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大砲の継承
司馬遼太郎の小説で読んだんですが。 大阪夏の陣で使った大砲5門を、五つの武家で預かり、その大砲の使用方法を代々継承したそうです。 ところが、幕末の時、いざ幕府軍の一翼として新政府軍に向かって大砲をぶっ放そうとしたら、5門の大砲の内、4門が大砲が壊れてたり火薬の調合に失敗したりして(これらは全て口伝で伝えられたみたいです)使えなかったそうです。 で、残った一門の大砲だけは、なんとか砲弾を打ち出すことが出来たのですが大砲での戦果は、一人の侍の頭上をかすめて気絶させただけでした。 一子相伝で260年に渡って伝えられた門外不出の砲術の秘伝に一体どんな意味があったのか? この話は史実でしょうか
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鎖国していたころの火薬は国産ですが、作るのに時間がかかったのです。旧い畳に小便をかけ、冷暗所に放置すると、火薬につかう硝石がとれます。が、時間がかかりました。ヨモギに小便ないし家畜の小便でもいいのですが、見つかったら最大級の罰則が適応されます。幕府の許可がないと不可能で、それができたのは日本でも数えるほど(加賀藩のなか)といいます。 狩りをしている人は鉄砲持っていたのですが、くみ取り便所ちかくの地面から硝酸カリウムがとれました。が、戦争につかうほどには取れませんでした。 火薬があれば、石ころや釘でもつめて水平に散弾として発射すれば、恐ろしく効果がありますが、火薬が無ければだめなのです。砲身は先込めなら、割れない限り撃てるので、260年の伝授というのは、火薬の存在前提で成り立つものだったのではないでしょうか。
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- PENPENMAKKY
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司馬遼太郎の脳内史実です。 幕末の幕府は最新式の大砲を数多く持っておりました。オランダ製、フランス製に加え、自力での生産も行っております。 だいたいペリーの初来日は120門の和製大砲で出迎えられ、ペリーは慄いてます。
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高取城主の植村家に伝えられた「ブリキトース」なる大砲の話とまで調べることが出来ました 地元に復元されているようですが http://www.oct.zaq.ne.jp/kashiko_yushikai/reikai/reikai0802.htm 砲身が短く臼砲のように見えますが野戦砲の台車をつけてあります。 考証に無理があるようです
- tasukarima
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えらいことだったでしょうね そりゃもう 天地動転のおおさわぎ 悲劇は喜劇 笑っちゃいけないけど おもわず... 司馬さんもかいていますが 歴史は悪しき膿の時もあるし この高取の一戦の時のように 神君家康様より頂戴したオオヅツ (石器時代のような骨董品 )を持ち出して 地域間格差というか 薩摩や長州のような最新式と ちがえども ありがたくも オドカシぐらいには使える これしかない ぶっ放せ 今がイザ鎌倉じゃ のようなきがします 藩幕体制のまさに平和の漂い 門外不出 一子相伝は恭順の抜け殻でしょう ちょっと下って赤穂の浅野家が備中松山城の水谷家の改易 城明け渡しのときその受け取りに かの大石蔵之助はそのすべてを任されたにもかかわらず 隊列の組み方さえわからず お金をだして怪しげな軍師にさえ教えを請うなんて聞けば すざましいほどの平和ではありませんか いかに家康(幕府)の他の大名に対しての(幕府も含む)武装解除が徹底していたか 歴史上稀有な施政の結果なんでしょうか だいたい この頃 合戦なんか代々 聞いたこともなければ見たこともない そんな人たちに まともな戦はできなかったんじゃないかとおもいますよ 攻めるほうも迎え撃つほうもバラバラ 逆にいえば 門外不出 一子相伝 とゆうことになるようなきがします 司馬さんはなんかそんな歴史の穏やかさを 鉄のかたまりを使って かいたのかなあとおもっています
お礼
平和が数百年続いた文化などこの江戸文化だけです。 そうなると武道とか武術とか言うものは目的から離れ、存続自体が目的と化すでしょう。私は西洋剣術を中心に日本の武道を比較していますが、型中心の日本武道の問題点は、これと同じ原因があるように思います。
- Kon1701
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江戸時代、鉄砲がもっとも威力のある武器でした。 江戸時代初め頃には火縄を使わない火打石を使うものもでてきたようです。ですが、平和な世の中になり、それも衰退してゆきます。日本人は、鉄砲さえ捨てた、といえます。 さて、鉄砲が最大の武器の世の中で大砲といえるものがあったなら、これは非常に有効だといえます。一発で数人は打ち砕けたでしょうし、城攻めなら門を破るには十分だったことでしょう。 もし江戸時代の早い時期に倒幕の動きがあったなら、この大砲ももっと有効だったのではないでしょうか?
お礼
私の質問の背景には 幕末に大阪城攻めの古い大砲が使われた 幕末まで操作法を口伝で伝えられた。実際の発射はなかった そのときにほとんどの大砲が使用できず成果がなかった 型稽古のみで伝えられる武道に果たしていかなる意味があるのか? ということでした。 ありがとうございます
- DieMeute
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「おお、大砲」という短編でしょうか? 大砲の細かい事はわかりませんが、この小説の大筋、天誅組が高取城を攻め、城方が大阪の陣で使った大砲で敵を撃退した話は本当です。 天誅組の変 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%AA%85%E7%B5%84%E3%81%AE%E4%B9%B1 大砲は音ばかりで天誅組に損害を与えなかったとか、大砲の音に驚いて天誅組は四散したと言われています。 ただ、その一方で、天誅組の酒井伝次郎という人物は、高取城攻撃の際、烏帽子を被って真っ先に進み、それを鉄砲で打ち抜かれても、なお前進したという逸話が残っています。 また、少ないながらも戦死者も出ています。 少なくとも、大砲に驚いて四散したという事はなかったのでしょう。 ウィキにもある通り天誅組は大砲と鉄砲で激しく撃たれ敗退したのだと思います。 なお一説には高取藩が持ち出して使った大砲は4門という話もあります。 実際に弾を撃った大砲の数はわかりませんが、あまり敵に直接的な被害は与えなかったようです。
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ありがとうございます 少なくとも数百年前の大砲は使われたということですね。
お礼
つまり火薬の生産方法が口伝として伝えられそれをどのように使うかは別ということでしょうか? たしかに大砲操作砲よりも火薬作成技法のほうが、当時の背景を考えるとリアルですね。ありがとうございます