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望ましい意見表明のスタイルは?
哲学カテに参加していて感じたことですが、論述の仕方には、大きく二つの方向があるようです。 (1)細部を削ぎ落として、事象の本質だけ、取り出そうというもの。 (2)様々な細部を混ぜ込んで、事象の多面的な様相を描き出そうというもの。 この二つを比べると、論理と説得の力では圧倒的に(1)の方が強いのです。しかし(2)の可能性もないだろうか?というのがこの設問の趣旨です。 両者ともに普遍的な認識に到達しようという同じ目的を有していると思われますが、その使い勝手は大きく異なります。(1)は枝葉のことは無視し、重要なものを特定します。そこから浮かび上がる答えはシンプルであるが故に、非常に明快なものです。また、あくまで個人的な見解と断れば、(2)ほどの準備がなくても、意見を表明することができます。 (2)は、その事象の全体像を描き出そうと愚直なまでに細部に注意し、何か特定の一箇所に本質があるとは考えません。多面性を描き出します。しかし最悪の場合、事実の羅列で焦点が見えません。整理するためには準備に時間がかかりますし、事象の全体を目配りするだけで、膨大な労力を要します。かくして論述という以前に、認識それ自体が常に未完(≒未熟)に留まり続けます。 日常的に暮らしていく分には、(1)の方に強みがあるのは明らかです。しかし何かを本質とみなすということは、別の何かを本質ではないとして排除することになります。つまりマジョリティに組し、マイノリティを排除するといういう危険と常に隣り合わせです。そして実際に、現代の社会では、何がマジョリティということは言えなくなってきました。かくして(2)には次のようなメリットが、あらかじめ見込まれるのです。 ・現代の多様さに、直接、対応していること。 ・あらかじめ多様性を認めているが故に、他との対立や葛藤がないこと。 ・客観性という点では、より誠実な意見表明の仕方であること。 多様化した現代において、かくして(2)がむしろ「必要」となるのではないかという印象を僕は持っています。ただし(2)には多くの難点があるわけです。(2)の論述が成功するとすれば、どういう配慮によってなのか。あるいはどういう場面においてか。更に、意見を受け取る側である時、(2)の未完成なものをどう有効に受け止めることができるのか。 以上は哲学カテに参加して受けた印象なので、皆さんからのご意見を直接、頂けたらと思います。実際、ここでのやり取り全てが論述である以上、皆さんもお考えのテーマであるとも思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
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質問者が選んだベストアンサー
昔読んだことのある本の中で、フランスの確か高校の国語の教科書の最初に書いてあった、ある有名な方の手紙の文章が紹介されてありました。曰く、 今回、長い手紙を書いてしまい申し訳ございません。短い手紙を書く時間がなかったからです。 これは文章に関しての心髄を見ごとに凝縮しておりますね。貴方のいう2)の利点をもった文章を、簡潔に短く書くことは可能です。しかし、そのためには相当な時間と労力が要すると言うことです。 ただし、2)の部分で貴方の言う「あらかじめ多様性を認めているが故に、他との対立や葛藤がないこと」には同意出来ません。他との対立や葛藤は、新しい物を生み出すための重要な契機となることがしばしばあるからです。ですから、ここぞと言うときに対立を怖れずに緊張感のある文章を書くことは大切なことだと思います。 私は自分の所属する物理学の研究所の秘書の方から、突然、この一、二年当たりで出した私の研究成果を半ページで書くようにとの指示がお上から急にあったので、明日までに書くように、と言われたことがありました。そんな急な要求は前にも後にも、だだの一回だけでした。その秘書さんは、半ページだから直ぐ出来るでしょう、と付け加えました。その時私はその秘書さんに上で引用した文章を紹介して、秘書さんも成る程と、私に同情してくれたことを覚えています。 物理学の論文の種類には、所謂論文とレターという二つの形式があります。