- ベストアンサー
信仰とは何か? 望むものを確信し、見えない事実を確認すること
- 信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することです。
- 英語の聖書には『Faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.』と書かれています。これは、信仰が望むものの根拠であり、見えないものの証です。
- 信仰することこそが目指すべき本質であり、見えないことを確信し実践していくことです。クリスチャンの方はこの教えを実践するための道しるべとして信仰を持ち、日々精進することが求められています。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>このように受け取ってはいけないのでしょうか? 日本語の聖書は新約聖書はギリシャ語から直接訳していると思いますが、英語の訳に目を付けたというのは聖書の真意をつかむという意味で有効と思います。そこで私もNew Living Translationの訳を見てみました。 Faith is the confidence that what we hope for will actually happen; it gives us assurance about things we cannot see. 「信仰とは望んでいることが実際に実現するという確信です。つまり私どもに見ることができない事柄に関して確信を与えてくれるものです。」 またNew International VersionではNow faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see.となっています。 「さて、信仰というのは私どもが希望するものが確かであると認識することであり、私どもに見えないものが確かにあると認識することです。」 英語でI am sure....と言いますと、「私はそれが確かであると確信している」という強い肯定感があります。その言葉がここで使われています。しかしながらNIVとNLTでは印象がかなり異なることが分かります。そこでクリスチャンとしては神様の真意はどこにあるのだろうか考えます。 ご質問者さんの解釈をたどるために信仰に関する他の個所も見てみたいと思います。 Romans 8:24 For in this hope we were saved. But hope that is seen is no hope at all. Who hopes for what he already has? ローマ人への手紙8:24 この希望により私どもは救われています。しかし見える希望は希望ではありません。私どもがすでに獲得しているものを求めるということないからです。 2 Corinthians 4:18 So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen. For what is seen is temporary, but what is unseen is eternal. 第2コリント4:18 私どもは見えるものに目を止めません。しかし見えないものに目を留めます。なぜなら見えるものは一時的であり、見えないものは永遠だからです。 2 Corinthians 5:7 We live by faith, not by sight. 第2コリント5:7 私どもは信仰によって生きます。見えるもの依存しません。 「信仰することこそがわたしたちの目指し精進することの本質である。それは見えないことを確信して実践していくのである」 「 ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べ ようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」と述べているように私どもが不信仰であることを嘆いておりますので、イエスキリストがなにを述べたかったのか考えた時質問者さんの解釈は原文を超えて極めて的を得ているように思います。また極めて含蓄のある解釈と思います。 聖書は文字どおりに解釈するよりもその背後にある意図を理解する必要があります。もしご質問がございましたら、お近くのプロテスタントの教会の牧師に尋ねて見てください。そのために牧師は存在しております。
その他の回答 (1)
回答を始める前に、いつも真摯にキリスト教関係の質問に回答なさっているシンシナティさん(No.1)に感謝と敬意を表したい思います。ご回答にはいつも勇気付けられています。 No.1さんのご回答への補足、と言うことで、 私も、キング・ジェームス版を読み始めてから、わかりにくい箇所がたくさん出てくるのですが、何しろ格調が高く詩的なので読んでいていい気持ちです。ですから理解できないところだけ、他の訳に当たるようにしています。 http://www.kingjamesbibleonline.org/1611_Hebrews-11-1/ 添付のウェブサイトの解説では、sabustanceはギリシア語の hupostasisを訳したもので、もともとの意味は stand under=foundation (礎)であるとのことです。 ”唯一の神を信ずる心は、我々の希望の礎である(未来世)。見ることのかなわない事象(神にかかわる事象)が存在することの証拠である(過去ー現在ー未来)。”と訳してみました。 Hebrewは、パウロ、或いは彼の弟子が、ユダヤ人のキリスト教徒にむかって、AD70年にエルサレムの神殿が木っ端微塵に粉砕される前に書いた手紙であろうということです。イエスキリストが”神の子”であることを言葉を尽くして説明しています。当時のユダヤ人には、わかりにくい事柄だったでしょう。 11章ではこのあと、お読みになって判るように、アブラハムからモーゼに到るまでの例を挙げて、目に見えぬ神を信じて、従順に神にしたがって行動した人たちの例が示されます。イエスキリストが例に挙がっていないのは面白いことです。 質問者さんの訳も、一理ありますが、挙げられた例を見ますと、ここでは、精進や実践と言うよりも、ここ一番と言う時に決断を下す際、勇気を振り絞って、目に見えない神の導きに従うものだ、と言っているように思われます。
お礼
stand under=foundation という意味なんですね。有り難う御座います。 イエスが上げられていないのは、アブラハムからモーゼのことは旧約聖書の部分ですね。 新約のHebrewになって、それにしてもイエスが上げられていないのは何か示唆的な感じもありますね。 【ここ一番と言う時に決断を下す際、勇気を振り絞って、目に見えない神の導きに従うものだ、】 私は未だ精進や信仰が自分の普段に為っていませんので、実は常に【ここ一番】でやっています。 いつもの行や精進、そして日常の実践でもこの、本当は最も身近で当たり前で、根底の、自分の奥底、自分自身を没却しないようにするには、不自然でもいつも意識していないといけないのです。 だからいるも【ここ一番】ということです。前しか観られないこの肉体目には見えないものを信仰することを、確信することを忘れないようにしたいです。 本当の何かを振り絞るのです。有り難う御座いました。
お礼
cincinnatiさん、いつも的確なご回答を有り難う御座います。 引用されている聖書の他の箇所は私の日頃考えていることに合致しとても嬉しいものです。 私はバガヴァッド・ギータ(Paramahansa Yogananda著 Self-Realization Fellowship出版)の読書の中で引用されているこの部分を理解しようとして、日本文にあたったら判らなくなり、英語の自己流解釈を批判してもらおうと思って質問しました。 日本でも三味線のお師匠さんが、三日練習しなければ全くだめになる、というそうです。 私たちも日々朝晩、それなりの行をすることで、なんとか継続しているのですが、そういう経験(30代から50代の若い頃中断したことがありまして)からいろいろ思い廻らせての解釈でした。 もう少し整理しながら拝読しますが、ともかくそれほど間違いではなさそうですのでとても嬉しいです。 日本語の聖書ももっと、信仰と精進ということから直接的に書いてもらうと助かります。 有り難う御座いました。