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人は一人では生きられないのか?
- 人は一人では生きられないと言われるが、実際には一人でいる感じがする
- 自己を助けてくれる他者を見つける能力は運次第なのか?
- 「人は一人では生きられない」という社会原則と、一人でいる感じの相矛盾
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<< 「人は一人では生きられない」という社会原則と・・ >>とご自身でおっしゃいます。一人で生きられるか否かを社会原則でなしに生物原則で考えれば「生きることは可能」であり、実例はかなりあるでしょう。山の中・森の奥・孤島で一人暮らしする人々がおありのようです。このような人に社会が追いかけてきて「一緒に暮らそうよ」ということは余りありません。社会とは「社会生活をしよう」との合意の下に成り立つもののようです。 ご質問の趣旨は「社会で生活しながら、他人とのつながり(社会関係)を断つことができるか?」というものであるならば、ご趣旨自身に矛盾があります。回答は多分ないでしょう。多くの回答者様のご指摘どおりです。 ご趣旨は「人は何故社会生活をすることを選ぶのか?」と強く関係しているのでしょう。生物学的には「群れて暮らす生き物」のようです。群れなくても生きることは当然可能です。「群れて暮らす」を選ぶ理由は「生活の利便」と考えます。群れに参加しない人々に参加を呼びかけることがあっても、上述のように参加を強要することはありません。 さて、生活上の利便から群れて暮らす(社会生活)を選ぶならば、「群れ社会のルールと価値観」をあるレベル以上守ることが不可欠です。社会はルールを守らない人々を「強く」あるいは「それなりに」排除するのです。あるいはルール遵守(社会成立のためのコスト負担・価値観)を要求します。さもなければ「その社会」が成り立たないとの理由からです。 質問のご趣旨への回答は「社会ルールへのコスト負担を(それなりに)しなければ、社会からは(それなりに=厳密な度合いではないが)排除されますよ」と言うことになりそうです。
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- freulein
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ANo.7です。補足拝見しました。よくお考えなさいました。重いご質問です。 「社会参加へのコストを負担しない者を社会は(それなりに)排除する」と言う社会手続きに対して、「(特に理不尽な理由で)社会から排除されることになった者の社会生活はどのように可能か」とのご質問です。 ご存知のように疎外されそうな人々の生活方法のタイプは幾通りもあるようです。五つに分類すれば、「それでも社会のどこかで社会人として暮らす」「社会のやっかいものとして従順に暮らす」「社会への反逆をある程度しながら暮らす」、第四に「社会への反逆を強く行う」と分類できましょう。第五は「この社会を捨てて隠遁生活する」でしょう。どのタイプがまっとうであるかの論議はありません。社会からは多分第一と第二との要請があるようですが説得力のある倫理ではありません。倫理とは社会ルールの一つですから、社会から排除される者たちへの積極的な論法はないでしょう。 秋葉原事件は多分第四のタイプでしょう。犯人は「個人的な反撃」を採用したようです。「同様の疎外を受けた人々を糾合しての社会的な反撃」も可能であったでしょう。そのための受け皿としての団体は今日では存在しないようです。排除する側の論理・倫理が粗雑であれば第四タイプの「反撃」が強くなるはずです。それを非難することの出来る論拠は乏しいでしょう。「○○党宣言」なるものが宣言されていたならば、もっと社会の反応も応対も変わっていただろうと思われます。 広い論議が行われれば、世の中がもっと風通しよくなるでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 疎外されやすい人の五つの分類、だいたい大まかに、「従社会的(1,2)」「反社会的(3,4)」「非社会的(5)」でよろしいのでしょうか? 従社会にも適応、非適応タイプ 反社会にも非行タイプと犯罪タイプ があると。 社会的には非行タイプぐらいまではまあまあ許されるかと思います。 犯罪も、たぶん読んだ本などでは、反社会的犯罪はそれなりの刑罰ですむが、「非社会的(5)」犯罪はかなり社会を震撼させるような猟奇的犯罪になりやすいと書いてあったようにも記憶します。 問題は「非社会的」な人が食べていくためには社会化されないといけないという問題への取り組み方で、そのためには「非社会」の世界観も知らないとまずいと、基本的に思います。 「非社会性」について、おっしゃられるように、広い論議で風通しがよくなれば、そこの生きづらさに悩んでいる人も少しは楽になると思いますが、もともと社会性のある人が、非社会性を理解する難しさとはどんなものなのか?今回質問したのは、自分自身が「反社会性」と「非社会性」に両足をつっこんでいるような気がして(どっちにしてもダメですが)、特に非社会的人間の社会化は困難じゃないかという自分の問題からの問いかけでもあります。
