- 締切済み
鳥は本当に自由なのですか?
よく「鳥は自由だ」と言いますが(実際誰かが口にしたのを聞いたことがあるかは別として)、なぜ自由なのでしょうか?本当に自由なのでしょうか? ぜひ考えを聞かせてください。
- みんなの回答 (19)
- 専門家の回答
みんなの回答
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 独特な観点から語っています。 観点の次元上昇と言っていますが。 k-kkさんのご質問とは、とても相性の良い観点です。 >重力のように付きまとう判断基準からの自由を、空を舞う鳥の中に比喩的に見いだしているという事でしょうか。空を飛ぶことがなぜ特別に見えるのかという疑問について、大変興味深い解釈を教えていただきました。 仰る通りです。 同時に、もうお気付きかとは思いますが、重力要素を何に感じているかによって、自由の方向性が現れてくるという事ですね。 重力要素が、空間の三次元目(高さ)について現れているのであれば、空へ行きたい(二次元から逃げたい)ですし、藩の様な国境的な境界線に重力要素を感じるであれば、脱藩したい(藩から逃げたい)ですし。 逃げるというのは、悪いイメージがありますが、ここではそういう意味では使っていません。束縛に対して、違う次元の動きをしたい・・・という意欲の意味で、逃げるという言葉を使っています。 ですが脱藩と言っても、重力要素が空間的な藩や境界線の事ではないんですね。寧ろ藩の規律だとか、規律さえも生み出す人間の固定観念だとか、そういうところに本来は重力要素がある訳ですね。 本質的な人ほど、重力要素は判断基準に近いところを観ています。それを、周りの人は形だけを見て、別のところに重力要素を置いて見てしまいます。だから、本人は違う問題意識を持っているのに、それを見た周りの人は違う問題意識として受け取り、違う解釈をしてしまいます。 空を舞う鳥を見て、自由だと言った人の問題意識そのものにならないと、つまりその人の判断基準そのものにならないと、実はこの問に対する答は来ません。想像や推測は出来ますし、自分の判断基準に照らし合わせた答なら出せますが。 >確かに飛ぶ鳥を見るときには、何か宿命的なものの呪縛から刹那逃れているように思えます。 そうですね。 まさに、人間の宿命と向き合っている姿だと思います。 重力要素に力点を置いた話としましたので、呪縛や束縛や逃れるという表現になりますが、先ほども述べましたが、しかし自由でありたいとする前向き的な意欲と一体でもあります。 ただ、どうして重力要素に力点を置いたのかと言いますと、本質がそこにあるからです。 よく、夢や理想を描いた上で、成功や幸せになろうとする姿がありますが、それでは足りません。つまり、描いても叶いません。更に言えば、明確には描けないハズです。 つまり、夢や理想に到達させない様にさせている原因について、まずは明確に観て、その仕組みまでも理解してしまう作業が抜けています。多くの人に、これがおきています。 幸せになろうとする・・・これを成就動機と言います。 成就動機は、成就されません。 重力要素に目を付ける・・・これを問題意識と言います。 問題意識によって、成就への道が観えてきます。 ご質問にはそういうところを感じた為に、問題意識を追加する意味で重力要素に力点を置いた話の展開をしました。 >それにしても人間は判断基準から自由になることは出来るものなのでしょうか。 >また、動物には判断基準が無いのでしょうか。 >ちょっとそんな世界は想像もつきませんが…。 結論から言いますと、勿論、判断基準から自由になりますよ。今の時代、この日本においては特に、です。でないと、僕がこの様な解答をしていないのではないでしょうか^^; 動物についての判断基準の有無についても触れたいと思います。 ですが、お応えする前にお聞きしたい事がございます。人間が判断基準から自由になる事が出来るのかどうかを問うているのにはk-kkさんにどんな背景があるのでしょうか?それと共に、動物には判断基準が有るのか無いのかを問うているのにはどんな背景があったのでしょうか? それを参考にしながらお応えしたいと思います。 楽しみにお待ちしています。
