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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:元気っちゅうもんは人様にあげることができる?)

元気をあげることはできるのか?

このQ&Aのポイント
  • 元気をあげることができるのか疑問に思う
  • ピカソやベートーベンの作品から元気を貰うことはあるが、元気をあげることはできるのか疑問
  • 運動選手が「元気をあげたい」と発言する現象について考察

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.3

人様に元気をあげれると思うこと自体おこがましい。 ましてやそれを口にするなど、恥ずかしいことだ。 それに僕は大山倍達ではなくアニメの飛鳥拳に勇気をもらった。 ハワイで赤さそりことタムライスとの一戦で、まだまだ反日色の 強いハワイで、タムライスのパフーマンスに怖気ずき、うずく まっていた飛鳥拳が、渾身の勇気を振り絞り立ち上がるところは、 僕も勇気をもらった。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

>人様に元気をあげれると思うこと自体おこがましい。 まったく同感です。いつから運動選手はおこがましくなったんでしょう?

Mokuzo100nenn
質問者

補足

どうにもくだらない投稿を別として、「元気をあげる」などおこがましい発想であり、出来っこないことだという確たる回答と、「元気を貰う人がおるのだから元気をあげることができる」というなにかレシプロケイトな発想の意見とに分かれました。「他人に元気をあげられるものなら、鬱の人を元気にできるか?」という根本疑問に答えてくれた方はおりませんでいしたので、前者の立場(あげられない)を代表し、もっともかけつ明瞭に断じていただいた回答を最良回答として、質問を締め切らせていただきます。「荒し」以外の回答者のみなさん有難うございした。

その他の回答 (50)

回答No.41

視野を狭め過ぎていらっしゃいませんか? 他の方からの意見で号令の話題が既に登場していますので、 便乗にもなりますが、こういう事例もが存在していました。 つまり、苦しみの軽減の為に、古来の戦場でも、 軍楽隊が元気を活性化させてきたのです。 尚、号令の妙を諭して下さっている武術家の男性が、 日本にも存在しています。 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%AE%8F%E4%B9%8B%E3%80%80youtube&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり、21世紀少年・少女のインタビュー回答と組織的号令は似て非なるものではないかと思います。

  • uiill0001
  • ベストアンサー率18% (8/44)
回答No.40

お礼を頂戴いたしました。 ありがとうございます。 質問者様は、元気の意味を「心身の活動の源となる力」として質問をされていると解釈しておいります。 したがって、GiveはもちろんTakeも起こりえないと思っています。Get(得る)ならあり得ると考えます。表現だけの問題でしょうか、それとも根本的は間違いがあるのでしょうか(逆に質問してますね・・・) 何れにしても、勇気もらう・上げるを簡単に言う勇気を知らない人と違い、ご質問者が元気はTakeできるとの解釈を不自然に思う次第です。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かに人からTakeするものではなく、自分でGetするものですね。 ご指摘をうけて改めて不用意な言葉使いをしたと気付きました。

  • uiill0001
  • ベストアンサー率18% (8/44)
回答No.39

質問者様は >伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、 上記表現は問題なく 自ら元気になるのだから、勝手に貰って元気になる事はあるだろう。。との事ですよね。 貰うの反対語は遣るです。 遣るではなく上げると丁寧な表現をしているのですから問題ないでしょう。 ですから貰うがあれば上げるもあるはずです。 若手の運動選手が 「みんなに元気をあげることが出来て良かった」。とは言っていますが、 「みんなを元気にしてあげる事ができてよかった。」とはいっていないです。 恐らく 此処での”元気=元気付ける様なプレーを見せる”の意味で使っているのではと思います。 「みんなを”元気付ける様なプレーを見せて”あげる事が出来てよかった」と言っているはずです。 「みんなを”元気にして”あげる事ができてよかった。」とは言っていないでしょう。 そして 「みんなを元気にしてあげた」とも言っていない。 私には、「元気を貰う」、「元気をあげる」は共に納得出来ない表現です。 質問者様は、表現の事を言っているのではないと仰っていますが、ならば 「みんなを元気にしてあげる事ができてよかった。」 は 「皆様に元気付ける事が出来る様な精一杯のプレーをお見せする事が出来満足しております。」 「私たちのプレーで一人でもまた、ひと時でも元気に成って頂ける方がおいでになれば幸いです。」 と解釈してはいかがです? 質問者様が、 元気を貰い元気になったのは、その本の内容から自分で、心の状態を変化させたと解釈していいのでしょうか。 だったら、読んで元気を貰ったではなく、読んで感動し明日への活力を得やる気が出て前向きな考えになり明るい気持に成ったと表現して欲しいです。(間違えていたらすみません。) ただでさえ、大量の情報を伝えるため短くまた早口になっている日本語ですから、 「貰うがあれば、上げるもある」と考える少年少女達運動選手の表現が、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」 になり意味は、そんなに傲慢でも見識が無いからとばかりは言えない気がいたします。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとございます。 元気とは、Give も Takeもできないもの、というお考えでしょうか。

