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死が怖いです
人はいずれ死にます。それはどうしようもない事だと思います。 ですが、その事を考えると異常に怖くなります。 僕は特に宗教などは信じていませんので、 人は死んだら無になると思っています。 ていう事はこの無が永遠に続くわけですよね。 永遠にもう意識が手に入らないわけです。 それを考えると恐ろしくてたまりません。 なのでなるべく死については怖いので考えないようにしてるのですが、 時々ふと考えてしまうと異様な恐怖に襲われます。 どうしたらこの恐怖がなくなるでしょうか。 ちなみに21歳の男です。幼稚な質問でしたら申し訳ありません。
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はじめまして。31才・男です。 質問者様のご心境がどれ程のものかよく分かるつもりです!! 私も、幼少の頃から、度々このことを考えては一人恐怖におののき、周囲の人(例えば、父母・祖母など)をびっくりさせていたようです。私の方こそ愚かだったかもしれませんが、このことで母と口論になったことも度々ありました(苦笑) もちろん、大人になってからも何度も何度も悩まされました。 質問者様が >時々ふと考えてしまう と仰るように、シャワー浴びてるときに突然このことが頭をよぎって、パニックになって風呂場からシャンプーの泡を付けたまま飛び出て、当時同棲してた女の子にびっくりされたこともありますから。。σ(^Дヽ^;) はっきり言って、世間一般によくいう霊魂とか幽霊とかいうのが本当に存在するのならば、それの方が全然怖くないですよね!?むしろ、メチャクチャ嬉しいですよ! でも、科学的合理的に考えれば考えるほど“死”=“(人としての)無”という現実的蓋然性は高まるばかり(例えば、人が物事を記憶するための機能を持つ前頭葉が“死”ことによって稼動しなくなる。⇒死後の記憶が無くなる⇒すなわち、人としての無、等)。。ww また、たとえ医療・科学技術が進歩して、寿命を何万年、何億年延ばすことができたところで、それだけではいつか死んでしまうときの“死”=“(人としての)無”の問題解決はできませんもんね。 ただ、もし対策があるとすれば、我々人間の遺伝子情報の中には“恐怖”を感じる因子があるように聞いたことがありますので、それを除去することによって“恐怖”を抑制するという形であれば、近い将来に医療・科学技術の発展&倫理的ハードルのクリアにより、理論上は有効な物質的アプローチによる方法となるとも考えられます。 それから、大昔から人はこのことでずっと悩み苦しんでいたわけで、その中から“死”=“(人としての)無”ということを逆手にとって、「形あるものはいずれ崩れ去り、人はいつか必ず死ぬ(簡単に言えば「色即是空」)。だから、物事に悩むだけ無駄なんだ」という考え方が出てきました。これが仏教だったりするわけですよね。そのような“モノの考え方”“人生哲学”のような精神的アプローチが対極にある方法ですよね。 もちろん、そうは言っても、誰もが簡単に俗世離れした生き方が簡単にできるわけではないし、遺伝子操作等の方法も現実的には早々にできる対策とは言えないですよね。なので、やはり結論的に当面の対策としては“考えないようにする”ということしかなさそうです。 以上、結局煮え切らない物言いに終始してお粗末な回答となりましたが、多少なりとも参考になりましたでしょうか?? 今回、私自身、質問者様のお悩みを私の回答で根本的に解決できるなど大それたことは考えてはおりませんが、少なくとも言えるのは、このことに関しては、私も現在進行形で“苦悩する者”ですし、逐一口に出さないだけで心の底から同じ苦しみで悩んでおられる方は大勢おられるはずです。 なので、本来であれば、少しでも人生を充実して送るための心のケアを図るべくこういったことを真摯に考え、話し合える場なり集まりなりあればいいのですが、現実生活の中では心の隙につけ込まれる悪徳商法等をはじめとする様々なリスクがあったりと、なにぶん気軽に相談できないジャンルですので余計に対処を難しくさせることも多いですよね。 その意味では、こういった投稿の場を利用して少しでもお気持ちを軽くする工夫をされるのも1つの有効な手段だと思いますよ! なお、本当はここでご質問への回答としての範疇を越えてしまうくらいお話したいことはあるのですが、おそらく喋り足りなくなりそうなので今回は自重しようと思います(それでも十分長文回答になってしまいましたが・・苦笑)。 ではでは(´ーヽ`)ノシ
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- 1961aug
