(全二巻) ・関ケ原(全三巻) ・城塞(全三巻、大坂の陣) ※巻数は全て文庫版 それぞれけっこう厚い本ですが、都合がいいことにこれだけ読めばこの話題に出てきた人物に付いては一通り知ることができます。 もちろん、小説なので(これは真田太平記にも言えますが)全て事実だと思ってしまうのは危険ですが。
お礼
あら~みんなしてぇ、どんどん話が反れちゃうんだから♪ 見ていて楽しいですけどね(^^) オススメ本を紹介していただきまして、有難うございます。 まだ、図書館に行く前で良かったです。 「国盗り物語」「新史太閤記」「関が原」「城塞」……っと…メモメモ。 文庫版というのは有難いですね。 頑張って、読破しまーす! 参考になりました。miskaさん、本当に何度も有難うございました。
- takesama
- ベストアンサー率24% (29/117)
またまた、しつこくやってまいりました。(好きな分野はどうしても、複数回になってしまいます。御免なさい。) 直接の回答ではないので余談としてお聞きください。 >「真田幸村」ちょっとしか知りません…。ごめんなさいね。 許しません!!それは、冗談ですが、「戦国時代」が比較的お好きだということなので、真田家について。 徳川軍を敗戦させたのは、武田軍が一度、真田軍が二度です。真田軍が破ったのは、家康自身が率いたのではないのですが、武田軍の時は徳川軍が圧倒的不利にもかかわらず、戦いを挑んで惨敗しました。しかし、対真田軍は、圧倒的に徳川軍が大軍を率いておりました。でも、真田昌幸(幸村のお父さん)の見事な采配で、徳川軍が勝ちを得ることが出来なかったのです。 ね。巨大戦力に立ち向かう、弱小戦力。しかも、弱小戦力の勝ち。何かに似ているとは思いませんか?yayupuu3さんなら、必ず好きになると思います。 よって、「太閤記」より、「真田太平記」をお奨めいたします。15巻くらいありますが・・・。 質問の回答にはなっておらず、しかも押し付けがましいい文章になってしまい、さらにはただ単なる自己陶酔的な文章になりましたので、わざわざお礼をつけていただかなくても良いです。
お礼
おほほ(*^。^*) 私のコメント欄はお読みになっていますか? 「お返事だけは100%保証(?)です」と書いてしまっているのですよ(笑) 「真田太平記」ですね。図書館に行って、探してきます♪ 何度でも嬉しいですから、あまりお気になさらずに。 何度も足を運んでいただき、有難うございました。 追伸:質問回答に関係なく発言できるところをみつけました。 興味があれば…私の回答した質疑の中です(^^)←多いけど… (pさんの「納豆」もお返事済みです)
- miska
- ベストアンサー率30% (18/60)
横から失礼します。 墨俣城ではなく斎藤家についての補足を。 義龍が道三(秀龍)を攻め滅ぼしたことは間違いないです。 理由に付いては義龍の実の父は土岐頼芸(美濃国の前国主、道三に追放された)であり、その復讐だったという説が有力ですが、事実かどうかは今となってはわかりません。 義龍は1561年に没しています。病没と言われます。 可能性としては信長による暗殺もないとは言えませんが、彼の死が直接美濃奪取につながっていないことからも可能性は低いと言えるでしょう。 織田軍との戦闘で死亡という説は聞いたことがないですし、当時の状況から言えばかなり難しいのでは。 (信長の尾張統一が59年、桶狭間が60年と間もない時期ですので大規模な戦争を起こすのは難しい時期だと思われます) 跡を継いだ龍興は愚将と言われることが多い人ですが、それでも6年に渡り織田軍から美濃を守り通したほどなのですし。 墨俣についても少し。 現代人が城と言われると、つい姫路城などの立派な建築物を想像してしまいがちですが、戦国時代以前の特に前線の城というものはもっと小規模な、砦のようなものだと思ったほうがいいです。 特に墨俣のように目的(美濃制圧)が達成できれば価値のなくなる城だとなおさらでしょう。
お礼
> 横から失礼します。 なんて、とんでもない! わざわざこの質問に回答して下さる為に、会員登録して下さったのかな? なんて感じましたから、涙がちょちょぎれるほど嬉しいです~!!! 「道三」「義龍」「龍興」の関係を判り易く解説して下さって、本当に有難うございます! やはり、道三は義龍に攻め滅ばされていたのですね。 「義龍」の死因については、いろいろな説があるのですね。 本当に勉強になります。 「墨俣城」についても、認識不足でした。 いろいろと検索していたら、立派に「お城」としての建築物のように見受けられたので、「砦」という形が思い浮かばなかったんです。 これもまた、勉強になります。 いろいろと検索していて、思ったことですが、 「墨俣城」に直接足を運んだほうがいいように思えました。 「資料館」もあるようですし…。 ここが私の疑問を晴らす、最善の場所のように思えました。 miskaさんのご回答、大変参考になりました。 本当に有難うございました!
