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始まりの前に終わりが存在しているのか。

裏の存在の発見が表の存在を知らしめているのでしょうか。

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回答No.6

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、 「存在するのは現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の 感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去 =超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生 しているのです。 無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての 「時空仮説性」。 「相補」というのは、絶対時空を否定し、認識体との相対において しか時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が 現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しない事により有限的 存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空、という ことです。 即ち「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性の 収束におけるhの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸と なって、空間的確定性としての無限不確定的空間性が、超光速 (過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する 受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって 相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化におけ る有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補と して生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の 射影として、存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

KomiyaYui
質問者

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論理的な説明を提供して下さいまして、 誠に有り難く思います。 「空」のことですね。

その他の回答 (5)

回答No.5

 始まりはその基盤と目的から出てきているので、終わりはすでに始まりの中に自己の因果を埋め込んでいるのでしょう。  そして螺旋的形状のプロセスにしろ、それを伸ばせばともかく、円環的形状となっております。

KomiyaYui
質問者

補足

単純化の為に、 トーラス等の循環の中からの視点に留めていらっしゃいませんか。

回答No.4

まず「変化」という概念が受け入れられるならば、付随的に「時(流れ)」の概念が含意されることに気がつくと思います。 で、「時の流れ」に直交する「変化」の「ある断面」が意識(認識)されたとします。「何か大きな変化」としての切り口には、必然的に「終わり」と「始まり」を「同時に」見て取ることができるのでしょう。 無論、「流れ」は直線的かもしれないし、円を描いているかも知れないし、螺旋を描いているかも入れない。あるいは、メビウスの輪やクラインの壺のような経路かも知れず、認識することは不可能かも知れないけれど、流れに直交する断面(今・ここ)だけは、確実に経験することができている。 切り口の両側は、切断したときに同時に生み出されるので、どちらが先というわけではないのでしょう。。。

KomiyaYui
質問者

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有り難う御座います。 そうですよね。非常に簡単な内容なのだと思います。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.3

