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仏と罰の関係について考える
- 罪や悪に対して、その因果が解る人は、心の奥では「許しているはず」ですよね。
- 宗教では、道徳を権威づけるために神や仏が裁きや罰を与える存在と描かれています。
- しかし、本来は愛や慈悲を信じる道であるはずであり、罰とは無関係であると考える人もいます。
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基本的にはその通りだと思います。 でも、まず、罪とか悪とかも許すとか言う物ではなく成り行きです。 山の水が海に注ぐように、今の行動の結果でしかなく、その行動が自分や他人、社会に対する影響を罪とか悪とか呼んでいるに過ぎませんから許す許さないの問題ではありません。しかしその行動が個人や社会に及ぼした影響の責任は正しく受けなければなりません。教えの罰と法の罰が全く別物ですから。 それに子ども扱いというより、仏に権威を与えたほうが広めやすい、喜捨を受けやすいというほうが大きいと私は考えています。 直すというよりも、真理を述べていればそれでイイと私は考えています。強引に変えれば抵抗があります。 真理だけを述べていれば自然に増えていくということでしょう。 私はそういう立場ですけど、やはり積極的に変えていくべきだと考える人が居れば、それも是非も無いです。
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- tumaritou1
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哲学者が、宗教を語っているものに、ある人が質問した事に答えた事がありますので、それを載せてみます。 「キルケゴールは、人間の実在を美的実在・論理的実在・宗教的実在の三つの段階に展開させ、人間は、宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」とあるのですが、調べても意味がよく分かりませんでした。 簡単でいいので意味を教えてください。 よろしくお願いします。 >>>管理人 「宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」 と言う事を説明したいと思います。 「真の自己」の反対語は「仮の自分、或いはみせかけの自己、或いはかりそめの自己、或いは自分じゃない自己」と言うことになるかも知れません。或いは自分と思っているのは「自分と勘違いしているかも知れない」と言う意味合いかもしれません。 是は脳の機能の関係からです。子供時代には『疑いはありません』自分が何者かは分っていたからです。そうして親とかおじいさんとかの関係もおぼろげながら分かっていました。心の奥底からの疑いはなかったという意味です。 心底、分ったつもりでした。処が思春期頃から『人生とは何だろうか?或いは自分は何処から来て、何処へ行くのだろうか』といった疑問が湧いてきます。 自分で謎をかけて、自分の罠にはまってしまう場合の事です。この事を『失楽園』と言うものと思います。この事が二元論の始まりとなって『謎の悪循環』に落ちてゆく事になります。出口がなさそうな『問い』に悩まされると言う意味になります。 意識が抱え込む疑問や、悩みとは、本当は『分っている自分自身が』問いかける問いかけと言えます。何故ならば、他人では答えられないからです。他人の答えを聞いたところで、何にもならないからです。 自分自身で問いかけて、自分自身で答えを出します。その事を『宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復する』と言います。 その訳を言います。人間の自我意識は左脳に存在する意識の事です。言葉を持っている意識の事です。処が右脳にも意識が在ります。右脳の意識は『無意識の意識として、或いは命を働かせている意識として、或いは目の前の事実を事実として見ている者として、或いは仏性として、或いは神として、すなわち現実を全て肯定している者』と言えます。 全てが見えている者として、自我意識には明確には、その存在を実感できなくとも確かに存在しています。自我意識には『言葉ではない情報で』伝えて来ています。 例えば高い所に上がった時に自我意識に伝えています。或いはスピードを出し過ぎた時にもです、或いは恋人に会う時などにもです。その恋人を本当に好きなのか?或いは体裁だけなのかも自我意識に教えています。この人と結婚をしても良いのか?と言う時にもです。 自我意識の機能は『分別』で出来ていますので、論理で割り切れない事は、計算でき難くなっています。従って明日の事が分からないのに論理では答えは出ないようになっています。それは機能的に『入れていないソフト』に関連する問いを出す事に相当します。 明日の事が分からないのに結婚をして幸せになれる、と思わせるものが『自我意識に』言葉によらないもので、教えているからです。 脳はコンピュータと同じ機能があります。計算する能力です。この計算式は論理的に割り切れる事が条件となっています。つまり自我意識の機能とは割り切れる問題のみのソフトが入っている事になります。そうして割り切れる問題には有限と言う名が付いています。従って自我意識には矛盾する問題や、永遠に関する問題は機能的には『ソフト』が入っていない、という事になります。 此処からが人間としての苦しみが付きまとうと言う事です。人生には矛盾が付きまとっているからです。自我意識には有限と言うソフトしかないと言いました。つまり『永遠』を理解するソフトが自我意識にはないという意味になります。 有限の命、永遠が欲しいと言う願望。この二つの意識の落差が人間の苦しみとなっています。この事を『心の矛盾』とも言います。右脳は『永遠や、宗教』で出来ているからです。有限の命も自分の事実ですが、永遠や、宗教も自分の右脳の中に『無意識の意識として、或いは仏性として』内在しているからです。 この二つの意識の落差を人間は、原罪として、或いは業として、或いは苦しみとして受け取ってきたわけです。この苦しみからの解放を『宗教文化の発展として』人間は後押しをしてきたわけです。 そうして苦しみからの解放を伝えて来ています。キリスト教においては『神に会って和解する』という事になります。禅宗であれば『禅問答を解いて』生死の問題を解決すると言う事になります。 この禅問答こそが右脳の意識に出会うためのテキストという事になります。左脳の自我意識の働きではこの問題は解けないように出来ているからです。脳の機能の問題です。言葉の無い思考方法、言葉の無い考え方の中に、解くカギが在ります。分別脳の働きが及ばない思考方法で無いと、思考できないからです。 言葉を持たない意識が出した問題が『禅問答』と言う事になります。右脳の働きが分る事を『自分自身が分かった』と言います。つまり悟りが開いたと言う事になります。
お礼