takesamaさんへ。(yayupuu3さんへの解答欄にごめんなさい。) そんな、横取りだなんて思ってませんよ!気にしないでくださいね。 確かに墨俣に関する話は虚構も含まれるでしょうね。秀吉自身、話ふくらますの好きそうですし(笑)。
お礼
peitaさん、私は全然気にしていないから大丈夫ですよ(^^) お礼欄に新たな質問をしても、回答を下さらない方もいらっしゃって、takesamaさんもその辺のことを配慮して下さってのご回答だと判断しております。 「会員同士のコミュニュケーション」がはかれるのも、このサイトの良い部分だと思っておりますので、あまり気になさらないで下さいね。 他の方のやり取りを見ているのも、私には楽しいです♪
- takesama
- ベストアンサー率24% (29/117)
はい、はーい!!戦国武将フリークの顔も持つtakesama再度登場でーす。と、書き出しは威勢が良いのですが先にお詫びいたします。(お詫びばっかり・・・)ご丁寧な返事を頂きましたが、正直なところ良く分からないのが現状です。 ただ、夢のない現実的なお話をさせて頂きますと、そもそも文献自体、誰贔屓なのかで誇張表現などが加わりしばしば、混乱を招きます。”ヤマカン”の語源とされる武田家軍師の山本勘助はその存在自体が怪しいとされています。(史料的には「甲陽軍艦」でしか登場しないはずです。)さらに、僕の一番好きな真田幸村をご存知ですか?そうです。真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵は有名ですね。)を連想させる武将です。しかし、この真田”幸村”とする良質の書物は現存してないのは有名な話です。真田信繁というのが正しい名前です。 墨俣城については僕は「太閤記」で3日と読んだ記憶があるのですが、「太閤記」自体が秀吉贔屓の書物ですから、実際はもう少しかかったかもしれません。しかし、一夜ではないのと、筏を使って今で言うところのプレハブ工法を採用したのは間違いないようです。 的確なお答えが出来ずに戦国武将フリークの僕としては悔しい限りなのですが、これ位が言い訳としては精一杯です。申し訳ない・・・。 それと、peitaさん。回答を横取りしたみたいな形になって、もし気を悪くされていたら御免なさい。
お礼
もぉ~、takesamaさんってば…出だしでかなり期待しましたよ! そして落胆…(・;) いいんです。気にしないで下さい。 大体、現在生きている人間には、過去の書物からしかわからないのが事実で、正確なことは、その時代を生きてきた人間にしかわからないのです。 ただ、私も「戦国時代」は比較的好きな分野なので、興味がわいたんです。 takesamaさんはいろいろな書物を読んでいるようですね。 「太閤記」私も読んでみようかな? 普段は「教えて!goo」ばっかりですから、ちょっとは離れたほうがいいかもしれません…。 「真田幸村」ちょっとしか知りません…。ごめんなさいね。 最近は「新撰組」に興味を惹かれて、そっちが多いなぁ…。 今回の質問に関しては、むかーーーしに「信長」のレポートを書いたことがって、その時のかすかな記憶からなんです。 でも、あまりにも昔の記憶すぎて、ほとんど忘れておりました(^^;;) いろいろとご配慮いただき、本当に何度も有難うございました。
yayupuu3さん、お返事ありがとうございました。ご質問に関しては他の方々が答えてくださっているのでいいかなとは思ったんですが答えます。 このときの戦は、対斎藤竜興です。道三の孫ですね。子の義竜はもう亡くなっていますから。(確か道三を殺した敵として、信長に攻められ亡くなったはず・・。とにかく失脚していることは確かです。)信長は道三を尊敬し、また道三も信長のことをたいそう買っていました。子や孫はそれに反感をもっていたようですね。 あと、秀吉に築城の役がまわってきたのは、他の方がおっしゃっているとおり、秀吉が立候補したからです。前の回答でも述べたとおり、墨俣に城を築くのは並大抵のことではできませんし、実際何度も失敗に終わっています。ですから信長が人を募っても、そう簡単には「我こそが」という人がいなかったのです。秀吉は、これこそが信長に気に入られ出世できるチャンス、あるいは信長様のお役に立てるチャンス(おそらく両方でしょうが)と考えたのでしょう。なんにしてもアイディアマンの彼にとっては、自分の力を信長に知らしめるためのまたとない機会であったわけです。 と、こんなところでよろしいでしょうか?だらだらとわかりにくくて申し訳ありません。お役にたてれば幸いです。