レターはどんなに長くても、例えばフィジカル・レビューとはいう世界的に有名な専門雑誌の場合、印刷されたときに1頁左右二段組みで、4頁を越える長さになると、内容に無関係にそれを受け取ってくれません。レターを出す理由は、短いが故に、論文よりも遥かに多くの人が読んでくれるからです。一方、論文は原則としてページ数の上限はありません。勿論、人に読んでもらいたいのなら、短いほどその可能性が高くなるので、皆さん何とか短く書こうと努力はします。 物理学の論文は、本当のことを言うと、書いている本人でも実は本当のところが解っていないと言うような代物です。そこが数学とは違うところです。自然科学のなかで最も単純は物事を対象にしている筈の物理学であっても、すでにその自然界の深みを理解するのに、現在の数学レベルでは解り切れない複雑な物を対象にしているので、止む終えないのです。 だから、物理学の論文を必要十分な文章で書くことほど、へた糞で読み辛い文章はありません。本当のところが解らないながらも、多分これが正しい方向なのだろうと言う自分の思い入れを、相手に出来るだけ誤解なく伝えなくてはならない。だから、誰が読んでいても自明な部分は淡々と書きますが、いよいよ山場に来たら、その自分の持っている思い入れやオーラを相手に伝えるために文章を工夫しざるを得なくなるのです。だから、どうしても文書が長くなる。それを短くして、さらにこちらの思い入れの本質を落さずに書くのは、大変な技巧が要求されるのです。 だから、短いレーターを書く方が長い論文を書くよりも、もっと時間と労力を要しています。それでも、論文の始めの部分に数行で要旨を書かなくてはなりませんので、その要旨を書くには多くの努力を払っています。 これは、論文もプレゼンテーションも同じなのですが、そこで何を書いたり話したりするかに悩んでいる人の文章や話しは、大抵の場合、相手に深い印象を与えることが出来ません。実はその反対に、何を書かないか、何を話さないかという部分で悩んで居るのです。その語られなかった部分の大きさが大きいほど、大抵の場合は、相手に感銘を与える表現が出来るのです。 私は若い頃、清少納言の『枕草子』の方が、吉田兼好の『徒然草』よりも良い文章だと思っておりました。ところが、物理の論文を書くことで散々苦労した経験の後でそれを改めて読み比べてみたら、何と、今では『徒然草』の方が良い文章に思えるようになりました。簡潔でいて、しかも貴方の言う2)の利点の条件を満たしている文章のお手本だと思います。 かく言う私がここに投稿して遊んでおりますが、折角のお遊びですから、勿論、短く簡潔になんて血のにじむような努力は一切しておりません。
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#1です。ちょっと別の観点に気がついたので補足しておきますね。 碁打ちの直観ですが、(1)は囲碁と良く似た発想を必要とします。つまり、あまりに一遍に多くのことを語らず、一手一手ダイアローグを積み重ねて大局をつくっていく発想です。 対して(2)は、表層が質問に対する回答という形をとっていても、根本的にはモノローグなんですね。自己完結の表現です。これを磨いて淘汰するのは、売文という生業です。 売文のプロでなければ、坊主が書こうが学者先生が書こうが、表現としては同人誌レベルなんですよ。それをお互いに賞賛しあったり、「言葉の職人」だなんて自賛するのは、畳の上の水練を賞賛しあうのと少しも変わらないでしょう。 3番さんが言っている官僚答弁と同じです。質問者さんが別のところで疑義を発していた、日本の理念無き現状を象徴する、東電のオエライさんや原子力村の人たちと同じ穴の狢ということです。 観念ばかりこねくり回すのではなく、現場主義、実践主義に立ち返ってみるのが良いと思われます。
お礼
ありがとうございます。パン屋さんに続いて、今度は碁ですか。少し飛躍のある直感に思えました。というのも、碁と(1)が関連するというのは、それは結構です。しかし「売文のプロでなければ」云々というくだりは、何の関係もないでしょう。碁打ちと物書きの接点はどこにあるのですか。失礼かもしれませんが、回答者さんのいう実践という理屈でいうなら、回答者さんが論文を書かない限り、「言葉の職人」の意味は分からないのではないか?と思えます。
補足
