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秀吉が作ったと言われている「一夜城」について
今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。 どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。 1)墨俣城を作るまでの歴史的背景 2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将 3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか? 4)墨俣城の主な役割 など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか? 1つでもお答えいただければ幸いです。 どうぞ、宜しくお願いいたします。
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元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。 また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。 そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。 そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。 最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりました。 また斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。 真偽の程は判りませんが、義龍は信じました。そして道三を親として接しませんでした。 また道三も義龍を疎んじました。 そして道三は美濃を信長に譲るという遺言を書きます。 つまり信長を息子のように思ってたのです。 そして道三と義龍が戦を起こし、義龍が勝ちます。そのとき、信長はいち早く援軍を送ります。信長も道三を親のように思ってたのでしょう。 しかし、道三も信長と義龍がぶつかるのは時期尚早と見て、勝てないとみるやいなや、信長の軍が来る前に早々に自害して果てました。 こうして信長は美濃を攻める大義名分を得たのです。この時代、大義名分は重要でしたからね。 また、美濃は非常に作物が多く取れる実りの多き国です。 美濃の名前もそこから来ています。 そして交通の要衝でもあります。 後に有名になる関ヶ原は北に北陸街道、南に伊勢街道、東西に中仙道と主要な街道が交わる重要な土地です。 ですから、天下取りを目指す信長にはぜひ手に入れたい国なのです。 そして義龍の代になっても攻めきれなかったのは義龍の力ではなく、美濃の国人の力です。 この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。 結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。 信長が子飼いの部下(その代表が秀吉)を大事にしたのはそういう気苦労を避けるためです。 さて、道三が亡くなってからはこの国人たちを自分の陣営に引き込むための工作が水面下で行われていました。 しかし義龍は元の主君である土岐氏の血を引くと皆が信じていたし、本人もそう宣伝していたので結束は意外と高かったのです。 しかし龍興の時代になって、徐々に国人との信頼関係が揺らいできます。 蜂須賀小六というのはそんな国人の頭の1人です。ですから、小六にならって信長についた国人も一夜城築城には関わっていると思われます。 そして人数ですが、それは正式な記録がないのでなんとも言えません。 さて、墨俣に城を築く理由ですが、これも交通の要だからです。 墨俣は稲葉山(今の金華山)のふもとを流れる川の三角州です。 また稲葉山城のような山城は戦時中にこもるだけの城で平時はふもとに住んでいます。そして篭城に備えて食料をためています。 篭城戦は根競べです。大きな城を攻めるときは攻め手が食料がなくなって引き上げるということもあるのです。 普通は篭城は援軍の当てがあって初めて篭城できるといわれ、援軍の当てのない時は攻め手に有利な戦いに見えますが、実は攻め手にも不安要素はあるのです。野営では常に敵の攻撃を恐れているので兵の消耗が激しいです。しかし城があれば見張りを除いてゆっくりと寝る事が出来ます。 また、川の脇にあるということで、城への補給を断つことも出来ます。 こういう山城では川は重要な補給路になるからです。夜の闇にまぎれて船を出せば補給が可能ですからね。 そして城側への心理的な影響もあります。目の前に城を作られた。これは自分の国が滅びる不安をかきたてます。この頃の戦は士気を無くした方の負けです。死者はそんなに出ず、1割の兵が死んだら大敗と言われます。 そこで信長は柴田勝家らに命令して城を作らせましたが失敗に終わりました。そこで秀吉が名乗りを挙げました。 城の作成は他の方が答えたように上流からいかだを組んでもって来ました。 上流の地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画です。上流には木曾杉と言うよい木材の産地があったのです。そして小六の案内で、やすやすと敵国に侵入し木材を切ることが出来ました。 そして他の家臣たちに出来なかった墨俣城を築城できたことで秀吉の名は織田家・その家臣の間にに知れ渡り、それから出世街道をひた走るのです。 そして墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走りました。 上記で書いたように国人は大名と完全な主従の関係ではありません。となると新しい国主になりそうな信長に傾くのは当然の帰結です。 極端な話、彼らは自分の領土を安堵してくれれば国主が誰でも構わないのです。 そして美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄(良通)、安藤守就、氏家卜全(直元)の3人を味方に引き入れ、さらに竹中半兵衛(重治)を秀吉がくどき落としました。 この美濃三人衆は有力国人で、3人が団結すれば国主(この場合は斎藤家)も逆らえないほどの力を持っていました。 そして、ここが攻め時と判断しやっと稲葉山城を攻め落とすのです。 このとき龍興は越前の朝倉氏の下へ逃げ込みました。 また秀吉は一夜城が得意で、小田原攻めの時も一夜城を作っています。 もっとも、この一夜城は森の中に城を作って完成してから城との間の木を伐採して城から見るとあたかも一夜で出来たように思わせる心理的な作戦でしたが。
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- janfranco