因みに下の画像元はこちら http://bijutsu-shumi.com/2007/10/post_57.html
因みに下の画像元はこちら http://bijutsu-shumi.com/2007/10/post_57.html
皆さんの回答を読んで、もう一つ思いつきました。 西洋では、天使の背中に羽が描かれたり、彫られたりしますよね。スフィンクスの背中にも翼が描かれていますが、これらは、翼に一種の神性を見ているのだともとれます。その神性とは何か?それは、天空の世界に由来するものなのでは無いでしょうか。天空の世界とは即ち、月、星、太陽の世界です。鳥は、古代人、いや、現代人のわれわれをしても尚、天空に属する者達であって、それは天体の運行に似た、地上の束縛を受けない存在として、崇高な印象を与えているのかもしれません。 こんなものもあります。 鳥は、風をつかんで空を舞うのですが、この風というエレメントがもつ印象を、鳥は受け継いでいるのでは無いかという話です。風は、人間の手ではつかめるものではない故に、自由とか、気ままとか、遠くから来て遠くへ去るとか、捉えられない、運び屋、流れ者、などといったイメージを持っていると思います。鳥は、そのイメージを風から継承しているのでは無いでしょうか。同じく風をつかんで走る帆船などは、自由のイメージを伴っています。人間ならば、風来坊というのもありますね。また、ご存知かどうかわからないのですが、アニメ、「風の谷のナウシカ」で、主人公が乗っている白い凧のマシンはまさしく鳥の翼のイメージです。この劇中で、主人公のナウシカは鳥の人と形容され、聖人であるかのように表現されています。白、青といった色に伴う清潔感が付加されて、空を舞うことが持つ印象を、一層飛翔させているのかもしれません。 いまや宇宙にまで進出した人類ですが、人間が鳥に持つイメージは、宇宙にまで持ち越されるのでしょうか。私は漫画が好きだったので、その引用が多くなりますが、手塚治虫などは、著作「火の鳥」において、宇宙空間を渡る神のごとき存在として、火の鳥を描いています。火の鳥、鳳凰のモチーフは、東洋ではなじみですよね。日本のお札にも印刷されています。こうなると神々しさばかりが強調されて、自由であるという印象はあまり沸きませんね。しかし、不死性であるとか、火の属性であるとか、もともとの鳥のイメージからは、ずいぶん変遷したそれを持ち合わせています。 鳥という象徴を一つとっても、いろいろな事柄が想起されて楽しいですね。
皆さんの回答を読んで、もう一つ思いつきました。 西洋では、天使の背中に羽が描かれたり、彫られたりしますよね。スフィンクスの背中にも翼が描かれていますが、これらは、翼に一種の神性を見ているのだともとれます。その神性とは何か?それは、天空の世界に由来するものなのでは無いでしょうか。天空の世界とは即ち、月、星、太陽の世界です。鳥は、古代人、いや、現代人のわれわれをしても尚、天空に属する者達であって、それは天体の運行に似た、地上の束縛を受けない存在として、崇高な印象を与えているのかもしれません。 こんなものもあります。 鳥は、風をつかんで空を舞うのですが、この風というエレメントがもつ印象を、鳥は受け継いでいるのでは無いかという話です。風は、人間の手ではつかめるものではない故に、自由とか、気ままとか、遠くから来て遠くへ去るとか、捉えられない、運び屋、流れ者、などといったイメージを持っていると思います。鳥は、そのイメージを風から継承しているのでは無いでしょうか。同じく風をつかんで走る帆船などは、自由のイメージを伴っています。人間ならば、風来坊というのもありますね。