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鳥は本当に自由なのですか?
よく「鳥は自由だ」と言いますが(実際誰かが口にしたのを聞いたことがあるかは別として)、なぜ自由なのでしょうか?本当に自由なのでしょうか? ぜひ考えを聞かせてください。
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- taco8ch
- ベストアンサー率7% (11/146)
空気抵抗がないと自由には飛べない。 ・・・・・・すみません。思いっきりパクリました。てへ。 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
自分にできる事をやり、自分にできない事を望まなければ自由になれる。鳥は自由だ!
お礼
確かに出来ないことを知りさえしなければ「何でもできる」わけですよね。人が「できないことを望」んでしまうのは、やはり想像力の働きによるものでしょうか。 しかし、それをこそ人が持つ「心の翼」と考える方もいらっしゃるようです。 また「鳥の立場になってみれば人間のほうが自由に見えるのではないか(鳥だって鳥にできないことを望んでいるかもしれない)」というご意見もありました。 結局鳥に聞いてみるしか無いように思まえすが、それも無意味だと言うご意見もあり、考え込んでしまいますね。。 ご回答ありがとうございました!
- mesenfants
- ベストアンサー率31% (43/136)
参考までに。 「鳥は自由に空を飛ぶ」 「魚は自由に水中を泳ぐ」 といういう意味の水準では「鳥」も「魚」も自由といっていいでしょう。(むしろ人間以外はみな自由でしょう、たぶん) 鳥が飛ぶのは「自然過程」と考える時― 自然はすべて必然によって決定されるなら、「鳥が飛ぶこと」は「必然」になり、 自然はすべて一瞬一瞬の偶然によって決定されるとみるならば「鳥の飛翔」は「偶然」になる。 あるいは、鳥は生き残るために「あえてエネルギー効率の悪い飛翔」を選択しなければならない(とみれば「不自由」である)、がしかし、その「不自由さ」を「自由に選んだ」とみれば「鳥の飛翔」にも「自由の余地」がのこる(けれども、これをどう証明する?)。(こんがらがってきてすみません) 「自由」ということに意味があるのは「自由」という言葉をつかう人間だけではないでしょうか。鳥にとって自由化かいなかは、どうでもいいことではないでしょうか(鳥さんに聞いてみるのもナンセンス)。目の前にある「消しゴム」にとって「自由」が無意味なように。 「自由」はそれを奪われているとき初めて真の「意味」を帯びて現れるようにも思います。自由が人間にとって不可欠なものならば、ですが。
お礼
すみません、お礼と補足の欄を間違えてしまいました。
補足
彼らは思うままに空を飛んでいるようでいて、それは意志にもとづく「行為」とも、機械的な反応や偶然の結果による「現象」とも取り得るから、そこに自由を見出そうとすることは本質的に無意味だということでしょうか。 だとすると、なぜ人間は人間に対してはのみ例外的に「自由」に意味を見出せるのでしょうか。人も動物も同じ物理現象の積み重ねの上に存在しているように思えるのですが…。(言葉とか社会とかそういうものの働きでしょうか) 難しいですね。ちょっと考え込んでしまいます。。 ご回答ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
その自由とは、free from something、解脱、勝手気まま、万能、liberationですか。 自由であるべき精神性と意識性はいかがなのですか。 雲は自由か、空気は自由か、樹木は自由か、魚は自由かという話と何かちがうのですか?
補足
すみません、質問の仕方がおかしかったかも知れません。 特定の「自由」の定義において鳥がそれに該当するか否かを知りたいのではなく、「鳥は何かしらの意味において自由である」と仮定したとき、どのような意味での「自由」を鳥に特徴的に見出し得るのか(あるいは何も見出しえないのか)を知りたいと思っています。
人には人の行為(業)があり、鳥には鳥の行為(業)があります。 人の視点から、それらの違いが自由と感じられるだけの事であって 行為(業)の範囲に束縛された存在という見方からすれば、人も鳥も自由ではないのです。 空を自由に飛び回るという、鳥の行為(業)が、人間には備わってはいない行為(業)の範囲の広がりを感じさせるものなのでしょう。 別な言い方をすれば、行為(業)の相対的な違いが自由という誤認識をもたらしている、ともいえます。 自由とは、休む事なく行為(業)をもたらしている生命の根本的な働きの認識を指しているものです。 そうした、生命活動の能動性の認識においては、人間も鳥も自由であると言ってよいと思います。 感覚的、感情的な捉え方においては、鳥は人間に比べて自由に見える、感じられるというだけの事なのだと思います。 また、共通する生命活動の能動性があるといった見方からは、鳥も人も全く同じであり、同じ自由さを持つものである、といった認識が生じてくると思われます。
お礼
「できることができる」という点で人も鳥も自由であるがその自覚は無く、できることの差異に(誤った)自由を見出しているということでしょうか。確かに空を飛ぶという、他の地上の生物には逆立ちしてもできないことができるのは大きな「違い」ですね。 しかし単に「人間にはできないことができる」という差異の認識だけでは、それをことさら自由の象徴のように捉えてしまうことは無いようにも思えました。 何かそれをよほど羨む理由があって初めて飛べることに自由を見出せるように感じます。確かに空を飛べることは魅力的なのですが、飛べる⇒自由の源泉は何なのでしょうか。 ご回答ありがとうございました!