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1)墨俣城を作るまでの歴史的背景 書けば長くなる・・・ 2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将 実際には一夜ということはないですよね それでも数日で堀と塀を作って相手の攻撃に備えれるようにしたらしいです その間は相手の邪魔に対しては柵をたてて鉄砲などで応戦したらしいですよ 3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか? いまでいう2×4、すなわち壁などをあらかじめ作っておき 筏(いかだ)として目的地まで運んでそれを起こして壁にしたと言われます たぶん当時の城などの建築物は骨組みの間に竹を編んで 土を塗っていたと思うので(いわゆる土壁ね)時間が掛かっていたので 墨俣の作り方は画期的だったでしょうね 4)墨俣城の主な役割 稲葉山城を攻めるための足がかり ちなみに1~4の質問の文章を以下の検索エンジンの キーワードの部分にいれてみたら? このエンジンは単語ではなく文章から適当なページを検索してくれるそうです なんでしたら ”墨俣城を作るまでの歴史的背景。実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将。どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?。墨俣城の主な役割 ” といった文章で検索をかけてみては? http://www.mycom.co.jp/
お礼
こんな夜中に詳しく有難うございます。とても嬉しいです♪ 1)そうですね…。私もそうは思ったんですけど、知りたくなってしまったもので…。 2)あ、建設中にも敵に見つかったりもしたんですか?! 「まったく見つからずに建築した」と勘違いしていました。 勉強になります。 3)本当に画期的ですよね!本当に驚きました。 私はお城の建築方式なんて、まったく知らなかったのですが、これまた勉強になります。 4)はい。わかりました! 今、少し教えていただいたURLで検索してみたのですが、沢山の文献が見れるんですね! 大変有難かったです!! 今日はもう、眠いので(^^;)明日、じっくりと検索してみます。 本当に大変参考になりました。有難うございました。
1)桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、京に上るため、美濃攻めを決行します。しかし美濃は兵の数も多く、地形的にも守りやすく攻めにくい。そこで急所となる墨俣に城をかまえて、攻めやすくしようとしたのです。しかし墨俣は、城を築くには不便な地形であり、そのため幾度か失敗に終わっています。そこで秀吉が登場したわけです。 2)かかった日数は3日です。というより、秀吉が3日で築城してみせると信長に約束してしまったのです。関わったのは秀吉の部下50人ほどと、蜂須賀小六の部下200人。 3)城の建設は、従来は現場に材木等を運んでから骨組みを作ったりしていましたが、秀吉は、寸法どおりに材料を仕上げるのは別の場所でおこない、それらを夜のうちにいかだに組んで流し、現場で拾い上げるという方式をとりました。そして材料があつまったところで一気に組み上げるのです。いわばプレハブ方式ですね。プレハブ方式なら組み立てはあっという間ですから、材料を運んでいるところさえ見つからなければ城の建設を隠しとおせたのです。内部の工事は、外部が完成し城としての形が整ったあとでゆっくりやったわけです。 4)1)でも書いたとおり、美濃を攻めるための要所ですね。前線基地です。 こんな感じでよろしいでしょうか?
お礼
ご回答下さって、有難うございます。 正直、この質問でこんなに早い回答がいただけるとは思っていませんでした。 嬉しいです♪ 1)これは斎藤道山(こんな字だったでしょうか?)との戦いだったのでしょうか? 何故、藤吉郎にこの話が回ってきたのでしょう?? …美濃攻めというのは、納得ができました。 2)3日で出来たんですか!すごいですね。驚きました。 これは、「城の外壁」と考えてよいのですよね? 3)この方法は考えもつきませんでした! 頭がいいですね~。感動です! 4)なるほど。では、後にしっかりとした形で残したのも「要所の城」と考えればいいんですね。 質問が度重なるところがあり、すみません。 もう少し教えていただけたら、有難く思います。 大変参考になりました。有難うございました!
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お礼
nonkunさん、ご回答下さって有難う御座いました。お礼が遅れて、申し訳ありませんでした。 随分前の質問にもかかわらず、ご回答下さったので、大変嬉しく思います。 信長が多くの敵と対峙していたのは知っておりましたし、織田家の中でも異質な存在で、内輪を掌握したかったのも存じておりましたが、nonkunさんのご回答により、さらに詳しく知ることが出来て大変勉強になりました。 > 斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。 このことは初めて知りました! 息子はともかく、道三のほうも、このうわさを信じてしまって、2人の仲がより、険悪になってしまったのかもしれませんね。 美濃の名前の由来も初めて知りました。 また、「交通の要」という視点に気が付きませんでした。 ではやはり、信長は是が非でも美濃を掌握したかったのでしょうね。 > この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。 > 結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。 いやはや・・・そこにも気が付きませんでした。 戦国時代ならでは・・・なのでしょうか? 蜂須賀小六は、もともと信長に仕えていたわけでもないし、そう考えると納得がいきますね。 墨俣の地理についても認識不足でした。三角州だったんですか~! そして、役割についても大変分り易い説明ですね。 もう、ただただ、関心するばかりです。 食料の事や、野営での体力消耗のことを考えると、墨俣城がいかに重要な拠点となったかが、窺えます そして、地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画、家臣達の信頼(同盟?)関係があってこそですね。 信長の人を見る目、そして、その信長に尽くす家臣(と、この場合は「同盟相手」としたほうがいいのかな?)、このバランスが成り立っていたのが素晴らしい事ですね。 小田原の一夜城のことも、少しは知っていたのですが、どうやら私は、そちらのほうと少し混同していた部分があることに気が付きました。 お恥ずかしい・・・(^^;) 本当に大変参考になりました!! ご回答下さって、本当に有難う御座いました!!
補足
peitaサマ、janfrancoサマ、takesamaサマ、miskaサマ、nonkunサマ、ご回答、本当に有難う御座いました。 締め切りが遅くなり、大変申し訳御座いませんでした。 皆様の回答から、得る物が沢山あり、大いに勉強させていただきました。 ポイントの発行について、ひじょうに悩んでしまったのですが、今回は、すべてをまとめて回答して下さった、nonkunさんに「良回答」を、多くの参考物件を紹介してくださって、斎藤家について、詳しく説明して下さった、miskaさんに「次点」を差し上げます。 ポイントを差し上げられなかった皆様、申し訳御座いません。m(__)m 皆様、本当に有難う御座いました。 これからも、宜しくお願い致します。m(__)m