お礼
peitaさん、本当に何度も有難うございます! 大変感謝しております。 わかりにくい…なんてとんでもないです! 大変わかり易い説明で、有難いかぎりです!! 義龍は信長に殺されていたのですか…。 勉強になります。 道三と信長の関係を考えると、子や孫が反感をもったというのもうなずけます。 「日吉」のころから秀吉は、信長のことを大変尊敬していたようですね。 この機会を生かせたのは、秀吉が本当に優秀な人材だったからなのでしょうね。 「何度も失敗に終わっていた」…というのは知りませんでした。 きっと藤吉郎もいろいろなアイディアを考えていたのでしょうね。 大変参考になりました。本当に有難うございました!
- takesama
- ベストアンサー率24% (29/117)
只今、お昼休みです。 義竜については、義龍の方が普通ですよね。失礼しました。 墨俣城築城は、1566年。道三没が1556年といわれております。(因みにおっしゃるように子の義龍に攻められて没しました。)よって、道三相手ではないことは確かです。 で、訂正なんですがこのときの斎藤氏の主は義龍の子の龍興でした。重ねてお詫び申し上げます。(良かった。誰かに駄目出しされる前で・・・。)
お礼
貴重なお昼休みを割いていただいて、有難うございます。 そうだったんですね。 どうも私は「道三」「義龍」「龍興」「信長」の関係がよく把握できていなかったので、わかり易い説明で助かりました。 「義龍」「龍興」は「信長」に好印象をいだいていなかったようですね。 こうなると、「秀吉」の歴史を調べる前に「信長」「美濃」あたりを重点的に調べる必要がありそうですね。 後、ちょっと「墨俣城」のついて調べていたら、建設日数が60日くらいとか、人員数5~600人とか、ところによって1,200人とか…??? 訳がわからなくなってきました(^^;) この辺りのことも、takesamaさんはご存知でしょうか? 本当にお暇なときでいいので、考察等、お聞かせいただけますか? また、質問が増えてしまってすみません。m(__)m 本当に何度も有難うございました。
- takesama
- ベストアンサー率24% (29/117)
おはようございます。 戦国時代は、阪神に次いで好きなジャンルです。 実際には一夜では出来ませんでした。あまりの早さに”一夜”とついたんですね。 豊臣秀吉が一夜で作ったのは小田原城攻めの際に築いたのが一夜城とそのままの名前がついてた記憶があります。 因みにpeitaさんのお礼に書かれていることについてですが、斎藤道三(字はこれです)とは信長は娘と結婚していて同盟関係にありましたから、実際美濃攻めを行ったのは道三が死んで子の義竜の時代だったと思います。 藤吉郎に話が回ってきたのは、他の方が書かれている通り、墨俣は美濃攻めの最前線基地で稲葉山城からは丸見えで柴田や佐久間といった重臣たちが失敗を繰り返してたんですね。その時の軍議でここがアピールのしどころと感じたんでしょうね。 藤吉郎は末席に座ってたらしいんですが立候補して受け入れられました。 すいません。今、時間が無いのでこの辺で・・・。
お礼