また、ご存知かどうかわからないのですが、アニメ、「風の谷のナウシカ」で、主人公が乗っている白い凧のマシンはまさしく鳥の翼のイメージです。この劇中で、主人公のナウシカは鳥の人と形容され、聖人であるかのように表現されています。白、青といった色に伴う清潔感が付加されて、空を舞うことが持つ印象を、一層飛翔させているのかもしれません。 いまや宇宙にまで進出した人類ですが、人間が鳥に持つイメージは、宇宙にまで持ち越されるのでしょうか。私は漫画が好きだったので、その引用が多くなりますが、手塚治虫などは、著作「火の鳥」において、宇宙空間を渡る神のごとき存在として、火の鳥を描いています。火の鳥、鳳凰のモチーフは、東洋ではなじみですよね。日本のお札にも印刷されています。こうなると神々しさばかりが強調されて、自由であるという印象はあまり沸きませんね。しかし、不死性であるとか、火の属性であるとか、もともとの鳥のイメージからは、ずいぶん変遷したそれを持ち合わせています。 鳥という象徴を一つとっても、いろいろな事柄が想起されて楽しいですね。
お礼
そういえばむかし学校で「天上界」「月下界」というのを習った覚えがあります。 そう考えると神様と人間の中間に位置するような存在に思えるのも納得できますね。 やはり、私には「自由さ」というのは何か神々しさとは別のもののように感じられます。 「全知全能」とか「不老不死」というよりは「能力的には人間と大差ないのだけど、自分にはしがらみや抑圧に縛られてできないようなことが躊躇いなくできてしまうひと」というか何と言うか。 打算的なものとの無縁さ、そんな印象です。 でもそれも人それぞれなのかもしれませんね。 色々な解釈があることを実例を交えて教えていただいて本当にありがとうございました。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
人間は誰もが皆、判断基準をもっています。 この判断基準には5つの特徴があります。 1.誰もが皆、判断基準を持っている 2.一人ひとりの判断基準は全部バラバラで違う 3.かと言って無理やり一つにさせたらもっと問題 4.人間の判断基準は不完全 5.不完全なのに無意識では自分の判断基準は完全だと思っている この1~5から観るだけで相当数の事が理解出来たりします。 例えば僕たち人間は人間五感覚の脳の認識によって認識をして、判断をして、何かしらの表現をします。人間五感覚の認識は、全部、体の外から情報が来るために、人間は外から情報が入ってくると思いやすいですし、外にある存在と出会っていると思いやすいですね。 ところが、実際は外と出会っているのではありません。 自分の判断基準と出会っています。 目の前のPC画面が、小さい・大きい・・・などと思う時にも、目の前のPC画面が体の外にありますし、小さい画面・大きい画面という存在として、体の外にある様に思ってしまいます。 ですが、実際は自分の判断基準が小さい・大きいと決めているのであり、小さい画面・大きい画面がそこに在る訳ではありません。 人間にとって、意味や価値のある関係性があります。それが、判断基準から出ているものですし、人間の判断基準です。 ですから、「鳥は自由だ」と言うときにも、それを言っている人の判断基準がありまして、その判断基準から見たらその表現「鳥は自由だ」というのが出るのでしょう。「鳥は自由だ」というのは、人間の判断基準から見て何故自由なのか、と掘り下げる事で見えてくるものがあろうかと思います。 鳥が自由に見えてしまう背景として、一体そう判断してしまう中には何があるのだろう?と問う事で迫れるかと思います。そこで自由を束縛する要素、鳥の様に自由に空へ羽ばたけない要素、そんな重力要素について判断基準の観点から迫ってみたいと思います。 先にお伝えしました通り、人間には判断基準がありまして、ここには5つの特徴がございます。