なるほど、もともと、碁打ちになろうとしていた方だったのですか。新しく足されていたプロフィールを読んでわかりました。「大局観」とは羽生善治も言っていましたね。 しかし、何でそうも学者を恨むのかよくわかりませんなぁ……合わなければ合わないで、関わらなければいいだけでしょうに。僕はいいが、せっかく参加してくれた他の人が気の毒です。 社会性がある人だと思うから言いますが、自分と関係のないことについて横から口をはさんで暴言を吐いていることについては、ちゃんと謝罪してほしいと思っていますよ。あなたのお考えはお考えでいいと思うし、くだらないと思うならそれで結構ですが、エチケットの問題として。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
複数の検索ワードによる絞り込みと同じ様に、 間テクスト性が妥当な答えを導いてくれる、という場合もが有るでしょうね。
お礼
ありがとうございます。間テクスト性とは、僕が回答者として投稿したときの言葉ですね。これもいろいろです。Aという文献が別のBCDEFという文献と関連するとしましょう。その関連を論理的に証明すれば(1)になります。何となく並べただけでは(2)の失敗したものです。問題は関連の示し方なのです。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
別に(1)が良いって言ってんじゃあないよ。 恋文などで意思表示するときには、あえて(2)を選択して、論旨の伝達以外に読者を楽しませる努力が必要だよね。 だから恋文を哲学で書いちゃ駄目で、文学にしとかなきゃいけねえんだよな。
お礼
どうもありがとうございます。確かに恋文を(1)で書いて、たとえば「僕が愛する君の本質とは~~だ」としたら、「勝手に私を定義しないで」とか言われて、振られてしまうかもしれませんねぇ。ただし、お互いの関係が進めば、(1)のようなやり取りも可能になるかもしれません。なかなか恋の場合は、ケース・バイ・ケースですね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
この間は別のところで、狸八さんをからかったから今度は持ち上げてバランスを取ることにしよう。木造米虫でえくの言うKKK(キス・キック・キス)奴で、今度はキスだ。 あたしも、狸八さんの今回の意見に賛成だね。互いに範疇の違った文章を比べているようだ。人間のやる営みの中でも、それ無しじゃ人間とは言えない言葉や文章という複雑系の典型的な話しだから、当然多面的だ。たとえ初期条件が一意でも、答えは一意に決まらない。だから当然、各面にそれぞれを凝縮した本質が見えるちゅうことだろう。 それを見ごとに凝縮して見せているのが、またまた木造米虫の棟梁の野郎だな。米虫にこんな芸当をさせると一品だね。でえくにさせて置くよりは、どっかの坊さんにさせときたいね。おっと、狸八さんにキスのつもりが米虫に投げキッスになっちまったな。 まあ、このように答えが一意に定まらない多面的な事象は、決定論的な発展方程式では記述出来ない典型的な確率過程だね。 『徒然草』の良さは、草むらさんの言う1)と2)を同時に大変巧妙に実現しているようなところにある、とあたしは感じている。それに対して、『枕草子』は狸八さんの言うように、まさにキャッチコピーだ。人間の動物としての脳味噌をもろに攻撃して来るので、つい引かれてしまい、買って見る気にならせるっちゅうやつだ。だから、まだ半人前の若いもんには人気があるのも道理だ。要するに、動物的な面が表に出過ぎていて、感性ばかりで、知的な面が刺激されてないなんて感じている。物を売りこむのにその人間の知性に訴えるなんて、そんな効率の悪いことはない。だから、清少納言が今の時代に生きていたらコマーシャル会社に引っ張りだこで、大金持ちになっているかもしれんね。んで、吉田兼好は在野で細々と暮らす名も知れぬ賢人てえところかね。 あと、モチーフね。これあたしらの学者言葉じゃないんで辞書で引いてみたら、素材だなんだってな所には興味がなかったが、あたしの目が止まったのは「動機」ってところだった。物理じゃ、理屈や結論なんかよりも、何でそんな問題をやる気になったのかと言う動機が一番重要なんだ。動機さえ良ければ、本人が巧い理屈を提示出来なくても、また正しい答えを出せなくても、いつか誰かが正しい答えを出してくれるもんだ。だけど、その動機に基づいた問題提起がなくては、後で誰かがその問題の答を出すことすら出来ない。だから、適切な動機に基づいた問題提起の方が、その答えよりも遥かに重要なんだ。 狸八さんの文章も結構良い線行っているんで、時々はイチャモン付けて刺激してみて遊びたくなっちまう。そんなイチャモンで何か新しい世界が生まれて来るかもしれん。新しい物が生まれたときにだけ、時は前進するんだ。だから、こんな人に迷惑をかけて楽しんでいるあたしの趣味も理解して下さいね。
