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古典 大鏡「道長の豪胆」についての質問です。
肝試し(?)をすると決まった時、入道殿(道長)は帝に、 「誰か一人に昭慶門まで送ってくれるように命令を出してくれ。」 と言いましたが、そのあとに「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ。」と言います。 道長は昭慶門と承明門、どちらから出たのでしょうか><? また、道兼はどこから出たのでしょうか?
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昭慶門は、大極殿の北側にある門です。大極殿などを含む建物を朝堂院あるいは八省院といい、それを囲む25門のひとつです。大極殿は南北に細長い朝堂院の北の端にあります。昭慶門から入れば目の前です。 承明門は、内裏の南端にあります。内裏の塀は二重で、承明門の外側にもう一つ、建礼門があります。 つまり、朝堂院と内裏は別棟なのです。といっても、両者とも、単一の建物ではありません。「塀に囲まれた建物群」です。 今、一同がいる内裏から、一旦右衛門の陣なり承明門なりを出て、さらにもう一つ門を出て(承明門からなら建礼門が一番近い)、南西に数十メートル歩いて昭慶門を通り、大極殿の柱にたどり着きます。 つまり、道長の「誰か一人に昭慶門まで送ってくれるように命令を出してくれ。」 は、「私たちがそれぞれ皆、昭慶門から大極殿に入ったことの証人を、つけてくれ」と言ったのです。大極殿には、下々の者は、儀式のときの命ぜられた役割なくしては近づけませんから。 そこで、帝は「では、道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ。(別ルートでこの内裏を出て、昭慶門まで行け)」 と言ったのです。
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- fumkum
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分かる範囲で考えて見ましょう。 まず、下の「内裏図」・「大内裏図」を参照しながら考えましょう。 天皇の日常は内裏の中の清涼殿を中心に営まれています。大鏡の文では、花山天皇・道隆・道兼・道長は清涼殿の中の南端の「殿上間(内裏図の清涼殿の文字をクリックすると詳細図が現れます)」で話しています。 (1) 道隆の目的地は「豊楽院」です。殿上間から出て西に進むと「陰明門」があります。そこを出て、(大内裏図を参照すると)そのまま「采女町・内膳司」と「中和院・木工内院」の間を西に抜けたところが「宜秋門(右衛門陣)」です。宜秋門(右衛門陣)を出るとそこが「宴の松原」です。そこで道隆は帰っていますが、本来であればそのまま西進し、「真言院」の角を南に折れると、目的地の「豊楽院」です。 (2) 道兼の目的地は「仁寿殿」です。仁寿殿は清涼殿の東隣にあります。仁寿殿の南には紫宸殿があります。仁寿殿と紫宸殿の間には「露台(屋根の無い板敷の場所)」があり、その外から仁寿殿の東側の「砌(石畳)」を見ると、「のきとひとしき人のあるやうに見え」たので引返したようです。(道兼は内裏からは出ていません) (3) 道長の目的地は「大極殿」です。清涼殿の殿上間から南東に行くと「承明門」です。承明門を抜けてさらにその南の「建礼門」を出て西に行くと「大極殿」の北に出ます。「大内裏図」では門の名前が書かれていませんが、大極殿の北側には3つの門があり、その内の真ん中が「昭慶門」です。ですから、道長は「承明門」から内裏を出て、「昭慶門」から「大極殿」に入ったことになります。 以上、参考まで。 内裏図 http://tukineko.pekori.jp/heian/dairizu/dairi.html 大内裏図 http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/daidairi.htm
お礼
道兼は内裏から出ていなかったのですね! 詳しく書いていただきありがとうございました<m(__)m>
お礼
承明門も昭慶門も両方くぐるんですね^^ 大極殿に入ったという証人をつけるということだったんですか! 詳しくありがとうございました<m(__)m>