この事はどういう意味を持つのでしょうか? カオス(無秩序)です。 誰もが皆、判断基準を持っており、一人ひとりの判断基準がバラバラなのでしたら、人と人がわかりあう事が出来ませんから摩擦や衝突が起きる様になっています。確かに歴史を振り返ってもその様になっていますが、かと言って判断基準を一つにさせたらどうでしょうか? その生き方はロボットや機械の様になってしまい、人間として生きる意味や価値が喪失されてしまうというもっと危険で問題のある生き方になるのではないでしょうか?歴史的にはファシズムとかドグマの形で確認する事が出来ます。 更に、人間の判断基準は不完全ですので、何と出会っても問題と出会う様になっており、何と出会っても満足する事がありません。やる気・イメージ・アイディアに限界が生まれるのもここが原因です。 そして面白い事に、不完全な判断基準なのに無意識では自分の判断基準は完全だと思っています。 そんな判断基準に観点が固定されているのが人間です。この状態で、人と人が集まって何かをやろう・・・それは土台からして無理な話です。 ですから、判断基準の5つの特徴と向き合わないまま、置いておいたままでは、問題の本質から抜ける事は出来ずカオス(無秩序)のままだという事です。 ここと向き合わずに勝負した人間たちは、動物との闘いや自然の猛威に対してとても非力であった為に、滅んでいきました。 10人の人間がトラと出会いました。 ただトラと出会えばカオス(無秩序)ですので、トラに食べられてしまいます。ところが、判断基準の問題性とうまく向き合い秩序を作れた10人で出会えば、つまり団結できた10人だったら逆にトラを食べてしまいます。 トラに食べられてしまう10人(カオス・無秩序)か、トラを食べてしまう10人(コスモロジー・秩序)か。 このカオス(無秩序)と向き合う為に人間は、何を持って秩序を構築してきたのでしょうか?それが力でございます。歴史を見ますと、まず一段階大ヒットしたのは、王様による暴力でした。 動物や自然との闘いに勝利してきた人間たちは、やがて人間らしい知恵の元で力によって国へと発展していきますが、それが王様の暴力による団結でした。 これは当初大ヒットします。 何せカオス(無秩序)のまま一人ひとりバラバラの人間は余りに非力で、生きていく事、取り分け食べて行く事が出来ません。王様は、食べていく為の知恵や力を発揮していました。 安定的に食べる事の出来る社会プレートが当時の王様たちによって治められていきます。ですから、判断基準の中心は王様となり、社会プレートは農業社会、富の象徴は農場、そして秩序を創る力は暴力でした。 こうして食べる事に安定していきます。 しかし、やがて王様同士の争い、国同士の争いが酷くなり、大ヒットしていた暴力や社会プレートは不安定になっていきました。国が強くある為には、王様の判断基準通りでなくてはなりません。 他の国の王様との戦いに負けてしまえば、奴隷にさせられてしまいますから、戦いに負ける訳にはいきません。戦いも、どれだけ王様と団結出来るかですから、王様の判断基準にそぐわない人は殺されるとか酷い罰を受けます。 それが、当時は当たり前でした。 個人は、引越しの自由も結婚の自由もなく、王様にお伺いを立てねばなりません。王様の意に沿うことならばOKです。要するに、個人は無意識奥深くにプレッシャー・ストレス・抑圧を抱え込んでいきます。 そんな中、天動説から地動説へと大変革が起きます。 この事をキッカケとして様々な変化が起きます。それまで宇宙自然の仕組みを語る事を許されていたのは、神・聖書・教会・牧師、或いはそこと繋がった王様だけでした。 ですが、地動説は何と神・聖書・教会・牧師が伝えた宇宙自然の仕組みが実は違ったんだー、という話です。これはショックです。では、一体真実は何なのでしょうか? こうして真実の探求の中で数学・物理学・経済学などの学術が大ヒットする様になります。