そちらとのコミュニケーションは、直接お会いしての対話でないと理解しあうのには時間がかかりすぎると思いました。 やっと、少しそちらの言葉の意味合いがわかって来たと思えるところもあるところ(再質問の仕方を変えれば、通じ合えると思えるところでもあるところです) けれども、言葉自体からこのような感じでは、ともかく、このネット上での対話は難しすぎます。 せっかく、言葉ではとても語れない「見性成仏」などの内容をこれだけ言葉を尽くして語らんとしてくださったのですから、ベストアンサーにしてお礼の気持ちとしたいところ、 ここは、感謝だけ述べさせていただき、 ベストアンサーを選ばなければ閉じることができないようになっているようですので、 方便創作にも深さはある点、性急に批判する事には問題がある点を示唆してくださった No1の方にベスト・アンサーを差し上げることにしました。 ベスト・アンサーの基準はどうして考えればいいのでしょう? 右脳で考えても左脳で考えても、 私にはわかりかねます^^。 得るところの無い回答、出会いの深さを感じさせない回答に、私はであったことがないです。 コミュニケーションは、今回途中でとぎれてしまいましたが、 これだけ一生懸命回答してくださったことには、 感謝でいっぱいです。 出来うる限りの心を尽くす、その努力には、私は何ものよりも、それこそ理屈を超えて感謝する者です。 仏法僧、一般人、悪人、そこに隔てはありません。 わざわざ、今回の回答No5にて、私に合わせようとしてキルケゴールの言葉への質問に回答されたそちらのHPかなにかのサイトを、そのサイト自体は紹介できない中で、詳しい内容を紹介くださったということ、その再度の伝えんとする心に感謝でいっぱいになってしまうということです。 ありがとうございます。 いつか実際にお会いできる日があるといいですね。 ありがとうございました。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
哲学からの宗教改革という側面には無理があります。それは『宗教体験』の神秘性の中には、哲学が入り込む余地が無くなっているからです。 又、罰或いは原罪の意味とは『心の矛盾や対立や分裂の別称です。』 原罪とか業という意味は『苦しみの別称』という意味です。 心が未だ未分化の状態の『幼子』が天国に一番近い存在という意味は『心に矛盾を抱えていない状態』という意味で、書かれているからです。この意味は『自分自身の命の働きと自我という心が』一つの者として働いているという意味になりますので、『他人に自分の裸を晒したとしても、恥ずかしいという感情が未だ沸かない様に出来ているからです。』 それに引き換え思春期頃から、誰にも自分の裸を見せる事が出来ない現象『恥ずかしい』という感情が芽生えて来ますが、この原因は『見ている自分にもう一人見られている自分が』加えられるからです。 脳内の機能分化の完成によって、心が二つ生じているからです。この有様はジルボルト.テーラー女史の動画で描かれています。 人間の苦しみの大きさは『脳内の二つの意識の落差の大きさ』と比例しています。 従って『自分は何者か?』といった疑問を哲学的に解明しようとする事は、ますます問題を判り難くする可能性があります。禅的な或いは宗教的な解消方法の中に答えがあるからです。 禅匠に『人生とは何ですか?』と問うなら、では『何故お前はそう思うのか?』と、逆襲を受けます。 是が禅の立場ですが、その意味は『疑問を抱く時、その疑問を抱く、その発端にこそ答えがある。』という立場です。 この意味は、幼子では考える事さえ出来なかったのに、自分自身を疑いだした事によって、悩みや疑問や苦しみが始まった、その原因の大元に『気付きなさい!』という叱咤激励の意味があります。 自我意識以外のもう一人の自分が鍵になっています。動画に語られている右脳の意識です。 宗教の原点に戻るという意味は、意識地獄からの開放、或いは『魂の救い』が全ての宗教の原点という意味です。 『神経症の症状も、恐怖症も、躁鬱症も、いっしょくたの感じで書かれているので(この辺は、もっと詳しく書きたいのでしょうけど)、この文章のままでは矛盾が生まれてしまっていると思います。』 と貴方は書かれていますが、全ての症状の下には、『死に対する不安感』がベースになっています。その次に『漠然とした不安感と共に、生き難い想い』がベースになっています。この共通点が『心の矛盾の正体』という意味です。 自我意識という心が、『自分自身の命の源から』圧迫を受けている、という勘違いをしている事です。この勘違いが全ての、例え症状が全く違って見えたとしても、全ての原点になっているという意味です。 人間の深刻な悩みの一つに、有限と永遠の対立があります。是を例にして説明します。 聡明で分析的で計算が得意な自我意識の機能は、物事を分けてみて計算して答えを見付けています。その代表が『言葉です。』 ですが人間の生活には『言葉では表現出来ない世界が存在しています。』仕事のコツといったものから、自転車に乗るコツ、といったものなどいわゆる、コツといった感覚的なものです。或いは直感的な判断です、或いは空間認識能力等もそうです、 或いは音楽やカラオケが苦手な人でも、人のうまいとか下手とかは判断出来ます。感激をする場合では満場総立ち、いわゆる『スタンディングオベーション』なる現象も有ります。 是なども『自身の右脳からの情報によっています。』 人間が生まれて何も学ぶ以前から既に備わっているものに、不安や安心や恐怖する事があります。こういった感情の沸き方などは、誰でも学習した人は居ませんが、高いところに上がった場合では『身がすくむ』という生体反応をしています。 笑顔を見た時には、赤ん坊も笑顔で返しています。こう言った備わった生体反応を、『命の働き』といっていますが、この『働きの内の何がしか』に『異常に反応する事が』障害の元になっている、と書いています。 『身体に対する生体反応』に違和感を抱く時、自律神経失調症と言ったり、『沸き上がる感情や考えに対しての生体反応に』』違和感を抱く時に心を病むと表現したり、『行動の自在性』に違和感を抱く事で、自分の行動の自由性が確保出来ない場合を神経症と表現すると言った、障害という事です。 動画に有るとおり『右脳の機能は』今現在の全ての情報を、脳梁(意識の根底)を通して絶えず送り続けています。その意味は『生命の維持機能としてです。』 左脳の自我意識は、過去と未来を計算しながら、今現在の情報の中から『必要な情報だけを拾い出しています。』 此処での情報交換の齟齬が、全ての障害の元になっています。 分かり難い話になってしまいましたので、簡単にして終わりにします。 死に対する不安と、漠然とした得体の知れない不安感と生き難い想いがセットになっている事が『原罪や業』と言われているものです。 是は『自我意識の機能が言葉に代表される機能=割り切れるもの=有限』から成り立っている事に原因があります。自我意識には『有限を理解する機能しか無いからです。従って自我意識には『永遠』を理解する事は出来ない。』と言う意味になります。 それに対して『右脳の意識』は、永遠の存在です、その理由は『生まれた訳ではない事によっています。』言い換えるなら『永遠からやって来て、又永遠に戻ってゆく存在』だからです。 此処のところが『出会った者にしか説明出来ないからです。』この出会う体験を禅では『見性体験』と言っています。キリスト教では『神と和解する』体験です。 