NO・5 です。 表題そのものを愚直に言葉とおり解釈していましたが、提示されたご質問はそんな単純なものではなく、ひとすじなわではいかない難しい問題を含んでいるようだと思い直しました。 多くの回答のように、人間は社会動物であり、人間として生きようとすれば、社会とのかかわりは避けられないものです。お互いがお互いを必要としているわけです。それは単なる外面的な、便宜的なものから次第に精神的なつながりに、目には見えないけれど、しっかりと存在している人間同士の心のつながりになってきたのだと思います。お互いに社会の中でお互いの存在を認め合うのが当然ということで、そのあらわれのひとつが個人の尊厳とか人権というものでしょう。 更にこれが進んで殆どの人間たちが、それがないと生きられない、寂しすぎるというところにまで人間の心のつくりが変化(進化?ある意味弱体化?)してきたということかもしれません。 愛玩用に特化してきた犬にもそういった心のつくりがあるように思います。飼い主の愛情がなければ生きられないというような犬の存在です。もちろん野良犬として強く生きる多くの犬もいるでしょうが。 そういった人間同士の思いを前提として、たとえば「村八分」のような小規模の村社会の中での社会制裁なども考えられたのでしょう。現代ではいわゆるいじめという私刑がひろくはびこっています。それらが人間の持つ社会性というものを逆手に取って、当人に主として精神的な苦痛を与える方法に効果を見出したのだと思います。 人間というものは、そういう意味で一人では生きられない心の弱みを持っており、やはり(愛情がベストでしょうが)孤老の人たちも単なる生存のための最低限のサーヴィスだけでなく、本来の人間性が他人同士のつながりというサーヴィスを必要としているのではないだろうかと思います。 長々と書いてしまいました。 失礼いたしました。
お礼
再度ご回答ありがとうございます。 自分でもこの「つながり」の有無はひとすじなわではいかない難しい問題だろうことは、自分の経験上でも重々承知しているつもりですが、あまりに人間の原点の問題も含んでいると思われるので、どこまで言葉などで表現できるか、それも難しく、もしかするとずっとこのテーマにこだわり続けてもいいかなと思うくらいです。 ここの「メンタルヘルス」カテの精神的な悩みの質問のたぶんほとんどが、この「つながり」「人間関係」の根底の自信の揺らぎのように思え(毎日すごい数ですが)、それに対して、なかなか有効な回答、希望的回答が見出されていないように思えます。不幸にも生い立ちや幼児期の虐待経験などで、家族にすら安心して心を許せない、孤族の人でも、その後の人生真っ暗闇ばかりではないというためには基本的に何が大事なのか、そもそも何が問題で社会不適応を来たすのかを、一足飛びではなく着実な道のりで考えられないかという問題意識が少しあります。
- 雪中庵(@psytex)
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社会生命として、分業化や組織性に依存している限りは、 一人では生きられません。 孤独であるというのと、「一人で生きる」というのは別です。 敵対していても、結果的に助け合うのが、資本主義的 競争社会の本質で、その場合、孤独であっても他人の 存在を前提としています。 もちろん、山奥や孤島にファミリー単位で暮らしている 人々は、「一人でも生きられる」機能を持っていますが、 既に社会の歯車となっている人間には無理です。
お礼
資本主義の問題は確かに大きいと思います。今の社会にとっては人は非人間的な方が扱いやすいらしく、「自分らしさ」とかは社会はいらないのかもしれません。 「背けば疎し 背かねば憂し」という他者との関係の難しさに、どうバランスをとればいいのか悩みます。 回答ありがとうございました。
人という字は左右から棒が支えあっている構造になっていますが、これは人といういきものの社会性を表わしているということをどこかで聞きました。 進化的に人間は社会性をその必須な条件にしてしまったようです。 生物的にはひとりで山奥に自活することは可能だと思いますが、他人を拒否し、言葉を持たず、ただ自然の中であらゆる文化(他人の造作したもの)を拒否して生きる人間はもはや人間とはいえないのではありますまいか。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。前にも書きましたが、ぎりぎり一人でも生きれるように、「無人島生活」ができる位いろいろな力を身につければいいんじゃないか、と知人に聞いたら、「それじゃあ、ターザンのなる」といわれ、ちょっと納得しました。自然と人と両方とうまくつきあう、里山暮らしぐらいがいいのでしょうか?