お礼
ありがとうございます。確かに親方の回答は、どれも(1)ですね。お見事だなといつも思います。先生のは、前のお礼欄でも書きましたが、(1)と(2)のバランスが取れていると感じています。先生のお言葉を借りれば、その方向性は『徒然草』になりますね。 しかし『枕草子』がキャッチコピーですか。先生までお認めになるとは。確かに「春は曙」のように、その一番良いところを抜き出されると、確かに「春=曙」というイメージが出来上がります。同じように「爽やか=コカコーラ」という等式を成立させると、「爽やかになりたい」と思う人が無意識にコーラを手に取ってしまうので、商品が売れます。 しかしそう考えると、(1)の形式をとる学術論文の多くはセールスと似たところがあるかもしれませんね。僕は何だかそんな発想に基づくことを別の問いの回答で書いたことがあります。一般の人に分からせたいのなら、とにかく自分はセールスマンになったのだと思え、と乱暴なアドヴァイスをしました。 http://okwave.jp/qa/q6789450.html しかしずるいようですが、もちろん僕はそれがすべてだとは思っていないのです。それをやったら論文は査読の好みに合わせて書けばいいということになります。しかしそれでは研究は客観的なものになりませんから、やはり超然とした態度も論文には必要ではないかと思われたところです。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
お騒がせします。 端的に言うならば「言葉」の持つ特性を「エッセンス」の側面を重視するか「モチーフ」としての側面を重視するかの相違と僕は理解しています。 「枯れ枝に烏の留まりけり秋の暮れ」が語るのはその情景から「何を想像するか」を読者に委ね、「イデアルテュープス(理念型)」はヴェーバーの定義する学術用語としての概念を指し示す。文学が持つ特有の記述スタイルと学術のそれでは「求められているモノ」が異なるからだと思います。読者の感性的な部分に多くを委ねるのが「モチーフ」(kusa-muraさんが分類する2の系列)だとするならば、読者の論理性的な部分に判断を委ねるのが「エッセンス」(kusa-muraさんが分類する1の系列)に属すると僕は思います。 chototu先生が仰るのは「モノの本質が判っているのならば端的に話すことができる」との事ですね?。確かに「無駄がなく削ぎ落とされた言葉」は意図を的確に伝えるには効果があると僕も思う。それは「相手の注目や関心を鷲掴みにすること」ができることゆえの機能を言葉が持っているからだと僕は思う。 『枕草子』の「ものづくし」は現代の「キャッチコピー」に類すると僕は思う。「いみじうきたなきもの」として唯一言「なめくぢ」と記すのみ。『徒然草』は「花は盛りに月はくまなきを見るものかは」として延々とその根拠を述べる。 モノとしてイヤだなと清少納言が感じた「なめくぢ」は清少納言のインスピレーションに基づいてインパクトのあるスタイルを選んだ。吉田兼好は少しばか意地悪な目線で「満月なんぞよりは少し翳りのある方が魅力的」と謎かけのように語る。両者(清少納言と吉田兼好を指す)を比較し優劣を問うことには意味があるのか、と僕は思う。この二人の言葉とスタイルから何を受け取るかはそれこそ「人に依りけり」だと思う。 chototu先生はご自身が属する物理学の成果を記す場合の論述型式を整理していますが、これも僕の属する歴史学とて同様です。一つの事象に関する研究成果を発表する時には「○○文書に見られる××荘の手継売券について」などとして「研究ノート」の形で学会誌で報告するけれど、その事象を日本の歴史過程にどの様に位置付けるか、などのケースでは時には1冊の書物となってしまう。それは両者の読者対象が「限定的なモノであるか否か」によっても異なります。専門家を対象とする記述と不特定多数を読者対象とする場合では、読者の関心度や知識のレベルにより相当の幅が出てしまうことは否めない。専門家だけを相手にするならば前提を説明する必要もなくシンプルに説明することが自然でしょう。けれど「そうでない人」を相手にするならば、「相手が理解しやすいように工夫する」必要が生じてしまう。 音楽に喩えるならば『運命』の様に冒頭にインパクトのある旋律を持ってくるか、『合唱付き』の様に第四楽章に持ってくるか、の違いだと僕は思う(個人的には9番のスタイルを僕は余り好きではありません。なぜなら「じらせた割にはくどいから」との単純な理由からです)。 でも今回のchototu先生は何かズルイと思う(ごめんなさい)。