此処まで来た時に『見ている自分=見られている自分』が一つになります。この事を『大人の嬰児』と表現しています。』 心の矛盾が解消すると言う意味です。自分の心が自分の心と争う事が無くなる体験でありますので、心の中が静かになると表現します。是が『涅槃』の意味です。 信じられないかもしれませんが、個人的には真実の体験です。もう30年以上前の体験です。『死にたくない』ともだえ苦しんでいた自分でしたが、自分自身の『無意識の意識』に出会う体験以後『死に対する恐怖症が完治した経験です。』 心持はこうです。自分が死ぬ事は残念だけれども仕方が無い事と納得出来ました(死の受容)その代わり、自分の中には『元々永遠の存在だった者』が存在していた事が分かります。 人生の見方が一変します。命やお金や見栄や外見や地位や出世が色褪せてしまいます。その代わり以前では大事ではない事柄『自分以外の人の幸福』が大事になって来ます。 そのお陰で、たいして頭が良い訳ではなかった自分が商売を始めて、順調とは言えないまでも、まずまずの暮らしが営めています。
お礼
私の「仏と罰」を題とした短い質問文に、これだけのさまざまな含みを持ったご回答をくださり、ありがとうございます。 しかし、やはり宗教や宗教的立場や宗教体験から言葉をひも解く道はどうしても、雲の上からながめたような大きな指針に終始してしまうのでしょう。 時として、それでは具体的な道筋は見えず、言葉が対話の場となる時には、齟齬だらけの対話が生まれてしまいがちですよね。 そのままの言葉で権威化するのはそれなりに必要性があるのでしょうが、対話の場である質疑の言葉としては、どうしても具体的なところまでその言葉を訳さないと、話は次へと正しく進んではいきません。 補足質問がこちらにも続いてしまう非礼を、どうかご理解ご了承していただければと思うものなのです。 こちらに補足分続けさせていただきます。 ↓ 》脳内の機能分化の完成によって、心が二つ生じているからです。この有様はジルボルト.テーラー女史の動画で描かれています。 人間の苦しみの大きさは『脳内の二つの意識の落差の大きさ』と比例しています。《 ここは、私も「そのようにも言える」と思えるので、パス^^です。 》従って『自分は何者か?』といった疑問を哲学的に解明しようとする事は、ますます問題を判り難くする可能性があります。禅的な或いは宗教的な解消方法の中に答えがあるからです。 禅匠に『人生とは何ですか?』と問うなら、では『何故お前はそう思うのか?』と、逆襲を受けます。《 『自分とは何者か?』ということの答えも、感性哲学の深まりがなければその全体像をつかむことは確かに不可能にすら思えてしまいますが、感性哲学により、自我の構造を深く理解し、自我杯がのまま自分への誇りを感じる地点まで全体像を把握し、でも自我を突き抜けた地点からも自己を観れるので、まったく自我にはとらわれないそんな心の状況を、哲学による心の改革の世界でも実現できると私は思えているのですが、どうお考えになるでしょうか。 はて、次にここが「むむむ」となってしまうところなのですが、 『自分は何者か』という疑問と『人生とは何ですか?』という問いとは、普通の文脈からはまったく別の設問であるはずなのですが、いきなり、後者の設問へすり替わって話が続いてしまっています。 そちらとしては、自我さへはっきりわかっていれば、人生も見えてくることは解りきっているため、同じ設問の文というふうに感じてしまっているのだろうと思います。 でも、この表現の飛躍のあたりも、哲学が、もっと具体的描写から言葉をことほぐ必要のある点だと思えてならないのです。 ただ、ここを具体的に詳しく書くとそれだけで紙数は終わってしまいそうですので、「ムムム」という感じなのですが^^、ここもパスします。 言いたい事の意味をたぶんそちらなら汲み取ってくれるかと思います。 》是が禅の立場ですが、その意味は『疑問を抱く時、その疑問を抱く、その発端にこそ答えがある。』という立場です。 この意味は、幼子では考える事さえ出来なかったのに、自分自身を疑いだした事によって、悩みや疑問や苦しみが始まった、その原因の大元に『気付きなさい!』という叱咤激励の意味があります。《 でも、この禅問答で、論理脳だけの発達の危険性に気が付き、かつどうしたらアフリカの子供たちの様に純真な輝くまなざしの心の故郷にもどれるのか?、そのへんを叱咤激励される人がいるのかどうか? 詳しく書きたいところですが、ここもここまででパスさせていただきます。 自我意識以外のもう一人の自分が鍵になっています。動画に語られている右脳の意識です。 》自我意識以外のもう一人の自分が鍵になっています。動画に語られている右脳の意識です。 宗教の原点に戻るという意味は、意識地獄からの開放、或いは『魂の救い』が全ての宗教の原点という意味です。《 これですと、「自我意識」はすべてじゃまな意識ということになりますので、そういうとこともなきにしもあらず、そのままではかなり荒削りな自我論が想定されてしまいます。 また、そのようなじゃまな自我意識が左脳の論理脳であり、ここでは逆に「もう一人の自分」というのが 左脳によって物事を上からみつめる自分ではなくて(前段のある場所ではその逆の形で同じ言葉が使われていますので)、右脳の意識の自分という文になっているわけですよね。 でも、 確かにテイラー博士の体験された右脳の境地、涅槃の境地に戻ることは大切なのですが、もちろん赤ちゃんの脳に退行することではなく、その境地を肚にすえ、人間の本当の目標を見失わずに左脳を働かせ直してゆくのが、これからの次の時代に必要な最も大切なことだと私も考えているのです。 しかし、それが宗教の原点に戻る、ということであり、魂の救い、全部の心の安定につながることであるとして、 それはむしろ感性哲学のきめ細やかさやそのパワーによってこそ今ではもたらされうる世界なのではないでしょうか? あまりにも、宗教はよけいな幻想や方便やおとぎ話や難しい言葉で飾られすぎてしまっていると思います。 あなたの様に体験から本質が見えている人は少ないはずなのです。 やはり、きめ細やかな感性哲学が今の時代には必要なのではないでしょうか? さて、次こそ、まさに宗教的表現の陥りがちな表現の問題の核心を物語ってしまっているところにも思えるところ、 》神経症の症状も、恐怖症も、躁鬱症も、いっしょくたの感じで書かれているので(この辺は、もっと詳しく書きたいのでしょうけど)、この文章のままでは矛盾が生まれてしまっていると思います。』 と貴方は書かれていますが、《というふうに起こしの文で書かれている文なのですが、 やっぱり、雲の上からの大きな指針として書かれているから、そのような一括りの分類の文となってしまうところと私にはですが思えます。 紙数の都合もあり、以下は、 ここまでのように、一つ一つの文やその意味合いに対してではなくて、その特徴的な部分にしぼり疑問な点、補足質問させていただくことで、 感性哲学によってならば、宗教改革にも無理がないのではないか?、むしろ今の時代それをこそ求められているのではないかという点、もう一度考察されたうえで回答いただければと思います。 