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朝に道を聞かば
「とうちゃこ」!
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朝に道を聞かば 「とうちゃこ」! なんじゃらほい? 広辞苑を引いても載ってない 到着?のこと? 朝に真の人生の道を聞かば 夕方に死んでも良いくらいの思いで道を求道する。 という意味だと 高校の頃言ったら 女子から「そんな意味じゃないよ」 「朝に道を尋ねた人が夕方には死んでいるという事もあり得る という意味よ」と それから時が流れて35年 真の道とは「存在性思想」のこと という野暮なことは言いませんが それくらいの気持ちで考えてきました。 「性質」という言葉で躓いた様ですが 性質言う言葉でないなら「はたらき」? どうもしっくりきません。霊的な世界を表す言葉はなんなのでしょうねえ 霊界と言うと 如何にも宗教的で不確かな感じですねえ。 何かいい言葉ないですかねえ?
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- tumaritou1
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自分は何者か?或は人生とは何ぞや?と言った疑問を、人間は抱く事があります。こう云った疑問を全て解消する時が『道に至る事』を意味しますので、それが出来た時『生きる意味が分って、死が怖くなくなって、死を超越出来た事を意味します。』 この意味は『永遠の命』が内在している事を体認する経験ですので、心のざわめきが鎮まる事になります。つまり『心のざわめきが静まる、涅槃を経験すると言う意味になります。』 死ぬも良し、生きるも良しといった絶対肯定をする人間に変化していますので、『何時死んでも構わない』となります。この意味は、心が開放されて、何者も恐れるものが無くなって、有限の世界かも解放されてしまう事を意味します。 本当の意味で自由になる事を意味します。生にも死にも左右されない『幸福に満たされる』と言った事を意味します。 言葉で語るならこの動画が語っています。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
お礼
tumaritou1様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「自分は何者か?或は人生とは何ぞや?と言った疑問を、人間は抱く事があります。こう云った疑問を全て解消する時が『道に至る事』を意味しますので、それが出来た時『生きる意味が分って、死が怖くなくなって、死を超越出来た事を意味します。』」 全てが「死を超越」のためにあるとは思われません(信教の自由?)ですが、 >「この意味は『永遠の命』が内在している事を体認する経験ですので、心のざわめきが鎮まる事になります。つまり『心のざわめきが静まる、涅槃を経験すると言う意味になります。』」 「これで、いいのだ!」については、ですね。 ・・・それも結局、人それぞれでは。 >「死ぬも良し、生きるも良しといった絶対肯定をする人間に変化していますので、『何時死んでも構わない』となります。この意味は、心が開放されて、何者も恐れるものが無くなって、有限の世界かも解放されてしまう事を意味します。」 (信教の自由、他)人権を、侵害しないでね。 >「本当の意味で自由になる事を意味します。生にも死にも左右されない『幸福に満たされる』と言った事を意味します。」 ・・・人権を、侵害しないでね。 >「言葉で語るならこの動画が語っています。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM」 なるほど。前にもご紹介いただいた動画ですが、 右脳と左脳の、「どちらか「抑制的」なのは、邪魔(に過ぎない)」ということですか
- NemurinekoNya
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お礼、ありがとうございます。 ☆では、 「迷える子羊」の文脈では? ◇難しいことを質問しますね。 私よりも聖書に詳しいplapotaさんやbragelonneさんの方がこの質問に対して適切な回答を送られると思うのですが、少し考えてみました。 ~~~~~ マタイによる福音書 第19章 19:23それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 19:24また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 19:25弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 19:26イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。 19:27そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 19:28イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 19:29おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。 19:30しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html ~~~~~ 「19:30しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」とか(ポリポリ)。 先の者、あとの者が何を意味しているのかは、分かりませんが、聖書のこの言葉が真っ先に頭に浮かびました。 先の者:パリサイ派orユダヤ教徒 あとの者:ユダヤ人orキリスト教徒 といったような図式なのでしょうが・・・。 こうした構図は、ルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」などでも見られるようですね。 二人の息子をもつ父親が、その二人の息子に財産を与えた。長男は父親のもとに残り、父親の言いつけなどにしたがい、父親に仕えた。 対して、父親のもとを離れた次男は財産をすべて使い果たし、うらぶれた姿で父親のもとに帰ってきた。 父親はその次男を大歓迎した。兄は父親のその行為にひどく腹を立てた…。 (ルカによる福音書第15章11~32節 http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html) 「迷える羊」の話は、この「放蕩息子のたとえ」の前にでているし…。 ~~~~~~ 15:1さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 15:2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。 15:3そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html ~~~~~~ 99>1という地の論理は、天では通用しないらしい…。 心構えとしては ~~~~~~ マタイによる福音書 第5章 5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html ~~~~~~ の方がかなっているのかもしれませんが。 ☆☆☆☆☆☆ 聖書から離れまして、朱子学(儒学の一派)の創始者の朱熹(しゅき)に 「少年老い易く 学成り難し」 という有名な言葉がありますよね。 だから、 「一寸の光陰 軽んべからず」 と帰結される。 http://kotowaza-allguide.com/si/syounenoiyasuku.html 参考までにあげてみました。