お礼
ありがとうございます。タヌハチさんは歴史学でしたか。それはよかった、というのも、僕の念頭にあったのは主に歴史学だからです。 ここでのご回答と逸れる点はあるかもしれませんが、関連させつつ、少し書いてみます。どのような歴史研究にせよ、そもそも描写するという行為が主観を交えたものであると言えます。こうなる理由はいろいろあるでしょうが、まず猪突先生が既に述べてくださったように、あまりに複雑な事象を前にしては、結局は分析している当人の主観として語るしかないこともあります。またおっしゃるように、読者への配慮という問題もあるでしょう。結局、男性の読者が読むなら男性に関連する記述をメインにするでしょうし、子供が読むのなら歴史の大事件だけを抜き出してあらすじを書きます。歴史は(1)であるといえます。 しかし、こうなると、問題も発生します。たとえば女性の歴史、少数民族の歴史はマジョリティの占める大歴史の中から締めだされてしまいます。また歴史ほど因果関係を証明するのが難しい研究も無いのではないかと思います。たとえば民主化は通例、マルクス的な説明のされ方をします。すなわち、抑圧され自分の権利に自覚的になった民衆が、専制君主を打倒するために立ち上がったというものです。しかしフランス革命からして、こういう単純なことではなかったかもしれません。案外、革命に参与していたのはごく一部で、大半の人は蚊帳の外であったとも言われます。 さて、そうすると歴史学が(1)であるなら、フィクションと変わりないことになってしまいます。(2)である必要性が出てくると思えるのです。また実際、タヌハチさんの投稿の文章は、(2)の方向性であるような気がしているのですが、ここら辺はいかがですか。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
立体画像の捉え方として考えてみました。 たくさんの角度からいっぱいスキャンした点を集めれば、 制度の高い3Dデータが取得できますが、 稜線の角度やシェード具合などの人間的な演繹ロジックを 組み込めばちょっとのデータで「こんなもんかな的」な像が できあがり、場合によっては人間的な錯覚も再現できるわけですが 認証で使える様な精度がいいデータは前者なのでしょうが、 かといって、後者がまったくなんの役に立たないかといったら そうでもないんじゃないかと思います。 例えば人間の直感と直結したインターフェース(機械と人間のかけ橋) なんかにはなんらかの可能性を秘めているのかななんて思ったりする んですが、どうでしょうか。
お礼
ありがとうございます。(2)が機械と人間のかけ橋ですか。なかなか独特の視点ですね。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
愛、ってなんですか?と、聞いて 愛とは与え心だ!と答えられた時に なるほどと思える人は、その内容を体験し、知っているから。 愛、を知らない人には説明が必要。 愛の内容を論理的に説明できてこそ説得力が生まれる。 それには豊富な、そして正しい知識が必要。 無知な私には不可能。 独り言(cyototuさんの場合、誰かの説明を受けたと云うわけではなく、時の経過と共に内容が分ったのでその文章の良さを理解した、という事だと思うなぁ)
お礼
ありがとうございます。なるほど、省略の意義について書いてくださった先生の回答に対するご意見ですね。確かに自分でいやというほど経験していることを、愚痴も交えずに相手が淡々と語っていたら、「ああ、この人は人格が優れているんじゃないか?」と思ったりはするわけです。しかし何も知らない人は「ふーん、そんなもんか」と素通りしてしまうかもしれません。愛のように答えがないが、誰もが時に苦しんで考える問いについては、先生の意見は有効なように思うのです。
