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会津戦争の意味と佐幕派の処遇について
- 会津戦争について皆さんの意見をお聞かせください。会津戦争はなぜ起こったのか、また会津の民間人にまでひどい扱いがされた理由について考えてみましょう。
- さらに、佐幕派の処遇についても考えてみましょう。会津には佐幕派の人々も多く存在しましたが、なぜ彼らも同様の扱いを受けたのでしょうか。倒幕派と佐幕派の間で話し合いが行われず、交渉や共存の道は無かったのでしょうか。
- また、もし高杉晋作や土方歳三が生きていたら、会津戦争でどのような行動をとったのでしょうか。彼らの破天荒な生き方や誠の精神が会津戦争にどのような影響を与えたのか、考えてみましょう。
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やっぱり、 会津戦争前の倒幕派の取り締まりが大きく関係していると思います。 長州藩などの倒幕派の取り締まりに 大きな力を発揮していたのは新選組ですし、 そのバックの役割をしていたのが会津藩ですし…。 薩長としては、 有能な人材・大切な仲間を殺した、憎い仇。 話し合いの機会があって お互いの言い分が分かったとしても 「憎い」という思いの方が強かったのではないでしょうか。 話がそれてしまいますが わたしは、どちらかというと幕府方の人物が好きで、土方さんも好きです。 ですが、 いろんな時代劇を見ていると 倒幕派の人たちの強い志にも感動します。 倒幕派にとって佐幕派は 仲間を殺した「憎い仇」ですし 佐幕派にとっては 敬う幕府を滅ぼしたのが倒幕派。 お互いがお互いを「憎い」と強く思っていたのが 会津戦争をより酷いものにさせたのですかねぇ・・・!?
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- PENPENMAKKY
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会津藩は領民を奴隷としか見做してなかったですからねぇ… 結果として領民の離反を招いて敗北したわけですが… 母成峠 会津・脱走幕府軍・新選組たちによる麓住民への凌辱行為及び焼討行為が行われ、住民は新政府に加担し攻撃軍にケモノ道を教えた。40名の土佐藩斬込隊が新選組防衛場所に突入し、防衛側は敗走した。 戸ノ口原 迫る新政府軍に対して白虎隊士中二番隊と農兵部隊を集める。度重なる重税と領民への凌辱行為は農兵部隊への士気に影響し、白虎隊士中二番隊との間で軋轢を生む。結果、白虎隊士中二番隊のみが新政府軍と交戦し、僅か10名の薩摩藩スナイドル銃部隊に白虎隊士中二番隊は敗北した。 鶴ヶ城包囲戦 僅か400名の攻め手に対して5000名からが城に立てこもる。極楽寺の住職など住民は率先して新政府軍に加担して大砲の設置(これがまた周辺は会津側制圧地域だったのにケモノ道を使って設置)を誘導した。一方の会津側は裏切ったと思われる住民を捕らえては血祭り(斬殺処刑)にしていた。一緒に立てこもった郡上藩士が書き残すほどの状況。 戦後処理 新政府は会津の再興と移封を決定し、猪苗代への移封を検討する。住民は会津藩の圧政をよく知っており、会津移封に反対した。会津は猪苗代統治を諦めて自ら斗南移封を決定する。 鶴ヶ城 明治政府は各地の城を廃城にして売却解体を進めたが、残す価値のある名城は保存される事になった。鶴ヶ城も美しく壮大な城であったため保存対象に選ばれたが、住民にとっては圧政の象徴であり戦争でボロボロになっていた事を理由に解体を望んだ。その結果、解体された。
- trajaa
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やはり、「恨み」なのでしょうね。 例えば、幕末の京都で尊王攘夷派への武力での取り締まりを行った新撰組は会津藩お預かりでしたし。 長州藩が京都から追放された禁門の変は、会津と薩摩が主力部隊でしたし。 長州へはその後長州征討なども行われ、その前後に藩内の権力闘争で多数の粛清が行われたり。 特に長州藩では、「会津憎し」という意識があったのではないでしょうか? まあ、そう言う意味では薩摩藩の立ち回りは見事としか言えませんね。 世良修蔵という存在も大きかったのでは無いか? 彼が居なくてもう少し穏健な人物であれば、あそこまで拗れることも無かったのではないかとも考えます。 個々人の人柄は優れていても、日本という国家のあり方に対する考え方が大きく異なっている以上 何事もなく終わることはあり得ないとしても、戦後のあり方はもう少し変わっていたのではないかと推測。