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終わりは始まり ~60年前の卒業式~
- 中学の卒業式で校長先生が卒業とはcommencementであると話した
- 今日の記事では、「人生や人様々の人生勉強のゴールと地上を去るときにあるのか」というテーマが述べられた
- 船越英一郎さんは「どこまで行ってもゴールが見えないというのは一番魅力。安穏と怠け者の暮らしをさせてもらえないのが楽しくてしょうがないのかな。今の夢は命が尽きる手前まで俳優でいたい」とコメントした
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僭越ながら回答させていただきます。 1、ある心理学者によると、幸福感とは目的を持ち、それを追い求める精神状態に宿るものだそうです。 そう考えると、到達できないことは成果を楽しめないということにはならないだろうと思います。 ゴールが見えてこない過程こそが幸福感を与えるということもできるでしょう。 ただ、ゴールが見えないということと、ゴールがないということは若干違うだろうとは思います。船越英一郎氏が言っているのは「ゴールが見えない」ですよね。それはゴールに向かっているが、そのゴールがちっとも見えてこない、ゴールに近づいていかない、という意味だろうと思います。それはまさに、目的を持ち、追い求める過程における幸福感を得るのに十分な状態だろうと思います。 それは、ゴールの前に学ぶべきものがまだ山ほどある、ということです。孔子言うところの、学びて時にこれを習う、また楽しからずや、の心境でしょうから、船越氏はその状況を楽しんでいるのだろうと思います。 2、飽食とはその字の通り、食べるに飽きる、ということでしょう。 だとすれば、それは満ち足りた、というより、満ち足りた状態に飽きたということだろうと思います。 満ち足りたことに常に感謝できるのであれば、飽食はやはりないわけで、飽食がないということが満ち足りたことがないということだ、とは言えないだろうと思います。 3、先にも述べましたが、「ゴールがない」ということと「ゴールが見えない」ということは違うだろうと思います。 「ゴールがない」ということは確かに到達点がなく、追い求める幸福感は得られないということはいえるだろうと思います。 4、命尽きる手前まで俳優でいることで、俳優としての経験を総括したいのでしょう。 命尽きるまで俳優でいては総括はできません。 全てが完了したからこそ、総括できるわけですから、総括するためには、それをいったん終わらせることは必要ということでしょう。 自分にとって俳優とはこういうものだったのだ、という結論を確かに得るための時間が必要で、そのために命尽きる手前で俳優を終わらせる必要があるのだろうと思います。
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- ponpon88899990
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興味深い質問ですね。 他の方の回答を見る前に投稿するので内容が重複するかもしれません。 さて、「ゴールがない」という言葉の意味は複数あると思います。 (1)到達不可能なゴールを設定し、ゴールがどの方向にあるのかすらわからない (2)そもそもゴールを設定していない (3)ゴールへ正しい方向に進んでいるが到達ポイントは未だ見えない 船越さんの意見は(3)に近いように感じます。 すばらしい心境に達しておられて見習いたいですね。 ところで、項目ですが >1. ゴールがないということは到達してゆっくりできない、そして成果を楽しめない。ということになりますか ? (1)の意味では、成果を楽しめないのは道理です。 (3)の意味では、段階的な目標の成果を楽しめます。 >2. 飽食がないということは、満ち足りたということがないということになりますか ? 食い過ぎで肉体的限界により飽きるというのを飽食というと思います。 満ち足りていれば飽食にはならないはずです。 >3. ゴールがないということは到達がなくて、いつまでもつらいことですか ? (1)の意味では、辛いでしょうね。 (3)の意味では、プロセスに充実感を感じているので辛くないでしょうね。
お礼
有り難うございました。 示唆的なご論考と存じます。
- アロン 中尉(@Aaron_Rashid)
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自分の好きなことをやっているのだから、やり続けたいというだけの話。 人生は修行であるという定義であれば、完成はない。 命が尽きる手前というのは、俳優のまま命が尽きたら周りの人に迷惑をかけてしまうから。 よく、舞台の上で死にたいと言う方がいますが、本当に舞台の上で死なれたら、かなり迷惑です。
お礼
有り難う御座います。 その通りでしょう。
お礼
4、【命尽きる手前まで俳優でいて、俳優としての人生や俳優生活、俳優自体を総括する機会と時間を持ちたい】、そういう振り返りも大切ですね。 時々の初心は観世阿弥ですが、時々の振り返りも大切だし、終了したあとのこういう場面も望みたいのが人の人情かも知れませんね。 確かに【総括するためには終わらせることが必要】ではあります。そういう意味で常に終わらせ、自己と事柄を超えて客観視できるといいですね。 大変、勉強させていただきました。ありがとうございました。
補足
すみません、補足欄ってお礼欄のうえにあるのでそこから書き出させていただきます。 最初に大変素晴らしい、ご回答に心よりお礼申し上げます。 1、【目的を持ち、それを追い求める精神状態に宿るもの】を【幸福感】とする見解もありうるだろうし、幸福の一つの側面や種類ですねとだそうです。 そしてそれであるから、又、それと共に【到達できないことは成果を楽しめないということにはならない】ということもいえると存じます。 ところで私は『幸福』というタームを避けて思考し又、質問したのですが。 それにしても人や場合によっては【ゴールが見えてこない過程こそが幸福感】ということもあるでしょうね。 【ゴールが見えない】≠【ゴールがない】とは区別する事は大事ですね。 その【見えない】という状況性は多々ありますから、そこでの所論は多様になりましょうね。 【ゴールに向かっているが、そのゴールがちっとも見えてこない、ゴールに近づいていかない】であっても、確実に歩き、且つ、心を研ぎ澄ませていれば状況の変化は実感できる。 そういう状況がゴールへ向かっていることですよね。 そういう精進であればこそ、仰せのように【目的を持ち、追い求める過程における幸福感】なのでしょうね。 幸福感と充足感は違うタームでしょうし、むしろ自己の肯定が出来るという事も付加しておきたいところです。 學而時習之、不亦説(よろこばしからずや)乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍(いからず。いきどうらず。)、不亦君子乎。 正に日々精進するものの心境を尤も表していますね。 いくら儲かったを重要視する世俗・世間を脱した世界でもあり、超自己ともなっていきますね。 このように、論語を読んだことはありませんでした。【ゴールの前に学ぶべきものがまだ山ほどある】ですね。 2、求道に喜ぶ者が【満ち足りた状態に飽きるということはない】はい、その通りですね。 それは又、異端や自己的実現にもならない、堕落ですね。 3、多くの人の言葉の表現では屡々、【「ゴールがない」】と【「ゴールが見えない」】を混同することがあります。 仰せのようにこの二フレーズは【違う】でしょうね。 従ってのんべんだらりと、【「ゴール」】を目指すこともなく、従って【「ゴールがない」、或いは「ゴールを持たない」】のであれば、仰せのように【に到達点がなく、追い求める幸福感は得られない】と私も思います。 お礼欄に継続して書きます。