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
1,そもそも人は一人では人間に成れません。 人は社会にあって、人間関係の取り囲まれて 育って、初めて人間に成れるのです。 一人では二足歩行も出来ません。 2,一端人間になっても、ひ弱な人間は一人では 生きて行けません。 物理的に無理です。 貴方一人で作物を育てられますか。 衣服は造れますか。 住むところはどうでしょう。 3,そうやって、一通りの条件を備えてしまえば 一人でも何とかやって行けるかもしれませんが。 一人では寂しく、耐えられない人が多いでしょうが それは人それぞれです。 関係ない、という人もいるでしょう。 それでも、生きていくためには、最小限度の 人間関係は必要でないですか。 4,せいぜいが、なるべく人間関係を少なくする てのが限度ではないでしょうか。 一人きり、てのは私にも経験がありますが、あのまま だったら、精神に異常を来したかもしれないと思って います。言葉を忘れそうで怖かったです。
お礼
一人ではやっていけないことはわかるのですが、一人になってしまうことは社会的厳しさからありうると思います。その時に「自分は一人じゃない」と思える人はその自信、強さで乗りきれることも、「ずっと一人だった」という孤独からそこに支障をきたすことがたぶんありそうで、そのような社会的孤立をしたときにも、自分の中のつながりを強く意識し、支えとして生きることがやはり大事なのかどうか、あまりつながりを感じない自分はその基本的つながりの重要性がまだピンときません。 基本的つながりのない人がつながりを求めて他者と関わろうとすると、いろいろな問題が生じるような、実際生じているようにもみえて、他者に親性を求めていくことはやはり難しいのでしょう。 ありがとうございました。
社会原則ではなく 生理的事実(本能)。 例えば黒目と白目が明確に分かれているのは、「視線を読まれやすい」という戦闘のデメリットより「アイコンタクトをとりやすい」というメリットが遺伝的に淘汰されたため。 人間の脳は独りでいられるようにはできていません。独りは心を病みます。なぜって、五体満足な人がずっとベットに寝かされているのと変わらないくらいの能力使用制限だから。 「ただ独り歩め」 と説いた御釈迦様のことを「佛」と呼びますが、これば「人に非ず」という字だそうです。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに幼児期から親がいないと成長できないので、根本的に他者要求は本能的問題かもしれません。人間は一人では生きられないはずなのに、そのためには何が重要かがあまり問われずに親がいればつながりはあるはずだという状況認識だけが先行し、親がいるのにつながりがわからない人の悩みが放置されているような気もします。 「居場所がなかった~」という歌が共感こそされますが、その人(自分も含め)の窮屈さに対し、「居場所は必要」では川に橋がかかっていないようにみえます。
- kamiya-ka
- ベストアンサー率32% (34/105)
生活のいたるところに、他人の手が加わってるということではないでしょうか。 電車で移動するにも車掌さんが、自転車は自転車屋さんが ご飯だってどっかの農家の人が作ってくれて、魚はだれかがつってきてくれる。 原始時代に戻ったとしても、あの時代は今より人は固まって行動していたはずです。 今の様に整備された世界ではないので、命の危険があったからでしょう。 ずっと一人というのは、精神論であり、 人は生きている以上誰かのお世話になっているのだと思います。 お金という対価を払っていたとしても。
お礼
確かにもう少し論点を絞ればよかったと今になって思いますが、親が機能しなかったという言い方も、形や手段として生活費などの面では親は充分だったと思えるのですが、愛情とかまさに精神面で、孤立感というか全くつながりを感じないということが、その後の社会生活上、大丈夫かということ(社会的コミュニケーション力がそれこそゼロでも大丈夫か?)が本当は訊きたいところです。集団の中で全くのたて前、いい子でも生きられるか?ということです。幸不幸はまた別問題として。 心よりパンなのか?組織や家族への不満を全く出せなくてもやっていけるか、不可能なのか?どうでしょうか?(ちょっと不可能な気もしてきました) ありがとうございました。
- Mokuzo100nenn
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物理的には一人では生きられません。サプライチェーンとか電力とか通信サービス、医療サービスなどを提供してくれる他人が必要です。 精神的には一人で生きることも可能と思います。強い理性と強い意志があれば。それが幸せとは申しませんが、、、。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まず基本として、今の複雑な社会は、どう生きても必ず人の手を借りざろうえないということは確かにありますね。たとえ田舎ぐらし、自給自足でシンプルに生きるにしても。「無人島生活」ぐらいまでいかないと一人で生きてるとはいえないかもしれません。ホームレスの人なんかはどうなのでしょうか? もうひとつ内面性の問題で、精神的強さは本当に幸せか?という意見も参考になります。
お礼
一番質問の趣旨に近いと思いましたが、「社会で生活しながら、他人とのつながりを断つことができるか?」というよりも、「他人とのつながりを断たれている人が、社会で生活できるか?」あるいは「断たれている人が社会に放られたらどうするか?」が一番訊きたいところです。 秋葉原事件の彼(もっと事件を知らないとまずいですが)は、ああするより他になかったのか?たぶん誰ともとつながっていなかったと思うのですが(本質的には)、そういう人が社会の歯車とか、おじゃま虫のように扱われた時に、もっと違う反抗の仕方や積極的な関係性を持ちえたのか?に興味があります。 殺人というルール破りが排除につながるのか、社会からの排除がルール破りに至るのか、前者が結果で、後者が原因のように思えるので。孤独と共存の矛盾に回答はないのでしょうか? ご回答ありがとうございました。
補足
「社会生活をしよう」という合意が今回のキーワードかもしれません。