一つ一つ詳しく書いた方が、なぜそんなにたくさんの疑問をいちいちかんじてしまったのか^^、よりわかりやすくしていただけると思うのですが、 ここは、上記以後のそちらのご回答への補足質問は、恐怖症に関する地点だけに絞らせていただきます。 まず貴方の宗教体験についてなのですが、想像するに、おそらく死の恐怖を実際に感じて悩み続け考え続けているうちに、あれ、なんでこんなところで、急にまるで人間の故郷にもどってきたかのような安心感と安らぎが訪れたのだろうという、とても深い感性体験を一気に感じる時間が訪れたのだろうと思うのです。 何か真実を求め続けてヨガをやっているうちに突然クンダリーニのエネルギーに目覚め、背骨をつきぬける生きてる喜びや静寂の安らぎを感じるのと似ているのではなかったのかと思えるのです。 でも、それだけですと、もちろんそれは尊い貴重な体験ではあるのですが、 いざ》『自分以外の人の幸福』が大事になってくる《と、 まさにその自分以外の、その体験をしたことの無い人たちの幸福が問題となってくるわけですから、 やはり、さらにきめの細やかな言葉の使い方で、言葉を越えた世界の表現をできるなら、絵筆のタッチや、声の音声による想いの源泉の世界や、舞踊における動きの表情の世界にも具体的に、説明する努力をこれから開いて行ってみることを望みたい気持ちになるものなのです。 ビジネスによる実証にも、心の落ち着きやゆるぎなく座った理念は必要でしょうけど、そこにはそれこそ論理脳によるあらゆる要因、あるゆるケースへの対応能力が必要ですからね。 さて、高所恐怖症についてなのですが、この足がすくむ体験は私達が危険を避けるためにも必要な生物の能力としてもとらえておく必要があるのではないでしょうか? 三半規管の異常は、時としてすごいものがあり、その異常の中では極端な場合、高いビルの屋上の端から5メートルも離れていても危険な場合があります。私自身の体験です。 しかしその私が、ある方法でそれを直してみると、何十回のビルの細い足場に立って、下を見ながら作業しても、地上と同じように恐怖も感じなければ、バランスも安定している体験もしているのです。 もし、最初から死の恐怖をまったく体が感じなくなってしまった状態であれば、それは、注意深さに欠けた恐怖症よりも危険な状態が予測されてしまうのです。 悟りってすべてが解る世界のことなのですか? 体験して体験してその体験から哲学しぬくことで少しづつ人生を理解して磨かれてきた感性哲学の世界こそ、次の世の中に必要なのだろうと私は思うのですが、 考えてみてやはり、哲学には深い境地を語るのは無理があるというのであれば、もう一度だけ、その意味合いを教えてください。 宜しくお願いいたします。 こんな形になってしまい不徳のいたすところですが、申し訳ありません。 私の方としてはすべて丁寧なご回答ありがたいところです。 必要のない人に、物を書いてしまった感もありますね。 書かせていただく形自体にも感謝したいのです。 ほんとうにありがとうございました。
補足
2回目のご回答ありがとうございます。 ですが、今回のご回答文に対しては補足質問だらけになりそうな点が多すぎます。 せっかくこれだけの長文を書いてくださったのに、どうしようかなと思ったほどです。 でも少し時間が出来ましたので、補足質問を急ぎ書き込ませていただきます。 ↓ (1) 》哲学からの宗教改革という側面には無理があります。それは『宗教体験』の神秘性の中には、哲学が入り込む余地が無くなっているからです。《 哲学からの宗教改革が難しいのは、感性をしっかり掴んで哲学することのできる感性哲学者が少ないからではないですか? 西洋ではカントが少し、アランという教育哲学者が、一応感性教育によって過去の哲学や経済社会を変革しようとしていましたが、その流れはとぎれてしまっていますよね。 しかし、感性が深まれば、一番簡単に自我の殻は突き抜けられます。 まるで、すっと、電波みたいに通り抜けてしまうはずです。 その時、たしかに論理脳が感性の深まりをおさへてしまうところがあるため、その論理脳がジル・ボルト・テイラー女史のようにほとんど一瞬にして消えてゆく体験をしたことで、それを想い出せる脳、語れる脳に快復した奇跡は、その辺を物語るあまりにも貴重なご体験となっていることは、youtubeでの彼女の講演のビデオ「見ての通り」と言えそうです。 感じるという世界、五感の世界があるため、その五感の充実をもとめて欲望が起こりますが、その欲望が自我の内側、自分の殻を守るために最初は働くので(あたりまえのことですが^^)それによって、思いやりという人間関係が壊れたり、自己本位の行動に結びつくことによってさまざまな争いなどの結びつくことから そこに社会的に道徳の必要性とその理解が論理脳の中に生まれ、それが欲望抑制とともに感性自体の深まりも抑制してしまっているのだと私は考えています。 しかし、 感性、これは単純に感受性と言ってもいいのですが、感じることが五感すべてにおいて深まると、その深まり自体が浅い感性での欲望の上位概念、上位感覚となって、そう言う状況を生きてそのとおりに体や神経がその感情を体験していながらそれを、ちょうど右脳が空間的時間的に上から物事を見つめ、分類分析して、反省し、より良い技術を生み出してゆくように、心の状態もまた、その上位の感覚、概念によって、分析したし、反省したりできるようになり、やがて、さらにそれが深まってゆくことを実感できるようになれば、自我はその固い殻のまま、簡単に突き抜けられて、他の人と相身互いの、どんな人をも友達と感じる自他を区別しない心が自分にもあることを、はっきり見ることができるようになると私は思っているのです。 でも、心がそういう状態になるには、 結局、感性が新鮮で豊かになる必要性があるわけでないですか。 どんな人においてもそうなることが出来る方法が具体的に、教育方法論として確立されてゆく必要があるわけです。 その事は、たぶん、宗教でも解かんとしてきた人たちは多くおられるのでしょうが、むしろ神秘化してしまうことで、その方法論や教育論がかすんでしまう状態になってはいないでしょうか? そのへんは感性哲学でならば、無理なく思考回路を開けるので、それによる宗教改革は可能なのではというのが私の考えなのです。 たいへんお手数ですが、もう一度だけ、 感性教育や感性哲学が可能になっても、なお、哲学による宗教改革には無理があるとお考えなのでしょうか? そのへんだけ、お時間があればじっくり考えられて、再回答していただけると、ありがたいところです。 (2) 》又、罰或いは原罪の意味とは『心の矛盾や対立や分裂の別称です。』《 ここは言わんとしている意味は解るのですが、 例えば論理脳も人類の進化に必要なものだったわけですし、それによって逆に感性脳の方が阻害されてしまった人類史を、罰とか原罪とかいう言葉で、非難するかのような言い回しをしてしまっているところも、哲学から改革したいところなのです。 過去の間違いのすべては、非難するのではなく、理解することで未来に向かって、間違ってきた人も間違わなかった人もともに手をとって、よりよい心の世界へと進んでゆけばいいわけですからね。 (3) 次になのですが、ここが疑問です。 》原罪とか業という意味は『苦しみの別称』という意味です。《 自我から解放され心の安らぎが深く得られると、 すべての苦から解放されるみたいな書き方になっていますよね。 