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南蛮貿易が中継貿易であった理由
1543年にポルトガル人が日本に来航してから、 日本はポルトガルやスペインと南蛮貿易を行なっていました。 南蛮貿易は中国やインドとの中継貿易でもあり、 輸入品には中国産の生糸や絹織物もありました。 そこで質問なのですが、 なぜ南蛮貿易は中継貿易でもあったのでしょうか。 日本は中国と交流がなかったわけではありませんよね? どうして直接手に入れなかったのでしょうか。 また、ポルトガルやスペインでは 生糸などは生産していなかったのでしょうか。
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そもそもポルトガルとスペインが大航海時代に未知の海洋に乗り出していった目的は、ポルトガルとスペインの商品を輸出するためではありません。輸出できるような商品は何も無かったのです。レコンキスタが終わってしまうと、あらくれどもは何もやることがなくなってしまったわけです。とにかく飯の種を探しに行かないと干上がってしまう。それでイエズス会と悪の二人三脚で船出したわけです。ローマ・カトリックもルターの宗教改革によって阿漕な商売ができなくなって市場が頭打ちになって海外布教によって新しい市場を開拓する必要に迫られました。宣教師といいながら、イエズス会は市場開拓コンサルタントみたいなものでした。フランシスコ・ザビエルは日本にやってきた。まだ戦国時代のことです。だから鉄砲や火薬の原料となる硝石は売れました。フランシスコ・ザビエルは九州の大名をキリスト教に改宗させお得意様にしました。そして鉄砲や硝石を欲しがっていると聞きつけて商人を紹介しました。ところが鉄砲も硝石も日本国内で生産が開始され戦国時代が収束すると、いよいよ売れるものがなくなってしまったわけです。そこで琉球王国が開発した中継貿易を乗っ取ってしまいました。明の海禁政策が終了してしまうと琉球王国の優位性は何も無くなってしまったからなのです。琉球王国が中継貿易を独占していたのは、琉球王が明の皇帝の臣下となって冊封を受けて、朝貢という形式で日本と明の間の中継貿易を実現できたからです。なお、日本と明の交流は、室町幕府が機能していた時期だけです。戦国時代になるとめろめろでした。そして江戸時代になると徳川幕府はキリスト教を禁止し、貿易窓口をオランダに限定してポルトガル・スペインを排除しました。こうして南蛮貿易の短い時代も終わってしまったのです。 南蛮貿易を日本とポルトガル・スペインとの貿易と認識したら、それは間違いです。 そもそも商人というのは金儲けの為なら、悪魔とだって手を組むし、奴隷だって売ります。金儲けの為ならどんな危険を侵しても何でもやらかす。大航海時代に乗り出したイエズス会とポルトガル・スペイン商人の利害が一致して16世紀中ごろから17世紀初頭にかけて、日本と接点を持った。それが南蛮貿易なのです。ポルトガルとスペインは元々貧しい国です。大航海時代にアジア・アフリカ・新大陸に進出して、植民地化し奴隷貿易と略奪、原住民の酷使で歴史に一時代を築いた。しかしポルトガルとスペインではこれといった産業が興らず没落していきました。その後に台頭してきたのがイギリスとオランダでありました。南蛮貿易だけを理解しようとしても、それは無理です。15世紀から17世紀にかけて日本と世界で何が起こったか。時代を広く捉えて欲しいのです。
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- tanuki4u
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南蛮貿易とかを切り出して考えちゃうから変になる。 倭寇と明の海禁策 倭寇というと海賊行為だけをやっているように理解しちゃいますが、明の公認でない商業活動者を倭寇と呼びました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87 後期倭寇というやつで、日本側の中央政権が崩壊したので、勘合貿易がなくなった。けど貿易のニーズはあるので、商人は活動した。公認の商人じゃないから彼らはみんな明の視点で言うと「倭寇」です。 そういった商業流通の中に、ポルトガルやスペインも参加した。 中国から日本で取れない生糸を持ってきてっくれれば誰でもいい。 日本から中学が必要とする銀や銅を持ってきてくれれば誰でもいい。 ということなので、効率良く運送できる奴が勝つ。 で、ポルトガルやスペインは、ヨーロッパから来れたように、いい船を持っていた。 東アジア交易圏で、南蛮人がやれば南蛮貿易、琉球人がやれば琉球貿易、明人や日本人がやれば倭寇と名付けられちゃいますが、やっていることは一緒。
お礼
そういうことだったんですね。 貿易の概念が変わりました。 わかりやすい説明をありがとうございました。
お礼
なるほど。 時代の流れが把握できて、よくわかりました。 ご丁寧な詳説、ありがとうございました。