学術は、今まで神・聖書・教会・牧師にしか許されなかった宇宙自然の仕組み・メカニズムを、何と個人一人ひとりにまで出来る様にさせる魅力がありました。 これは、長い間抑圧を受けてきた人間個人から見れば大ヒットです。 その流れによって、フランス市民革命・イギリス産業革命などが起きます。そうして、判断基準の中心は王様⇒市民(当時の商人)、社会プレートは農業社会⇒産業社会、富の象徴は農場⇒工場、そして秩序を創る力は暴力⇒財力(権力を取ったのが商人たちだった)でした。 この流れは、凄まじく広がりを見せます。 何せ神・聖書・教会・牧師や王様から抑圧を受けてきた個人が解放される動きですから、個人一人ひとりから見れば大ヒット、そして個人は王様の真似をする様になります。 王様の様に、自分のお家、自分の部屋、自分の車、自分の・・・としながら、まず個人が幸せになる様に、個人がお金持ちになる様に扇動し、流通が盛んになります。結果的に、商人は潤いますし、個人は元気になります。 その原動力があったから、結果的に西洋は国全体が強くなり、文明先進国へと発展します。東洋は、個人は目覚めていませんから、未だ王様による支配から逃れていません。 そんな中、西洋はアフリカを下し、アジアを制しようと侵出してきました。そんな中で起きたのが、日本の明治維新で、日本は東洋で唯一西洋を受け入れたから急速に文明先進国の仲間入りを果たしましたし、白人の奴隷である黒人、黒人の奴隷である黄色人種・・・という東洋文明の滅亡、圧倒的人種格差を何とか留めるに至りました。 しかし、そこまで酷くはないにしても幾度かの世界大戦を経て、東洋が未だに西洋から学び、西洋を受け入れる様になっているのは、学術が西洋から出発しているからであり、個人の目覚めがあったからです。 ところが今、暴力⇒財力へと秩序立てる為のエンジンが暴走しています。今や西洋やかつての商人たちが扇動した個人戦・個人主義は苛烈を極め、結果的にカオス(無秩序)の状態が鮮明になっています。 今は、お金自体の意味・価値が低下し、市場の信頼性が地に落ち、資本主義の仕組みそのものが危機状態です。西洋の国々は、経済的な観点から観て、実はこれ以上は持ちません。 アメリカもイギリスもやばいです。 何故、こうなっているのでしょうか? 西洋は、或いは学術は外の王様を倒す事には成功しました。しかし中の王様を倒す事は出来ていません。外の王様による支配からは自由になりましたが、中の王様による支配からは自由になっていません。 だから、中の王様、中から来る支配権力に勝てません。つまり、中途半端な個人の目覚めで留まっているのが西洋の、或いは学術の限界です。 中の王様、中から来る支配権力とは判断基準です。 自分の判断基準に、自分が支配されてしまう。 だから、今またカオス(無秩序)を迎えました。 変化する事です。 判断基準の中心が、王様⇒市民⇒新しい主体。 社会プレートが、農業社会⇒産業社会⇒新しい社会。 富の象徴は、農場⇒工場⇒新しい場。 秩序を創る力は、暴力⇒財力⇒新しい力。 移る事です。 このままでは自らの判断基準に支配されたまま生きる事となります。人間共通に抱えている重力要素、それは中の王様、中から来る支配権力である判断基準。 判断基準から自由になる事。 これが人類が500万年間、受けてきた抑圧であり、追い求めてきた自由の方向性です。重力要素と新しい力、見えますでしょうか?
お礼
重力のように付きまとう判断基準からの自由を、空を舞う鳥の中に比喩的に見いだしているという事でしょうか。 空を飛ぶことがなぜ特別に見えるのかという疑問について、大変興味深い解釈を教えていただきました。 確かに飛ぶ鳥を見るときには、何か宿命的なものの呪縛から刹那逃れているように思えます。 それにしても人間は判断基準から自由になることは出来るものなのでしょうか。 また、動物には判断基準が無いのでしょうか。 ちょっとそんな世界は想像もつきませんが…。 どうもご丁寧な回答ありがとうございました!