身体の病気の苦しみなどたいしたことないということなのですか? あるいは心の安定は、体の健康にも影響はしますが、それですべての体の病気の因を解決できると考えているのでしょうか? そのへんの抜苦与楽のビジョンをどのように考えられているのかのあたりが疑問になってしまうのです。 (4) 》心が未だ未分化の状態の『幼子』が天国に一番近い存在という意味は『心に矛盾を抱えていない状態』という意味で、書かれているからです。この意味は『自分自身の命の働きと自我という心が』一つの者として働いているという意味になりますので、『他人に自分の裸を晒したとしても、恥ずかしいという感情が未だ沸かない様に出来ているからです。』 《 アフリカの子供たちの目の輝きなどを写真で見てもその何かは伝わってきますよね。問題は論理脳も高めながら、どうすれば、もう一度大地を愛する心を、新鮮なそのまなざしを、私達の肚や目に刻むことが出来るのかです。 感性哲学にはその道は あると考えているのですが、…。 さて、この後半なのですが、 アダムとイブがイチジクの葉っぱで性器を隠した話は有名ですよね。 でも、これも感性が深まり、例えば視覚でならただの葉っぱにもほんの四季の変化に細やかに美しさを見出したり、その葉のほんのそよぎに感動したり、心安らかになったりする感性、あるいは味覚ならば、お味噌汁の味わいに涙を流したりする感性とかがあれば、それによって欲望も心で見つめることが出来、完全にコントロールも出来、開放もできるようになりますので、すこしもいやらしく感じなくなりそれどころか、まさに野の百合よりもさらに美しく感じられるようになることは確かです。 おそらくそれがキリストが「イチジクよ呪われてあれ」という意味不明な^^言葉を語られた理由でしょう。 このへんも感性を本当に深める哲学が生まれるなら、解決してゆき、セックスや結婚をしない自由も、楽しむ自由も、魂の底から解決してゆくと思います。 心によって人口調節が出来れば、一番無理なく 大きく問題が解決してゆくのではないですか? 仏教も、キリスト教も、イスラム教も、それについては記述もありつつ、しっかりした教育法を具体的に確立できないできましたよね。 ここも哲学による宗教改革が必須な所と思ってます。 おっと、こうして書いてゆくと、今回の再回答で見えてきたそちらのお考えについての私の補足質問文は、とても指数が足りなくて書き切れませんね。 なぜか、 あなたの文は、テイラー女史の体験や自らの体験をもととした解りやすいはずの脳解説にもなっていながら、禅問答がそうであるようにわざと難しくしてしまっている文になっていると思います。 そうすることで、感性の道へさそうという一方法論なのでしょうか?それともそれも宗教の神秘化、権威化の一環だということなのでしょうか? 私は今の時代の脳には、もはやそんなもの必要ないとおもっているのですが。 たとえば、次の文を(5)としてそのまま進めれば、 》…(この…の部分は重複になりますので略しています)…、この原因は『見ている自分にもう一人見られている自分が』加えられるからです。《 の中の 》『見ている自分にもう一人見られている自分が』加えられる《 の分の意味 解る人いるのでしょうか^^。 これが論理脳が、ちょうど上から物を見てプランニングや設計図や、あるいは物の構造の分類をして物を作り上げる技術を開拓してきたその脳で自分を見ていることが、《もう一人の見られている自分》ということを意味しているのだとは思うのですが、沿うと解れば動画の意味とも解りやすく符号してくるかと思うところ、この解りにくい禅問答で、「なるほど、感性脳が論理脳に邪魔されているのだから、そのへン見つめなおさなきゃな」とすら気が付く人はいないと思えてしまうのです。 やっぱり、紙数がこれで尽きてしまいました^^。 あと4百何文字かです^^。 ここまでばーーっと書いてきて^^、ここで「ううん」と考え込んでしまいました。今5分ほどたってます^^。 やはり、 ここは変則的になりますが、人類史的な質疑となっているかとも思いますし、切実な内容とも考えますので、お礼文のほうに、補足質問をつづけておく、融通性を選ばせていただくことにしました。 宜しくお願いいたします。 勿論、一つ一つの疑問を書いてゆくとそれでも紙数は全く足りなくなるのですが、なんとかそれなりにまとめておく努力はしたいと思っているのです。 面倒なことになってきたな^^とそちらも思われるでしょうが^^、エネルギーがあれば、再回答お願いします。
- kurinal
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こんばんは。 刑法には、「応報刑」という考え方と「教育刑」という考え方があると思います。 前者が「自由」主義的で、後者が社会的、と言えるでしょうか。 >「罪や悪に対して、その因果が解る人は、何であれ心の奥では「許しているはず」ですよね。それだけの長い因果の末に、そういう心となり悪を犯してしまったのですから」 刑事責任と民事責任とは、別だと思うのですが。 (「民事責任まで問い得ない」とするには、それなりの「要件」を必要とする)
お礼
ご回答ありがとうございます。 考えが深まったと感じています。 ありがとうございます。 私の考えも、あるいはこれは「たぶん」ですが、仏陀やキリストのお心からの考えも、「応報刑か教育刑か」ということなら、「教育刑」ということになるのだと思います。 刑は社会的にも必須という考えは「いたしかたのない」事ととらえてはいるのです。 ですが、それはその罪人あるいは悪人、あるいは犯罪者が、心から納得して反省するところまで人間としての責任感を教育することが出来ればという条件付きですが、 それ以後はいっさい刑は社会的にも必要ではなくなるという考えが土台となっての「教育刑も、ある程度しかたがない」という考えなのです。 「教育刑」という考え方の発展形なのかもしれません。 「応報刑」という考えを認めるとか、融合した考えが必要だというのではなくて、そこにも長く地道な「人間性教育」が必要だという考えです そのためのパワーある教育法こそ私が求めているものであり、キリストや仏陀も語らんとはしてきたものと考えます。 ただ、キリストや仏陀は、あくまで論理脳の面では昔の人であり、その辺の細やかさに関しては現代人における心の哲学者にこそ、それこそその教育の責任、責務があると思っている者なのです。 彼らは、心あるいは感性は究極まで深かったのでしょうが、例えば流体力学の計算が出来たわけでもなく、それどころか九九さへ知らなかったかもしれない、あくまで昔の人の脳というふうに、本当に信じ信頼している信仰者こそが考えるべきところと思う者なのです。 悪人は、責任感自体が失われていますので、上記「教育刑」の考えからすれば、刑事責任も民事責任も分類する意味はないと思うのですが、 あくまで「教育」には、それぞれの悪やその因果に対する細やかな対応も確かに必要と思います。 たとえば、 応報刑という考えも、被害を受けた当事者の気持ちとしては深くわかってあげることも必要な人間性の一つだと思ってます。 実は私自身が、いじめられた気がふれるところまでいってしまった体験を持っていて、 それはそのいじめの主を許せない心を友達が理解してくれなかった(どんなときにも人をゆるすべきだと)ことから、さらに孤独に入っていき、そのころから神経がおかしくなり始めたという経過をたどっていたりするのです。 悪を許さないという人に対しても非難することは出来ないという考えです。 でありつつ、その許さない心も「教育の力」で変えてゆくべきだと考えるのが私の考えです。 法律に疎い者ですので、ご回答に対して間違った解釈をしているかもしれませんが、 事は具体的細やかさがその対応には必須なところ、 考えさせられ、反省もさせられたご回答です。 有難うございました。