お礼
NemurinekoNya様、ありがとうございます。 >「聖書から離れまして、朱子学(儒学の一派)の創始者の朱熹(しゅき)に 「少年老い易く 学成り難し」 という有名な言葉がありますよね。 だから、 「一寸の光陰 軽んべからず」 と帰結される。」 ・・・食事も手に付かないというほど、ではありませんから、 見逃しているシーンも、あったかもしれません。
補足
・・・私などの出る幕でもありませんが、 >「マタイによる福音書 第19章 19:23それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 19:24また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 19:25弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 19:26イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。 19:27そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 19:28イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 19:29おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。 19:30しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html ~~~~~ 「19:30しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」とか(ポリポリ)。 先の者、あとの者が何を意味しているのかは、分かりませんが、聖書のこの言葉が真っ先に頭に浮かびました。 先の者:パリサイ派orユダヤ教徒 あとの者:ユダヤ人orキリスト教徒 といったような図式なのでしょうが・・・。 こうした構図は、ルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」などでも見られるようですね。 二人の息子をもつ父親が、その二人の息子に財産を与えた。長男は父親のもとに残り、父親の言いつけなどにしたがい、父親に仕えた。 対して、父親のもとを離れた次男は財産をすべて使い果たし、うらぶれた姿で父親のもとに帰ってきた。 父親はその次男を大歓迎した。兄は父親のその行為にひどく腹を立てた…。 (ルカによる福音書第15章11~32節 http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html) 「迷える羊」の話は、この「放蕩息子のたとえ」の前にでているし…。」 「「失くした」と思っていたモノが、不意に出てきた!」という喜びは?判る気がします。 >「~~~~~~ 15:1さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 15:2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。 15:3そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html ~~~~~~ 99>1という地の論理は、天では通用しないらしい…。」 「罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」 ・・・いやいや、これは(近代)刑法的にも正しい議論かもしれません。 (コト(人権不可侵?)を「多数決」であると見誤られませんように?) >「心構えとしては ~~~~~~ マタイによる福音書 第5章 5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html ~~~~~~ の方がかなっているのかもしれませんが。」 なるほど、厳しいものですね。 ・・・「オウム」も、かくや?です。
おはやうございます。 トラックで配送に出るのですが、朝、道順を聞いておいても、まともに目的地に着いたことがありません。 道にかぎらず、朝聞いたことは、夕には忘れてゐます。金を借りたことなどは、昼にはすでに忘れます。 私も「とうちゃこ」が何のことか判りません。この質問の関連Q&Aとして挙げられてゐるのは「かば」についてのもののみで、 かばの習性について 『かば』って外国語でなんていうのですか? かばが兄弟喧嘩をしたら? かばのうんこの曲を聞いた方いらっしゃいませんか? といふことで、少しも参考になりませんでした。
お礼
plapota様、ご回答ありがとうございます。 >「少しも参考になりませんでした。」 ありがとうございます。
- hannya-gl
- ベストアンサー率17% (6/35)
我は鬼の子、獣の子、人の歩まぬ道を行く。そんな詩、落書き、を書いた事がありますが。 私は幼い頃、親父っ子、「とうちゃんこ」であり。 高校生の時代には、自分の母親を「善良で無能で小心で、自分の子事しか考えられない、良い意味でも、悪い意味でも、女らしい女。」と表現する、鬼っ子、になっていました。 私が「論語」を読んだのは、親父の強さ、知恵=胆力、自分に恥じるような事をするな、どんな時も、困った、とか、参った、などとは口にするな、道、はかならず有る。男が事をする時はまず先に死ね、死ぬのを、怖れては、能力は出せない。と教え、神仏に手を合わせたり、神頼みなどは、絶対にしない。自分にやましい事がなければ、怖れるむものは何もない。そんな親父の元、は「論語」にあるのかも、と思ったのです。 朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。 ニュアンスとしては。仏教の、悟って一日生きるは悟らず百年生きるに勝る。でしょうが。 ただ、道、が、みち、どう、ではなく、元々は、老子の、道(とう 世界の根源的在り方、法則性)なのです。 烈士?だったかに 身の丈、7尺、常に身なりを整え、髭を手入れし、威風堂々としていたらしい、孔子、が、道、を聞くべく老子 を訪問した。老子は、道を知りたくば、まずその身なりを何とかすることだ。(姿形に期を使うようでは、明、は無理だ)と追い返した事になります。一般の知恵とは区別して、道(とう)を知る知恵、を明(みん)と言ったようです。 道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。・・は 人の話しを、自分の学問、とする、 孔子には意味が理解出来なかったのでしょう。 私には「とうちゃこ」が解りません!
