形容詞と構造
イディアを想起しあいまい的言語化(とくに形容詞など)それが妥当であるかの様に人が感じるという現象に対してですが、そこにはそのあいまい的言語化(とくに形容詞など)が妥当化され得る現実があるということを意味するのではないかとつねづね思っています。例えばいじめが陰湿化する背景にはそれを抑制できない現実があるのではないかとおもいますしいじめに至るまでの経緯も存在すると思います。他の例でいけば「克服しなければいけないのです」といけしゃあしゃあと語る人がいますがその背景には「考え方があまい」とか「危機」だとかの現状が背後に在るからこそ「克服しなければいけないのです」という言葉が正当化されてしまうのではにないかとそう感じます。しかしこれが仮に「克服できている現状」の場合は「克服しなければいけないのです」という言葉が正当に思えるとは到底思えません、逆に「慎重に事を進めていかなければいけません」の方が妥当に聞こえてきます。何が言いたいのかと申しますとつまりあいまい的言語を発する人が出てくると言う事は外界情報の構造がその言葉があたかも妥当かのような構造をしているのではないでしょうか?しかも言葉が曖昧なのですからその言葉が現実を変える力など持っては居ないはずです(例えば「科学の公式ならその公式は新発見となるが曖昧言語はそうならない」「何かしらの絶対的解決方法を教えてくれればその何かしらのを解決することができるが曖昧な言葉は解決の糸口すらもない」という意味で現実を変える力がないという意味です)そう考えると曖昧な言葉はただの無駄であって構造を変える力を持っていないと思います。しかしその言葉が出てくるというのは外界情報が曖昧言語を派出しており決して曖昧言語が外界情報を派出させているのでは無いのです。つまり曖昧言語には何の力も無いのではないかと思うのですがどうでしょうか?
お礼
有難うございます。この詩でした。(詞は誤変換でした。朝早かったので勘違いしていたようです) 私は苦労に苦労を重ねて、この詩が初めて胸に響いてくるようになりました。 本当に助かりました。有難うございました。