- tumaritou1
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宗教の原点まで戻るなら、貴方の言う『哲学からの宗教改革』は必要なくなると思います。そこでその原点を書いてみます。 宗教の原点は『魂の救い』と思います。それは今生きている人にとっての救いであって、死後や生まれ変わる時の為の救いではないと思います。 聖書による裁きとは、人間を天国から追放する事だと思います、『人間が神を疑って(背いて)食べてはいけないと言われた『知恵の実』を食べた事です。この意味を考察する事で『誰でもがもう一度天国で、安楽に過ごせる事を伝える事が』聖書の役割であり、魂の救いと言う意味が完遂されるものと思います、それも生きながらです。 釈迦の教えも同じです、『生病老死』の苦しみからの開放が釈迦の教えの全て、と言う意味です。 そこで両者の共通点と、その背後にある人間の『普遍的な弱点とも言うべき、心の頼りなさと言うべきか、或いは分かり難いかもしれませんが、人間には『宗教が生まれるべくして生まれた人間としての土壌としての、宗教文化を育みたいとする、宗教心が、内在している事を科学的に証明したいと思います。 キリスト教も仏教も共に幼子や、嬰児が、人間が求める天国に住める条件としていますのでその理由を書いてみます。 幼子には『心が一つしかないからです。』その科学的な証明されている理由は以下の通りです。ウイキペデアからの引用です。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この場合での左脳に存在する意識は『言葉で考えている、算盤付き(損得やみ返るを求める)の機能から成り立っています。 他方右脳の意識は『言葉を理解しながらも、言葉を持っていない事が特徴です。』 この意味を把握するために、或る動画を載せてみます、この意味は左脳と右脳の機能が全く違っている事を証明するためです。脳卒中のために生きながら死んだというか、死の淵で全てを諦めていながら、返って幸福感に包まれた体験です。 誰もが死の淵で『全てを諦めた瞬間に、笑いながら幸福な心持でこの世から旅立ってゆく事を証明していると言う意味もあります。 『脳卒中、ジル、ボルト、テイラー博士』と検索をしてみて下さい、動画が出てくる筈です。 この動画の中で語られている内容が『宗教体験』です。禅で言うなら『見性成仏』を、しているっ真っ最中と言う意味です。 キリスト教的な表現で語るなら『神と会って和解している最中』と言う意味です。 何故このようになっているのかを説明します。それは脳内に神や仏が内在しているからです。その神や仏とは『右脳の意識=右脳の機能=生命の発生装置兼生命の維持機能』だからです。仏典から言葉を借りるなら『仏性』です、聖書から言葉を借りるなら『神』という事になります。 今風の言葉で言い表すなら『自分自身を働かせている、自分の生命の働き』と言う意味になります。 幼子を誰もが経験していますので、その幼子の説明をする事で納得出来ます。 誰でも『生まれる前に、何も習わなくとも、全てを知り尽くして生まれています。』例え自分が、何も知らないと思っていたとしてもです。 今生きている人達は全て『細胞分裂をする順番までも知り尽くして生まれています。』その順番を一歩でも間違っていたなら『生まれる前に死んでいたからです。』 そうして生まれた時既に『生きるための知恵は全て備えています。』その証拠は『一つでも不足するものがあるなら、その時点で死んでいた筈だからです。』 人間の生命の機能には、その大元は同じとしても、大別する事は可能と思います、只、便宜上大別したとしても、その大元が繋がっている事から、自ずからその分けた筈のものでも分けきれない部分は当然在ると思いますが、ともかく三つに分けて説明したいと思います。 一つは『身体に対しての生命維持機能です。』心臓が血液を送る仕組みや、肺が必要に応じて身体に酸素を送る仕組みや、必要に応じて汗が出る仕組みや、必要に応じてホルモンの分泌が適宜になされる機能や、神経系統がその都度うまく働く機能などをひっくるめにした全ての『生命の身体に対しての反応全て』働かせている機能です。 この機能に背く(疑いを抱く)時、人間は天国から追放されています。それは『意識地獄(漠然とした不安)』と言う形で『失楽園に行った事を』実感しています。具体的には『身体の機能にも脳の機能にも異常が見つけられない状態』自律神経失調症や、過敏性腸症候群や、原因が分からないとされている、難治性の心身症などです。 一つは『心に対しての生命維持機能です。』この場合では更に二つに分ける事が出来ます、『沸き上がる考えと、沸き上がる感情』と言う具合にです。沸き上がる考えに対して『違和感を抱く時』沸き上がる考えの所有者が分かり難くなります、或いは自分の行動で『自分の脳が指令を出しているにも関わらず、誰かに操られている感覚になったり、自分の考えを盗まれていると錯覚をする場合もありかも知れません。自分の中に沸き上がる考えの所有者が分からなくなったり、沸き上がる考えの正否さえ疑うような症状です。自己の心が一つと言う幼子とは全くかけ離れた状態で、天国から追放された事を意味します。 もう一つの『沸き上がる感情』に違和感を抱く場合では欝という感情と躁という感情に違和感を抱いたり、不安感に違和感を抱いたり、恐怖心に違和感を抱いたりしています。自分自身に沸き上がる感情に違和感を抱いています。感情障害や、社会不安障害や、恐怖症と言う症状名になります。 もう一つは『行動に関しての生命維持機能です。』幼子が手の動かし方でも、笑い方でも全て知っているのに対しての『自分を疑う行為です。』幼子のようにするなら何も問題が何にもかかわらず、自分自身に疑いを持つ時です、この場合では『行動の自在性に関して、その自在性が出てこなくなります。』字を書く事も、笑う事も、話す事も、人前に出る事さえ『自分の自由にならなくなる場合も在ります。』神経症等での症状になります。 『自分自身の生命の源』と仲違いする事を意味しますので『生き難い想い』が当然付いて回ります。この生き難い想いが『罪の意識や、業』に当たります。 動画にあるように『自我意識の計らいが尽きた時』生き難くさせていた者の正体と出会う事があります、この体験を動画は語っています。 余談ですが、禅問答なるものがありますが、この問題は『言葉を司っている、左脳』には解けないように出来ています。この場合に言葉を使う自我意識が『計らう事が尽きた時(自分は出来なかったとして、降参する場合では)此処でも『右脳の意識との出会いがあります。』 この様を『今更お前は誰かと、聞く必要など無かった』と、古人は残しています。 仏性=命の働きは、元々生まれた訳ではない事から、滅する事もありません。その出会いは『自らの永遠性に気付く事を意味しますので』生や死にあたふたと、慌てふためく事がなくなります。この心境を『生死の問題が解決した。』と表現しています。 此処まで来た場合では、『心を病む事と、自律神経失調症等も、神経症も』自分自身の心の対立や矛盾を悩んでいたことが分かります。今の医学の対処の仕方の間違っている部分もわかるようになります。
