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日本(倭)は古代朝鮮を支配していた?
日本(倭)は古代朝鮮を支配していたという外国の記述があるそうなんですが、 信頼性はどうなんでしょうか?
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古代朝鮮と言っても現在の韓国の領域、つまり朝鮮半島南部とされています。また、支配したのか、影響力の行使にとどまるのかを含めて議論のあるところです。 外国の記述については基本的に二種類の資料があります。 一つは高句麗の「広開土王碑(好太王碑)」 中心的な部分は、「百残(百済)・新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた海を渡りて百残を破り、新羅を□□し、(百残・□□・□(新)羅を破り、)以て臣民と為す。」 *□は折損し読めない文字。 碑は414年に現在の中国吉林省に立てられ、戦前に発見されて陸軍参謀本部の酒匂大尉が拓本をもたらしたために、日本に都合の良いように改竄したのではないかとされていたが、先年中国の研究者により改竄の可能性は薄いとされており、読み方も従来の説と考えられるために、倭の勢力が新羅・百済に延びていたことは確実と考えられるようになっています。 しかし、倭の実態に関して、後の倭寇のような集団との考え方から、ヤマト政権まで幅広い説が出ていますが、倭の敵対勢力であった高句麗の碑文ですので、倭を悪く書くことはあってもよく書くことはないでしょうから、基本的には当時の日本の勢力が朝鮮半島南部に出兵し、影響力を及ぼしたことは動かないところです。 次が「宋書倭国伝」です。 「弟珍立つ。・・・・自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称し・・・・詔して安東将軍倭国王に除す。・・・・倭国王済・・・・使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。」とあって、この他に倭王武に関しても同様の交渉があったことが書かれています。問題は使持節~諸軍事が地域の軍事支配権を意味していることです。この中で倭は、「百済」「新羅」「任那(伽耶)地域」の支配権を執拗に求めていますが、宋は「百済」については認めていません。しかし、「秦韓」は「辰韓」のことで、これが発展して新羅になり、「慕韓」は「馬韓」で、同じく発展して百済になりますので、見方によっては百済の支配を認めたともみられるのです。 ともかくもこの宋書によっても倭が朝鮮半島南部、新羅・百済の地まで軍事的な影響力ないし支配力を及ぼしていたことが考えられるのです。問題は宋が朝鮮半島の実態を知ってこのような肩書を許したのかどうか。倭の支配力はどの程度であったのか。倭の勢力の実態はなど議論があるところです。 さらに、「広開土王碑(好太王碑)」にしろ「宋書倭国伝」にしても日本側の記録に対応する記事がはっきりしないことです。ですから、海外の客観性をある程度持つと考えられる資料がありながら、実態の解明が進まない一因にもなっています。しかし、倭国ないし倭の勢力が、朝鮮半島南部に最低限軍事的な影響力を持っていたことは動かないところです。
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- goldensea
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三韓の次代から、百済や新羅が起こってきた次代でいえばそうですね。 人質を倭へ差し出していたのは、朝鮮国のほうです。高句麗は北から朝鮮を攻めていました。 また大化の改新(乙巳の変)のとき、三韓の調べで来ていたのも、朝鮮側です。 中国の歴史書は周辺国の王のことを、元○人だったとかどこから来たとか、使い(使者)を出して朝貢しに来たとか、由来を書いていますが、朝鮮の最も古い(しかしそれでも12世紀の)三国史記と三国遺事には、倭王の出身や朝貢のことは書かれていないという不思議があります。
- misawajp
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聖徳太子の時代頃までは、少なくとも朝鮮半島の南部は日本の勢力が支配していたことに間違いない と言うことは、1950年代以降の韓国の学者を除いては定説となっています 中国の史書にも、碑詩にも、朝鮮の史書にも記載されていることです いわゆる 魏志倭人伝 にも明確に記載されています 否定したがっているのは、韓国政府と韓国の学者だけです 日本のマスコミはごく一部を除き、そのような史実よりも、韓国の顔色を伺うことを優先させています 質問者も資料をご一読されますことを そうすれば >信頼性はどうなんでしょうか? なんて質問はしなくて済みます
- sudacyu