takesamaさん、おはようございます。(本当に今起きました(^^;)) 最近、よくお会いしますね。 (「お好み焼き」と「オリックス」以外は気が合いそうですね♪) ありゃ…「道三」でしたか(^^;) うろ覚えなもので…ご指摘有難うございます。 私の記憶だと、斎藤道三が生きている間だったと記憶していたんですが、違ったのかな? たしか、道三と義龍(字はこっちだったような?)と愛妾を奪い合い、鷺山城と稲葉城に分かれて険悪ムードだったような…??? たしかに、道三は信長を気に入っていたので、直接対決したいとは思わなかったとは思うので、やっぱり息子のほうとの戦だったんですかね。 藤吉郎は自分からそんなに積極的にアピールしたんですね。 すごいですね~。 それで成功してしまうのですから、本当に生きた時代があっていたのでしょうね。(今のような平和な時代に産まれてきていたら、名を残せなかった1人なのかな?) 今は時間が無いとのとこなので、ある時に、よかったらじっくり教えて下さい。 不躾なお願いで申し訳ありませんが、ご教授いただけたら大変嬉しく思います。 大変参考になりました。時間が無いにもかかわらず、教えて下さって、有難うございました。
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お礼
nonkunさん、ご回答下さって有難う御座いました。お礼が遅れて、申し訳ありませんでした。 随分前の質問にもかかわらず、ご回答下さったので、大変嬉しく思います。 信長が多くの敵と対峙していたのは知っておりましたし、織田家の中でも異質な存在で、内輪を掌握したかったのも存じておりましたが、nonkunさんのご回答により、さらに詳しく知ることが出来て大変勉強になりました。 > 斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。 このことは初めて知りました! 息子はともかく、道三のほうも、このうわさを信じてしまって、2人の仲がより、険悪になってしまったのかもしれませんね。 美濃の名前の由来も初めて知りました。 また、「交通の要」という視点に気が付きませんでした。 ではやはり、信長は是が非でも美濃を掌握したかったのでしょうね。 > この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。 > 結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。 いやはや・・・そこにも気が付きませんでした。 戦国時代ならでは・・・なのでしょうか? 蜂須賀小六は、もともと信長に仕えていたわけでもないし、そう考えると納得がいきますね。 墨俣の地理についても認識不足でした。三角州だったんですか~! そして、役割についても大変分り易い説明ですね。 もう、ただただ、関心するばかりです。 食料の事や、野営での体力消耗のことを考えると、墨俣城がいかに重要な拠点となったかが、窺えます そして、地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画、家臣達の信頼(同盟?)関係があってこそですね。 信長の人を見る目、そして、その信長に尽くす家臣(と、この場合は「同盟相手」としたほうがいいのかな?)、このバランスが成り立っていたのが素晴らしい事ですね。 小田原の一夜城のことも、少しは知っていたのですが、どうやら私は、そちらのほうと少し混同していた部分があることに気が付きました。 お恥ずかしい・・・(^^;) 本当に大変参考になりました!! ご回答下さって、本当に有難う御座いました!!
補足
peitaサマ、janfrancoサマ、takesamaサマ、miskaサマ、nonkunサマ、ご回答、本当に有難う御座いました。 締め切りが遅くなり、大変申し訳御座いませんでした。 皆様の回答から、得る物が沢山あり、大いに勉強させていただきました。 ポイントの発行について、ひじょうに悩んでしまったのですが、今回は、すべてをまとめて回答して下さった、nonkunさんに「良回答」を、多くの参考物件を紹介してくださって、斎藤家について、詳しく説明して下さった、miskaさんに「次点」を差し上げます。 ポイントを差し上げられなかった皆様、申し訳御座いません。m(__)m 皆様、本当に有難う御座いました。 これからも、宜しくお願い致します。m(__)m