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「移動」という観点からは、二次元に拘束されず、自由です。 しかし、生命の基盤である光合成(植物)が地上に拘束 される以上、「空への自由」は、完結した生存としての自由 とはなり得ない、移動や避難、捜索のための一時的なもの に過ぎません。 それに比べ、人は認識力において心の中に世界を描ける、 心に翼を持つ鳥です。 ただ、自己チューな意識において、肉体という新たな地上に 拘束されがちですが。
お礼
なるほど、空を飛べるというのは「ひとつ上の次元の存在」という考え方ができるんですね。 しかし本質的には鳥は地上に縛られており、逆に人間は想像力の中で真の自由を得られる可能性があるということでしょうか。 私はむしろ彼らが人と同じく魚を捕り、巣を作り、ヒナを育てる様子に我々と同じ束縛を見出しつつ、しかし刹那空を舞うことができるという特権を持っていることにこそ人は「自由」を見いだしているような気がしました。 もし彼らが空で生まれ空で死ぬような、地上のルールとは全く縁のない生き物だとしたら、それを敢えて「自由」と表現することには違和感があります。 だとすれば、人がその想像力で見出し得る自由もまた、肉体や社会や自我という束縛なしにはありえないように思えました。 示唆に富むご回答ありがとうございました。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
鳥はさまざまなものによって束縛されています。自由に見えるのは、鳥について、無知だからでしょう。 実際、鳥は天敵だらけで、油断するとすぐ殺される。例えば燕が人の家の軒下などに巣を作るのは、猛禽類などから身を守るためです。常に緊張を強いられているわけ。 私は男ですが、17・8の女の子がケラケラ笑っているのを見ると、「楽しそうだ」「うらやましいなぁ」「自由だなぁ」「俺の人生にあんなに幸せそうな時期はなかったなぁ」と思ってしまいます。 無知だから、知らないから言えるんです、「鳥は自由だ」なんて。
お礼
「隣の芝生は青い」という事でしょうか。確かに鳥の立場にしてみればそんなにいいもんじゃないのかも知れません。 人間が鳥について無知なのは理解しました。では無知な人間にとって「鳥」と「自由」が結びついて見えてしまう理由は、「鳥は空を飛べるんだから天敵とは無縁だろう」というイメージを抱きやすいということでしょうか。 天敵が居ない⇒緊張が無い⇒自由 という事だとすれば、実際に食物連鎖の頂点に居る動物(ライオンみたいな)も自由の象徴ととらえられそうな気がしますが、なぜあえて鳥なのでしょうか。(身近だから?) どうもご回答ありがとうございました!
- atomonados
- ベストアンサー率31% (55/174)
人間が社会的制約を受けているから,社会的制約が少なく見えるものに自由を感じそう言う。本当に自由であるということではない。人間は好き勝手やっているから,鳥たちは人間を自由だと見ているにちがいない。人間によって鳥たちは不自由だ。
お礼
社会的制約が無い存在が「自由」に見えるというのは確かによくわかりました。ただ、だとすれば鳥以外の多くの動物も同様ですし、逆に編隊をなして飛ぶ鳥の群れには厳格な社会的制約を見出すこともできそうな気がします。その中でなぜ「自由」と言う点において鳥が特別視されるのでしょうか。 鳥の視点で見れば人間のほうがむしろ傍若無人に見える、というのは納得です。鳥にして見れば「空まで飛び始めたお前ら人間に嫉妬される覚えは無い」という感じでしょうか。 ご回答ありがとうございました!
- sk479722
- ベストアンサー率56% (13/23)
空を飛ぶので人間と比べて重力から自由に見えるということだと思いました。 それと、大昔、交通手段も発達しておらず、身分やさまざまな制約に縛られた村で一生を終えるような人生だった人からは、ひとっ飛びにあちこち移動できる鳥は自由に見えたんだと思います。 個人的には鳥なりの不自由さはあるんだろうなと思っています。まあ、当然ですよね。
お礼
やはり空を飛べるという点が大きいのでしょうか。 確かに航空機の無い時代には何か超越的な存在に見えたというのは想像できます。(古典でも「鳥=自由」的な表現があったりするのでしょうか) ただ、科学の発達した現代においてもやはり鳥を自由と感じるのは、彼らの空を飛ぶ能力が生得的な物だからでしょうか? ご回答ありがとうございました。
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お礼
カントは難しくてよく分かりませんが、飛ぶ自由は抵抗という不自由によって裏付けられているということでしょうか。難しいですが、何となく分かる気がします。 人が鳥を見て「自由だ」と思う時、正確には「鳥は自分(人間)より自由だ」と考えているのだと思いますが、では「人より鳥が自由であるか否か」はどう判断すればよいでしょうか。(自由さを相対評価する場合、抵抗と自由の相関はどう考えればよいでしょうか) どうもご回答ありがとうございます!