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 長文かつ重要な内容を含むご回答ですので、 補足質問させていただきたいのですが、今生業の方が忙しくネットに向かうのは夜遅くからなってしまいます。 脳科学者で自ら脳のほとんどを失ったという特異の体験をされたことのあるジルボルテーラー女史については、 テレビでも見ましたし、youtubeでもいくつか見ています。 その体験は「涅槃」の体験だったとも彼女は言っていますよね。 涅槃ということは仏の体験ということにもなりますよね。 その体験が現代における仏の体験であるのなら、その実際を映像で見ることが出来ることは、あまりにも貴重な事になると思います。 しかし、テーラー女史や仏についてのそちらの説明はなかなか解りがたい難しさを感じさせられました。 それでいくつか再質問させていただきたくなったのです。 明日なんとか書ける状況が出来そうですので、どうぞよろしくお願いいたします。 ほんとうに丁寧なご回答ありがとうございます。 宜しくお願いいたします。 有難うございました。
補足
補足質問させていただきます。 ★ジル・ボルト・テイラー博士の語られた脳卒中によって脳の機能のほとんどを失った体験は、彼女ご自身からは「涅槃(ニルバーナ)」の体験とされていますよね。 涅槃ということは、仏陀が最後にたどりついた至福の境地の体験ということですよね。 動画を見てもそのような体験としか言いようがないことは解ります。 まさに貴重なご体験だと思う者です。 ですが その涅槃の状態を私は別に「生命の発生装置」とか「生命の維持機能」といったふうに神秘的には考えていない者なのです。 》嬰児や幼子《のような心あるは魂を持っていたと思われる「まだ言葉以前の森の中を生き抜いていた素朴な人たち」のように大自然につつまれてイキイキとした感性で生きている人たちが、ではなぜそれでも病気にはかかり、大怪我もし、老衰もし、寿命も今より短かったのでしょうか? また、嬰児や幼子が一番健康と言い切れますでしょうか? おそらくtumaritou1さんは、ご自身がいきなり嬰児のような心になれ、それ以来至福が消えていないため、 その体験を他の人にも伝えたくて、そこから宗教の分析をしているため、論理的には飛躍があるのではと思えます。 その姿勢は人間的であたたかい心ですが、その論理は、必ずしもたくさんの人をその至福に導くことは難しいと思うのです。 哲学的にもう少し、いい意味での緻密さが(他の人にとっては)必要かと思えます。 宗教改革が必要だと思われるのは、そのへんなんです。 例えば仏教哲学の中で、一番緻密で神秘性に頼らない論理と思われる「阿頼耶識論」にしても、 何度も多くの著者によって書き表された歴史の中で、 自我の分析にすぎない論理の途上に、いきなり、宇宙エネルギーと心とが結びつく論を展開している著者もいたりします。 これが、仏が罰も与えるという超能力の論理になっている根拠であり、 私は、現代人の仏教徒ならば、そうした超能力のような神秘の力をニルバーナと一緒に語ることを否定すべき勇気が必要だと思っているのです。 仏陀もキリストが、私も含め私達よりはるかに豊かで深い感性の持ち主だったことを私は信じています。 しかし、同時に神や、神秘的な存在、あるいはなんらかの超能力者とも思っていませんし、 それどころか、 もちろんなのですが、例えば現代の流体力学の計算も出来なかったどころか、もしかしたら九九の計算さへ出来なかったかもしれない論理脳の昔の人の脳だったとすら推理しています。 もし彼らが 論理脳も現代人よりもはるかに超えた天才とするならば、 その愛の深さから考えてみてください、 キリストなら自ら筆をとって多くの書を、コンピューターの世界へのアドバイスまで含めて書いていたのではないですか? そしてとっくに世界は平和で豊かで病気の無い世界が生まれていたのではないでしょうか? 仏陀にしても、面倒な長時間をかけての法華経の時代を設定したりしないで、一気にその真実を実現できたのではないですか? しかも私が信じている法華経は、まるでお茶を濁したようなそれ自体神秘的な設定にしてしまっています。 (法華経は後の世の人たちの創作という論議もありますが、今ここではその論議は略しています) おかげで、私自身がたしかに末法の時代の仏と信じている日蓮大聖人すら罰論を応用した御書を書いてしまっています。 彼らの論理脳が私達現代人より優れていたというわけではないはずなのです。 あくまで、tumaritou1さんご自身のご体験(文章からの推測ですが)のような、深い感性の体験、静寂の至福体験をされて、その頂点を極められた方たちだと思うのです。 そのように冷静に見つめた上でそのことに謙虚になることこそ、私は現代における信仰の在り方だと考える者です。 論理面に関しては、厳しい言い方をしてしまったかもしれませんが、これはそちらのご体験の深さを信頼しての言のつもりです。 より多くの悩んでる人や精神的に参っている人たちを助けるための同志として書いているつもりなのです。 右脳と左脳についての思索は、まさにシンプル・イズ・ベストの感もあり、大勢の現代人にとって解りやすい仏性の世界の説明となるものだろうと私も思うのです。 でも、だからこそ、そこから神秘性は出来うる限りはぎ取った論理にしてゆく努力が必要なのだと私は思います。 そのへん、どう思われますか。 また、罰論は神秘的なおとぎ話にすぎないという私の考えについては、どう思われているのですか? もしそのへんについてもお考えがあればお聞かせください。よろしくお願いします。 ★ 「仏と罰は関係あるのか」という質問なのに、》宗教の原点にさかのぼるなら《という起承転結の起の文の起こしで、そうとうにたくさんの内容を詰め込まれていますね。 それぞれが意味深な内容ですので、全部について再質問していたら書き切れません^^。 神経症の症状も、恐怖症も、躁鬱症も、いっしょくたの感じで書かれているので(この辺は、もっと詳しく書きたいのでしょうけど)、この文章のままでは矛盾が生まれてしまっていると思います。 そのへんも、現代ではもっときめ細かな表現が必要な所と思うところなのです。 また、自我についての考え方も、私の考えは阿頼耶識の論理ともまた違いますし、そちらのお考えともズレが生じてしまうところです。 しかし、ここは、そちらは「宗教の原点に戻るなら」という「文の起こし」でご回答をされていますので、 こちらも、つぎには、その点に絞って再質問させていただきますね。 私は「宗教の起こりは それほど深く崇高なものでは無かった」と推理しています。 