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<参考> 現在の「国土」を基準とした『国家』の地勢的枠組みを、2000年前の時代にも当てはめること自体に無理があるかと思います。 基本的に、2000年前の時代には、「陸上の道」は、踏み分け道で、雨の多い日本の内陸部には、樹木が繁茂し、きちんとした交通路の整備はなされていませんでした。(金属の利用が始まってからは、その流通路が自然発生してきますが。) それに対して、小舟による移動は、河川や沿岸の入江や砂浜を上陸・休憩地点とすることで、徒歩に比べて比較的多くの荷物を楽に運べました。 つまり、現在は、日本と朝鮮半島の間の海が「国境」となって、異質な文化の境目となっていることを当然と見なしているが、2000年前はそうではなかったのです。 具体的に言うと、現在、住吉系とか宗像系とか呼ばれる海洋部族集団が朝鮮南部から北九州(一部は瀬戸内海にも)にかけての海を「生活の場」としていたと見られています。 船を扱うことに長けた人々にとって、海は交通路であり、樹木に覆われた陸地は、行き来のできない障壁という性格を持っています。 つまり、倭が朝鮮半島南部を支配していたというよりも、中国の歴史書に記載されているように、「東方海中に倭人あり」ということであって、倭人の中には、朝鮮半島南部沿岸と日本西部の海岸を、その生活活動圏とする海洋部族もあったということです。
- nogul2n
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朝鮮半島南部の一部に軍事的、政治的拠点を持っていたのは事実のようです。 百済は何人もの王子(王の子)を、倭に人質として進上しています。彼らの立場が「人質」であったことは、韓国でも認めています。中国の古代歴史書にも「人質」だったと記されているためです。 人質は、いつ殺されるかわかりません。人質ながらも、倭では彼らに良い待遇を与えていましたが、韓国では「幽閉されていた」などと書いている本もあります。 昨今の韓流時代劇ドラマでは、「日本に滞在していた王子」などとあいまいな説明をしていますが、人質は人質です。 有名な人質としては、 ・ 百済17代王(阿シン王) の子である、 18代腆支王(てんしおう、チョンジ王) (4世紀末から5世紀初に) ・ 百済21代王(ケロ王) の弟である、 昆支王の 王子5人 (5世紀末に) ・ 百済25代王(武寧王) の子である、 淳陀太子 ・ 百済最後の王(義慈王) の子である、 扶余豊 らがいます。
- pri_tama
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>日本(倭)は古代朝鮮を支配していたという外国の記述があるそうなんですが、信頼性はどうなんでしょうか? 好太王碑の事でしょうか?以下は、碑文を通説に従い現代訳したものです。 そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。 しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。 そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。 ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。 新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。 朝鮮側の史書『三国史記』にも度重なる倭の侵攻で、新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたとの記述があります。 また中国史書(『宋書』など)の記述で、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して影響力を行使していたとの記述もあり、日本書紀の三韓征伐の記述との絡みで、少なくとも朝鮮半島南部に対しては倭国が支配権を行使していた考えるのが通説となってきています。 なお、天皇家と朝鮮のつながりですが、桓武天皇の生母である高野新笠(光仁天皇の側妾)の6代前の先祖が日本に帰化した渡来人であったと言うだけです。 (彼女自身は、百済から大和朝廷へと献上された人質であった武寧王の10世孫。) 天皇家が朝鮮由来である騎馬民族征服説等は、ほぼ否定されています。 中国の史書では、倭国を紀元前1世紀から7世紀まで連続した国家として扱っている。 古墳などの王陵の形態に共通性がない。 そもそも、対馬海峡を渡っての大移動による征服など当時は物理的に不可能。
- datchi417
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任那日本府のことかな? 天皇家が朝鮮からの渡来人の血筋であることを考えると、逆でしょう。 朝鮮南部の国の一部が日本(倭)であり、朝鮮が乱れた際に、うやむやで独立しちゃったってのが本当では?