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あなたが「人は死んだら無になると思っている」限り、死の恐怖はいくつになってもなくなりませんし、年を取るほど、また、結婚して新しい家族が出来るほど、ますます死の恐怖は強くなると思います。 私もあなたのように「人は死んだら無になる」とずっと思っています。 「死の恐怖」も恐いです。何をやっても考えても、どんなことを感じ喜んだり悲しんだりしても、どうせ死んでしまって無になるのだと考えると、何もかもが空しくなることもあります。 でも、だからといって自分から生きるのをやめるだけの根性もありません。 生きていること、自分というものが今在ること自体がともかく幸運だと考え、今をどう生きていくかを考え(次の瞬間にも死んでいるかもしれませんが)、生きていることを堪能していくしかできません。 なるべく死について考えないように、他のこと、どう生きていけば生を堪能できるかを考えるか、もしくは「死んでも無にならない」と、あなたを納得させてくれる何かを探すしかないと思います。
- shift-2007
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考え方ひとつでしょう http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3350051.html
- dai-ym
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30歳半ばのものです。 自分も同じように考えます。 決して幼稚な考え方では無いと思います。 今の歳になっても考え、もの凄い恐怖に襲われます。 身近な人で死んだ人がいても変わりません。 例え輪廻転生があったとしてもそれは今の自分とは違う人格なのだから今の自分の意識とは丸っきり別物ですしね。 ただ、そういう恐怖心が有るからこそ、他人より時間を大事に充実して使っていると思っています。 また周りの同じように考える人もいますが、だからこそ今のときを大事にしています。 時間を大事にするって言っても常にがむしゃらに何かをするのでなく、怠ける時間をすごすにも「これだけ怠ける時間という贅沢な時間のすごし方をして幸せだった」みたいに時間への感謝が生まれてきます。 このような死への恐怖を考えてしまうのは、そしてどうしようもない不安感に襲われることは仕方ないものだと思います。 だからこそ、限られた時間を精一杯充実させるしかないと思います。 また精一杯生きてきた人は安らかに旅立つことが出来、そうで無い人こそ生への執着が強いのを感じると、 この限られた時間を充実して過ごした人のみが、悔いなく安らかな気持ちで行けるのであって、 悔いがある人生を過ごしてしまうと最後の瞬間に今ある恐怖心よりはるかにより深い恐怖心に襲われることになる用に感じます。 まだまだ、これからを持っている若い世代が持てる恐怖心なのかもしれません。
- wwtt
- ベストアンサー率41% (5/12)
永遠にもう意識が手に入らないわけです→そんなことはわかりません。 デカルトの考えについて書いてみます。 デカルトの有名な「我思う、ゆえに我在り」という言葉があります。この意味するところは「私は意識する、ゆえに私は存在する」という意味です。 つまり、「私の意識の消滅は私の存在の消滅であり、これこそが私の死」となります。 すると死に関しては2つの場合があります。 (1)私の意識は消滅しない。 この場合私は死にません。確かに体は動きません。何の呼びかけにも反応せず、脳もフラットになっています。意識があるという証拠もありません。しかしあなたは私の意識の消滅をみていません。あなたが見ているのは身体的機能の停止した死体でしかありません。私の意識は消滅しないのならば、私の死は経験できません。 (2)私の意識は消滅する。 この場合は死にます。しかし死を経験することはできません。なぜなら経験をもつことができるのは、意識をもつものだけだからです。私の意識の消滅が私の死ならば、意識を前提として成り立つ私の死を経験できません。 確かデカルトは(1)の考えだったと思います。 またエピクロスも死は我々にとって何のものでもないものと言っています。我々が存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存する時はもはや我々は存しないからである。と言っています。 決して幼稚は質問でなく、昔の偉人も死についてずっと考えていたんですよ。この際、宗教とか哲学とか交えて死について考えるのもおもしろいかもしれませんよ!