始まりの前に終わりが存在しているのか。 物理的?表現としては、矛盾しています。 始まりの前という、過去は既に何処にも存在しません。 始まりがあり、時=変化 を経て、終わりとなります。 存在する、あるいは、在る、と認識出来るのは、常に、今、 であり、時=変化 を経た、終わり、未来も、存在しません。 始まりも終わりも、時、を無視した、人間の認識であり。 終わり、が、今、であるなら。今が始まり、終わり=始まり となります。その始まりには、始まりを起こした、縁としての 、時=変化、があった筈であり。その変化が起きた単位、としての 始まり、があった筈となります。その始まりは、その前の、終わり、 であった筈です。 そういう、世界の在り方を、無常、と言い 。すへては縁によりて(変化が)起こる。という考え方、が釈迦り理法 であり。近代ドイツ哲学、ヘーゲル、マルクス、の弁証法思考、と言います。 弁証法とは、それまでの、アリストテレスの形而上学、概念を統一し、 誰もが同じように思うように、言葉の意味を定義しよう。決めよう。 とすた、いわゆる、アカデ-な学問、知識の体系。であり。やがてそれは 、キリスト教形而上学。へと変質し現在に至っていますが。 そういう、時=変化、を無視した。形而上学に対する、反抗、批判が 弁証法。となります。 仏教の、涅槃経、だったか、阿弥陀経、だったか?の冒頭句、が 「オーム」となっていますが。 オーム、とは、創造=破壊 始まり=終わり、というような意味のようで。 始まりの前(中に)に終わりが存在している。という意味にもなります。 なかなか味わいのある、弁証法的言葉なのでしょうが。 「風の中のナウシカ」の、オーム、はともかく、真理、などという言葉をくっつけた。 阿呆が、その犯罪故に、オーム、という言葉まで悪名にしていまったようです。 弁証法思考とは、実は東洋思想の特質であり。2500年ぐらい前に、ドイツ哲学を 遙かに超えている、と言えるであろう。弁証法思考を伝えている者がいるのです。 それが、釈迦と老子の考え方です。 裏の存在の発見が表の存在を知らしめているのか。 そのとおり。でもありますが。 表裏一体、なのです。表がなければ裏はない、裏がなければ表はない。 表裏で一つのもの、一つの事、なのです。 しかし、今、表を見ているなら、裏は見ることが出来ない。裏を見ているなら 表は、見る事が出来ない。という事になります。 では、世界の裏、事象の裏、とは何か。 ハリウッド映画の冒頭に、亀の上に丸い地球が乗った画像が出てきますね。 あれは、仏教の世界観。と言われる絵ですが。 釈迦の思想、縁起の理法を現している。凄い絵、凄い知恵、昔思った事があります。 2千年以上昔に、地球が丸い事を知っていた、考えていた。だけでも、なのに。 亀、の上に乗っている。丸い地球(世界)は、亀、と一体、一対、として存在している・ と言っているのです。 亀とは何か、本当の亀と関係がある、などと、考えている訳はありません。 亀とは、世界の(目に見えない)裏、であり。表の世界を動かしている、在らしめている もの。ということですよね。 亀を神、創造主、と捉えれば。一神教の宗教になり。 亀をエネルギーと捉えれば。近代物理学になり。 亀を世界を動かし変化させる、能力方向性=縁、と捉えるなら。 縁=起 縁×起=世界=一定 、現代の(近い)言葉に当てはめると 空間=時間 空間×時間=世界=一定 という、縁起の理法になる。 釈迦や老子の考え方が理解されない。理解出来ない。のは 時間、空間という、形而上学的、定義、認識、の中で、という、考えをするから。 意味が解らなくなる。釈迦は、、総ては縁によって起こる、 在るのは、縁と起、表となって現れているもの、起、とそれを具現させている、 実体のない、現れているものと一体の、能力方向性、としての、縁、があるだけである。 さらに言葉を変えると。実体ある、物、と物に変化を起こす、物に付随する、能力、方向性、 があるだけである。物が空間であり、変化を起こす能力が時間である。 と考えているのです。 人間とは何か、姿形ある肉体とその構造に付随する、心、精神、を含めた 実体のない、能力によって存在している、起きている。と言うことなのです。 形而上学的、時空認識では、さらに理解困難なのが。かって理解出来た者が一人もいない、 と言われる。老子、になります。 考え方は釈迦と全く同じなのです。 道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。 無を天地の父に名付け。有を大地の母に名付く。 もって無はその檄(能力、方向性)を現わさんと欲し 有はその嬌(姿形)を誇示せんとす。 有=無 有×無=一つの存在 在るのは、実体ある、有、と有と一体の 実体のない、能力方向性、としての、無、だけ。 つまり 空間=時間  空間×時間=1(いっ)=世界 なのです。 道(とう、タオ、世界を世界としてあらしめている、根元=世界 の法則性) は道むにして常の道にあらず。 道=道 では、意味がない。道-道=0 では1(いっ)としての存在にならない。 道×(1/道)=1 でなければならない。(1/道)が、常でない道、 実体のない、道、をあらしめている、能力、方向性、である。 道=常でない道  道×常でない道=1  と考えているのです。 これは、あらゆる、一つのものには、表裏がある。 時間、空間、にも表裏がある。 空間の表は、姿形ある物、であり。裏は、それが占める、スペース、あるいは隙 となります。 時間の表は変化ですが。裏は 常でない変化。変化×(1/変化)=1 となるもの。これは、人間が決めるしかない 変化の相対的物差し。地球の自転を1日、と決めた、時計、分、秒、となります。 変化=t  変化×t=時間     ぐらいで止めておきます。 道  

KomiyaYui
質問者

お礼

殊更に「玄武」を持ち出さなくても構わないのではないでしょうか。

KomiyaYui
質問者

補足

有り難う御座います。 始まったと誤解された前には、同じ状態が継続している可能性の肯定・否定の両方を致せないのでしょうから、そういう状態を「空」と呼んできたのではないでしょうか?

回答No.2

終わりも人類の発明品だとするなら人類史の中でどの辺で思いついたのか興味深いです

KomiyaYui
質問者

補足

有り難う御座います。 混沌を分離させる認識は人間の勝手な解釈ですね。 或る出来事が始まっていない状態が終わらなければ、 その出来事が始まってくれない、という見方は詭弁なのでしょうか?

回答No.1

はじめがあるからこそ、終わりがあると考えます。 仮に終わりが先にあると考えたとしても(どんな終わり方だとしても)、始まらない事には、はじまりませんから 哲学的な考えになっているでしょうか

KomiyaYui
質問者

補足

回答を頂けるのは有り難いのですが、 質問内容と逆のことを仰っています。

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