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.6補足を戴きました。 要するに、“鳥の自由について”でしたか。 ご回答がもうでていますね。それ以上のものは私は思いつきません。 五年ほど前までは家内の指示で、残り物を雀達にあげていました。 そして雀に頼りにされて(私の勝手な解釈かな)、狭い庭ですが私が出ると大勢集まってくる。 手洗いにいったり、玄関に出ようとすると、どうして判るのか集まってくる。 出かけようとすると、途中までくっついてくる。 それで家の米びつ(今は櫃ではないですが)から毎回、一掴みあげていたら、米がどんどん減るので家内がクレーム。 仕方ないから自分でネット検索して、鳥用の安いお米を買うようにして、4年。 雀たちだけでなく、何かと鳥たちを観察できるようになり、肉親、親子、伴侶ということを大事にしているし、集団ではボスもいるし、役目もあることがだんだん判ってきた。 そしてボスは、私に意思(意志ではない)の伝達もすることも判ったが、雀とそんな関係を持ちたくないと思っています。 彼らに感情があるか、思考やこだわり、執着があるかどうかは判らない。 野生の動物との付き合いはこれ以外にあるが、彼らは死を決して見せない。 少し前、雀が庭の片隅の叢に首を差しいてているのをみて、芋虫か何かを捕虫しているのだろうと思ったら、首を草に入れて、生きているように死んでいた。 とても目立たないところ。そして気付けない格好で。 車の通る位置で一羽の鳩が、座ったまま動けなくなった(動かなくなった)。 ペァだと思われるもう一羽(いつも一緒に来る)が心配の顔をして、一生懸命、嘴で頭をさすってたり、のぞいたりしていた。見ちゃいけないものを見たみたいだった。 そういうことから(ひよどりは省きます)、私たちと同じ社会や生活を想像してしまい、やはりしがらみもあるのかなぁと思いました。 ただ、情況には素直に、みなそれを受け入れ従っているようです。だからそれを何とか克服しようとか、改善しようとかはないようです。 そういう意味では人間よりは物事に恬淡とし、通り過ぎているのかも知れません。 そういうことでは人間より悩みがないという意味では、受け入れるとという自由さがあると存じます。 野生の偉さだと存じます。 野生の動物達はそれぞれ、自分の範囲で生きているという、それをどうこうということが無いということでの自由はあるかと存じます。 それ以上考えていないのだろうと、勝手に私が思っているだけかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 鳥の行動にもしがらみや執着は見いだせるんですね。 でもそれを自然に受け入れている限りそこに不自由は生じないということでしょうか。 まだ少し考えがまとまりませんが、みなさんの回答を読んでいて、こんな質問をしたのは鳥をよく観察したことが無かったせいじゃないかということは分かってきました。知りたいと思う対象に触れてもみないのは愚かなことですね。 ご回答ありがとうございました!
翼には憧れがある。人間が空を飛ぶことに憧憬を抱くのは、人間の手が届かない場所を舞う鳥がいるからだと思います。ああ、あのような場所を住処にしているものがいるのかと、感慨に耽る。 このような言葉もあります。 空を行く鳥に跡が無いように・・・と。 足跡の無いことが自由であると言うのは、妙味のある表現だと思います。 また、現実には、こうかもしれません。 「空を飛ぶのも、結構しんどい」 鳥の胸筋と心肺機能はものすごい発達しているそうです。そして骨などは緻密な構造によって軽量化されているらしいです。つまり、空を飛ぶのには、コスト、労力が多くかかるということなのです。現実には鳥は、われわれ地上の生物と同じように、苦労しているのであり、その意味で、努力によって自由を維持している存在と言えるでしょう。一方で、前半に記したように、表象においては自由であるでしょう。 楽しい質問でした。
お礼
空をあこがれの対象たらしめているのが鳥であるというのは興味深いです。鳥が飛ぶことで空は「手の届く(かもしれない)場所」になったのでしょうか。 いつでもそこにあるのに生身では辿りつけない空という場所は、極北や深海とは違うのかも知れませんね。 そして足あとの無さを自由と捉えるのもまた面白いですね。 表現こそ詩的ですが、私はハッカーのもつ「自由」を連想しました。(ログを残さずやりたい放題、みたいな) 生きた証跡の積み重ねが無い、と思うとそんな自由は少し寂しいかもしれません。 いずれにせよ同じ条件のもとで正当な対価を支払って得ている能力である事にかわりはないわけですね。。 ご回答ありがとうございました!
