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絶対的に完全な存在者とは?
絶対的に完全な存在者とは?
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お礼まで頂きまして、ありがとうございます。 まさか、読んでもらえるとは思いませんでした。 脳内活動の認識において、非連続性を提案していただいた ことによって自分の理論に盲点があることに気がつきました。 認識を外側から追っていくとき 物理的刺激→感覚器官→神経系→脳内伝達→電気的活動⇒断絶 この断絶の存在を見落としていました。 内と外の並行における不確定性及び、内宇宙と外宇宙における 相補性について、これから勉強したいと思いました。 俺は物理学においては一年生なので、ご助言は とてもありがたいです。 感謝。感謝。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 そういう想定です。 人間はその能力が 限りのある相対的で経験的なものでしかないので そうではない場合を想像し始めたというところではないでしょうか。 でも《かみ》だとかという言葉を持ったことは むしろ自然であり 人間の自然本性にかなったこととして絶対者の存在を想定することになったと思われます。 たとえば《無限》という概念で説明する場合が 想定の確かさを物語っていると考えられます。 無限を二で割っても三で割っても やはり無限であるという想定内容です。これが ★ 絶対的に完全な存在者 ☆ のことです。
- cyototu
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>完全な未熟児である、生まれてからの時間がもっとも短い「最後の人間」だろうか なんて質問が出てるから、ご先祖様以外で日本で神様になれる条件があるんだそうで、それもついでに紹介しておこう。それによるの赤ん坊じゃ駄々目だそうだ。 条件1:誰が見たって理不尽で悲壮な死を遂げ、恨みつらみを残して死ななきゃならん。 だが、それだけじゃ駄目だ。 条件2:その死後から数年経ってから天変地異や飢餓が起こらにゃならん。 だが、それだけじゃ駄目だ。 条件3:その天変地異や飢餓が数年、あるいは十数年続かにゃならん。 この3つの条件が重なると、村や町の古老が「そう言えば、今からウン十年前に悲壮な恨みを残して死んだ誰々が居った。この天変地異はその人の祟りじゃ。何とかして、その魂を沈めなくちゃならん。だから、その魂に捧げるための神社を造り、そこの御祭りしなくちゃならん」とこうなる。そして、 条件4:お祭りした後は、天変地異も飢餓もぴたっと収まらなくちゃならん。 この4つの条件を全て満たすと、人々はその御霊を神と認めるようになる。勿論天変地異を起こすことができる御霊だから、人々は当然それを味方に付ければ御利益もある筈だと思うようになる。そんな形で出来た神社が日本には幾つもあるそうだ。 しかし、これはご先祖様じゃないんで、ご先祖様になるには上の条件1を満たしちゃ駄目なんだそうだ。そしてご先祖様だけが絶対的に完全な存在者だから、ご先祖様には願い事を掛けないことになっている。一方、この祟りをした神様は一階級下なんで、その神様には願掛けしても良いそうだ。しかし、勿論その神様は一階級下なんで、あんたの願いが叶ったからって、あんたを幸せにしてくれる保証はしてくれないよ。 まあ、そんなんで有名なのは天神様が一つの例だね。他にも、貴船の磐長姫命なんてぇお方は祟りこそ起こさなかったが、天皇のご先祖様に振られて女の悲哀を体得しちまって、あたしゃこれからは、女の見方になる、なんて宣言して、縁結びの神になったり、不幸な女の縁切りの神になったりと七変化やってる丑の刻参りの発祥の神でもあるんだけれど、こんな方も、同じ範疇の神様と言えるだろうね。 だから、赤ん坊ちゅうわけには行かないんじゃないかな。 天神様や磐長姫命以外にも、もと悲壮な死を遂げたり祟りをした神様って結構居られるから、自分でも探してみると良いよ。無責任な分だけ完全な神とは言えないが、運が良けりゃ、あんたの幸不幸には関係なく、願い事を叶えて下さるかもしれないから。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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全ての存在、森羅万象・万物を存在させ、それを規定しているもの。 それの発生、流転、そして消滅を自己の観念の中の事項としている存在。
お礼
お忙しいところありがとうございます。 「リグ・ベーダ」においては太陽神・風神などの自然神、火神アグニ、信仰など祭祀と密接な神、天測・人倫の獲得者バルナなど多数の神々が崇拝され、その数は3339などという。 そのリグ・ベーダの末期から諸世界創造新が唱えられ、ブラ―フマナではブラフマーあるいは生主神ブラジャーパティと呼ばれたが、汎神論的性格が著しい。それは既にリグ・ベーダの有無を超えた唯一者の思想に表明されているが、これらを承けて特にウパ二シャッドに至ってブラフマン=アートマンが主張された。これは世界を創造すると共に世界に内在する原理である。
- _AXIS_
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完全な未熟児である、生まれてからの時間がもっとも短い「最後の人間」 だろうか?
