中国に統一国家ができると対外的には拡大政策をとることが多くあります。隋帝国の成立によって、隋は朝鮮半島、特に現中国東北部から朝鮮半島北部に領土を持つ高句麗は、南北朝時代には南朝と結び、隋・唐の時代には遊牧国家の突厥と結ぶなど北朝・隋・唐と対立してきています。隋・唐から逆に言えば、中国東北方面の脅威とみなされ、隋の文帝は1度、煬帝は3度高句麗遠征を敢行するも成功せず、却って隋滅亡の原因の一つともなります。唐になると有名な太宗も高句麗遠征をしますが失敗します。その子の高宗も遠征に失敗しています。
このように隋・唐を撃退していた高句麗も最盛期は過ぎており、中国の南北朝時代の後期には、半島中部南部にある百済・新羅は国力が充実し、連合を組んで高句麗領を浸食していました。この為高句麗は百済と結んで新羅と対抗する形が出来上がってきました。この様な中で高句麗は中国の侵略を受けたわけですが、新羅にすれば高句麗・百済連合軍に侵略され、半島内部では国際的た孤立状態のわけで、新羅にすれば敵の敵は味方ではないでしょうが結果的に(後の新羅武烈王の金春秋は高句麗・日本・唐の順で同盟模索の訪問をしたとされます)唐と結び、半島には高句麗・百済連合対唐・新羅連合の対立構造が成立します。
660年に唐は今までの失敗から、高句麗を正面から攻めるのではなく、高句麗同盟国の百済を唐・新羅連合軍で攻め、高句麗を背後から攻撃する作戦に打って出て百済を滅亡させるわけですが、この時点では日本は旗幟を鮮明にしていません。
さて、日本と朝鮮半島の関係ですが、高句麗の広開土王時代には新羅・百済を従わせ、倭と高句麗は何度か戦ったようですが、その後、百済は日本と、新羅は高句麗と結ぶ時代もありますが、新羅・百済両国は日本に朝貢する関係が続きます。しかし、両国共に国力が充実するようになると朝貢も途絶えがちになります。日本・新羅・百済三国は時に争い、時に同盟する関係ではありましたが、日本関連で見れば半島南部にあった任那―伽耶諸国の帰属問題が重要問題でした。この地域は半島南部にある統一の遅れた小国家群でしたが、中国の書籍にも倭種の北限のような書き方をされている上に、その存在に意見があるのも事実ですが任那日本府の存在、さらに日本の半島進出の目的の一つが任那―伽耶地域の鉄にあるとされ、日本の権益地でもありました。新羅の隆盛もこの鉄権益の吸収に理由の一つがあるとされています。さて、この任那―伽耶諸国について512年日本の大連大伴金村は百済の要求により任那4県を割譲他のですが、新羅は554年に百済・日本連合軍を破りその他の任那―伽耶地域を併合します。
この様な経過もあり、日本と新羅・百済の親疎関係を見ると百済のほうが親しいような状況でした。百済からは百済滅亡時の豊璋をはじめ長年の王子・重臣の人質としての滞日。軍事援助などの関係もあり、軍事的に日本と対立したこともある新羅に対しよりは百済に対するシンパシーが強かった様に思います。ただ、日本内にも親新羅派もいたようですが。
また、百済滅亡のままで行けば、新羅の勢力が巨大化すること、半島権益の回復などの思惑もあり、高句麗・旧百済遺民軍の側の百済復興に出兵したのではと思います。
以上、参考まで。
南部に任那―伽耶諸国という小国家群がありました。この
お礼
新羅の外交力は凄かったのですね。 日本は現在に至る迄外交オンチですね。