少し別な形で書き直してみましょう。 そこから、仰っている自由の源泉というものを汲み取っていただければと思います。 鳥を長年飼っている人にとっては、鳥の自由さは至極当然の事であり、ことさら格別に自由とは感じられないもののようです。 鳥が空を飛ぶという行動が、自分の行動の一部と化してしまっているからです。 また、飛ぶという行動だけではなく、鳴くという行動も同様です。 動物園の飼育係では、ごくわずかな行動の違いから、飼っている動物の体調や気分さえも判断できるようです。 こうした感覚は、長く動物に接していくうちに培われていくものですが、行動における微妙さも自然に捉えていけるようになってくるようです。 今日の飛び方は? 今日の鳴き方は? というような捉え方です。 ただ飛んでいる、ただ鳴いている、というのとは全く違った捉え方です。 毎日相手にしている動物と人間である自分との境界が無いに等しいのでしょう。 そこには、一般的に自由と感じられるものの内面に踏み入った世界があるように思います。 行動の可能性の範囲というものが自然と認識されてしまうのではないでしょうか。 鳥にとって飛ぶ事は必ずしも自由ではない、それは必要な事を行っているだけにすぎない・・・というようなものです。 自由があるとすれば、必要な事を行う働きをいつでも起こせる、という自在さです。 意志に基づく行動の自在さこそ自由です。 そこには、意志のみの働きだけではなく、身体の働きや、意志の表現である言葉の働きも含まれます。 こうした働きを瞬時に起こして行動できる事が自由です。 行動となって現れたものを、人間の場合では「三業」といい、働きの根源的なものを「三密」とも呼んでいるようです。 鳥や動物においても、これらは間違いなくあるものと私は思っています。 付け足しになりますが・・・ 千日回峰行を行満された光永澄道師が伝記の中で、堂入りの最中に自分が一羽の雀となって飛んだ、というような事を書かれています。 空の上から、京都の町並みを、自分の眼でみるよりもはっきりと鮮やかに見た、といわれています。 こうした世界は私達が普段思っている自由さとは全く違うものです。 命の働きの根源的なものに至った自由なのかもしれません。 と・・・雀に餌をやっていると楽しいのですが、こいつらも大分緊張感が薄れてきたな・・・まあいいか・・・と思ったりもします。 私の場合はそんなところです。 それでは以上です。
お礼
何ができて何ができないというのは自由の本質とは関わりがなく、「なすべきをなせる」事が自由であるということでしょうか。その自在さの内側に居るかぎり自らの自由を意識することはない、というのは分かる気がします。 鳥は飛ぶべくして飛んでおり、人は歩くべくして歩いている。どちらも為すべきことを為しているという点で何ら違いはなく、それぞれが自在に生きていると。空を飛ぶ鳥の心がニュートラルなら確かに嫉妬するのはバカバカしくなるかもしれません。 しかし、それでも「飛べたら飛びたい」と思ってしまうのが人間だと私は思うのですが、これは自らの「為すべきこと」の誤認によるものでしょうか。だとすればその誤認はなぜ起こるのか、また真の「為すべきこと」は如何にして悟れるものなのか……など気になるところですが、これはまた別の煩悶ですね。 どうも丁寧なご回答ありがとうございました。
- 1
- 2
お礼
ありがとうございます。 太陽を背にした鳳凰、まさに、という一枚ですね。