  • codotjtp
  • ベストアンサー率26% (40/149)
回答No.38

指導命令系統からの絶妙な号令は、対象集団の構成員達の無駄な力みを和らげて、暫時的にでも彼等の元気を賦活してくれますよね。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

21世紀少年・少女が指揮命令系統をつかって号令していると、、、。 それって、マスメディアも絡めてのお考えですか?

  • Revoltes
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.37

>嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?  これについての解答を書け と?

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

命令ではございませんので、投稿するしないは任意です。

  • Revoltes
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.36

人はひとりでなければ生きられない?

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

質問ありがとうございます。 次回からは回答もお願いします。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.35

達人の言葉や姿から勇気をもらえるのは、達人の通った道の景色を自分も観ることができたと感じたときです。 これを感じた者は、単なる声援や瞬間的感動からは卒業なのです。 しかし、他人への対応は低きにあわしていくのがマナーでしょうね。 選手は根本的解決にならないと理解しているが、敢えて言っていると思いたいものです。 ただ、棟梁はひとかどの職人でしょうし、もくぞうさんも言葉だけで済まされるレベルではないので、言葉に迷うところかもしれません。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

21世紀の運動選手は自らが達人の域に達したと思い「元気を上げる」と言うのでしょうね。 昔の日本人は本当の達人の域に達した人でも「自分なんて、まだまだ、、、。」と言っていた様な気がします。 つまり、嘉納治五郎や大山倍達たちと、21世紀少年・少女はもはや別の文化圏の人間と解釈しないとイケないですね。

回答No.34

 うっかりミスで回答をだぶらせてしまいました。No.32は削除をお願いしてあります。丁寧にご返事いただきありがとうございます。  No.33では木造さんに不快感を与えようと試みました。  与える事が出来ましたでしょうか。  外は太陽の光にあふれていても雨戸を閉めた部屋の中までは光は届かないという理屈と一緒かと思います。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 北国にお住まいですか? 愚拙は東京モンなので、太陽はこの時期、老人や弱者の命まで奪う自然の脅威ですよ。

回答No.33

 ピカソは“あげたかった”のだと思います。  芸術家は自分の思いを「芸術」という手段を用いて、我が思いを人々に発信し、伝えたいと活動しているのだと思います。  自分の思いを“あげたい”のです。  木造さんは「不快感」が動機となって、自身の思いを他者に“あげよう”と、こうした質問を思いついたのではないでしょうか。  純粋な疑問からではなく、我が思いを伝えたいんですよね。    回答への返答に、そうしたお心持がよく表れています。  自身をよく見つめてみましょう。    

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 元気は人様にあげられるものとのお考えがあるとは思いますが、なぜあげることができるのか、が疑問です。 もし、あげられるものなら、鬱のひとにあげたいもんです。

回答No.32

 ピカソは“あげたかった”のだと思います。  芸術家は自分の思いを「芸術」という手段を用いて、我が思いを人々に発信し、伝えたいと活動しているのだと思います。  自分の思いを“あげたい”のです。  木造さんは「不快感」が動機となって、自身の思いを他者に“あげよう”と、こうした質問を思いついたのではないでしょうか。  純粋な疑問からではなく、我が思いを伝えたいんですよね。    回答への返答に、そうしたお心持がよく表れています。  自信をよく見つめてみましょう。    

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 元気は人様にあげられるものとのお考えがあるとは思いますが、なぜあげることができるのか、が疑問です。 もし、あげられるものなら、鬱のひとにあげたいもんです。

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