お礼
hannya-g|様、ご回答ありがとうございます。 >「「我は鬼の子、獣の子、人の歩まぬ道を行く。」そんな詩、落書き、を書いた事がありますが。 私は幼い頃、親父っ子、「とうちゃんこ」であり。 高校生の時代には、自分の母親を「善良で無能で小心で、自分の子事しか考えられない、良い意味でも、悪い意味でも、女らしい女。」と表現する、鬼っ子、になっていました。」 >「私が「論語」を読んだのは、親父の強さ、知恵=胆力、自分に恥じるような事をするな、どんな時も、困った、とか、参った、などとは口にするな、道、はかならず有る。男が事をする時はまず先に死ね、死ぬのを、怖れては、能力は出せない。と教え、神仏に手を合わせたり、神頼みなどは、絶対にしない。自分にやましい事がなければ、怖れるむものは何もない。そんな親父の元、は「論語」にあるのかも、と思ったのです。」 >「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。 ニュアンスとしては。仏教の、悟って一日生きるは悟らず百年生きるに勝る。でしょうが。 ただ、道、が、みち、どう、ではなく、元々は、老子の、道(とう 世界の根源的在り方、法則性)なのです。 烈士?だったかに 身の丈、7尺、常に身なりを整え、髭を手入れし、威風堂々としていたらしい、孔子、が、道、を聞くべく老子 を訪問した。老子は、道を知りたくば、まずその身なりを何とかすることだ。(姿形に期を使うようでは、明、は無理だ)と追い返した事になります。一般の知恵とは区別して、道(とう)を知る知恵、を明(みん)と言ったようです。」 >「道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。・・は 人の話しを、自分の学問、とする、 孔子には意味が理解出来なかったのでしょう。」 >「私には「とうちゃこ」が解りません!」 月曜朝版で、星空の下とかで、朗読してもらいますか。
補足
>「悟って一日生きるは悟らず百年生きるに勝る。」 悟らず100年、ですか。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
仏教的な考え方ですと ~~~~~~ 方丈記 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html ~~~~~~~ ですね。 であるから、 早く出家し、仏道修行に励まなければならない。そして、生死を超越した存在にならなければならない、 という文脈になる。 孔子の 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」 も、この文脈において考える。 さらに、仏教には輪廻思想というものがある。今は人であるけれど、死んだら、次にどのような存在なるか分からない。しかも、輪廻という軛から自己を解き放つことができる仏教は、人身を得ること以上に、その教えに触れることは難しいと考えられていた。そう信じられていた。 であるから、 道、仏教に触れるということは、その教えの功徳にあずかれることを含めて、とても重要なんですよ。 千載一遇のチャンスと言っていい。 このチャンスを逃したら、このチャンスがいつ訪れるか分からないから。ひょっとしたら、このチャンスは二度と訪れないかもしれない。 であるから、 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」 なんですよ。 あくまで、仏教の論理内で語ればですけれども。 もっとも、論語中では、 寿命や自身の生を縮めても、惜しくはない、 という、学問をする人の気概や心意気なんでしょうけれども。 論語中のこの言葉の意味は、 http://kotowaza-allguide.com/a/ashitanimichiwokikaba.html とかを読んでくださいましな。
お礼
NemurinekoNya様、ご回答ありがとうございます。 なるほど、仏教の文脈で読むと(読むから)、そうなる。 では、 「迷える子羊」の文脈では?
- hitonomichi33
- ベストアンサー率11% (1/9)
だうして蜜柑は蜜柑なのでさう だうして蜜柑は蜜柑なのでさう だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく 中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう だうして蜜柑は葡萄でなく 葡萄は蜜柑でないのでさう だうして目の前に蜜柑が有るのでさう だうして林檎ではなく蜜柑なのでさう だうして蜜柑は甘いのでさう だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう だうして私は私なのでさう だうして心臓が音を立て休むことなく 私の胸の中で動いているのでさう だうして私は他人ではなく 他人は私でないのでさう この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです この世に有るものは現に有るのであり 禅問答など無や空について考えても無駄だからです
お礼
人の道様、ご回答ありがとうございます。 「名付け」の問題ですか。 (例えば) 人によって、「乳」や「母」が、それぞれ違うのは、当たり前ですね。 別に、「(実働)一時間で15kmくらい走破してるんでしょ」 とか、批判しているのでは、ありません。 (40~50km走っていた昔(数年前)を知る者?として)
- kusirosi
- ベストアンサー率32% (2838/8859)
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり 孔子 ああ人生に涙有り 【作詞】山上 路夫 【作曲】木下 忠司 人生楽ありゃ 苦もあるさ 涙のあとには 虹も出る 歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道を 踏みしめて 人生勇気が 必要だ くじけりゃ誰かが 先に行く 後から来たのに 追い越され 泣くのがいやなら さあ歩け 人生涙と 笑顔あり そんなに悪くは ないもんだ なんにもしないで 生きるより 何かを求めて 生きようよ 山上路夫「ああ人生に涙有り」 ♀_(`O`) ♪(^O^)/ zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
お礼
kusirosi様、ご回答ありがとうございます。 『水戸黄門』のテーマですね。 ・・・個人的には、これは、「バブル崩壊前まで」の時代の歌だと思います。 「その後」には、多分『ガンダーラ』が来るんだと思います。
お礼
yuniko99様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「何かいい言葉ないですかねえ?」 そんな、私のココロをくすぐるような、ご回答を頂けるとは。
補足
「アクト」(act)は、どうですか?