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国語の文節
「おいておく」や「走り去る」のように、補助動詞と考えられる表現と、複合語と考えられるものとがあります。中学受験や高校入試において、前者は補助動詞だけで1文節、後者は複合語全体で1音節と解説されているようですが、個人的には納得がいきません。そもそも文節が「意味がある最小の単位」とされているので、「おく」がそのままの意味を持たない場合1文節に分けることが不自然な気がします。 例えば国語学会においてどういう評価なのか、といった観点から、この私見に関してダメだしなり、肯定的な意見なり、伺いたいのです。 よろしくお願い致します。
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「文節」という概念は橋本進吉(1882年-1945年)という国語学者の説です。 国語学の黎明期に、国語を科学的に分析しようと苦闘した一人です。 彼の学説は非常にわかりやすく、小学生にも理解できるものであったため(もちろんそれだけではありませんが)、学校文法の基礎となりました。 「文節」の概念自体は発表当時から批判がありました。 今でも学校文法批判の最初にやり玉に挙げられるのが「文節」です。 国語学会でどういう評価なのか、といわれれば、それは過去の遺産だというと言うことになりましょうか。 ただ、学校文法で教えられたものであるため、誰もが知っており、定義なしで使える便利な概念なので、現在でも使われてはいます。あくまで便利だから。 それから、文章を線状的に(つまり左から右へ)解析したがる工学系の人々(いわゆる自然言語処理の研究者)にとっては、「文節」は非常に重要な単位のひとつです。 逆に言えば、文章を線ではなく、面でとらえる最近の言語学の流れの中では、あくまでとりあえず便宜的に使える便利な道具に過ぎません。 ただ、橋本進吉がなぜ「文節」を考えたかと言えば、それは「意味がある最小の単位」を何とか客観的に定義したかったからです。「意味があるかどうか」なんて、人によって感じ方が違います。それではいけない、科学的ではない、というわけで「文節」という単位を提案したのです。 たとえば、意味の切れ目は発音の切れ目に対応するので、「文節」の前後に休止を入れることができます。ネやヨといった終助詞を入れることができます。そういう点から見ますと、「おいておく」は二文節、「走り去る」は一文節となります。 また、アクセントの点から見ても、「おいて」と「おく」はぞれぞれにアクセントがありますが、「走り去る」は複合語アクセントを持ちます。 なお、「文節」は「自立語+付属語」ととらえることもできます。「おいておく」の場合、「て」が付属語ですから、ここで切れます。「走り去る」には付属語がありませんから、これで一文節です。 それから、「おく」がそのままの意味を持たない、とおっしゃいますが、補助動詞としては「あらかじめ~する」とか「当面~する」という意味があります。助詞の「が」「を」「の」や助動詞の「た」等に比べればずいぶんしっかりした意味があるとはいえないでしょうか? 最後に一言。私自身は「文節」という単位は過去の遺物だと思います。しかし、客観的で誰にでも分かる概念を提案しようとする姿勢は学ぶべきであると思います。
お礼
ありがとうございました。お話大変納得できました。 複合語と補助動詞の分類が、今の私の指導上の問題でした。これを出発点として、更に問題を提起しまた解決するように、自分で考えていくことにします。