《〈自律〉教》に意味はあるか?
資本主義社会に 社会行為として 自律的な行動はあるか?
あたかも満員電車で急停止するとき皆が片寄り 中にはたおれることもあるというかのように 人びとは 他律的に・または《社会律的・相互他律的》に 行動せざるを得ないと考えられる。
ただし その仕組みの中では 何を職業とするかは 自由である。また 他者との交通において 経済価値の問題としては 等価交換である。
理論上は 民主制が敷かれており 共同自治のための資金供与(つまり税金)にしても 社会の経営を任せているお二階さんたちが決めるのではなく 市民のわれわれが決めていることになっている。
この社会の中で自律を説くことに 意義があるのか? という問いですが さらに一歩そこから進み入ってみたい。
まづ 一般にどの時代どの社会にあっても 生活の糧をかせぐという意味で・ということは 社会律に従属しつつもという意味で経済的に《自立》するということは ありうる。と確認した上でですが:
いったい人間は 社会行動として《自律》して生きるということが出来るか? つまり資本主義社会であるか否かに関係なくという問いにすすみたい。
せいぜい歯磨きと目が覚めるまで眠っていることくらいではないだろうか? それが 自律的行動だというのならば。
資本主義のもとでは 《社会律》にしたがい《相互他律》だと言ったけれど 一般に人間社会にあっては もし自律がありうるのならば それは 《相互自律を目指すこと》であり 《自律共同にむかって互いに歩み寄ること》でしかないのではないか?
《自律》を説くことに 意義はあるか? これを問います。