- nao_tan
- ベストアンサー率17% (10/57)
私たちは生きるために生まれてきたのだから 潜在的に死にたいする恐怖があるのは当然のことです 私は死に恐怖を感じながらも、日常の忙しさの中にまぎれてそれと向き合う機会をほとんどもっていません。ほとんどの人がそうじゃないでしょうか。 死に恐怖を抱くのは恥ずべき事ではありません。日頃、そんなこと考えたって仕方がないと言っているあなたの周りの人だって、きっと明日死ぬってことになれば恐怖でどうしようもなくなるのですから。 どうせみんなに訪れるものなのだから、あまり過剰にならないように。変な団体や宗教家に取り込まれてしまいますよ。
- goodn1ght
- ベストアンサー率8% (215/2619)
小学生の頃、夜空の星を見ながら同じような恐怖に襲われたことがあります。 しかし、老化や病気のことを考えると生き続けることの辛さ、苦しさも想像でき、死の恐怖がなくなりました。 老化や病気に抵抗して一日々々を大切に生きたい(体力の向上、知識の吸収や無駄な時間を過ごさない)と考えています。
- marientry
- ベストアンサー率28% (47/166)
質問者さんはまだ21歳とお若いので、身近の死と言うものを、経験されていないのでしょうか? 私は30代半ばですが、ついこの前まで、「死」と言うことへの恐怖を感じていました。 でも、4ヶ月前に母を亡くし、死への恐怖が無くなりました。 「母が旅立った世界へ行くだけのこと。また母に会えるんだなぁ・・。」と思うようになったからです。 だからと言って、母に会いたい寂しさから、今すぐに自らの命を絶って・・・なんてことは考えず、むしろ自分の残された人生を一生懸命生きて、あの世で母に会うときは、成長した自分を見せたい!と思います。 誰にでもいつかは訪れるあの世へ旅立つ時に、後悔のないよう今を一生懸命生きましょう!!
- madmax4
- ベストアンサー率6% (111/1826)
私も死の恐怖は小学生の頃にあったなぁ 幼稚な質問じゃないですよ だけど人の葬式に行くと 人間なんてあっけないなと思い 生を大事に 生を精一杯楽しんでますよ 死んだ後は 死んだ後の楽しみです 神は居るのか? 居ても居なくてどっちでもいいが 死後の世界は有るのか? 多分無いでしょう 意識とは微弱な電気信号であり 自分が止まれば意識も止まるでしょうね そして死んだ後は意識も無いので真っ暗だとも感じません 無が続く事さえ感じません 多分無、でしょうね ですが死後はその時に 死んだときに考えますよ 今は精一杯生を楽しんでます
年齢が不明で状況も現在病気してられますかどうか?。僕は30歳で脳梗塞を患いましたが(この年齢位の方で自殺もしてますが)まな板の上の鯉でした、当時の僕の心境は。ジタバタしても死ぬ時は死にます。イヤだと言ってもですね。その時に神の存在を実感しましたが。あの世があるとは思います。気がついたら、即考えを改めると。許してもらえます。それが天の無限の慈悲とある書物で覚えました。結婚式でタカマガハラにカンズマリマスうんぬんの祝詞が有りますね。先生に聞きましたら。あなたのお腹の中に居ますが答えでした。下記のURLは福島大学の飯田史彦先生のホームページです。参考にされたら良いかと思います。 患った当時週刊「サンデー毎日」で知りました。現在70歳です。
- fff009
- ベストアンサー率24% (10/41)
僕も同じ恐怖に囚われたことがあります。 高校生くらいだったかな。そのときの恐怖は鮮明に覚えています。 布団の中で「死にたくない!」と子供のように泣いていました。 人間の四苦として「生老病死」というものがあるけれど、 その最も苦しい死というものは、昔から人々を 恐れさせていました。 僕はあまり宗教にはくわしくないけれども、死ぬことへの恐怖 を和らげるのが宗教の一つの意義なのではないかと思います。 一度哲学を勉強してみてはいかがでしょう? 僕の考えでは、宗教はいかに安らかに死ぬことができるか、 哲学はいかに安らかな生を送ることができるか、を考える ものだと思っています。 そういう意味で、哲学を学ぶことが死を忘れて生に没頭できる機会 になるかもしれません。特に感銘をうけたのはカントです。 また僕は昔、「生きることの意味なんてあるのだろうか?」「俺は死ぬのが怖いから生きているだけだ」と本気で考えていました。 でも、恋愛とか、仕事とか、色んな成功や失敗、出会いや別れなどの経験を通して、若い頃には感じられなかった「自分はいろんな人に必要とされている。自分が社会の一員として何か(ささいなことでも)変えている。」といった実感がもてるようになってきました。 あなたもそのうちそう感じられるようになります。 僕の高校時代の先生も同じような経験をしたと授業で言っていました。 みんななかなか口には出さないけど、人生に一度は通る道に今あなたはいるのではないかな、と思います。 質問の答えになっていないかもしれませんが、ともにいい人生を歩みましょうね。
お礼
みなさん、ありがとうございました。 やはり決定的な解決法というのはないみたいですね。 恐怖を感じるのは仕方がない事だとし、今を懸命に 生きることによって死の事を受け入れていこうかなと思います。 また、これを期に、宗教や哲学を勉強してみようかと思います。