- cyototu
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あたしもご先祖様に賛成。 日本中の村々町々に20万とも30万とも言われる神社がありますが、延喜式を読んだって古事記を読んだって精々2千柱の神様っきりいないので、それだけの神様がいたためしがない。聞く所に寄ると、その殆どは皆名もないご先祖様や産土神を祀ってたとか。ところが江戸時代頃から都会の神道研究家が勝手なことを言い出して、田舎に出かけちゃあ、あんたんとこの神様は何々神だ、かにかに神と延喜式辺りの神様を引っぱり出して来て、牽強付会に名前を付けちまったとか。だから、神社の神様の名前程あてになんないもんはないそうです。 んで、神社に祭られている神様がどれだけ絶対的に完全な存在者ちゅうかの証拠に、日本の神様だけは、御祈りするときには無念無想で頭を空っぽにして何もお願いしないと言うのが、少なくとも中世辺りまでのお祈りの原則だったとか。日本のご先祖様は外国の神や仏みたいに、一々神様にこちらの望みを教えてあげないと、相手が解んない神じゃないんで、黙って頭を垂れるだけで良い。ご先祖様は貴方にとって一番良いことが起こるようにしてくれるそうです。 例えばあんたがあの人と一緒になりたいないなんて普段考えていたとすると、ご先祖様は、おお、そうか好しよし、お前をあの人と別れさせてあげるよ、それが一番良いことだとか、あるいは、あの大学に受かりたいなんて考えていると、そうか好しよし、そこの受験を失敗させてあげるよ、それがお前の幸せのためだ、なんてな具合です。 だから、日本人は絶対的に完全な存在者の前で願い事を叶えて下さいと祈ることが如何に意味のないことか解っていたのですね。 ただ、人間て下衆なもんで、昔から神様に浅はかな御願いする連中も時々はいたようで、丑の刻参りなんかやる者もいる。それを見越して、特に中世以降から神社などでおみくじや絵馬などの商売を始めて、神官どもが金儲けを始めたそうです。でも、ご先祖様は絶対的に完全な存在者なもんですので、貴方がおみくじを買おうが、詰まらぬ願い事を仕様が、それにはお構いなく、あんたが幸せになれるように面倒をみていてくれているそうです。 他の国の神様は、あんたの願い事を叶えてくれるなんて、程度の低いことを言って信者達を誑かしている。日本の神さまって、どの宗教の神様も凌駕するほど程度が高く気高い、絶対的に完全な存在者なんですね。
お礼
どうもお忙しいところありがとうござい安す。 アイロニーというか、cyototuさんらしいお応えですね。 >日本の神さまって、どの宗教の神様も凌駕するほど程度が高く気高い、絶対的に完全な存在者なんですね。 そういう意味では日本の神は、哲学的な神、と言えませんでしょうか。
補足
ああ、お礼欄で哲学的な神と言いましたけれど、東洋哲学という意味です。
それは、ご先祖様であると、俺は認識しています。 時間軸上において事象平面は連続しており 事象はスパイラル曲線を描く。 現在において存在するものは、その原因を辿るとき 思考の超光速さによって事象平面は直線軸となり 時間軸は超光速スパイラルと化す。 しかもエントロピー増大により、ご先祖様は自分の すぐそばに存在できるのである。 人の体細胞の中にも、その痕跡として スパイラル曲線が残されているらしい。 以上、俺が考えた不確定性を含んだ完全な存在の理論です。 意味不明なので困ってます。
お礼
どうも、お忙しいところ恐れ入ります。 >時間軸は超光速スパイラルと化す。 たしかに意識外運動は連続していると言えますが、意識内運動はむしろ非連続的であるとは言えませんでしょうか。 非連続的であるからこそ、 >ご先祖様は自分の >すぐそばに存在できるのである。
- 佐藤 志緒(@g4330)
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私
お礼
どうも、どうも。お忙しいのに恐れ入ります。 >私 absolutes Ich(笑)
補足
ああ、回答者様にお聞きするのを忘れてた。 回答者様は純粋自我態のことを仰っておられるでしょうけれども、「われ思う」その思いは、思う対象がなければ成立しないのではないでしょうか?
お礼
>感謝。感謝。 本当ですか?(笑) もうちょっと与多話をしてもいいですか。 例えば、空間における運動はある点から別のある点に至るまでの中間の連続状態を通過しなければならないゆえに、空間的運動は時間においても連続する運動と考えられることになりますが、これに反して、主観的時間の体験を形成する意識内運動においては、そのような連続的推移が全然現れない。このことは例えば読書をしていた一時間と音楽を聴いていた一時間とが、同じ一時間として測られるにもかかわらず、その長さは異なるものとして意識されるという ああ、すいません時間がなくなってきました。