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管理不要社会にするためには
私も回答したこのカテでのある質問が削除され、以下のようなメール連絡を受け取りました。 --------------------------------------------------- 質疑内容を確認させていただきましたところ、意見表明(意見募集)や議論などを目的とした投稿のようでございましたので、… ---------------------------------------------------- 「意見や議論」を含まない哲学質疑など見たこともありませんし、通報されたら削除しとくのが無難だろうとしか考えられない担当者の存在が改めて浮き彫りになりました。 『意見や議論』なしに哲学カテでの質疑ができるはずは無いので、こんな理由で削除するなら哲学カテが存在する意味がないでしょう。 以上は意見の表明ではなく質問のための前提状況を示したものです。(念のため) 【質問】 上記のように、現実社会においても、治安の維持や波風が立たないことを目的として過剰な管理が様々な集合体で行われることがしばしばあります。 管理側の立場が全くわからないわけではないのですが、管理行為が(結果として)過剰である場合、人間の内面を不必要に萎縮させてしまう場合も多いように思われます。 集合体として人間が暮らしている以上、今のところ多かれ少なかれ「管理」の必要性はあるわけでしょう。 しかし、仮に管理不要の社会を目指すとすれば、個人の立場としてはどのような姿勢が求められることになるでしょうか。
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お礼
(つづき) >社会は、各個人の中にあって、個人の行動はそれを変化させ、 :ただ、おそらく、 >個人が変化すると言うことで、共有しようとする行動 :を現実のものとすることがなかなか難しく、 >その社会を変えてしまう :までにはなかなか至らなかったり、時間がかかったりするのかもしれませんね。 >過去の多くの失敗から、ものごとが起こる前に想定し、事を防止し、起こった後 も俊敏に動くことです。 :そうですね。 ただ、難しいなと思うのですが、たとえば今日の相撲で朝青龍が突き飛ばした相手が砂被りにいた審判に当たって、その審判はひっくり返ってしまったんですよ。 素人の人でもあのへんには座っていますから、もし老人とかか弱い女性なんかに当たって大怪我したり、死亡したりする可能性も全く無いとは言えないと思います。 この場合、「起こる前に想定できなかった」ということになるわけですが、そうすると、現時点においては柵を設けるとか何かの対策が必要になるでしょう。 しかし、無粋なこととして、仮に提案してもおそらく受け付けてはもらえないと思います。 何かが起きる前にどこまで想定するのか、ということと合わせて、想定したことが将来的に起きる確率と現在の既得権益とも言える何らかの益とを天秤にかけることになります。 どこまでが許容範囲と言えるのでしょうね。 >全体のダイナミズム :も個人の集積結果なのでしょうし、難しいですね。 とりあえず、「>自分の排他性を常に監視」するという点が、しっくりきました。 日常の風景に引き寄せつつ、もう少し具体的に掘り下げられるといいが、と感じています。 他の要素も教えていただけるかもしれず、もうしばらく開けながら考えてみます。 お気づきの点がありましたらまたよろしくお願いいたします。
補足
ご回答ありがとうございます。 #7で、 >人間には、目に見えたもの、自分が認識したものを自分のものにしたいという非常に強い基本的欲求があります。そこには、必然的に排他性があります。 :とおっしゃっておられますよね。 素人としては、こちらのほうの排他性は良くわかったような気がしたのですが、 >家族、子供を殺され、自分も殺されようとしているとき、 相手を殺さずにいられるかということです。究極の排他。 :ですか。 前者と後者の違いは、排他に正当性があるか否かということになるでしょうか。 そして、その正当性に対する認識がどのようなものであるか、ということによって排他の適用される範囲も変化してくる・・・。 >個人としては、自分の排他性を常に監視し、改め、行動に反映していく :のが実際的手法になる、ということになるわけですね。 今自分が選択しようとしている言動が排他であるのかどうか。 そうであるとするならば、その排他は本当に必要なことであるのかどうか。 と問い続けるということにもなるでしょうか。 そうすると、#7でおっしゃっていた、 >人間には、目に見えたもの、自分が認識したものを自分のものにしたいという非常に強い基本的欲求があり、 >そこには、必然的に排他性が :ある、ということを、『私の属性として』認識することがむしろ必要になるのかもしれませんね。 さらに具体性を持たせるには何が必要になるのか・・・。 >あとは、我々は、既に多くの失敗を繰り返してきた訳で、二度と失敗を繰り返さないという 視点ですね。今の行動が将来の失敗にならないように注意深く行動すると言うことです。 :こちらのほうは難しいですねえ。 失敗しようとしてする場合は少ないでしょうから、失敗の要素があるはずですし、しかも殆どは無意識領域にその要因はあるように思われるからです。 場合によりけりですが、注意深く行動することによって逆に招来してしまうといったようなことも往々にしてありますしね。 >もし、日本船舶に被害が出たら、青森県内に着弾したら、直ちにどうするのか :全くですよね。 一定の高度以下に侵入すれば迎撃できるという自信があるのでしょう。 >社会は、各個人の行動の総体なのですが、ある特定の個人の行動は、その社会を変えると社会は、各個人の行動の総体なのですが、ある特定の個人の行動は、その社会を変えると同時にその個人も変化させているというダイナミズムがあると言うことです。ダイナミズムがあると言うことです。 :なるほど。 「>同時にその個人も変化させている」という視点には気付きませんでした。