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古文書読み方と意味教えて
藩からの寺社境内の絵図面提出命令です。 傍線部1,2の「歟」と思える字に、てこずっています。読み方と意味を教えてください。 全文を下記のホームページに示しますのでよろしくお願いします。 http://www15.ueda.ne.jp/~kubok/room05.htm
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1は「院」だと思います。 2は「然」かと思います。 全文の中の読み方について小生の考えをお伝え致します。 一行目の「修絵」とお読みのようですが、これでは、意味が分かりません。 これは、「修験」ではないかと思います。寺社関連の文書には良く出てきます。 二行目の「西用紙」は「亜内紙」だと思います。 「亜内」は「案内」で、現代の読みとしては「あんない」ですが、古くは「あない」と読んだそうです。 「亜内」は「あない」の音による記述だとおもいます。 「あない」とは、官庁が作成した文書やその内容を後日の参考にすること、と国語辞典には見えます。 一行目の、寺社の寺の字は納得ですが、その他の行に登場する「寺」は「寸」の部分が気になります。 「寺」と「本」の区別がはっきり理解出来ませんが、この文書の場合は、いずれの場合も、「寺」と読む のが正しいのかも知れませんが…。 なお、二枚目の五行目の「相改」の次の文字、「来」は、別な文字ではないかと思っていますが、 今日時点では、はっきりとした回答は出来ませんが、気になります。 「来中三月中」とは、いかなる意味なのかが分かりませんので…。 追伸:前回の小生の回答に関して、御返事頂いていたこと、この度知ることになりました。 遅くなり申し訳ありませんでした。 通知メールがあることになっていたのですが、気づきませんでした。 今後ともよろしくお願いします。
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- jyomonjind
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一:回答5に間違いありました。 「旁ではなく、偏のくずしが違う」が私の言いたいことです。 二:図面を拝見しますと、「案内紙=あないし=亜内紙」と考えられますね。 とりあえず。
お礼
おかげ様でかなりの部分納得できましたので私なりにまとめます。 一行目は院、御朱印、修験が土地や建造物を直接表示する用語でなかったので迷いましたが。 「院」はもとが建物を表す語。御朱印は朱印地を表しほとんど除地。修験は寺社にこだわらず院、房など修験の場と解します。要は何と呼ばれていようが、信仰に関係する土地と建造物すべてが調査の対象なので落とさず書き出しなさいと言うことでしょう。 寺に見える字は全て「寺」と読みます。 三行目の「然」と見える字も偏の崩し「己」の最後、旁に行く線が「コ」に接触しているので異なって見えますが「こざとへん」で、これも「院」とします。三行目と十五行目は全く同じ語句と解します。 この文で苦労したのは「院」と「験」が思い浮かばなかったことで、知識はもちろん崩し字の勉強がまだまだと実感しました。古文書は字ずらだけでなく全体から判読すべきとは承知して、ホームページに全文を出して助けを求めたつもりでしたが公開が不十分でした。 余談ですが私の住んでいる山国北信濃は冠着山(姥捨)、戸隠をはじめ,藩のおひざ元松代の和合院でも修験道が盛んだったそうです。身近にも天狗や山伏に関係する神社が数多くあります。 参考サイトをホームページの「参考室」に示しました。 全くの趣味・独学で古文書解読を修得する極意は (1)勉強の機会を積極的に確保すること (2)仲間同士で互いに教え合うこと (3)物怖じせず何でもひとに質問すること だそうですので今後ともよろしく。 ありがとうございました。
- jyomonjind
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今、絵図面の入ったホームページ拝見致しました。 一行目上から5字目の「院」と 十五行目上から4字目は「然」ではなく「院」です。 旁の崩しが同じです。 取り敢えず。
- jyomonjind