言葉が発達し、いよいよ物事を分析、分類して、その論理面では反省し進化する能力を得たことで(「知恵の実」というのはその意味があるのだとは思っていますが) 確かに、感性の面では、森の木々の緑の深さや、吹き抜ける風の音の静けさや、心を打つ美しさなどを感じる心の方はむしろ衰えてしまったのが現代人という面も否めないと思うのですが、 がゆえに、村と村の利益の衝突(水争い)のような場で、争いが頻発するようになり、それはやがて憎しみともなり、憎しみの連鎖もはじまり、社会的には、それを中心にあらゆる犯罪や悪徳がパンドラの蓋を開けたかのように広がり始め、そこに政治的規律を越えた道徳の権威化が必要となった時代がやってきて、 そこから宗教が生まれたというのが宗教の起源についての私の考えです。 しかし、その道徳の権威化だけでは人は二重人格になりがちです。心の奥では「舌をだしている」状態となってしまい、道徳は権力の餌食とも、隠された形でなっていき、宗教組織自体が曲がってしまうことも起こってきました。 そこに、その反逆者として、真の宗教を訴えるべく、感性の深いキリストや仏陀たちが立ち上がったのが、そちらの言われる》宗教うの原点《ということの意味合いであり、言いたかったことだと思うのですが、 キリストや仏陀を絶対視し、神秘化する観点からでは無く、冷静にその論理脳の面を分析した上でも、 彼らの言葉だけで、すべてが救われると思われるでしょうか? あるいはそちらのご体験のような至福が大勢の人に伝道できると思いますか? やはり私自身は、「哲学による宗教改革」が、彼らへの感謝のためにも、その本当の信仰のためにも必須に思われるのですが、 その点、上記を熟考された上でも、「哲学による宗教改革」は必要ないとお考えでしょうか? その点、再回答いただければ幸いです。 宜しくお願いいたします。
お礼
ベストアンサーの判断基準を考えるのは難しいですね^^。 ですが、ここは、 方便にも深さがある点、性急な批判には問題がある点などを私の心にとどくように示唆してくださったそちらに感謝の気持ちをこめて、 ベストアンサーを差し上げることにしました。 他の人たちも見ている質疑回答の世界ですので、解りやすい、すっきりした形を求めました。 おそらくすべては、ケースバイケースなのでしょう。 性急さは避ける努力はしつつも、また多方向に注意深さは必要でも、積極的であらざるを得ない人間は、、 さらなる中道の模索はしつつも、 やはり自己の中軸にしたがい、そのまま積極的に進んでいくつもりです。 ありがとうございました。
補足
michael-mさん、ご回答ありがとうございます。 すぐれた回答だと思いますし、考えさせられ反省させられたところもありますが、であるがゆえにこそ、回答の中で解りにくかったところへの質問と、こちらの質問の補足を付け加えさせていただきたくなりました。 よろしければ再回答お願いいたします。 》でも、まず、罪とか悪とかも許すとか言う物ではなく成り行きです。 山の水が海に注ぐように、今の行動の結果でしかなく、その行動が自分や他人、社会に対する影響を罪とか悪とか呼んでいるに過ぎませんから許す許さないの問題ではありません。《 のところなのですが、 《「成り行き」により、あるいは状況次第で、人は必ずどんな人も悪を犯してしまう》というお考えだというふうにもとれる文だと思えたので、まずその辺を質問させてください。 そのように解釈された場合、その人その人の゜精神的落ち着き、社会的安定、穏やかさ、そして何より「物事をみつめる脳」゜の違いによって、同じ状況下でも「今の行動」は異なってきますし、その行動の「結果」も当然異なってくるわけです。 もちろん、そこをそのような精神の因果まで含めて考えるなら、すべての結果は、その「長い長い成り行きの結果」というふうに考えることはできますので、その解釈の場合でも、大きな観点からは間違っていると言っているわけではありません。 その大きな観点からの意味では、確かに山からの水が海に流れてゆく必然と同じということは言えるでしょうから。 しかし、人間にとって具体的に細かく考えうる範囲にこそ価値ありとも私は思っていますので、そこを、さらに具体的につっこんで書いていってみます。 どんな人間であっても感情に関してはかならず時間曲線を描くという意味では、人間一応にそういう曲線を大なり小なり描く必然をその感情に宿しています。 しかし、例えば怒りにしても、それを「見つめる」ことが出来る人は、実際にはその怒りの対象にその感情を向けないことも不可能では無かったりします。 それによって落ち着いて対処できたりもします。 一方、極限の戦争状態の時には、人の神経は恐怖によって長い間にまったく変わってしまいます。そこまでの因果によっては、その人の人格を越えた必然性、成り行きの力というものがその人の行動と結果に現れてしまうことも事実だと私も思っています。 人間は、さまざまな弱さという限界も抱えていて、その意味ではまるで木の葉のようでもあるわけです。 でもだからこそ私達に必要なのは「教育」だと思うのです。 過去に関してはすべてを許し、その未来の可能性に向かって、いわゆる悪人に対しても、色眼鏡を捨て、同じ人間としてその未来を開いてあげる教育の姿を私は人間の在り方の理想と考えるのです。 できればmechael-mさんとは論議を深めたいという気持になっています。 もしこちらの解釈自体が間違っていたら、話は正しく進展しません。 ですので、これをもとに、そちらのさらなるお考えをお聞かせいただければと思ったしだいなのです。 次に 》法の罰《 というところなのですが、社会的に規律をあえて厳しくする場合はあると私も思っています。 「刑罰の必要性」という点を全面否定はしていないわけです。 ですが、同時に悪い癖からとても抜け出せそうもないような人をも教育の力は、その人を深く信じて、その人の長所を伸ばすパワーの積み重ねの努力により、変えてゆくことは絶対可能だと私は、人間脳を信じているのです。 刑務所から出てきた人達の更生教育施設や、生活の保障の場があまりにも少なすぎるのも問題だと思います。 それと、そうした悪の因はすでに抱えている荒くれ者をむしろ、規律面で教育しているのが日本における「ヤクザ集団」でもあるところ、そのへんを無視してのヤクザを追い詰める暴対法にも問題はあるでしょう。 でも、まずは、「心の教育」を私達哲学者宗教家たちが、その場をつくり実践してゆくべきだと私は思っています。 ですが、確かに それは徐々に理解をさそってゆくべき問題でもあるのでしょう。 私は、前科のある人達や、ヤクザからさへ見捨てられたような極端な悪人とけっこう深く付き合った体験があり、それでそのせつせつとした気持ちからなのですが、 すこし焦りすぎていたかもしれません。 宗教は宗教で、今でもそれなりの方便は必要なのかもしれませんしね。 ただ、 哲学や哲学教育の場では、やはり誰かが強力なまでに、この点の真実を語り始めるべきだという考えは、私の中からはぬぐえないところとなっているようです。 補足させていただきましたが、 もし、こちらの、そちらのご回答に対する解釈が間違ってると思われる場合には、 是非今一度再回答お願い出来ればと思う次第です。 宜しくお願いいたします。