文学の質問ですかー。いいですねー。 (2)のときは、一人につき、一点に絞った一つの回答を求めるのが 良いと思います。 ただし、気を付けなければいけない事があります。 たとえばAさんが1+1=2だと言いました。 Bさんも1+1=2だと言いました。 しかし、質問者さんは、「AさんとBさんは同じ意見ですね」 とは決して言ってはいけません。 なぜなら、Aさんの単位は1だとしても Bさんの単位は0.25である場合もあるからです。 つまり、分解能というか解析力が人さまざまだからです。 いま思いついたのはこの一点です。
お礼
ありがとうございます。確かに人それぞれ視点は違うから、統合するのは慎重にならなければ、傲慢だと思われてしまうものですね。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
論述は(1)にきまっとる。 (2)は文学の範疇でっしゃろ。文章が立派で内容がない役人の答弁書も(2)だな。
お礼
どうもありがとうございます。おや、でも芸術でも(1)のようなものはあるのですよ。むしろ自分の主観を強烈に表明するという意味では、(1)の方が多いかもしれません。
たびたびおじゃまします。 私は(1)で在りたいと思っています。いたりませんが。 でも(2)の良い文章を読むと感動します。 というよりか、これはスタイルの違いだから、変えないで極めていくしかないような気がします (1)への疑義として、拾えるものが少ないとのことですが、 だからですよ、 他者の意見を必要とするんです。 身に余ることを望まず、分を守り、他者と繋がって全体を構成するんです(自立分散システム=多神教的価値観)。 (2)スタイルの人は議論を嫌いますよね。自分独りで完成させるもの(集中管理システム=一神教的価値観)だと思っているところもあるんでしょうね。 西欧は一神教といわれますが、根底にはローマンスピリッツつまり多神教的価値観を保持している可能性もあるかなと考えています。
お礼
どうもありがとうございます。なるほど、議論が他者と十全に出来るという前提があれば、お互いに違う意見をぶつけ合って自己完結にならず、豊かなやりとりがむしろできるのかもしれませんね。(1)の良い点について僕が見落としていたことを指摘してくださり、ありがとうございます。
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お礼
どうもありがとうございます。ご意見には頷くことばかりです。特に論文は長く書こうと思えば、いくらでも長く書けます。数行のために数年がかりで資料を集めていることはあるものです。 書かない方が、印象深いというのはおっしゃる通りだと思います。省略した表現をめぐる顕著な例は、ヴィンケルマンがラオコーン父子像を論じたものでしょう。この古代ギリシアの彫像は大蛇に絞殺される神官の姿を描いていますが、ヴィンケルマンによれば、ラオコーンは断末魔の悲鳴を上げるが、その奥には深く澄んだ精神性が見いだせるというのです。これは過剰に描写せず、抽象化を交えてシンプルに描いたための効果だと、この新古典主義者は考えるのです。 ところで先生の文章が上手い理由は、よくわかりました。先生は本質を見抜くように書くべきだと繰り返されていますから、(1)ではあるだろうと思っていました。しかし(1)のみで割り切れない文章の面白さがあります。これが不思議だと思われたのですが、結局、(1)では叙述できない対象を、(1)の形式にしようとする配慮をしているのですね。 つまり、あまりに複雑な事象を扱うと「多分これが正しい方向なのだろうと言う自分の思い入れ」で究極的には判断を下すしかできない。シンプルな答えが出たから、(1)の形式でシンプルに書いているということではないというわけです。ここには事象が複雑だからといって(2)の形式でお茶を濁すより、自らの立場を定めて事象にコミットする方が潔いという態度もあるのだろうかと受け止めました。複雑な事象を(1)のように書くべき理由は、そうすると、 ・省略が印象を深くするから。 ・結局、自分の思い入れで判断するしかないから。 さらに、 ・「他との対立や葛藤は、新しい物を生み出すための重要な契機となる」から。 上の言葉、意義深く受け止めました。もちろんここでは、どうぞ気楽に書いてください。しかし「血のにじむような努力」で獲得なさった技術の片鱗は、十分に伝わってきます。