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お礼を頂き恐縮しております。 疑問の点について私見を述べさせて頂きます。 1:寺社院・修験・御朱印…で良いのではないでしょうか。 寺社院は、単純に、お寺と神社の建物という意味だと思います。 修験は、明治の頃まで、私の町に修験院とか修験堂(道)とかと言って、一般のお寺とは一線を画す宗教の建物がありました。修験僧と言えば、時代劇などで見て知っている程度ですが、山形の出羽三山には今でもこういった僧を見ることが出来るようです。かなり、異様な感じはしますが…。 2:「西内紙」について 「西の内紙」は明治から大正にかけて、選挙の投票用紙に使われたそうです。 この「覚え」が近世において、何処の藩で行われたものかは提出された文面だけでは分かりません。 もし、水戸藩なり近隣の藩でおこなわれた文書だとすれば、「和紙」の事を指していると考えることも 出来るかも知れません。 しかし、文書全体の感じからすれば、「案内紙」の方が正解ではないかとの考えは棄てきれません。 15行目の次の図、拝見したいですね。 3:「来中三月中」の件 「来中」を「来年」の写し誤りとすれば、文章の意味がはっきりします。 ただ、文書の原文を、現代の私たちが、自分に都合の良いように解釈することは、かなり、やばい行為と私は思っています。あくまでも、原文を尊重することが大原則かと思っています。 『魏志倭人伝』の邪馬臺国の所在地を巡っての方向を示す「文字」についても偉い学者さん達が未だに侃々諤々の論争が絶えません。 さりながら、現実には、明らかに間違いだと思われる文書にも会うことがあるのも事実として経験しております。 例えば、お寺さんの過去帳。個々の家に残っている過去帳と、お寺さんの過去帳、墓石の記述とが三者とも違っていた事に出会したことが沢山ありました。 4:三行目、十五行目の寺について 三行目は「元禄年中に書き上げました寺(に関すること)については、然り(その通りだが)、社家・修験并に……については前条の通りにすること」と読んだら如何でしょうか。 十五行目は「本院」とも「寺院」とも読めると思いますが、全体の流れからして、「寺院」と読んだ方が良いかと思います。従って、この文書の(書き手の癖とか)場合は登場する文字は「寺」で良いのかも知れないと思っているところです。 5:寺・社・院・修験・御朱印・除地に関しては、国語辞典で調べてみれば詳しく書かれています。 私は、『広辞苑』よりも、小学館の『国語大辞典』を多用しておりますが。 追伸:長々となり申し訳ありません。 古文書の解読には、部分だけの指定では、正解ではなく、誤解に通じる危険性が有ると思います。 今回、文書の年月日、何処で作成されたものか、十五行目の次の図、等々分かれば良かったかなと思っております。 いやあ、古文書解読って、本当に面白いですね!! お互い、誤読するところが又良い。 宜しく。
- jyomonjind
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mb4808さんのご回答拝見致しました。 「西の内紙」については、今回、『国語大辞典』で知ることが出来ましたが、 この覚えが、藩からの提出命令であったことから、和紙であるとかないとかは関係ないことだろうと 思っておりました。あくまでも、役所文書であると言うことが念頭にありました。 しかし、もう一度原文を良く読んでみますと、この文章は、「西内紙」を使用して、竪帳に仕立てるこ とと、書いているように読むのが正解のようです。 「西内紙」を役所で使用することが当時決められていたかもしれないなと思っても見ました。 使用する文字が、「御家流」であったように、使用する紙もそうだった可能性はあるかも知れません。 勉強になりました。
お礼
使用する紙まで限定されていたかもう少し調べてみます。
- mb4808
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西用紙ではなく 「西内紙(にしのうちがみ)」= 和紙の一種です。 「西の内紙」で検索すればヒットします。
お礼
「西内紙(にしのうちがみ)」は知りませんでした。文字通りの素直な読み方ですが、jyomonjindさんの「案内紙」も捨て去れません。紙の種類まで指定されたかもう少し調べてみます。ありがとうございました。
お礼
お礼が遅くなりましたが多くのご指摘ありがとうございました。 一行目 「院」「験」どちらも気付きませんでした。「寺社院」「院修験」とはつながらないので「寺社、院、修験、御朱印 并 除地 等の訳」と列挙と解するのでしょうか。「訳」=由緒、由来等の意と解しました。でも「院」「修験」「御朱印」が具体的にどんなことを指すのかまだ納得できていません。 二行目 「西内紙」については、時代からして「西洋紙」と読んだのは大ミス。「亜内紙=案内紙」と読めると言われなるほどと思いました。質問時には省略しましたが十五行目の次に1図があります、これがここでいう「案内紙」にあたるような気がします。 十二行目の「来中」は「来年」の写し間違いと考えるのは安易すぎますか。藩からのお達しが十二月、第2図が出されたのが翌年の四月です。 一、三、五、十五行目に「寺」が出てきます。一行目以外は寸の点が弱いが五行目は「寺」で間違いないと思うので全て「寺」でしょう。 「寺」にしても「本」にしても三行目、十五行目の赤線部の意味が不明です。