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「献山」の意味は?(古文書)
献山とはどういう意味でしょうか? ネット検索すると、長生蘭、盆栽などに関係があるように 思われますが、意味不明です。 地名ではなさそうです。 次のような文脈ででてきます。 「御地も春色相催佳景四方ニ相促候半と存候 当地抔も追々開花 最早献山之一座ハ落盡し仕候」
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文脈からは「献山」は、花木または草花のブランド名だろうと思います。 江戸時代、明治時代は、園芸が結構盛んだったようです。 蘭などは投機の対象にもなったことがあるようです。 「献山」ですが、サツキ、ツツジあたりが品種も多く、そうじゃないかと思ったのですが、わかりませんね。 ツバキかも知れません。 この世界も栄枯盛衰があるようで、好事家の間だけで通っていたブランド名ですと、現在では消えてしまった可能性があります。 「献山之一座」は「献山のグループ」ということでしょう。献山も「○○献山」「XX献山」という風に種類が分かれていたのかも知れません。とにかく、当時でも好事家というのは、金とヒマを使ってとんでもなく凝っていたらしいですから。 「江戸時代の園芸」ウィキペディア ******************************** 江戸時代初期には、安土桃山時代から引き継ぐ形で、まずシャクヤク、キク、ボタン、ツバキ、ツツジなどが盛んになり、やがてカキツバタ、マツモトセンノウ、アサガオ、ナデシコ、サクラソウ等が加わった。更に江戸時代中期から幕末にかけカエデ、オモト、マンリョウ、マツバラン、セッコクのような葉の変異を追求する植物が非常に増えた。日本文化の中心は照葉樹林帯にあり、ここに産する植物に葉の美しいものが多かったためもあるであろう。江戸時代後半にはハナショウブや、気候の寒冷化も手伝ってかフクジュソウ、ミスミソウなど落葉広葉樹林帯植物も品種を増やした。マツモトセンノウは元禄、享保の頃には多数の品種があったが、その後化政に至るまでに散逸してしまったらしい。またカキツバタは江戸時代中期の段階ではハナショウブよりも品種が多かったが、その後あまり進展せず、幕末にはハナショウブが圧倒的な発展を示すようになる。このように江戸時代だけでも種々盛衰の波があった。 ********************************
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- kine-ore
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読み下しを試みてみますと、 御地(おんち)も春色あいもよおし、佳景四方にあいなかばちかく候と存じ候。当地などもおいおい開花、もはや献山の一座も落ち尽くしつかまつり候。 そちら様でも春の訪れ模様は半ば以上に進み、辺り一帯美しい景色が見渡せる頃合いと推察いたします。当地でもまもなく花咲き出さんばかりで、剣山に盛り付けた早咲きの生け花などはもはや落ち尽くしてしまいました。 この場合の「献山」は、剣山水盤に盛り付けた生け花の姿を以てその一座とみた、ではいかがでしょう。