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大隈重信と「二十一か条の要求」
1915年大隈内閣は中国に対して「二十一か条の要求」をつきつけ、最後通牒をつきつけ強引に認めさせたそうです。 これがきっかけとなり、抗日運動が激化することになります。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/modern/04/012.html 大隈重信といえば教育者であり、民主的なイメージがあったのですが、 どうしてこのような強引な外交政策を推進したのでしょうか? 第一次世界大戦中で、経済的には順調な時期なのですが。 よろしくお願いします。
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「第一次世界大戦中で、経済的には順調な時期なのですが。」とあるのが、そもそも正しくないんですね。日露戦後恐慌以来、日本経済はあまり調子よくない状態が続いたのです。国際収支も赤字でした。加えて、前内閣のシーメンス事件などにより、国民の政治不信が高まっていました。第一次世界大戦への参戦は、こうした政治・経済の沈滞ムードを払拭するチャンスだと捉えていたのです。元老の井上馨が大隈重信首相に、欧州での開戦が「大正新時代の天佑」だと言ったのが有名です。 第一次世界大戦への参戦により、日本は大戦景気を迎えたのです。戦争で手がいっぱいの欧州に代わってアジア市場を独占し、世界的な船不足に目を付けた日本は船を売り込み、「船成金」が出現しました。ただ、大戦景気と言える状態になるのは、もう少し後です。 なお、当時は帝国主義の時代で、日本の中華民国への要求は、当時としては、欧州諸国が行っていたことと大差ありません。ただ、何しろ中華思想によって、日本などは猿みたいな下等なものと考えている国ですから、反発も強かったわけです。しかも、結局撤回することになりましたが、調子に乗って日本人顧問の任用を付け加えましたから。これがなかったら、諸列強の不興を買うことはなかっただろうと考えると、日本の外交下手は今に始まったことではないなあと思います。
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- tosugi
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大久保暗殺後、参議筆頭でありながら明治14年の政変で失脚し、条約改正では、外相として活躍するも片足を失って辞職。最初の政党内閣(隈板内閣)を組閣するも4ヶ月で瓦解。並はずれた才能に恵まれながら、それを発揮するチャンスに恵まれず、不遇をかこってきた大隈は、それだけに、判官贔屓の国民には絶大な人気があったようです。陸軍2個師団増設案を通すために、その人気を利用しようとした山縣や井上に担がれた、2度目の首相就任時には、既に70歳位でしたか、人生晩年の域にあり、功名心と焦りを押さえきれず、国民の人気に浮かれ、中国における利権獲得に突っ走ってしまった。壮年期のシャープな視点も失われ、民族運動の高揚も読み切れなかった..と言うところではないでしょうか。元老に嫌われ、その後も不遇の続く加藤高明とのコンビではなおさらでしょう。このような見方は、昔何かの本で読みましたが、書名は忘れました。あくまで、一面的な見方ですので、あまり参考にしないでください。教育者としての大隈も本業の政治家としての不遇が一因ではないでしょうか。